昔々、尾張《おわり》という国に、織田信長という男がおりました。
その男は、尾張を支配する大名でした。
この織田信長という男、『うつけ』として有名でした。
『うつけ』というのは、馬鹿。
つまり馬鹿にされていたのです。
なぜ『うつけ』と呼ばれていたのかというと、普段からふざけた事ばかりを言っているからです。
家来とスキンシップを取るためなのですが、しかし彼には致命的なまでにギャグのセンスがなく、家来たちにはいつも呆れられていました。
え?
自分と知っている話と違うって?
言い忘れていました。
彼は数多にある平行世界の信長です。
星の数ほどある平行世界の、星の数ほどいる織田信長の内の一人が、この話の主人公です。
ですので、この話を読み込んだところで、テストには出ませんのでご注意ください。
話を戻りましょう。
信長は自身がうつけと呼ばれていることも知らず、大名生活をエンジョイしていました。
そしてある日の事。
信長は家来を集めました。
大事な話があると言って、真剣な顔で家来に宣言しました。
「今、日本では戦いで溢れている。
乱世で苦しむ人を救うため、ワシはこの戦いの時代を終わりにしようと思っている。
手伝ってほしい」
時は戦国時代、誰もが戦火から逃れ得ぬ時代です。
この平行世界の日本も漏れず、血で血を洗う悲劇が起きていました。
しかし信長はそれを終わらせ、時代を終わらせると言ったのです。
歴史的瞬間でした。
しかし家来の反応は芳しくありません。
家来は『またかよ』という顔で自分の主人を見ます。
信長は、この気持ちを吐露するのは初めてです。
もちろん、家来も知ったのは初めて……
ではいったい何が『また』なのか……
それは今回も、信長のおふざけだと思ったからです。
そう、家来たちは信長の発言を『時代を尾張にする』と聞き間違えたのです。
普段の行いが祟り、信長の発言を真剣に捉えず、家来たちはいつもの冗談だと思ってしまったのです
そして『時代を尾張にする』というのは、どう考えても悪ふざけ以外の何物でもありません。
何をどうしたら、時代は尾張になるのでしょうか?
ゆるキャラでも作れば良いのでしょうか?
仮に時代が尾張になったところで、どうして苦しむ人を救えるのでしょうか?
疑問は尽きません。
家来はどう反応すればいいか悩み、そして一人の家来が口を開きました。
「殿、悪ふざけはほどほどに。
この時代を尾張にするというのは、どう考えても不可能です」
現実的な意見でした。
ですが、家来の意見に信長は首をかしげます。
なぜこの戦国時代を終わらせるのが悪ふざけなのか……
それに議論もなしに、不可能と断じるのも不可解です。
信長は、それなりの自信があってのこの発言をしたからです。
「何を言っている。
お前たちは、このふざけた時代を終わりにしたくないのか?」
「尾張にしたくありません」
家来たちが断言します。
家来の言葉を聞いて、信長は心の底から驚愕しました。
この時代を終わらせないと言うことは、これからも悲劇が増え続けると言う事。
家来たちはそれでよいと言うのです。
信長は恥じました。
家来が自分さえよければよいと言う、悪魔のような奴らだと気づかなかったからです。
「くそ、こんな奴らしかいないのでは、尾張はもう終わりだ」
信長の諦めにも似た独白。
しかしこの言葉すら、家来たちは聞き間違いをしました。
「えっ。
『終わりを尾張』に!?
殿は、世界の終末すら支配すると言うのですか?」
「ええい、貴様ら何を言っておる。
正気に戻らんか」
「『瘴気に戻れ』?
殿は瘴気を操る魔王だったと!?」
「お前らしっかりしろ。
いい加減目を覚ませ!」
「は、我々は目が覚めました。
魔王様の仰せの通りに。
魔王様なら、時代を尾張に出来る筈でしょう」
「……なんか思っているのと違う」
こうして部下の勘違いにより、魔王・織田信長が誕生しました。
ここから魔王・織田信長の快進撃が始まると思われました。
しかし――
「バカな、魔王だと!?」
信長たちの茶番劇をのぞき見している人間がいたのです。
名は明智光秀。
彼は、尾張に私用で来ていました。
光秀は盗み聞きするつもりはなかったのですが、時代を終わりにするだの、魔王だの、不穏な言葉が飛び交っていたので、ついつい聞き耳を立ててしまったのです。
壁一枚を隔てていたため、全ては聞こえていなかったのですが、『信長が魔王となって終わりにする』ことだけは分かりました。
「魔王を倒さなければいけない!」
光秀は確信します。
今ここで魔王の台頭を許せば、日本はさらに混沌を増してしまう。
そうなる前に、魔王を討つしかない。
ですが、今光秀はただの用事で来たので、刀を一本しか持って来ていません。
おそらく今立ち向かえば、良くて相打ちでしょう。
(だが魔王は油断している)
光秀は決意しました。
自らの命をなげうって、魔王を討つと……
――そして光秀は、信長の前に躍り出て、持っていた刀で信長を斬りました。
ですが、魔王は倒せたものの、その場にいた豊臣秀吉に切り殺されてしまいした。
これが、この平行世界における『本能寺の変』です。
この出来事は、日本中に衝撃を伴って広く伝わりました。
『光秀、魔王を討つ』と……
ですがこの知らせに、民衆は安心するどころか、不安を掻き立てられました。
なぜなら、魔王が一人現れたということは、第二・第三の魔王がいるかもしれないから……。
『一匹見たら百匹いると思え』
有名なことわざです。
この不安を見て取った幕府は、日本中に戦争の中止を呼びかけました。
これから現れるであろう魔王に対抗するためです。
ほかの国々も、幕府の号令に従い、戦争をやめ団結する道を選びました。
こうして戦争は無くなり、平和が訪れました。
信長は自らの身を持って戦乱の時代を終わりとしたのです。
そして魔王の脅威を忘れないため、元号を『尾張』にしました。
時代は尾張になったのです。
そして250年後、黒船に乗って新たな魔王が現れるまで、日本は平和な時代を築いたとさ。
おしまい。
「ワンツーワンツー――キャッ」
私はゴテンと音を立てて転ぶ。
その様子を周囲の人間が見下すように笑う。
馬鹿にしやがって。
おまえたちだって、ヘタクソな時期があっただろうに。
社交ダンス教室に通ってはや半年、私は未だに初心者マークを外せそうにない。
テレビで見た光景に憧れて始めた社交ダンスだけど、上達する兆し無し。
馬鹿にされた悔しさをバネに続けてきたけど、精神的につらい……
もう辞めようかな。
私が立ち上がろうとすると、目の前に手が差し伸べられる。
「村田さん、今日もよく転んでいるね」
そう言ったのはこの教室では古株の小林さん。
皆に一目置かれているけど、お世辞にもうまい方じゃない。
レッスン中、何度も転ぶところを見たことがある。
だからこうして手を差し出すのは、他人と思えないからなのだろう。
けれど――
「ヘタクソなもんで」
私は差し出された手を無視して、一人で立ち上がる。
小林さんには悪いけど、私にも意地ってもんがある。
情けなんていらない。
「そんなに無愛想だと、いつまでも経ってもうまくならないよ」
小林さんのもの物言いにカチンと来てしまう。
自分が悪くても、指摘されたら嫌な事はある。
私は睨み返すが、小林さんは困ったように笑うだけだった。
「うーん、荒れてるねえ。
行き詰まっているのかな?」
「悪いですか?」
私が悪いに決まってる。
小林さんは何一つ悪くないのに、一方的に敵視しているんだから。
自分の器の小ささに、自己嫌悪で頭が痛くなりそうだ。
「ふむ、じゃあ僕と一緒に踊ってみようか?」
「はい?」
小林さんの言葉に耳を疑う。
『踊ってみようか?』
今の流れでなんでそうなるの?
私、聞き間違えた?
「えっと、今なんて?」
「一人で練習ばかりしてないで、たまにはペアで踊るべきだ――と言ったんだ」
聞き間違いじゃなかった。
でも私はその申し出を受けるわけにはいかない。
「私、一人でも転んでばかりなので、ペアはまだ早いですよ……」
「問題ないさ。
半年やって来たんだろう」
そう言うと、小林さんは私の手を強引に取り、リズムを取り始める。
「ほら動いて。
ワン、ツー、ワン、ツー」
「わ、ワン、ツー、ワン、ツー」
小林さんに促されるまま、私もリズムを取って踊り始める。
「ワン、ツー、ワン、ツー」
「ワン、ツー、ワン、ツー」
小林さんはゆっくりとリズムを取る。
だが私にとって、そのスピードすら速すぎる。
私はついていくだけで精一杯だった。
「君は一人で踊りすぎだね。
もっとパートナーのことを意識して」
「む無理。
自分の事で精一杯。
他人を気遣う余裕なんて――キャッ」
私は自分の足に足を引っかけ、再びゴテンと音を立てて転ぶ――事はなかった。
小林さんが、私が転ぶ方向に素早く移動して、うまくバランスを取ったのだ。
結果、私は転ぶことなく、まだ小林さんと踊っている。
「大丈夫かい?」
「は、はい」
「じゃあ切り替えて、ワン、ツー、ワン、ツー」
「ワン、ツー、ワン、ツー」
私はパニックになりそうな頭を落ち着かせ、小林さんとリズムを取る。
この私が転ばなかったなんて……
私は小林さんに感謝するとともに、一種の感激すら覚えていた。
私はすぐ転ぶ。
一人で練習した時も、こんなに長く立っていられたことはない。
その後も何度も姿勢が崩れそうになったが、その度に小林さんがフォローしてくれた。
これがペア……
ああ、楽しい。
社交ダンスってこんなに楽しいものだったんだ。
「これがペアだよ」
小林さんは、私の心を見透かしたように話しかけてくる。
「君が転びそうになっても、僕がフォローする」
先程とは違い、小林さんの言葉が心にスッと入ってくる。
「完璧な人間なんていない。
だからこうして助け合うんだよ」
「でも私、ヘタクソだから、助けることなんて」
「大丈夫さ。
そのうち助けてくれれば――
おっと」
小林さんがバランスを崩しそうになったのを見て、私は自然に重心を移動させていた。
その甲斐あって、小林さんは転ぶことなく体勢を立て直す。
「早速助けてもらったね」
「ペアですので」
そして私たちはしばらくの間、踊り続けた。
その後も転びそうになったけど、その都度お互いが助け合う。
私たちは完璧じゃない。
だからお互いに手を取り合って、助け合う。
私はまだ手を取ってもらえなければ踊れない未熟者だけど、いつか手を取り合って踊れる日が来るのだろうか?
そんな日を夢見て、私はもう少しだけ社交ダンスを続けようと思ったのだった。
俺の名前は鐘餅 杉生(かねもち すぎお)。
名前の通り、大富豪である。
ただの富豪ではない。
世界一の富豪だ。
俺は、生まれた時から全てを持っていた。
金、容姿、才能……
持っていないものなどこの世界には無い。
たまに嫌味で『持って無いものくらいあるだろう?』と言われることがある。
だが意味のない言葉だ。
なぜなら俺は全てを持っているから。
もし仮に持っていない物があったとしても、金でどうとでも出来る。
それは、俺にとって『持っている』と同じ意味を持つ。
例えば俺が持ってこいと言えば、立ちどころに使用人が手によって俺の元に運ばれてくる。
いつでも少しの手間で俺の元に届くものを、『持っていない』とは言わない。
そうだろう?
だが――
それを虚しく思うこともある。
何もかも持っていると言うことは、何も持っていないことに等しい。
努力をする必要が無いからだ。
つまり、人生にメリハリがない。
俺の人生は虚無で支配されていた。
俺は、この状況を変えるべく、世界中にアナウンスした。
『俺が持っていない物を持ってくれば、金をやる』と……
それから様々な人間が、俺の元にやって来た。
詐欺めいたものから、神の愛が無いとのたまう奴ら。
また昔話で出てくる『バカには見えない服』を持ってこられたこともあった。
まあまあ楽しかったのは認める。
だが誰一人として、俺の持ってない物を持ってこられた奴はいなかった。
俺が持っていないものは、やはり存在しないのか……
俺が諦めようとした、そんな時だ。
あの怪しい男が現れたのは。
◆
「鐘餅様、あなたが持っていないものをお持ちしました」
目の前の、見るからに胡散臭い男は、俺に対して恭しく礼をする。
正直、ここまで怪しい男の相手なんぞしたくは無いのだが、『あなたの持ってない物を持って来た』と言われれば対応せざるを得ない。
可能性があるのなら、俺は諦めたくない。
「では聞こうか。
何を持って来た?」
「『劣等感』でございます」
「劣等感?」
ふむ、と俺は手を顎に当てて考え込む。
劣等感、たしかに俺は持っていないものだ。
若い頃、『敗北が知りたい』といって、片っ端から才能ある人間に勝負を挑んだことがある。
だが結果は無残なものだった。
俺が相手を完膚なきまでに叩き潰してしまったのだ。
相手をしてくれた全員見るからに元気をなくし、引退したものも少なくない。
そこまでして知ったのは『虚無感』だけ……
今でも、彼らには悪い事をしたと、『後ろめたさ』がある。
そして思い出すだけでも、叫びたくなるほどの『黒歴史』。
俺は若き頃の過ちによって、鬱屈した感情すら一通り持ち合わせている。
だが言われてみれば、確かに『劣等感』は持っていない。
すべての人類より優れていると『優越感』こそあるが、『劣等感』など一度も経験したことは無い
だが――
「お前の言う通りだ。
確かに『劣等感』は持っていない……
だがどうやって俺に『劣等感』を味合わせるつもりだ。
俺にはお前が優秀には、とても見えないのだが……」
「はっきりおっしゃいますな。
まあ、確かに私はあなたに勝てないでしょう。
ですが、これを使えばあなたに『劣等感』を与えることが出来ます」
そう言って、目の前の男は怪しげな銀色の缶を差し出す。
「それは?」
「『劣等缶』でございます」
「お前にはギャグのセンスもないようだな」
「これは厳しいお言葉。
ですが、名前はともかく効果はありますよ」
男は、俺に缶を手渡す。
「それを一気飲みすれば、立ちどころに『劣等感』に苛まれます」
「毒は入っていないだろうな」
「そうですね……
毒と言えば、毒でしょうか。
というのも、これは劣等感まみれの人間が放つ負のオーラを凝縮したもの。
そして劣等感は、そもそもが体に悪い物です。
体の事が大事ならば、お飲みにならない方がよろしいかと」
「正直だな」
「それしか取り柄がありませんので」
男はへへへと笑う。
いかにも不審者の笑い声だが、こいつは俺の信頼を勝ち取ろうと気は無いのだろうか?
俺は少し考える。
目の前の男は、怪しさが人間の形をしたような存在だ。
だが言ってることには一理ある。
だが本当に『劣等感』を味わうことが出来るのだろうか……
どうにも信じがたい。
詐欺ではないのか?
だが目の前の缶が本物である可能性も捨てきれない
もしここで俺がいらないと言えば、この男はこのまま帰るだろう。
そして二度と会うこともあるまい。
そうなれば、俺は一生後悔することなるかもしれない。
ならば覚悟を決めるべきだな。
「いいだろう。
これを飲んで、効果があれば金を与えよう」
「ほほう、金餅様は『蛮勇』すらお持ちですか。
御見それしました」
「ふん、口の減らないやつだ」
俺は、厳重に封をされた缶のふたを開ける。
開けた瞬間、生理的に受け付けない嫌な臭いが鼻をかすめる。
はやくも後悔の念が押し寄せるが、ここまで来て引き下がることはできない。
俺は鼻をつまみながら、缶の中身を一気飲みする。
するとどうだ。
たちどころに涙があふれ始め、全身から活力が失わる。
そして酷い頭痛がして、平衡感覚を失い倒れる。
押し寄せる強烈な負の感情。
これは、いったい……
「金餅様、もうしわけありません。
どうやら効果が強すぎたようです。
大丈夫ですか?」
男に心配そうに俺に声を掛けられる。
だが今の俺にとって、耳障りそのものであった。
まるで、俺のメンタルが弱いと言っていうような気がしたからだ。
言葉では心配しているように言うが、馬鹿にしているようにしか聞こえない。
まさに不愉快。
この男は俺を上から見下して――
そこで俺は気づいた。
ああ、なるほど。
これが劣等感か。
使用人が慌てて駆け寄り、俺を抱き起す。
そうして椅子に座らせられることには、気持ちは落ち着いていた。
あの劣等缶の効果は一瞬だったようだ。
とはいえ、効果は抜群。
俺は初めて劣等感というものを味わった。
「おい、お前」
「なんでしょう」
男はビクッと体を震わせる。
効果が効き過ぎたことを怒られると思ったのかもしれない。
「この缶の効果は本物だった。
劣等感を味わうことが出来た。
礼を言う」
「それでは――」
「好きな金額を言え。
すぐに使用人に金を用意させる」
「はっ、ありがとうございます」
俺は新しく持っていないものを手に入れ、人生は少しだけ潤うのだった。
◆
『劣等缶騒動』から一週間、俺が常夏のビーチでバカンスを楽しんでいると、使用人が慌てて走って来た。
「鐘餅様、こ、これを読んでください」
使用人は、俺に押し付けるように新聞を渡してくる。
異様な慌てぶりに、俺は不安を感じながら新聞に目を通す。
そこには、あの怪しい男が写真付きで載っていた。
『詐欺師逮捕。
薬物を使って判断力を失わせ、金をだまし取ったか』
俺は頭が真っ白になる。
新聞によれば、あの男は言葉巧みに薬物を飲ませたとのこと。
つまり俺の時の『劣等缶』というのは……?
やられた!
俺は新聞紙を砂浜に叩きつける。
やはり『劣等缶』なんて、存在しなかったのだ。
俺は自分から判断力を失う薬物を飲み、そして金を払った。
俺はまんまとあの詐欺師に騙されたと言う事か……
完全にしてやられた。
待てよ。
確かにあの時に劣等感は感じた。
つまり、俺に対しては詐欺ではない?
だが、それにしたって……
この収まりがつかない感情は何なのだろうか。
俺は考えて考えて――
そこでふと気づく。
あいつ、意外と凄い人間かもしれない。
だってそうだろう。
あいつは俺が持ってないものを、またして持って来た。
今抱いている感覚の正体―
それは『敗北感』。
長い人生において、初めて敗北を知った瞬間であった。
「アイツ、どこ行った!」
「まだ近くにいるはずだ、探せ」
俺を見つけ出そうと、辺りを捜索する警備兵の二人。
二人の男は、乱暴に周囲の物を殴り飛ばす。
そうすることで、隠れている俺をあぶりだそうとしているのだろう。
二人はどんどん近づいてくる。
それに対して、俺は『近づいてきませんように』と神に祈るしかなかった。
「くそ、ここにはいないな」
「向こうに行ったかもしれない」
だが神に祈りが通じたのか、側で隠れている俺には気づかず、二人の男たちは遠くへ去っていく。
どうやら窮地は脱したようだ。
俺は安心感から、大きく息を吐く。
いったいなぜ、こんな事になってしまったのか。
なんの役にも立たないと分かっていながら、俺は少し過去の事を思い出していた。
◆
俺は、破壊工作専門のスパイ。
基地のシステムを乗っ取って、基地の破壊の手助けをするのが俺の主な任務だ。
俺は今まで、いくつもの基地を破壊してきた。
俺に乗っとれないシステムは無い。
俺は長い間この仕事を続けているが、これまでずっと失敗をしたことは無い。
達成率100%の凄腕エージェント。
それが俺。
これまでも完璧、これからも完璧……
そのはずだった。
その基地は警備が厳重だった。
警備の薄い基地など無いのだが、今回は特に厳重だった。
今まで見たことがない厳重さに、俺は攻めあぐねた。
そこで俺は、リスク高い手段を取って侵入することを選んだ。
このまま見ていても、なにも始まらないからだ。
しかし、それがいけなかった
断言するが、油断は無かった。
俺は自分の持っている技能全てを駆使し、侵入を試みた。
リスクを取ったとはいえ、半ば成功を感触をつかんでた。
俺にとって計算外だったのは、これまでの基地の警備兵より、この基地の警備兵がはるかに優秀だったと言う事。
そして最新の防犯設備によって、すぐに俺の侵入が察知され、追いかけられる羽目になった。
そして今に至る。
◆
だがいつまでもこの場所にいても状況は好転しない。
俺は自分の命すら投げうって、任務を遂行することを決意する。
この基地のシステムさえ乗っ取れば、すぐに応援が来る。
そうなれば、たとえ基地を破壊する前に俺が殺されることになったとしても、俺の勝利だと言うことが出来る。
今後の方針は決まった。
あとは実行するだけ。
死の恐怖と戦いながら、俺は自らを奮い立たせる。
俺は、早速周囲を伺う。
物音一つない静けさ。
どうやらこの辺りには警備兵はいないようだ。
この隙に、隠れていた物陰から出る。
はやくシステムを乗っ取って、応援を――
「引っ掛かったな!」
物陰から出た瞬間、聞き覚えのある声が聞こえた。
声の主は、遠くへ行ったはずの警備兵だった!
「お前は囲まれている。
諦めるんだな」
周囲を見渡せば、数えきれないほどの警備兵に囲まれている。
万事休すだ。
「見つかったスパイがどうなるか……
お前は知っているか?」
俺を囲む包囲網が、少しずつ狭まっていく。
どこかに突破口は無いのか?
このままじゃ俺は……!
「スパイの末路は――それは、みじめな死だ」
俺は大量の警備兵にもみくちゃにされ、意識が重く沈んでいくのだった。
🤧
「うん、37度5分。
まだ熱はあるけど、一晩寝たら直るでしょう」
「うん」
「風邪薬が効いて良かったわ」
目の前にいる母親が、安心したように笑う。
心配してくれたのだろう。
なにせ私が人生で初めて風邪をひいたのだ。
家族が揃いも揃って、『バカは風邪をひかないって言うのは嘘だったんだな』と言われた。
失礼な話だが、私もそう思ったから何も反論できなかった。
それほどの衝撃だった。
それにしても、風邪をひくことがこんなに大変だとは思わなかった。
私は今日、学校を休んだ。
それはつまり仲のいい友達に会えないと言う事。
やたらめった人肌が恋しい。
みんなは私がいなくて寂しいと思ってくれるのだろうか?
……もしかしたら思ってくれてないかもしれない。
いつも騒ぎすぎて、私怒られるもんな。
うるさい私がいなくなって、『今日は静かでいいね』とか言ってるかも……
やべ、泣きそう。
……はっ、いかんいかん。
風邪をひくと、弱気になるって言うのは本当だったようだ。
嫌なことを考えず、ポジティブな事を考えよう。
例えば明日学校に行けばみんなに会えるとか。
うん、元気出てきた。
「ああ、そうだ」
母さんが、今思い出したと言う風に声を上げる。
「さっき、あなたのクラスメイトからお見舞いを貰ったわよ」
と言って、私の前に大量のお菓子を渡してきた。
私は、袋に入ったお菓子を受け取って、思わず息をのむ。
受けっとった袋は、お菓子が詰められてパンパンに膨らんでいた。
そして、一つ一つは大したことのない重さで軽いお菓子も、ここまで来ると少し重い。
なんというか、これは凄いぞ。
「みんなお大事にって言ってたわよ。
愛されているわね」
これまでずっと我慢してきたって言うのになあ。
私は友達の優しさに触れ、嬉しさのあまり少しだけ涙がこぼれるのだった。
『放課後、遊びに行っていい?』
平日の朝、一件のLINEに眉を顰める。
メッセージの主は、友人の百合子。
個人的は友人と呼びたくないけれど、周りから見れば友人に見えるだろう。
不本意ながら。
だから『一応』友人から送られた、このメッセージ自体は何らおかしいところはない。
けれど、私は今まで奴から『遊びに行っていいい?』なんて、LINEでもらったことなどない。
遊びに来たければ、アポもなく勝手に来るやつなのだ。
といか当然のように毎日来るので、連絡の必要性が全くない。
そして伝えたい事がある場合も、わざわざ私の所に来て伝えるくる。
なので遊びのお誘いどころか、普通のLINEのやり取りすらしたことがない。
だから今回だって、学校に来てから聞けばいいのである。
にもかかわらず、なぜLINEを送ってくるのか。
非常にきな臭い物を感じる。
なにか企んでいるのだろうか?
私は色々考えつつも、とりあえず自分の正直な気持ちをLINEで送る。
『だめ』
これでよし。
正直、毎日来る百合子には辟易していたのだ。
駄目だと言っても、勝手に来る。
言わなくても、勝手に来る
だから、どう返しても結果が変わるとは到底思えなかったけれど、正直に私の意思を伝える。
正直なことは大事だ。
私のメッセージにすぐ既読がつく。
さて、百合子はどう出る?
『分かった』
意外にも、物わかりのよい返事。
というか、こんなに素直な百合子は初めてだ。
メールでは人格がタイプの人間かしら?
普段も、ずっと素直だったらいいのに……
どちらにせよ、これで今日の放課後の予定が空く。
久しぶりの一人の時間。
せっかくだから読みたかった本でも読もうかしら……
あーすっきりした。
……
…………
だめだ。
モヤモヤする。
いくらなんでもおかしい。
あの百合子がウチに来ない?
絶対に何かある。
だけど
『何かあった?』
色々遠回しな言い方はないかと考えるも、結局率直に聞くことにした。
気づかれるとは思わないけど、気にしていることがバレたらきっといじってくるだろう。
それは避けたい。
『風邪ひいた』
風邪ひいた。
百合子、風邪ひくことあるんだ。
クラスの中で、馬鹿の代名詞と評判の百合子が風邪をひく……
非科学的ながら、百合子は風邪をひかないとばかり。
思い込みは怖い……
とはいえ、納得できる部分もある
通りで百合子の様子がおかしいはずだ。
というかさっきの質問に『いいよ』と答えたら、本当に私の家に来たのだろうか……
来るのだろうなあ。
だって百合子だもの。
私が物思いに耽っていると、百合子から新しいメッセージが届く。
『風邪移さないように、学校終わったらすぐ帰るね』
私は再び眉をしかめる。
もしかして学校に来ようとしてる?
風邪ひいてるのに?
これは止めなければいけない。
超健康優良児の百合子ですら、感染してしまった風邪ウイルス……
そんなものが学校で広まれば、たちどころに学校閉鎖である。
『だめ。
学校は休みなさい』
『授業受けないと』
『普段勉強しないくせに、今回だけ優等生ぶってもダメ。
帰りがけに差し入れ持って行ってあげるから、大人しくしなさい』
私がメッセージを送って、すぐに既読がつくが返事が返ってこない。
長文を考えているのかと思えば、返ってきたの2文字だった。
『うい』
まったく世話の焼ける。
素直になったと思ったが、風邪くらいでは頑固さは治らないらしい。
ともあれ、百合子が学校を休むなら、私は今日一日平和に過ごせるだろう。
久しぶりの平穏、堪能することにしよう。
私はウキウキで、玄関で靴を履き替えていると、スマホが震えて一件のLINEの通知を知らせる。
『学校を休んで風邪が治ったら、放課後遊びに行っていい?』
百合子はどうしても、私と遊びたいらしい。
私は仕方ないと少し笑ってから、百合子にメッセージを返す。
『だめ』