『やりたいこと』
「あれ?」
私は今、冷蔵庫の前で重大なことに気づいた。
「私、ここに何しに来たんだっけ?」
私は、何かをしようとしていた手を止め、ぽかんと立ち尽くす。
今の私は、コーヒーを持って、アホ面で立ちつくす間抜けに見える事だろう。
鏡があれば、さぞ笑えたことに違いない
私は何かやりたいことがあって、冷蔵庫まで来た。
なにせ淹れ立てのコーヒーまで持って来ているんだ。
ここにいるということは、何かやりたいことがあったはず……
にも関わらず、何をしに来たのか全く思い出せない。
かけらも思い出せない。
まだ若いつもりだったが、知らないうちに脳がさび付いていたようだ。
けれど感傷に浸るのは後にしよう。
まずは推理だ。
コーヒーを冷蔵庫の上に置いて、腕を組む。
今の状況を客観的に把握すれば、自ずとやりたかったことが分かるはず。
冷蔵庫の上に置かれたコーヒーを見る。
湯気が立っている、入れたてホヤホヤのコーヒーだ。
私は普段コーヒーを飲まない。
私がコーヒーを飲む時、それは甘いものを食べる時。
そして私は今冷蔵庫の前に立っている……
その事実から、導き出される答えは――
「真実はいつも一つ!」
私は勢いよく冷蔵庫の扉を開ける。
中にあったのは、中心に鎮座するホール丸ごとのチョコケーキである。
「コレだよコレ!」
私はコレが食べたかったんだ!
このケーキは昨日買ったものだ。
行きつけのスーパーで、半額が貼ってあるのを見て衝動買いした。
ついに小さい頃からの夢、『ケーキを独り占め』ができるとワクワクしたものだ。
そうだよ。
私は夢を叶えようとしていた……
なんでこんなことを忘れていたのか……
大人になるって事は、かつての夢を忘れると聞いたことがある。
これがそういう事か……
違うな。
絶対に違う。
間違いないのは、こんなバカなことを考えているから、ケーキのことを忘れてしまうのだ。
忘れないうちにケーキを冷蔵庫から出す。
そして手ごろなサイズに切り取って――
なんてことはせず、直食い!
おお、ケーキ旨い。
マナーもへったくれもない。
何もかも忘れて、ケーキを貪り食う。
甘い物を食べている時は、やはりコーヒーが飲みたくなるな……
甘い口には、ほろ苦いコーヒーが合う。
……
…………
「あれ、コーヒーどこ行った?」
『朝日のぬくもり』
突如世界中に現れたゾンビ……
その侵略者は、数の多さで人間社会を崩壊させました。
いまでこそ、ある程度平和な暮らしが出来るようになりましたが、いまだ大きな脅威です。
ゾンビは、最初の内は取るに足らない存在と思われていました。
ですが短期間の間に、爆発的にその数を増やし、人類にとって大きな脅威となり、ました。
一体だけでは無力なゾンビも、数がいると非常に危険です。
国は総力を挙げてゾンビの数を減らそうと試みていますが、あまり効果は上がっていないのが現状です。
これを見ている皆さんも、ゾンビはただの害獣としか思っていることでしょう。
『ゾンビは人間を襲うもの』。
それは間違いではありません。
ですがそれ以外の時は何をやっているのか、誰も知りません。
我々はゾンビの生態を調査することにしました。
ゾンビの生態を知ることで、効率的な駆除方法が見つかる可能性があるからです。
皆さんも一緒に、ゾンビの謎を解き明かしていきましょう。
◆
ここは、とあるゾンビだまり。
暗くなって活動を辞めたゾンビたちが集まる場所です。
集まる理由は不明ですが、ここにゾンビを惹きつける何かがあると言われています。
我々は調査のために、このうちの一体を『ゾン太』と名付け、追跡することにしました。
このゾン太を通して、ゾンビの生態に迫っていきます。
◆
日が昇る早朝、ゾンビたちが動き始めました。
ゾン太もまた、他のゾンビと同じように起き上がります。
一日の始まりは『朝の温もりと共に』という事でしょうか?
そんな雅な趣味があるとは思えませんが、ともかく調査開始です。
しかし活動を始めたものの、ゾン太は他のゾンビたちから離れ、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。
当てもなく彷徨い歩きます。
ゾン太はまるで、特に予定の無い休暇を過ごす暇人――いえ、これ以上言うのはやめましょう。
とにかく、うろついているのは、恐らく餌である人間を探しているからだと言われていますが、あまり積極的に探しているようには見えません
これはまだ仮説なのですが、ゾンビは『自分たちの活動のために、人間を食べる必要な無いのでは?』と言われています。
なんで食べる必要ないのに食べるのでしょうか?
もしかして何も考えてない……?
しかし何も考えてなさそうなゾンビも、最近では知能がある事が分かりました。
ゾンビの「あー」とか「うー」という呻き声。
これは鳥の鳴き声と同じように、コミュニケーションをしているのです
まだ研究途中ですが、餌場の情報交換などをしているのではと言われています。
あ、別のゾンビが近づいてきました。
何かを話し合っているように見えます。
情報交換をしているのでしょう……
あ、動き出しましたね。
今までとは違い、彷徨っている様子はありません。
どこかにある目的地に向かって、迷いなく進んでいます。
ゾン太だけではなく、二体とも同じ方向に向かっているので間違いないでしょう。
我々は調査のため、もう一体を『ゾン子』と名付けます。
ゾン太とゾン子、どこに行くのか……
付いて行きましょう
◆
しばらく歩いていると、ある建物に着きました。
ここは……酒屋です。
どうやら放棄された酒屋のようです。
入り口には『営業中』と書かれた看板があります。
慌てて避難して、そのままなのでしょう。
しかし、なぜゾン太とゾン子はここに来たのでしょうか?
彼らは迷いなく、酒屋に入っていきます。
中を伺いたいところですが、危険なのでこれ以上は近づけません。
なんとなく察しが付くのですが、我々はここで出てくるのを待つことにします。
◆
ゾン太とゾン子が出てきました
手に持っているのは――缶飲料でしょうか。
銀色の缶で、私なんだか見覚えがあります。
ちょっと双眼鏡で覗いてみましょう。
書いてあるラベルは――
『アサヒ スーパー ドライ』?
なんということでしょう。
ゾンビも酒を飲むのでしょうか?
我々が驚いていると、ゾン太とゾン子は看板の角で、缶に穴を開け飲み始めました。
ゾンビが酒を飲んでいます。
朝っぱらから……
先ほど抱いた感情は正しかったようです。
ゾン太とゾン子、働きもせず朝から酒ばかりを飲んでいる、ダメ人間――いえダメゾンビです。
しかも飲んでいい気分になったのか、ゾン太とゾン子はその場で寝てしまいました
ダメゾンビのお手本のような存在です。
ゾンビにもだめなやつはいるんですね……
いえ、待ってください。
周辺からぞろぞろゾンビが集まってきました。
どうしたのでしょうか……
悪い予感が――ああ、やっぱり酒屋に入っていきました。
きっと酒を飲むつもりなのでしょう。
ダメゾンビは意外と多いようです。
◆
さきほど入って来たゾンビのグループが出てきました。
すでに酒を飲んでいるようです。
入り口で宴会を始めてしまいました。
もはやただの酔っ払いです。
あ、騒ぎに気づいたのか、ゾン太が起きました。
起き上がって、周りを見て――また酒屋に入っていきます。
まだ飲むつもりなのでしょうか?
ただただダメなゾンビです。
我々人類はこんな奴らに滅亡しかけたのでしょうか?
私、涙を禁じえません。
……おや?
さきほどのゾンビのグループが、なにやらもめ始めましたね。
理由は分かりませんが、酔っ払いのゾンビですからね。
特に理由なんて無いんでしょう。
ゾンビが掴み合いの喧嘩をし始めました。
始めは二体だけだった喧嘩は、最終的にグループ全員を巻き込む喧嘩に発展します。
これは……グロイですね。
ゾンビたちがお互いを共食い――共食いなんでしょうか?
ともかく、噛みつきあってとんでもないことになっております
と、そこへゾン太が出てきてきました。
今回も銀色の缶を持っていますが……
遠目からでも分かります。
あれ、コンロ用のガス缶ですね。
酔っぱらって間違えたのでしょう。
そしてゾン太は、周りで喧嘩していることに気づかず、看板の角で穴を開けようとしてます。
これ、オチ分かってしまいましたね。
なかなか開かないのか、ゾン太は何度も缶を叩きつけ――
あ、爆発しました。
ものすごい音です。
爆発でゾンビがバラバラになりましたね。
ゾンビも、ガス爆発の前には無力のようです。
えー、この番組を見ている皆さん、コレで分かっていただけたかと思います。
ゾンビには、酒を飲ませれば自滅する。
さっそく報告書を書きたいと思います。
書いている間に、ゾンビが絶滅するかもしれませんが……
最後に、視聴者の皆さんに一言。
『酒は飲んでも飲まれるな』
ではまた来週。
『岐路』
とある姉弟がいた
この姉弟の苗字は月岡といい、姉が恵、弟が信二である。
月岡姉弟は早くに親を亡くし、相続した遺産で姉弟ふたりだけ暮らしていた。
二人だけの姉弟の絆は強く、「世界の終わりも一緒にいよう」と誓い合ったほど。
近所の支えもあり、穏やかな生活を送っていた。
だがその日常は、突如崩れ去る。
世界に突如ゾンビが溢れたのだ
国という枠組みは崩壊し、人々は逃げまどい、あるものは立ち向かい、あるものは籠城し、あるものは諦めた。
二人の姉弟も何が起こっているかも分からず、ただ逃げることしか出来なかった。
何度もゾンビの群れに襲われたものの、ようやく避難してきた人間で作られたコミュニティに入ることができた。
ようやく腰を落ち着けた場所で、弟の信二はあることを思い出す。
自分の足首の当たりに噛み傷のことを……
この噛み傷は、逃げる際ゾンビに噛まれたものである。
噛まれた際には何とも思わなかったがも、落ち着いてみると嫌な色に変色している。
信二は不安になった。
(ただ単に傷口が膿んでいるだけなのかもしれない)
(でもゾンビに噛まれたことで、自分もゾンビになってしまうのでは……?)
信二の頭の中に嫌な考えが起きる。
不安になり、避難したコミュニティでそれとなく聞いたものの、ゾンビが感染することは無いという。
だが――
万が一、自分がゾンビになってしまったら?
もしそうなれば、真っ先に犠牲になるのは大切な姉である。
かくして信二は岐路に立たされた。
このまま、『何もあるはずがない』と信じ、誰にも言わないでおくか……
それとも、『ゾンビになってしまう』ことを前提に、ここを去るか……
どちらを選ぶべきか?
信二は悩んだ。
すぐに答えが出ることは無く、布団に包まった後も悩みぬき結論を出す。
(姉さんに危ない目に会わせるわけにはいかない)
信二は出ていくことを決断した。
これならば、最悪でも死ぬのは自分だけだと考えたからだ。
そして日も昇り切らぬ明朝、姉を起こさずに静かに起きあがる。
そして、もう会えないかもしれない姉の寝顔を脳裏に焼き付けて、黙ってコミュニティを出る。
コミュニティを出た後も、信二は慎重に動いた。
ゾンビになるかどうかはまだ分からないが、その前にゾンビに食われて死ぬのは嫌だったからだ。
そして2週間経った。
とくにゾンビになりそうな兆候もなく、噛まれた傷もかさぶたになって治りかけていた。
(これならば、また姉の所に戻っても問題ないだろう)
だが信二は少し憂鬱だった。
姉は普段優しいのだが、怒ると怖いのである。
きっと黙って出たことを怒るだろう。
特に今回は自分が悪いと思っているので、かなり気が重い
だが、それでも姉に会いたかった。
信二は重たい腰を動かし、姉のいるコミュニティに行くべく、隠れ場所から出る。
しばらく歩いていると、車のエンジン音が聞こえた。
音の方を振り返ってみると、車がまっすぐ自分の方に向かってくることに気づく。
(犯罪組織のやつらか?)
この状況にあっても犯罪行為をする輩が絶えない。
信二はその犠牲者になるのは御免だと、周囲を見渡し逃げ道を探す。
そして犯罪集団から逃げるべく、物陰に入ろうとした瞬間のことだった。
「信二!」
自分の耳を疑う。
それは自分の名前を呼ぶ姉の声だった。
もう一度、車の方に振り返ると助手席から手を振る姉の姿が見えた。
(なんで姉さんが?)
信二が呆然としている内に、車は信二の近くに停車し、それと同時に姉の恵が飛び出してきた。
「信二、無事だったのね」
姉が力く強抱きしめる。
「姉ちゃん、なんでここに?」
「あなたを探しに来たのよ」
姉の言葉にショックを受ける。
たしかに自分がいなくなれば、恵が探しに出るのは自明の理。
(そんな簡単なことまで分からないくらい焦っていたのか)
「信二、帰ったら説教だからね」
「うん、ところで」
信二は気が重くなりつつも、気になっていたことを尋ねる
「あの人、誰?」
信二は、運転席から降りてきた男を指さす。
「お姉ちゃん、大学に通っていたでしょ。
その時の同期の木村君よ
助けてもらったの」
「そうなんだ」
信二は姉の言葉にうなずきつつも、あることが疑問に浮かぶ。
「二人とも、感動の再会は後で!
早く車に乗ってくれ。
ゾンビに囲まれる前にな」
木村の言葉に従い、姉と一緒に信二は車に乗り込む。
姉の恵は助手席に、弟の信二は後部座席に座る。
姉と合流できたという安心感から寝てしまいそうになるも、信二は気合を入れて眠気抵抗する。
信二には気になることがあった。
姉の恵の、木村という男に向ける目線が熱いのだ。
(まさか……)
それはどう見ても、友人に対するものではなく、明らかに異性に対する目線である。
(男の方は分からないけど、こんなところまで来るくらいだ)
(姉ちゃんに気があるんだろう)
信二は複雑な感情に支配される。
多分、近いうちに二人は結ばれるだろう。
姉に恋人が出来るのはいい事だ。
しかし、姉を独占できなくなるのも事実でもある。
信二は先ほどとは別の理由で憂鬱になった。
信二は思う。
このままでは、姉が他の男とイチャイチャしているところを見なければいけなくなる。
自分それに耐えられるのか?
選択肢は二つ
このまま、木村と恵がくっつくのを黙って見守るか。
それとも、機を見て妨害すべきか。
かくして信二は岐路に立たされるのだった
突如世界に、ゾンビが溢れかえった。
まるでゲームのような、世界の終わりの光景――
しかし周辺に溢れかえる破壊と混乱の跡が、それをゲームでないと証明している。
そんな中、廃墟の中を走る一人少女がいた。
少女の名前は、月岡 恵。
月岡はかつて、ゾンビの脅威とは無縁の安全なコミュニティにいた。
だが彼女はある目的のため、そのコミュニティを抜け出したのである。
だが現実は甘くなかった。
たちどころにゾンビたちに見つかり、追いかけられてしまう。
だが幸いにしてゾンビの足は遅く、軽く走る程度で簡単に撒くことが出来る。
しかし不幸なことにゾンビは数が多く、撒けども撒けどもどんどん周囲のゾンビが加わり、休むことなどできなかった。
少女の体力はもはや限界であった。
そして月岡は運動が得意ではない。
少女の足が少しずつ重くなっていく。
始めは楽観視していた彼女も、途切れないゾンビに危険に感じ始める。
だが時すでに遅く、月岡にゾンビから逃げ切る体力も作戦もなかった。
予定調和の様に、月岡とゾンビの距離が縮まっていく。
月岡はすぐ後ろにゾンビの気配を感じる。
(もうだめか……)
月岡が覚悟した瞬間、後ろで何かが衝突する音がする。
月岡が驚いて後ろを振り向けば、ゾンビを撥ね飛ばした一台の黒い軽自動車があった。
その車はこの悪夢のような状況とは不釣り合いなほどきれいに磨き上げている。
唯一へこんでいる場所は真新しく、ゾンビを撥ね飛ばした跡なのは明白だった。
月岡は何が起こっているか分からずに呆然とする。
月岡が唖然としていると、車の助手席の扉が勢いよく開かれ、運転席に座っていた男が叫ぶ
「早く乗って!」
「あなたは……」
「早く!」
月岡の頭に『誘拐』の二文字が浮かぶ。
こんな世界の終わりのような世界で、何の見返りもない人助けなどあり得ない
だがこのままいてもゾンビに追いつかれるのは目に見えている……
ならば、一縷の望みをかけて、出たとこ勝負しかない。
月岡は意を決し車に乗り込む。
「飛ばすぞ、捕まってろ」
車は急発進し、ゾンビの群れからどんどん離れていく。
ミラー越しに遠ざかるゾンビを見た月岡は、座席に深く沈み安堵のため息を吐く。
正体の分からない運転手には、警戒を緩めることはなかった
「ありがとうございます」
月岡は運転手の男に礼を言う。
助けた理由がどうであれ、命を救われたのは事実だからだ。
しかし確かに危機は脱したが、完全に危険は去ったわけではない。
自分を助けた男が何を要求して来るか……
月岡は、場合によっては走行中の車から飛び降りる事を決意する。
しかし帰ってきた言葉は、予想外の物であった。
「間に合って良かったよ。
それで悪いんだけどシートベルト締めてくれる?」
「え?」
「シートベルトをしていないと、事故をした時が大変だからね」
月岡は耳を疑う。
そんな呑気な事を言っている場合なのだろうかと月岡は疑問に思いつつも、しかし正論ではあるのでおとなしくシートベルトをする。
「水あるけど飲む?
まだ開けてないから、安心してね」
「はあ」
まるで平穏な世界のようなやり取りに、月岡は調子が狂いそうになる。
緊張感のない男に警戒を強めつつも、水の入ったペットボトルを受け取る。
未開封であることを確認し、水を一気に飲み干すと乾いた月岡の体に水が染みわたる
走り通しで体が水分を求めていたからだ。
「落ち着いた?」
「ええ」
「まさか世界の終わりに君と会えるなんてね」
「え?」
「あれ、覚えてない?
大学の同期の木村だよ」
驚いて男の顔を見れば、たしかに元同期の木村だった。
さっきからやけに親しげだと思っていたが、まさか知り合いだったとは……
「えっと、ごめんなさい」
「気にしてないよ、それどころじゃなかっただろうし」
運転席の男――木村は全く意に介さないかのように笑う。
月岡も知り合いに会え、本当の意味で安堵する。
「無事だったんですね」
「うん、自動車講習で学んだ『かもしれない運転』のおかげさ」
「なんですか、それ?」
「『ゾンビが大量発生するかもしれない』と備えていたおかげで、余裕を持って対処出来た。
ちゃんと講習を受けていて良かったよ」
「そう……なんですか……」
月岡は、木村の言っていることが少しも理解できなかったが、ひとまず頷く。
「とりあえず俺がいるコミュニティに案内するよ。
他の人間をかくまう余裕もある」
「ありがとうございます」
「それで、なんであんな所にいたんだ?
俺が調査のために出ていたから良かったものの……
はぐれたのか?」
「いえ、目的があって出てきたの」
「目的?」
月岡は自分の目的を言うべきか迷ったが、助けられた手前、話すべきだと判断する。
「大切な人を探して――きゃ」
車が急にブレーキをかける。
その急制動に体が前に投げ出されそうになるが、シートベルトのおかげで難を逃れる。
月岡は何事かと木村を見ると、彼は凄い汗をかいていた。
「大丈夫?」
「ゴメンね、犬が出てきたのかと思って……
でも気のせいだったよ」
「はあ」
木村は、何事もなかったように車を再発進させる。
だがその顔は何か思いつめたような表情だった。
「あの本当に大丈夫なの?
顔色が悪いよ」
「大丈夫大丈夫」
明らかにやせ我慢であったが、月岡はそれ以上聞かないことにした。
言いたくないのなら言うべきではないのだ
「それで大切な人というは?」
「はい、大切な――弟を探しているの」
「弟?」
木村は不思議そうな声を上げる
「恋人じゃなくて?」
「えっ」
木村の言葉に、月岡は考えるも、腑に落ちたといった表情を浮かべる。
「ああ、一緒にいるところを見たことがあるのね。
あれ弟なの。
中学生なのに甘えん坊でね。
体ばっかり大きくなって、全然姉ばなれしないの」
「そうなんだ」
木村はどこか安心したような声で相槌を打つ。
月岡は知る由もなかったが、木村は彼女の事を異性として意識していたのだ。
「親も早くに亡くしてね……
『世界の終わりでも一緒にいよう』って言い合ったのに、はぐれちゃうなんて……
早く見つけないと」
「なるほど……
なら、とりあえず俺のいるコミュニティに来なよ。
たくさん人がいるし、誰か知ってるかも」
「そうね……
そこに行ってから考えることにするわ」
「じゃあそこに向かうとしよう」
そうして二人は木村のいるコミュニティに車で行くことになった。
月岡は弟のために、木村は彼女にアピールするために。
それぞれの思惑が交錯する中、世界の終わりを走り抜けるのだった。
俺は自動車免許をとるため、自動車学校に通っていた。
勉強嫌いの自分は筆記試験になんとか合格。
そしていくつかの講義を受け、ようやく実際に車を運転することになった。
緊張するけど、それ以上に楽しみだ。
そして免許を取った後は、気になるあの子とドライブデート。
少しずつ距離を縮め、ゆくゆくは恋人に……
よーし、がんばるぞ
未来に希望を膨らませながら指定された場所に行くと、担当の人が待っていた。
「こんにちは、担当の加藤です。
木村さん、よろしくお願いします」
「お願いします」
「では早速ですが、実際に運転してみましょう。
では運転席にどうぞ」
俺は加藤さんに勧められるまま、車の運転席に乗り込む。
「今回は初めての運転ということで、最初に大切なことを教えたいと思います。
木村さん、自動車運転で何が大切か分かりますか?」
「えっと、安全運転、ですか?」
「はい、正解です。
具体的には『かもしれない運転』を心がけましょう。
講義で聞いていると思いますが、車を運転する上で思い込みは大変危険です」
飛び出すかもしれない、止まらないかもしれない……
道路には危険がいっぱいだ。
「こういう事は経験してみるのが一番良い。
車を発進させてください。
ゆっくりでいいですよ」
「分かりました」
加藤さんの言葉に従い、車をゆっくりと走らせる。
軌道に乗ったことを確認した加藤さんは、助手席から話しかけてきた。
「それでは前を見て運転しながら聞いてください。
これから『かもしれない運転』の練習をして言いましょう。
あそこに脇道があるのが分かりますか?」
運転に集中しながら、先の方をみると脇道らしきものが見えた。
「この練習場はとても見晴らしがいいのですが、今回に限ってあそこは家の塀で見通しの悪い脇道であるとします」
「はい」
「木村さん、想定される危険は何か分かりますか?」
「そうですね……
『あの塀の影から子供が飛び出してくるかもしれない』ですか?」
「素晴らしい」
加藤さんは嬉しそうに手を叩く。
少し大げさだと思うが、不思議と悪い気はしない。
「その通りです。
子供に限らず、バイクや車も一時停止せずに出てくることもあります」
「止まらない車がいるんですか?」
「はい、『どうせ車はいない』という思い込みによって一時停止を無視し、出てくる時があるんです。
ですので『かもしれない運転』は大事なのです」
「なるほど、そういう事もあるんですね」
なんか車を運転するのが怖くなってきたな……
「歩行者も運転者も、事故をしてしまっては不幸なだけですからね。
常に最悪を想定していきましょう」
「『最悪』ですか?」
「最悪を想定しておけば、いざそれが起こっても冷静に対処ができますからね。
滅多に起こる事ではありませんが、しかし無いわけではありません。
備えは大事ですよ」
「なるほど」
滅多に起こらないが、だからこそ準備が大事なのか。
心に刻んでおこう。
「では悪い方向に、最悪を考えていきましょう」
「悪い方向?」
「はい、これは練習です。
いろいろ想定していきましょう」
「と言っても他に出てくるものありますか?」
「ありますよ」
「例えば……」
「例えば?」
「例えば、の道路の影から元カノが出てくるかもしれない」
思わずブレーキを踏む。
今なんて言った?
「ダメですよ木村さん、元カノに反応してしまっては……
まだ未練があると思われますよ」
「そういう事じゃなくって、え、元カノですか?」
「はい、世間は狭いのです。
元カノが脇道が出てくることもあります」
「確かにそうですけど……」
確かにありえなくもないけどさ。
「もし急ブレーキをかければ、元カノがこちらに気づき警察を呼ばれます。
別れた男が付き纏っていると……」
「やけに解像度高いですね……」
「経験しましたから」
「えっ」
「私が若い頃、そんな経験をしましてね……
私は想定不足で警察を呼ばれてしまいましたが、木村さんには悲劇を経験して欲しくないんですよ。
では次行きましょう」
加藤さんの指示で、再び車を走らせる。
「次は……
対向車線から車が来ます。
何が起こると思いますか?」
「車がはみ出してくる?」
「いえ、対向車線の車に、今カノと知らない男が仲良さそうにドライブしています」
「えっ」
思わず、木村さんを見る
「ダメですよ、よそ見をしては……」
「すいません」
前に視線をもどす。
一瞬であったが、自分の車が車線からはみ出していた。
わき見は危ないと知っていたが、その意味を身を持って体験した。
「木村さんは一瞬でしたが、私はがっつり見てしまいました。
その結果、道路のガードレールにぶつかり、警察にお世話になりました」
「はあ」
この人、異性トラブル多いな。
「ガードレールがあったので、人を轢かずに済みましたが、どこにでもあるわけではありません。
気を付けてくださいね」
「わ、分かりました」
怖い。
車の運転じゃなくて、加藤さんが怖い。
よく教習員なれたな。
あ、反面教師的に雇われたのかな?
俺がいろいろ推察しているのも知らず、加藤さんは次の言葉を続ける。
「次行きますね。
そこの交差点、信号が赤になったことにして停止してください」
「はい」
俺は停止線の手前で止まれるようにブレーキをかける。
だが停止線のかなり手前で止まってしまった。
意外と難しいな。
「初めての時はこんなものです。
さて、そこに商業ビルがあるとしましょう。
想像してください」
「はい」
「その商業ビルには大きな液晶モニターがついてます。
あなたは信号待ちの間、そのモニターを見ています。
さて想定される『かもしれない』は何でしょうか?」
「うーん。
見過ぎて信号が変わったことに気づかないとかですか?」
「いいえ、『モニターに自分が推しているアイドルの結婚記者会見が流れる』です」
「それは……きついっすね」
「私はそれを見て激しい動機に襲われ、最終的に救急車で運ばれることになりました……」
本当にトラブル多いな、この人。
不安になって来たぞ。
「そんな時どうすればいいか、分かりますか?」
「ええと、分かんないです」
「ハザードランプを出し異変を知らせ、ハンドブレーキをかけて、車が動かいないようにします」
「あ、見た後の対処なんですね」
「こればっかりは避けられませんからね」
「そりゃそうですけど」
さすがにこれは違うような気もするが……
しかし、急に心臓発作が起こり、運転できなくなるという話は聞いたことがあるので、この事は覚えていていいのかもしれない
「それで次なのですが――」
その後も講習は続き、加藤さんから『かもしれない運転』を教え込まれたのだった。
◆
数か月後、無事実技試験に合格し、免許を取ることが出来た。
意外であったが、加藤さん直伝の『最悪が起こるかもしれない運転』はなかなか役にたった。
こうして初心者マークでありながら、どんな危険にも対応できるよう運転できるのは加藤さんのおかげだろう。
感謝してもしきれない。
あとは経験だけだと、自宅周辺の道路を練習がてら走っていると、物陰から出てくる人影が!
「あれは!」
物陰から出てきたのはだれであろう、気になるあの子。
しかも、仲良さそうに男と腕を組んでいる。
とんでもない物を見てしまった。
俺は二人を目線で追いかけそうになるも、すぐに気を取り直し前を見る。
最悪を想定してよかった。
もし、最悪の想定訓練をしていなければ、動揺し事故をおこしていたことだろう。
危ない危ない。
事故は回避した。
だが自分の心にはくすぶった感情があった。
この状態のまま運転するのは危ないと判断し、休むことにした。
こういうとき、どうすべきかも加藤さんから教わっている。
俺は他の車の邪魔にならないよう、道路のわきに車を寄せる。
安全な場所に、ハザードランプを点けてハンドブレーキをかけて停止。
安全を確保した後、車内で一人呟く。
「いや、最悪の気分だわ」
車の中でちょっとだけ泣いたのだった。