七月七日、日本某所にて。
普段は観光客で賑やかなこの場所も、深夜となれば静けさが支配していた。
日付が変わる変わらないかという時間帯では、観光客などどこにもいない。
まるで人間など、世界から消え去ったような錯覚を覚えるほどだ。
だが七夕の夜、そこにはたくさんの蠢く影があった。
鹿である。
鹿たちは一匹残らず、空を見上げていた。
普段は愛嬌を振りまく可愛らしい目も、空を見つめる目に高い知性を感じさせた。
一見して異様な光景であるが、彼らは何かを待っているようにも見える。
そのな異常な光景を前に、息を殺して近づく男がいた
もちろん、こんな夜更けに出歩く人間などまともではない。
彼は『不思議な鹿がいる』という噂を聞きつけ、やって来た。
鹿を捕まえて見世物にし、お金を稼ごうとする魂胆である。
そして彼には、動物愛護の精神など無い。
金を稼げるのであれば、他人の非難を気にしないタイプである。
鹿を限界まで酷使し荒稼ぎすることで、楽に金持ちの仲間入りをすることを夢い見ていた。
だがうまい話はない。
鹿たちを覗こうとしたとき、彼はその場に倒れるように気絶してしまった。
天罰が下ったのだ。
鹿は神の使い。
その小さな体にすさまじい神気を蓄えているが、昼間は抑えている。
なぜなら普通の人間がその神気を浴びてしまえば、たちどころに倒れてしまうから……
鹿にとっても不本意なことなので、普段は人間のために抑えている。
だが今は夜。
人間たちはおらず、鹿たちも神気を抑えてなどいない。
男は神気を無防備に浴びてしまい、その神気に耐え切れずそのまま気絶してしまったのである。
男たちが倒れた後も、彼らは待ち続けた。
どれほど待っただろうか……
不意に、なにかが落ちてくる。
落ちてきたもの――それは鹿せんべいだった。
鹿たちは、それを見て厳かに頭《こうべ》を垂れる。
「七夕様、恵みを感謝します」
鹿の中の一匹が言葉を発する。
鹿がしゃべると言う異常事態だが、それを指摘するものは誰もいない。
この場にいる唯一の人間は、哀れにも気絶しているからだ。
鹿は感謝を述べた後、その中の一匹が前に出て来て、静かに落ちてきたせんべいを食べる。
昼間の様に一枚の鹿せんべいに群がるような真似はしない。
それは高い知性を隠すための、人間に対する擬態なのだ。
鹿は食べ終わると静かに後ろに下がる。
すると新しい鹿せんべいが落ちてきて、別の鹿が前に出る。
その鹿がせんべいを食べ、またせんべいが落ちる。
それを幾度も繰り返し、全ての鹿にせんべいが行き渡る。
これが毎年、七夕の夜に行われる鹿たちの儀式。
鹿たちの『ゆっくり鹿せんべいが食べたい』という願いを、七夕が叶える。
七夕は特別な夜なのだ
鹿たちは願いが叶った事に感謝し、再び頭を垂れる。
それが儀式終了の合図。
そして鹿たちは、再び一枚の鹿せんべいに群がる生活に戻るのであった。
7/8/2024, 12:54:36 PM