目が覚めると、自分の部屋に鹿がいた。
しかも立派な角をはやした鹿。
ただでさえ狭い部屋が、鹿のせいでさらに狭くなっている。
寝ぼけた頭で『これは夢だな』と判断し、頬をつねる。
痛い。
「気が付かれましたか?」
へー最近の鹿ってしゃべるんだ。
目の前の鹿が、少女のようなソプラノボイスで俺に話かけてくる。
声だけを聴けばメスか?
だが俺は知っている。
角はオスの鹿だけしか持たず、メスには無い事を。
このチグハグな状況が示すのは、ただ一つ。
コレは夢!
俺は頬をつねる力を、さらに増す!
さらに痛い!
バカな!?
夢じゃないのか!
俺は現実を受け入れるしかないようだ
だが夢じゃないとしたら、なぜ鹿がここに?
俺は少し悩んだ末、直接鹿に聞くことにした。
「えっと、どちら様?」
噛まずに得たのは上出来だと思う。
俺は俺を褒めてやりたい。
だって喋る鹿を前にして動転しないことは凄い事だと思うんだ。
世界よ、俺を褒めろ(現実逃避)
「あなたに助けてもらった鹿です。
覚えてませんか」
「俺が助けた鹿?」
「はい」
俺は昨晩の記憶を探る
だが、なにも思い出せない。
昨日の夕方、飲み屋に入ってからの記憶がない。
飲みすぎだな、これ。
通りで頭が痛いわけだ。
「思い出せないようですね。
薄々そんな気はしていましたが……」
「ごめんなさい」
俺は鹿に謝る。
世界広しと言えども、鹿に謝るのは俺くらいだろうな。
「覚えておられないようなので、私から説明しましょう」
「お願いします」
俺は布団の上で正座する。
いったい何をすれば、喋る鹿をお持ち帰りすることになるのか……
俺は気合を入れて聞かなければいけない
「昨夜の事です。
私は無性に鹿せんべいが食べたくなり、公園のせんべい売り場に向かいました。
しかし夜も遅く、公園には誰もいませんでした」
気持ちはわかる。
深夜に無性にカップ麺食べたくなることあるもんな。
鹿の話は続く。
「諦めて帰ろうとしたとき、あなたがやってきたのです。
もしかしたら鹿せんべいをくれるかもと近づいたのですが、この時点であなたはかなり酔っぱらってました」
あー全然記憶にない。
ほんと、酒を控えないいといけないな。
「そこで私は言いました。
『鹿せんべいをください』と……」
「えっ、人間の言葉で?」
「はい、酔っぱらっているからどうせ覚えていないだろうと。
そして無人販売所から鹿せんべいを買って、私にくれました」
マジかよ。
今月は金ないのに、そんなことをしたのか。
酒は辞めよう。
……明日から。
「非常に助かりました。
鹿せんべいを食べなければ死んでしまう所でした」
「言いすぎだろ」
「そして『恩返しがしたい』というと、『じゃあ、俺の恋人になれ』と言われ、ここまで来ました。
そして今に至ります」
鹿の説明が終わった。
知りたいことは全て知れたが、知りたくないことも知ってしまった。
俺、酔っぱらって鹿を口説いてた。
しかもオスの……
自分の馬鹿さ加減に辟易する。
やっぱり酒は今日からやめるべきだな。
「どうかしましたか?」
「あんたはいいのか?
恋人同士になるのは?」
「『鹿せんべいをたらふく食わせてやるよ』と言われましたので」
「俺、そんなこと言ったのかよ。
ああ、そうじゃなくて男同士でいいのかって事」
「私、メスですよ……」
「えっ」
話がかみ合わない。
待て待て、その立派な角はなんだ!
オス以外の何だと言うんだ。
「あっ、もしかしてこの角の事ですか?」
「そうだ」
「この角は着脱式です」
「……はい?」
「最近メスの間で、オスの真似をするのが流行っているんです。
人間の言葉で言うと――コスプレってやつですね」
「へえー」
そういうと、どういう仕組みかポロっと角が取れる。
よく見れば確かにおもちゃっぽい感じはある。
はい、これを角が無いメスがつけて、コスプレしてたと……
……うん、やっぱ夢だな、コレ。
何もかも意味が分からない。
俺は頬をつねる。
やっぱり痛かった。
「あ、そうだ」
鹿がそういうと、どこから出したのか葉っぱを頭の上に乗せていた。
「ちょっと人間になりますね」
俺が返事する間もなく、鹿は「ぼよよーん」という効果音ともに煙に包まれる。
唖然する俺の前に現れたのは、目が覚めるような美少女だった。
「成功ですね。
知り合いの狸に教えてもらったんですよ。
どうですか?
変なところはありませんか?」
怒涛の展開に、俺は混乱しつつも、言うべきことははっきりと言う
「ええと、綺麗だと思います、はい」
「ありがとうございます」
俺の答えに満足したのか、元鹿の美少女は嬉しそうに笑う。
その笑顔に俺は、急に現実感を失う。
これはきっと夢だ。
俺はまた頬をつねろうとして――
しかし頬をつねる前に、彼女に手を取られてしまう
握られた手から、彼女の熱を感じる。
どうやら夢じゃないらしい。
「ではいきましょうか?」
「行く?
どこへ?」
「決まっています。
デートです、デート」
デート。
なんて甘美な響き。
女性と付き合った事がない自分にとって、こんなかわいい子がデートしてくれるんて夢のようだ。
ていうかもう夢でもいい。
「ふふふ、約束通り鹿せんべい買ってくださいね」
彼女の言葉に、今の懐事情をを思い出し、一気に夢から目が覚める思いがしたのだった。
私と拓哉は付き合っている。
拓哉の隣が、私の定位置。
自分で言うのもなんだがラブラブだ。
運命のいたずらで、合えない日が続いたこともあったけど、そんなものは愛の前では無意味。
何人たりとも私たちの仲は引き裂けない。
だって私たちは運命の赤い糸で結ばれているから。
きっと生まれる前から一緒にいることが決まっていて、神様もそれが祝福してくれている。
同棲して一日中一緒にいたいけど、私たちは高校生
親からは許してもらってないけど、、高校卒業したらいいって言われてる。
大学だって一緒の所に行く。
私たちは離れてもいい時間なんて無いのだ。
今日も私は拓哉の隣にいる。
私が当たり前の様に拓哉のそばにいて、拓哉もそれが当たり前だと思っている。
私は幸せだった。
これからもずっと、それが当たり前の様に続くと信じていた。
けれど、その当たり前が足元から崩れ去る経験をした。
ある日、学校から帰って自分の部屋に戻って拓哉と電話しようと思っていた時の事。
居間から母さんが出てきて、玄関で呼び止められた。
「咲夜、話があるから居間に来なさい」
そう言い残して、部屋に戻る母。
一体何の用だろう?
この前の小テストの点数が悪かったことががバレたかな
私はビクビクしつつ、居間に入る。
そこにいたのは、私を呼んだ母と、普段は夜遅くまで仕事で滅多に帰ってこない父がいた。
まさか父までいるとは……
本当に何の話だ?
背中に嫌な汗が流れる。
このまま逃げたい衝動に駆られるが、そうもいかない。
私は覚悟を決めて、テーブルをはさんで、両親とは反対側に座る。
「母さん、父さん、話しって何?」
私は極力平静を装って両親に尋ねる。
すると母さんが、気まずそうな顔で私を見た。
「実はね、拓哉君のことで話があるの」
拓哉の事?
もしや結婚を認めてくれて――
なんてお気楽な話題ではないことは、両親の顔を見れば明白。
聞きたくないなあ。
「父さんから話そう。
咲夜、よく聞きなさい。
拓哉君と別れ――」
気付けば私は父さんを殴っていた。
殴られた父さんは、そのまま床に倒れ、動かなくなる。
父さんはたった今、父さんだった物になってしまった。
惜しい人を亡くしてしまった。
でも仕方がないことなんだ。
私と拓哉の仲を邪魔する奴は、親だって許さない。
「咲夜、いきなり殴るとは何事だ」
父さんは勢いよく起き上がり、私に怒号を飛ばす。
チッ、生きてたか。
殺すつもりで殴ったんだけど、私も詰めが甘い。
「おい、母さん!
今の見たよな!
母さんからも言ってくれ!」
父さんは母に向かってツバを飛ばしながら叫ぶ。
だが母さんは、興奮している父さんに静かにほほ笑みかけて――引っぱたいた
「あなた、咲夜は拓哉君の事になると、周りが見えなくなるって知ってますよね」
「え?」
「そして自分に任せろと言っておいて、この有様ですか?
がっかりです」
「スイマセン」
「私が話します。
あなたはそこで黙って座っていて下さい」
「ハイ」
父は、母に叱られてしょんぼり肩を落とす。
ざまあ。
私と拓哉の仲を裂く奴は、地獄に落ちればいいのだ。
「咲夜、話の続きだけど……」
私が心の中でガッツポーズしていると、母さんがこっちを見る。
(まさか、母さんまで『別れろ』と言わないよね)
内心ビビりながら、母さんの言葉の続きを待つ。
「父さんが言った、『拓哉君と別れる』という話。
今のままなら本当に別れてもらうかもしれません」
それを聞いた瞬間、私の体は沸騰したように熱くなった。
「……どういう事?
母さんでも許さないよ」
「話しを聞きなさい。
『このままでは』と言ったでしょう。
短気なところは父さんに似たのね」
母が私をたしなめるように叱る。
というか、私が父親似?
めちゃくちゃ嫌だ。
これから気を付けよう。
「落ち着いた?
じゃあ最初から話すわね。
咲夜、あなたは拓哉君と一緒の大学に行きたい。
そうですね?」
「うん」
「この前、たまたま拓哉君の両親に会って聞いたのだけど……
拓哉君の志望校、あなたの学力では無理です」
「あがあ」
母さんから告げられる衝撃の事実にショックを受ける。
でも知らなかったわけじゃない。
拓哉は私より、はるかに頭がいい。
今まで見て見ぬふりをしていただけだ。
「だから咲夜は、受ける大学を変える必要があるんだけど……」
「待って、そこは愛の力で、なんとか……」
「『愛の力』ねえ」
母が含みのある笑みを浮かべる。
てっきり『無理だ』とばかり言われるものだと思っていたから、母の笑みがとてつもなく不気味に見える。
「そうね、おめでとう。
あなたたちは愛の力で同じ大学に行けるわ」
母の言っていることが理解できず、ぽかんとする。
だってさっき私の学力では無理だって……
まさか――
「拓哉、大学のランクを落とすの?」
現状、同じ大学に行くにはそれしかない。
だけどそれは……
「拓哉君のお母さんに聞いた限りでは、変えるらしいわ」
「でも拓哉、夢があるって言ってた。
受ける大学を変えるっていうのは……」
「そうよ、拓哉君は夢よりもあなたを取ったのよ」
母の言葉を聞いた瞬間、私の頭は真っ白になる。
私のために、夢を諦める?
それは絶対にダメ。
「そ、そんなの間違ってる!
拓哉は夢を追うべき!」
「母さんもそう思うわ。
そこでさっきの話に繋がるのよ。
『拓哉君と別れる』。
そうすれば、拓哉君は安心して夢を追いかけることが出来るわ」
「そんな……」
私の頭の仲はぐちゃぐちゃになる。
別れなければ、このまま拓哉と一緒だけど、拓哉は夢を諦める。
別れれば、拓哉と一緒にいられないけど、拓哉は夢を叶えることが出来る。
なんて残酷な二択。
こんなの選べるわけが……
「そこで、母さんは他の選択肢を提示します」
「え?」
「それは、あなたが今から猛勉強して成績を上げる事。
そうすれば拓哉君も志望校に行けて、咲夜も恋人同士のまま」
「いい考えでしょう?」と母は私に笑いかける。
でもその選択肢は致命的な欠点がある。
「私、控えめにいってバカなんだけど……」
「安心しなさい。
あなたは一年生。
塾に行けば、」
「でも追いつけるかな」
「そこは愛の力で何とかするのよ」
母は笑いながら父の方を見ると、父は恥ずかしそうに目をそらす。
「もしかして、父さんが愛の力でなんとかしちゃった感じ?」
「そうなのよ。
あの時の父さん、とても情熱的だったわ。
聞きたい?」
「聞きたい!」
「その話はいいだろ!」
これ以上続けると、父が怒りそうなのでこの話題は終了。
後でこっそり聞いておこう。
「咲夜、拓哉くんの隣にいたいなら頑張りなさい。
『当たり前』というのは、なんとなくそこにあるものじゃないの。
努力して手に入れる物なの」
「母さん……」
母さんの言う通りだ。
拓哉と付き合う時だって、私が精いっぱいアピールして勝ち取った関係なのだ。
最初からそうだったわけじゃない。
なんでこんな大事なことを忘れていたのか
この関係を変えないために、私は変わらないといけない時が来たようだ
勉強はちょーーーとばかり苦手だけど、拓哉のためなら頑張れる。
私の当たり前が、ずっと当たり前のままであるように。
拓哉と一緒にいられるように。
それに拓哉に勉強教えてもられば、さらに一緒の時間を過ごすことが出来る
まさに一石二鳥。
よーし、勉強頑張るぞ
『街の灯り』
俺の名前は五条英雄
私立探偵をやってる。
といってもアニメのように、難解な殺人事件を扱うことは無い。
なぜなら日本は平和であり、警察が困るような事件は年に何件もない。
だが探偵とは謎を解き明かすだけが、存在意義ではない
人々の不安に寄り添い、闇を振り払う。
街の灯りを灯すように心に火を灯すのが、『探偵』という仕事だと思っている
そんな俺の事務所には毎日、いろんな依頼が飛び込む。
一見雑用にしか見えない依頼もあるが、手を抜いたりしない。
俺はどんな依頼にも真剣に取り組む。
この世界に手を抜いていい仕事など無いのだ。
というわけで、俺は街に灯り(物理)を灯すため、街灯の交換に勤しんでいた。
依頼主は街灯の保守会社。
最近の酷暑で人が倒れるわ、他の場所で緊急の工事が入るわで、人手が足りなくなったらしい。
そこでウチの事務所に依頼が来たのだ。
いくらなんでも探偵の仕事だとは思えないのだが、しかし断る理由もない。
困っている人がいて、自分以外に頼る人がいないと言れば探偵は動くのだ。
依頼料も色を付けてくれたので文句なしである。
なお、部外者の俺がやっていい事かは知らん。
だがこういう時にぴったりの言葉がある。
『藪をつついて蛇を出す』
つまり、変に深く聞いたら、仕事が無くなる可能性がある。
無くなると俺が困るので、聞かない。
そういう事だ。
何かあっても、向こうが何とかするだろう。
そんなことを考えながら、街灯の交換を進めていく。
俺は街灯交換に関しては全くの素人なので、補助しかしていない。
それにも関わらず、俺の体は汗を滝のように流す。
作業の親方の指示で、こまめに休憩をはさんで作業を進めるものの、炎天下の作業は非常につらい。
これだけ暑ければ、人も倒れるわけだ。
地球温暖化、恐るべし。
そして俺はなんとか無事に仕事を終えるも、体は疲労でいっぱいだった。
少し休むために、近くにあった公園のベンチに腰を下ろす。
体が鉛のように思い。
なんとなく空を見上げれば赤い空。
もう少し涼しくなってから動こう。
そう思っていると、遠くから近づいてくる人間が見えた。
「先生、お疲れ様です」
助手である。
奴は、いかにも『今日は暑かったですね』という顔で俺を労うが、騙されてはいけない。
助手は街灯交換に参加してないのだ。
今朝になって『暑いのは駄目なので勘弁してください』と言って、NGを出したのである。
仕事を選り好みするのはどうかと思ったが、今日は猛暑の予報だったのでさすがに無理強いするのは止めた。
苦手な人間に無理やりやらせて、倒れられても困る。
労災の手続きは面倒なのだ。
その代わり、俺が苦手な書類仕事をやってもらうことにした。
お互い苦手なことせず、得意な仕事を行う。
これぞ適材適所。
なので助手は今も涼しい事務所で書類仕事をしているはずなのだが……
「先生、これを」
思案していると、助手は俺の前に缶を差し出してきた。
スポドリだろうか?
「ありがとう、気が利くな」
そう言って受け取ると――それは消臭スプレーだった。
……おまえ、俺が汗臭いと言うのか?
っていうか、普通スポドリを持ってくるのが筋じゃね?
俺、暑い中頑張ったんだぞ。
俺が目で訴えると、助手は何事も無かったように、キンキンに冷えたスポドリの缶を差し出してくる。
最初から出せよと思うのだが、ありがたいのは事実なのでお礼を言って受け取る。
俺はごくごくと、受け取ったスポドリを飲み干す。
キンキンに冷えたスポドリは、乾燥した体中に染みわたる。
さっきまで重たかった体が軽くなっていく。
「ぷはー、生き返る……
で、お前何しに来たの?」
「家に帰る途中です。
遠くから見かけたので、恩を売るために飲み物持って来ました」
「おまえ、嘘でも『心配した』って言えよ。
まあ、いいや。
書類終わったのか?」
「緊急性の高い書類を優先的に終わらせて、退勤時間になったので事務所を出てきました」
「……相変わらず要領良いな」
「先生が要領悪いんですよ」
助手はなんてことないと言う風に笑うが、
「ああ、この公園に寄ったのは、もう一つ理由があります」
そう言って、助手は俺の隣に座ろうとして――
消臭スプレーを俺から奪い取り、俺にこれでもかと吹きかける。
ゴメン。
「アレを見てください」
俺に満足するまでスプレーした助手は、住宅街の方を指差す。
そこにはたくさんの住宅が立ち並び、日没間近ということもあって、ポツポツと光が付いていた。
「日没の時間までに帰れた時、いつもここでこの様子を見るんです」
助手が話している間も、一つまた一つと光が増えてく。
「この風景を見ると思うんです。
自分たちのしていることは、ちゃんと誰かのためになっている。
自分はこの街の一員なんだって、自信が持てるんです」
「分かるよ」
俺は助手に同意する。
探偵をしていると、人間の闇を見る事なんて普通だ。
『探偵をやっていると人間不信になる』とういうのは有名な話だ。
俺も人間の汚さに嫌気がさして、何度も探偵を辞めてやろうかと思った事だろう。
でも辞めなかった。
闇も多いが、感謝されることも多いのだ。
ベットと飼い主の感動の再会は、見てて嬉しい。
それを見るたびに、俺は『誰かのために働いている』と確信を持てる。
コレだから探偵は止められない。
助手と一緒に街の様子を眺めていると、後ろから「ぶうん」という音が聞こえた。
振り返れば、そこには俺自身が交換した街灯があった。
親方に『せっかくだからお前もやってみろ』と言われ、いい機会だとやってみたのだ。
この街灯は、きっと誰かの役に立つのだろう。
悪くない気分だった。
俺は満足感を胸に抱きながら、もう一度住宅街の方に視線を戻す。
住宅街のたくさんの街の灯りが、俺たちを明るく照らしていた。
七月七日、日本某所にて。
普段は観光客で賑やかなこの場所も、深夜となれば静けさが支配していた。
日付が変わる変わらないかという時間帯では、観光客などどこにもいない。
まるで人間など、世界から消え去ったような錯覚を覚えるほどだ。
だが七夕の夜、そこにはたくさんの蠢く影があった。
鹿である。
鹿たちは一匹残らず、空を見上げていた。
普段は愛嬌を振りまく可愛らしい目も、空を見つめる目に高い知性を感じさせた。
一見して異様な光景であるが、彼らは何かを待っているようにも見える。
そのな異常な光景を前に、息を殺して近づく男がいた
もちろん、こんな夜更けに出歩く人間などまともではない。
彼は『不思議な鹿がいる』という噂を聞きつけ、やって来た。
鹿を捕まえて見世物にし、お金を稼ごうとする魂胆である。
そして彼には、動物愛護の精神など無い。
金を稼げるのであれば、他人の非難を気にしないタイプである。
鹿を限界まで酷使し荒稼ぎすることで、楽に金持ちの仲間入りをすることを夢い見ていた。
だがうまい話はない。
鹿たちを覗こうとしたとき、彼はその場に倒れるように気絶してしまった。
天罰が下ったのだ。
鹿は神の使い。
その小さな体にすさまじい神気を蓄えているが、昼間は抑えている。
なぜなら普通の人間がその神気を浴びてしまえば、たちどころに倒れてしまうから……
鹿にとっても不本意なことなので、普段は人間のために抑えている。
だが今は夜。
人間たちはおらず、鹿たちも神気を抑えてなどいない。
男は神気を無防備に浴びてしまい、その神気に耐え切れずそのまま気絶してしまったのである。
男たちが倒れた後も、彼らは待ち続けた。
どれほど待っただろうか……
不意に、なにかが落ちてくる。
落ちてきたもの――それは鹿せんべいだった。
鹿たちは、それを見て厳かに頭《こうべ》を垂れる。
「七夕様、恵みを感謝します」
鹿の中の一匹が言葉を発する。
鹿がしゃべると言う異常事態だが、それを指摘するものは誰もいない。
この場にいる唯一の人間は、哀れにも気絶しているからだ。
鹿は感謝を述べた後、その中の一匹が前に出て来て、静かに落ちてきたせんべいを食べる。
昼間の様に一枚の鹿せんべいに群がるような真似はしない。
それは高い知性を隠すための、人間に対する擬態なのだ。
鹿は食べ終わると静かに後ろに下がる。
すると新しい鹿せんべいが落ちてきて、別の鹿が前に出る。
その鹿がせんべいを食べ、またせんべいが落ちる。
それを幾度も繰り返し、全ての鹿にせんべいが行き渡る。
これが毎年、七夕の夜に行われる鹿たちの儀式。
鹿たちの『ゆっくり鹿せんべいが食べたい』という願いを、七夕が叶える。
七夕は特別な夜なのだ
鹿たちは願いが叶った事に感謝し、再び頭を垂れる。
それが儀式終了の合図。
そして鹿たちは、再び一枚の鹿せんべいに群がる生活に戻るのであった。
私は友人の沙都子の部屋で、いつものようにお菓子をつまみゲーム興じていた時の事。
良いところまでプレイし、ティーブレイクで一息ついていると、あることを思い出した。
「ねえ沙都子、ちょっといい?」
「なによ百合子、私のお菓子まで食べようって言うの?」
「そうじゃなくってさ。
宿題の作文はもう書いた?
『友達の思い出』がテーマのヤツ」
私は、先日学校で出された宿題の話題を出す。
正直に言って、作文なんて小学生の宿題だろうと思し、テーマも小学生でありそうなやつだ。
私たち高校生には相応しくないと信じて疑わないのだが、国語教師はそうは思わなかったらしい。
クラスの反対意見を封殺し、権力を持って押し通したのだ。
大人ってずるいよね
私が世の中の不条理に憤っていると、沙都子は優しく笑う。
「もう書いたわ」
「早いなあ」
相変わらずの沙都子の優等生ぷりに感心する。
私は作文を書くのが苦手なので、純粋に羨ましい。
私も、沙都子くらい書けたら――
いい事思いついた。
「ねえ、沙都子の書いた作文、ちょっと見せて」
「……なぜかしら?」
「まだ書いてなくってさ。
沙都子の作文を参考にしたいんだ」
半分本当で、半分嘘。
沙都子の作文を読んで参考にするのと、私が純粋に読みたいから。
作文のテーマは『友達の思い出』。
そして沙都子の一番の友人は私。
導き出される答えは、『沙都子は私の事を書いている』。
簡単な推理である。
これを読めば、沙都子が私の事をどう思っているのか分かるだろう。
けれど沙都子の事だ。
何かと理由を付けて読ませまいと――
「いいわよ」
「えっ」
沙都子はあっさりと了承する。
粘られると思ったから、かなり意外だ。
「珍しく素直にくれるね」
「それはどういう意味かしら?」
「あー、特に他意は無いよ」
「ま、いいわ。
友人が困っているのを見捨てるほど、薄情ではないわ」
「沙都子……」
私は沙都子の言葉に感激しそうになるが、思い直して冷静になる
沙都子が友情アピールをしてくるのは、なにか裏がある時だ。
もしやこの作文は偽物?
それとも、作文に罵詈雑言が書かれている……?
「ほら、これが私が書いたものよ」
「……うん、ありがとう」
沙都子は学習机の棚から原稿用紙を取り出し、それを私に渡してくる。
今のところ、いたずらの気配はない。
一体何を企んでいるのか……
「百合子、どうかした?」
「ううん、何でもないよ。
それにしても私の書かれている作文を読むのは少し恥ずかしいなあ」
「何のこと?」
「やだなあ、『友人』である私の事を書いているんだよね」
「違うわ」
『違う』だって?
私じゃないんだ……
沙都子の言葉に、私は頭をガツンと殴られたような衝撃を覚える。
「じゃ、じゃあ、誰の事を書いて……」
「ラリーよ」
「ラ、ラリー?」
『誰だ』という疑問、『外人!?』という驚き、『自分じゃなかった』という失望感、そして『どこかで聞いたことあるな』という既視感。
それらの感情がごちゃ交ぜになって、私は頭が真っ白になる。
「あら百合子、変な顔をしてるけど、どうしたのかしら?」
沙都子は面白い物を見たかのように笑う。
笑っている場合じゃないでしょ、と言いたいのを堪え、どうしても聞きたかった言葉を絞り出す。
「ラリーって誰?」
沙都子ははぐらかすと思ったが、予想に反し不思議そうな顔をしていた。
「あら、あなたラリーの事知らなかったっけ?」
『あなた、ラリーの事知らなかったっけ?』。
え、私ラリーと会ったことある?
外人に知り合いはいないはずだけど……
「あ、忘れたのね。
呼ぶからちょっと待ちなさい」
「呼ぶ!?」
えっ、ラリーここにいるの?
「ラリー、こっち来なさい」
沙都子が、まるで猫でも呼ぶかの様にラリーを呼ぶ。
すると、隠れていたのか部屋の隅からラリー?が走ってきて、勢いそのまま沙都子の膝に飛び乗る。
猫だった。
「ほら思い出した?
我が家のネズミ捕りのエース、ラリーよ」
私が呆然としていると、沙都子が私を見て大笑いし始めた。
自分がどんな顔をしているか分からないが、さぞ面白い顔をしているのだろう。
「作文はいくらでも読んでいいから、参考しなさい。
そして私とラリーが強い絆で結ばれていることを理解することね」
私はこのとき思った。
そうだ、作文には今の出来事を書こう、と……
そしてクラスのみんなに知らしめよう。
沙都子の悪魔的所業を……
あれほど悩んでいた作文が、今ならすらすらと書けそうだ。
作文って魂で書くんだな。
私は心の底からそう思うのだった。