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7/21/2024, 1:02:06 PM

 昔々、あるところに大層元気な男の子がおりました。
 男の子の名前は、寿限無 寿限無 五劫のすりきれ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 食う寝るところに住むところ やぶらこうじのぶらこうじ パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの 長久命の長助(以下 寿限無)という名前でした。
 寿限無は、心配性の親から健やかに育つようにと、縁起のいい名前をこれでもかと付けられましたが、その甲斐あって特に不幸もなく大きく育ちました。

 病気もせず、友人にも恵まれ、近所の大人たちからは可愛がられる……
 寿限無は幸福な子供時代を送っていました。
 ですが、ついに運命の時が来てしまいました。
 親にとって、子育てで最も過酷な試練――

 『反抗期』です。

 寿限無は、あまりにも長すぎる名前を恥ずかしく思い、親に愚痴ったことを皮切りに、親と喧嘩してしまいました。
 親子喧嘩は一晩経っても収まることは無く、それどころか更に悪化します。
 翌朝も、寿限無は親と喧嘩し、用意された朝ご飯を感情のままりひっくり返してしまいました。
 それを見た母親は『食べ物を粗末にするやつはウチの子じゃない』と言って、家から追い出します
 寿限無も、『もう帰らない』と言って、そのまま旅に出ることにしました。

 寿限無は特に行く当てもなく、そのことに不安もありました。
 しかしそれ以上に、親にあれこれ言われずに済むと清々しい気持ちでした
 ですが、寿限無は着の身着のまま出てしまったので、何も持っていません。
 お金も持っておらず、腹が空いても何も食べることが出来ません。

 このまま家に戻り、親に謝る選択肢もありましが、寿限無はそうしませんでした。
 彼は体は大きくなったとはいえ、まだ子供。
 このまま帰ってはバカにされるだけだと、プライドが邪魔をしてそのまま旅を続ける事にします。

 『その辺の木の実でも食うさ』
 寿限無はそう思って歩き始めますが、全く木の実が見つかりません。
 その日のうちに、寿限無は空腹のあまり動けなくなってしまいました。
 絶体絶命の危機でしたが、神は寿限無を見捨てませんでした。

 たまたま付近の村の人間が、寿限無のそばを通りかかったのです。
「そこの若いの。
 腹が減っているのなら、ウチで食べていくかい?」
 寿限無は朦朧とする頭で神に感謝しつつ、村人の好意に甘えることにしました。

 寿限無は、村人の質素な家に案内され、目の前にご馳走が並べられます。
 これほどのご馳走は、自分の家でも食べたことがありません。
 寿限無は並べられる端から、どんどん食べました。
 食べて食べて食べまくります。

 寿限無の食べっぷりに、村人はこの量では足りないと判断し、村の人々に呼びかけ食料を集めました。
 食べ物はどんどん並べられ、寿限無はどんどん食べていきます。

 たらふく食べた寿限無は、ようやく落ち着きます。
 『こんなに食べさせてくれたんだ。
 お礼を言わないと』
 そう思って寿限無は村人と向き直りますが、驚きました。
 村人の体が、枯れ木の様にやせ細っていたからです。
 普段から食べ物を食べていないことは明白でした。

 そこで寿限無は気づきました。
 彼らは自分たちが食べるための食べ物を、寿限無に食べさせてくれたのだと……
 その理由を尋ねると、村長が事情を話し始めました。

「実はこの村は鬼に襲われているのです。
 鬼は頻繁にこの村に来て、食べ物を奪っていきます。
 そのせいで我々は食料があまりありません」
「待ってくれ。
 では私が食べたこの料理は……」
「はい、鬼のために用意したものです」
「しかし、私が食べてしまった。
 それでは鬼が暴れるのではないか?」
 寿限無がそう言うと、村長は困ったように笑います。

「はい、暴れるでしょう。
 しかし気にしないでください。
 確かにあなたが食べた食事は、鬼のために用意したもの。
 ですが鬼に食べさせるつもりはありませんでした」
「どういうことだ?」
 寿限無は訝しみます。
 鬼のために用意したのに、鬼に食べさせないとはこれ如何に?

「鬼について、ずっと村で話し合いが続けられていました。
 少し前に出た結論は『村を捨てて逃げる』。
 どうせ村を捨てるなら、鬼の機嫌を伺っても仕方がない。
 最後にたらふく食べて逃げよう。
 そう思っていたところに、腹を空かせたあなたが現れたのです」
「そうとは知らず、私は食べてしまった。
 申し訳ない」
「いいのです。
 天の導きだと思い、あなたに食べさせたのです。
 最後の最後に人助けが出来て我々は満足です。
 お腹いっぱいに食べるのは、今でなくてもいいのですから」
 村長が清々しい笑顔を見せました。
 それを見て、寿限無は嘘ではないことを悟ります。
 しかし、寿限無は村の人々に恩を受けたのも事実。
 なんとか恩返しをしたいと思いました。

「では私が鬼を追い払って見せよう」
「若い人、おやめなさい。
 鬼は力が強く、並みの大人では太刀打ちできません。
 いかに勇敢とはいえ、とても勝てますまい」
「だが私には秘策がある。
 恩返しをさせてくれ」
 寿限無は村長の目をじっと見つめます。
 しばし見つめ合った後、根負けしたのは村長でした。

「分かりました。
 そこまで言うならお任せしましょう。
 我々は隠れて見ています
 しかし鬼は残酷で狂暴です。
 危なくなればすぐ逃げてください。
 命以上に大切なものはありません」
「ああ、命を粗末にするつもりはない」
 寿限無は鬼を退治するため、その日は村に留まり、鬼を待ち伏せるのでした。

 翌日の昼、何も知らない鬼が腹を空かせてやってきました。
 ですが、いつもは用意されている食事が無い事に気づき、腹を立てます

「ええい、村の人間は何をしている。
 俺の食事が無いぞ」
 鬼は近くにあった家をこん棒で壊します。
 ですが、村の人間が誰一人出てこないことに、鬼はおかしいと思い始めました。
 そのときです。
 物陰から寿限無が出てきました。

「やい、鬼め」
「なんだ貴様。
 見たことないな。
 まあいい、食べ物持ってこい」
「食べ物はない。
 私はお前を退治しに来た」
 寿限無の言葉に、鬼は鼻で笑います。
 鬼は自分の力に絶対の自信がありました。

「なんという無謀さ。
 お前の名前は何だ?
 家族全員ひどい目に会わせてやる」
「やめておけ。
 お前に、私の名前を覚えることなどできぬ」
 今まで笑っていた鬼が、急に険しい顔をします。
 弱っちい人間が、自分の事を馬鹿にしたからです。

「何を言う。
 俺は鬼だ。
 出来ないことなどない」
「では名乗ってやろう。
 よく聞くがいい!
 私の名前は『寿限無 寿限無 五劫のすりきれ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 食う寝るところに住むところ やぶらこうじのぶらこうじ パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの 長久命の長助』である」
「……は?」
 鬼は口をぽかんと開けて、呆然としました。
 その様子を見て、寿限無は鼻で笑います。

「なんだ言えんのか。
 鬼も大したことは無い」
「バカにするな。
 名前なんぞ、簡単に言えるわ!
 えっと、寿限無 寿限無 ゴボウの擦り切れ――」
「五劫(ごこう)のすりきれだ」
「――五劫のすりきれ怪獣水上――」
「海砂利水魚(かいじゃりすいぎょ)だ。
 なんだ全く言えんではないか」
 寿限無の言葉に、鬼の赤い顔はさらに赤くなります。

「黙れ。
 お前を食ってやる」
「名前も分からん奴をか?
 先ほどの家族にひどい目を合わせると言うのは嘘だと言うのか?」
「ええい。黙れ黙れ」
「名前を覚えきれないようなら、もう一度言ってやろう。
 私の名前は、『寿限無 寿限無 五劫のすりきれ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 食う寝るところに住むところ やぶらこうじのぶらこうじ パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの 長久命の長助』である。
 もう一度言おうか?」
「ふん、不要だ。
 その珍妙な名前、二度も聞けば覚えられるわ」
「ほう、では言ってみるといい」
「寿限無 寿限無 五劫のすりきれ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 食う寝るところに住むところ やびゅ」
 鬼は、寿限無の名前を言っている最中に舌を噛んでしまいました。
 痛さのあまり、鬼はその大きな体を悶えさせ、体勢を崩しその場に転んでしまいました
 そうして鬼が怯んだ隙に、寿限無は村人から借りた刀を抜き放ちます。
 その様子を見て鬼は叫びました。

「待て、何をする」
「分からんか?
 お前を切るためよ」
「ひいい、待ってくれ。
 俺が悪かった。
 謝るから、命だけは!」
「ならん!
 食べ物の恨みは恐ろしい事は知っているだろう?」
「なんでも言うことを聞くから許してくれ」
「もう村を襲わないな?」
「ああ、約束する」
「食べた分、村をために働くか?」
「一生懸命働きます。
 ですから命だけはお助けを!」
「嘘はないな?」
「はい、神に誓って」
 寿限無は鬼の言葉にゆっくり頷き、刀を鞘に納めます。

 その様子を物陰から見ていた村人たちは、感心しました。
 力では誰も敵わなかった鬼を、知略で従えたのです。
 村人たちは、勇者を讃えるため、物陰から出てきてきました。
 彼らは寿限無に思い思いに礼を言います
 その中からすっと村長が出てきて、深々と頭を下げます。

「ありがとうございます。
 これで村を捨てずに済みます。
 ぜひともお礼をさせてください」
「食事の礼だ。
 必要ない」
「いいえ、勇敢なお方。
 食事は我々が勝手にしたことです。
 是非ともお礼を」

 寿限無は悩みます。
 お礼は必要ないのですが、しかし彼らの気持ちを無視するのも失礼に当たる。
 どうするべきか、寿限無は悩んだ末、一つ頼みごとを思いつきました。

「では一つ、頼みたいことがある」
「はい、何でしょうか?」
「家に帰るので一緒に付いてきて欲しい。
 一人では怖くて帰れないのだ」
「なんと……
 鬼すら恐れないあなたが、恐怖を抱くほどの存在がいるのですか?」
「ああ、鬼より恐ろしい母が家にいる。
 私の名前を噛まずに叫びながら襲い掛かってくる母ほど、恐い存在は知らんよ」

7/20/2024, 3:36:31 PM

『視線の先には』

 妻と一緒にホームセンターで金魚のエサを見ていた時の事。
 妻が、ペットコーナーで突然立ち止まった。

 横目で見れてみれば、妻の視線の先には猫のコーナー。
 お気に入りの猫がいると聞いていたが、それが今見ている猫なのだろう。
 かなり入れ込んでおり、ここのところ毎日通い詰めだ。

 妻は生き物が好きだ。
 金魚も妻の希望で飼っているから、猫もきっと好きなのだろう……
 にも関わらず『飼いたい』と言わないのは、ウチのアパートがペット禁止だから。
 猫を飼えない鬱憤を、近くで眺めることで晴らしているのだ。
 
 そして、こうなったらテコでも動かないのが妻である。
 金魚の時もそうだった。
 結局俺が根負けし金魚を飼うことになったが、猫はそうもいかない。
 『ペット禁止』というのは、俺の一存ではどうにもならないのだ。

 だから俺が妻のために出来るのは、二者の時間を邪魔しないだけ。
 妻と猫が、ロミオとジュリエットよろしく愛を語らい合うのを邪魔するほど、俺は無粋な男ではない。
 何時間かかるかは分からないが、気のすむまでやらせてやろう。
 その内、心の整理がついて落ち着くはずだ。

 俺はその間に、金魚の餌を見てくるとしよう。
 妻に気づかれないよう離れようとした瞬間、急に妻が振り向く。
 驚いて固まった俺に、妻は目で訴える。
 『あの子、可愛いでしょ?』と……

 直接飼いたいと言わないのが妻らしいが、無理なものは無理だ。
 『諦めろ』と首を振る。
 だが『諦めきれない』とばかりに、妻は俺を見る。

「あなた、この子の事を見て欲しいの……」
 妻が嘆願するような声で、俺を見る。
「見ない。
 気持ちはわかるが――」
「ちゃんと見て」
 妻に突然力強く手を引かれる。
 俺は体制を崩しそうになったが、寸でのところで踏みとどまる。

「危ないところだった」
 妻に抗議しようと顔を上げる。
 だがそこには妻はおらず、俺の視線の先には猫がいた。
 とても可愛い猫だった。
 子猫は、騒いでいる俺に興味を持ったのか、じっと見ていた。

 俺は思わず目をそらす。
 油断した。
 まさか猫を見てしまうとは……

 いや、一瞬だったから大丈夫なはずだ。
 俺は自分に言い聞かせながら、再び猫を見ないようにじりじりと後ろへ下がる。
 猫とは目を合わせてはいけない。

 猫は催眠術の使い手だ。
 特に子猫の催眠術は強力である。
 目を合わせたら最後、たちまち猫の虜となり、我々は猫のために尽くすことになる……

 だが俺はまだ正気だった。
 催眠術にはかからなかったらしい。
 俺はほっと息をつく。
 十分に距離を取ったから安心だろう。

 俺はチラリと横目で猫を見る。
 猫の方も何かを熱心に見ているようで、俺には気づいておらず――

 そこでふと気づく。
 猫が、俺の方を見ていることに……
 猫の視線の先には、俺がいた。

 そこで妻がポンと肩に手を置く。
 驚いて振り向くと、妻は満面の笑みであった。
 『ね、可愛いでしょ?』
 妻がまたもや目で訴える。
 俺は思わずうなずきそうになるも、なんとか堪える。

「だ、ダメだ!
 ウチはペット禁止だ!」
 俺の拒絶の言葉にも、妻は笑みを讃えたままだった。

「そこは大丈夫よ。
 友達が不動産やっててね。
 ペットを飼えるアパートを紹介してくれたの。
 あなたの勤務先からは少し離れるけど、いい部屋よ」
「最初からそのつもりで――」
「でもね、勝手に話を進めるのは良くないじゃない。
 だから、まずこの子と会わせて、それから引っ越しの話をしようと思って……
 どう?
 この子と一緒に住まない?」

 妻の問いに、俺は脳内で色々な事を考える。
 お金の事、猫の世話の大変さ、引っ越しの手間、通勤の事……
 どれだけ反論材料を考えるも、さっき見た猫のかわいらしさが、全てを吹き飛ばしていく。

「……分かった」
「ありがとう、あなた。
 愛してるわ」

 俺の降伏ともとれる承諾の言葉に、見たことないほど嬉しそうに笑う。
 よっぽど嬉しいらしい。
 だが、妻の愛の言葉とその笑顔は誰に向けての物だろうか?

 妻の目線の先には、きっと猫がいるに違いなかった。

7/19/2024, 2:33:58 PM

 俺がサボりから戻ると、教室に行くと誰もいなかった。
 移動教室?とも思ったが、今は昼休憩の時間で教室。
 皆は弁当を食べているはずだ。

 けれど教室にいるはずの皆は、どこにもいなかった
 俺がサボっている間、何が起こったのだろうか。
 まさか俺みたいに、『面倒くさくなったから帰る』と言った不良ばかりでもあるまい。

 ふとあることに気づく。
 他の教室も、人の気配がしないのだ。
 隣のクラスを恐る恐る覗いてみるが、誰もいない……
 念のためにさらに隣の教室を覗いてみるが、やはり誰もいない……
 この調子で行けば、他の学年も教室には誰もいないだろう……

 誰もいない学校というのは、まるで異世界のようだ。
 まるで世界に自分だけが取り残されたような錯覚を覚える……
 俺に起こっている異常事態に、気が狂いそうだ!
 
 なんとか『ここは現実世界だ』と自分に言い聞かせて、正気を保つ。
 そうでもしなければ、俺はどうにかなってしまいそうだった。

 俺は一度深呼吸し、何をすべきかを考える。
 学校で何かが起こったのは間違いない。
 けれど自分のちっぽけな頭では、何をすべきか何も分からなかった……

 大人を頼る?
 でも大人を頼るのは、
 こういう時はどうすれば……

 その時後ろから誰かの足音が聞こえてきた。
「桐野か?」
 俺の名前を嫌そうに呼ぶ声の主、それは生活指導のコバセンだった。
 不良の俺を目の敵にする、頼りたくない大人の筆頭だ……

 けれど、背に腹は抱えられない。
 俺は皆に何が起こったかは知る必要がある。
 恥を忍んでコバセンに聞く。

「コバセン、皆いないんだけど何か知ってる?」
「小林先生と呼べ!
 まったくおまえと来たら……
 他の生徒は帰ったぞ」
「帰った!?
 何で?」
「何でって、今日は終業式だからな」
 終業式?
 俺は唖然とする。
 事件が起こったと思ったら、下校しただけだったとは……
 俺は恥ずかしさのあまり、火を吹きそうなほど顔が熱くなる。

「大方朝からサボって気づかなかったな?
 どうせ、HRでも話聞いてないんだろ?
 いつもサボっているからこうなる」
 コバセンの、俺を馬鹿にするような言動に腹が立つも、まったくの事実なので言い返せない。
 畜生、よりにもよってコバセンの前で恥をかくとは。
 俺もついてない。

「コバセン、じゃあな」
 授業がないのなら、ここにいる必要はない。
 俺は踵を返して、げた箱に向かう。
 こういうのは寝て忘れるに限る

「待て、桐野」
 だが、なぜかコバセンに呼び止められる。
 そんなにコバセンって呼ばれるのが嫌いなのか?

「おまえは居残りだ」
「はあ、居残り?
 なんで自分だけ?
 皆帰ったんなら、俺も帰るよ」
 なんだよ、居残りって。
 説教はゴメンだ。

「お前、サボりすぎなんだよ。
 すでに出席日数は足りてない。
 補習を受けないと進級できん」
「……マジ?」
「大マジだ」
 ギリギリ進級できるよう出席日数を計算したのだが、計算をミスったらしい。
 やってしまった。

「というわけで補習を受けてもらう。
 拒否権はない」
 コバセンはジリジリと、俺に近づいてくる。
 いつものムカつく仏頂面も、今日だけは恐怖を覚えてしまう。

「桐野、じつは俺はお前を探していてな。
 げた箱に靴があるから、まだ学内にいると思って教師陣総出で捜索していたんだ」
「そ、そうなんだ。
 でも俺、今日用事あっから」
「逃げても無駄だぞ」
 俺がコバセンから逃げようと振り向くと、そこには数学のサトーと英語のスズキが、逃げ道を塞ぐように廊下に立っていた。

「桐野、もう一度言うぞ。
 お前に拒否権はない。
 親御さんからも了解は取っている」
 コバセンの方に振り向くと、コバセンの後ろにはさらに教師が増えていた。
 完全に囲まれ、蒙逃げられないことを悟る。

「待ってくれ。
 他にも出席日数ヤバイヤツいるだろ?
 なんで自分だけ……」
「安心しろ、他のやつらはすでに捕獲済みだ。
 大人しく補習を受けろ。
 力ずくでも受けさせてやる。
 自分だけは逃げられるとは思わないことだな」

7/18/2024, 12:24:45 PM

 十年前、息子のバンが村を出た。
 冒険者になるためだ。

 息子が昔から冒険者に憧れていることは知ってた。
 『ダンジョンに潜って大もうけして、お母さんと弟たちをを楽にしたい』といつも言っていた。
 その気持ちは嬉しかったし、それが子供の語る夢の間なら良かった。

 けれど、バンが10歳の誕生日の日、冒険者になりたいと言った。
 私は猛反対した。
 バンの父親も冒険者だった。
 けれど『金を稼いでくる』とどこかへ行ったまま帰ってこなかったからだ。
 あの人は、もう遠い記憶の中にしかいない。

 だから私はバンだけは失うまいと、必死に説得を試みた。
 『お金より大事なものがある』『家族とお金、どっちが大事なの?』と……
 でも逆効果だった。

 私とバンは大げんか。
 バンは、前もって用意していたバッグを持って、そのまま出ていった。
 あの時の事を悔やんでも悔やみきれない。
 ちゃんと話を聞いてあげれば、あるいは大人になってからと説得すれば、もしかしたらそのまま側にいてくれたかもしれないのに……

 けれど内心すぐに戻ってくるだろうとも思っていた。
 だけど、一日、一週間、一か月、一年……
 いつまで経っても帰ってこなかった……
 はもはや死んだものと覚悟した。

 けれど、バンが村を出て二年後のある日、お金と共に手紙が届いた。
 バンだった。
 手紙の内容は、冒険者家業がうまくいっていることが書かれていた。
 私は安心すると共に、バンが未だに危険な冒険者を続けていることに不安でいっぱいになった。

 私は返事を書くことにした。
 けれど、どんなことを書けばいいのだろうか?
 村には戻ってきて欲しい。
 けれど、息子のうまくいっている事、夢を邪魔していいのだろうかと……
 もし手紙で『戻ってこい』と書こうものなら、今度こそ本当にバンが私の元から離れてしまうかもしれないと思った。

 私は悩み抜いた末、取り留めのない事を書いて出した。
 村や家族の近況、夢を応援している事、いつでも帰ってきていいという事。
 それが精いっぱいで、『今すぐ顔を見たい』なんて、書けなかった。

 その後も手紙のやり取りは続いた。
 バンが送ってくれるお金のおかげで生活は楽になったけど、バンは一向に帰ってくる気配はない。 
 喧嘩の事を気にしているかと思い、それとなく気にしていないことを伝えたが、それでも帰ってくることは無かった。

 だけど数カ月前、バンは突然村に帰って来た。
 恋人のクレアちゃんを伴って。
 『もしかして恋人と一緒にこの村に住んでくれるのかしら』と胸が高鳴ったけれど、すぐにその気持ちは霧散した。

 バンが何かに怯えているのだ。
 表面上は平静を装っているが、心に傷を負っていることは明白だった。

 一緒にやって来たクレアちゃんによると、ダンジョンで酷い目に会ったらしい。
 それがトラウマになり、バンはダンジョンに潜れなくなった。
 その時、バンとクレアちゃんは出逢ったと言っていた。

 難しい事は分からないけれど、バンが二度と冒険に出ないことにホッとした。
 少しだけ罪悪感はあるけれど、バンがずっと側にいてくれる以上に嬉しい事は無い。
 そう思っていた。


 バンが村で過ごすうちに、息子の状態は良くなっていった。
 のんびりした村の生活は、バンの心を癒していったらしい。
 それは純粋に嬉しかった。
 息子が暗い顔をしているのを見るのは、とても胸が痛むからだ。

 けれど少し前から、バンの顔つきに変化があった。
 まさかと思いつつも、バンはどんどんあの時――十年前のあの日、バンが村を出ていったときの顔になっていく。
 『息子はまた村を出て、冒険に出る』
 始めはぼんやりとした予感だったが、時が経つにつれ確信へと変わっていった。

 そのことを指摘すると、バンは驚いた顔をして『なんで分かった?』といった。
 我が息子ながら抜けた質問だと思う。
 ブランクがあるとはいえ、バンの母親だって言うのに。

 その時バンに約束させた。
 『ちゃんと帰ってくること』。
 当たり前と言えば当たり前のことだけど、バンは十年間帰ってこなかったので、約束させるのは当然のことだ。
 
 本当は、バンに行ってほしくない。
 けれど、どんなにお願いしてもバンは行くのだろう。
 多分、この子には冒険者という生き方しかできないのだ。
 帰ってこなかった、バンの父親の様に……

 不安はある。
 冒険者はいつ死ぬか分からない、危険と隣り合わせの職業。
 だから約束させた。
 絶対に帰ってくることを。
 バンとの思い出を、遠い記憶としないために。
 

7/17/2024, 1:36:59 PM

 星空を見上げて思い浮かぶのは、いつも彼女の笑った顔。
 彼女の優しい笑顔が懐かしい。
 でもこの笑顔が見れるのは、もう無い。

 ◆

 彼女は昔から体が弱かった。
 小さい頃から入退院を繰り返し、ほとんど学校に来なかった。
 だからほとんど接点は無かったんだけど、ある時僕が足の骨折で入院したとき彼女と出逢った。

 遊び盛りの僕たちは、病院の娯楽室でよく遊んでいた。
 みんなが学校で勉強をしている間、自分たちだけは遊んでいるという背徳感からか、僕たちはすぐ仲良くなり、自然と恋人同士になった。

 僕はすぐに退院したけれど、それからも彼女のお見舞いに行った。
 けれど彼女の病気は良くなることは無く、ずっと入院したままだった。

 ある時病状が悪化し、彼女は生死の狭間を彷徨った。
 その時は無事に回復したけど、僕は大泣きしてしまった。
 彼女が死んでしまうかもしれなかったからだ。
 僕がベットにすがりながら泣いているのを、彼女が優しく頭を撫でてくれたことをよく覚えている
 
 彼女は言った。
 『私が死んでもお星さまになって君を見守っているよ』と……
 そして彼女は星になった。
 どれが彼女かは分からないが、きっと僕を見守ってくれていることだろう……

 僕と彼女の大切な思い出だ。

 ◆

「なに見てるの?」
 夜空を眺めていると、隣に誰かが座る気配がする。
 何度も聞いたことがある声。
 聞きたかった声。
 彼女だ。
 僕は振り向かずに質問に答える。

「星を……見ていたんだ……」
「星を?
 あなたに星を見る趣味があるなんて初めて知ったわ」
「別に趣味じゃないよ」
 僕は努めて平静を装い、彼女に語り掛ける。

「この星空のどこかにいる君を探しているのさ」
「……
 …………
 ……………………は?」
 彼女の調子の外れた声が聞こえる。
 見えないが、きっと理解できないものを見るような目で僕を見ている事だろう。

「君が言ったんだ。
 死んだら星になって見守ってくれるって……
 だったら君も、この星空のどこかで輝いているはずさ」
「待って待って。
 勝手に殺さないでよ。
 縁起でもない」
「そうかな?」
 僕は視線を下ろし、彼女を笑顔で見据える。
 だけど彼女は、なぜか目をそらした。

「あははは……
 やっぱり怒ってる?」
 彼女は目をそらしたまま、こちらの様子を伺う。
 後ろめたいのか、彼女は肩まで伸ばした髪を指でいじっていた。
 そんな彼女に対して、僕は出来る限り寛容な心で応える。

「君が『怖いから付いてきて』って言われて、付き添いで行った歯医者。
 自分の番が近くなって、『歯医者にかかるくらいなら、死ぬ方がマシだ』と言って君は逃げ出したよね?
 後に残された僕が、どれだけ謝ったと思う?」
「えっと、それは……」
「『死ぬ方がマシ』だって言うから、死んだものだと思っていたよ。
 まさかまた会えると思わなかったけどね」
「ご、ごめんなさい」
「僕は怒ってないよ」
 そう、もう僕は怒ってない。
 なんなら彼女の慌てっぷりに笑いをこらえるのが必死なくらいだ。

「どうしたら許してくれる?」
「怒ってないってば……
 でもそうだな。
 君がそんなに気にするなら、自分の心に聞いてみればいいんじゃないかな」
「自分の心に……」
「空を見上げて心に浮かんだことが、きっと答えだよ」
 僕がそう言うと、彼女は黙って空を見上げる。

「さあ、心に何が浮かんだ?」
 僕が聞くと、彼女は心底嫌そうな声で呟いた。
「歯医者で口の中にドリルをツッコまれている様子が浮かびました」

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