「メアリー、ほら捕まえてみろ」
「走ると危ないですよ、クリス坊ちゃん」
私の名前はメアリー。
クリス坊ちゃんの屋敷に仕えるのメイドです。
今日も坊ちゃんは、私たち二人以外いない庭で走りまわります。
坊ちゃんは私の事をいたく気に入っているようで、遊び相手にいつも私を指名します。
私の事を姉と思っているのでしょうか?
とても光栄なことなのですが、遊び盛りの坊ちゃんの相手は大変です。
今日も私は汗を拭きながら、坊ちゃんの後を追います。
それにても、こんな暑い日差しの下だというのに、坊ちゃんの元気は衰えることを知りません。
この年頃の子供は、どこにそんなエネルギーをもっているのでしょうか?
衣替えをしたからでしょうか。
前から『動きにくい』と言ってましたから、半袖になったのが嬉しいのかもしれません。
坊ちゃんが嬉しいと、私も嬉しくなります。
なので一緒に喜びたいのですが、
ですが、最近私に悩みが出来てしまいました。
どうも私、最近坊ちゃんの事が好きになってしまったようなのです。
もちろん異性として。
身分の違う、年下の男の子に、です。
こんなこと誰にも相談なんてできません。
もし主人にばれようものなら、きっと屋敷から追い出されてしまうでしょう。
私はずっとこの秘密を抱えて生きるのでしょう。
ですが、いつまで内緒に出来るでしょうか……
今だって、坊ちゃんの半袖から延びる白い腕が、とても妖艶に見えて仕方がありません。
そして、あの腕にかぶりつきたい衝動に駆られます。
煩悩を祓うべく頭を振るも、その欲求かが消えません。
私、これからどうすれば――
「メアリー?
どうかした?」
呼びかけられて、ハッとします。
どうやら考え事に夢中になりすぎたようです。
すぐそばには、心配そうに私を覗き込む坊ちゃんの顔がありました。
坊ちゃんに心配をかけないよう、にこりと笑いかけます。
「大丈夫です。
ご心配をおかけしました」
「本当に?
悩みあるの?
もしかして他の使用人に苛められた?」
坊ちゃんは真剣な表情で私を見つめてきます。
まっすぐな瞳に見つめて、私の心臓はドキリと高鳴り、頭もカーっと熱くなります。
まっすぐ立っているのも辛いですが、坊ちゃんに悟られないよう笑顔を保ちます。
「誰?
僕のメアリーをいじめたのは誰なの?」
「大丈夫ですよ、坊ちゃん。
いじめられていませんから
ただ、その、疲れただけです」
「本当に?」
「はい」
私はなんとか誤魔化そうと試みます。
さすがに「坊ちゃんに見とれてました」なんて言えません。
あえて言うことで仲を深めるというテクニックがある、と友人から聞いたことがありますが、私にそんな度胸はありません。
「分かった……
でもいじめられたらすぐ言うんだよ」
「はい」
坊ちゃんはまだ不審げに私を見ていますが、これ以上追求しないようです。
助かりましたが、無用な心配をさせてしまったようで少し心苦しいですね……
「あのさ、メアリー。
それとは別件で聞きたいことがあるんだけど……」
「はい、何でしょうか?」
「服変えないの?」
「変えないの、とは?」
「メアリーだけじゃないんだけどさ……
使用人の服って、長袖だし、生地も厚そうだし、蒸れて暑くならないのかなって」
「確かに暑いのですが、着替えられません。
これは奥様の意向です」
「お母さまの?」
「はい」
私は一瞬理由を言うことを迷いましたが、話すことにしました。
「使用人たるもの、肌の露出をして異性を誘惑するのはいかがなものか、という事です」
「……ああ、お父様は女癖悪いもんな」
「コメントは差し控えます」
さすがに旦那様を悪く言うのは憚られたのでぼかしましたが、坊ちゃんにはそれで伝わったようです。
「うーん。
でもさ、やっぱり見てて辛そうなんだよね。
よし、僕がお母さまを説得するよ」
「いえ、そこまでしていただくわけには……」
「いいんだ。
僕がしたいからするんだ。
それとも、嫌?」
上目使いで聞いてくるクリス坊ちゃん。
その目線はずるいです。
「分かりましたが、程ほどに……
奥様も辛いのです」
「大丈夫、考えがあるんだ」
◆
数日後。
「ほらメアリー、新しい服だ」
「本当に説得をされたのですか……」
坊ちゃんの行動力に驚かされます。
私は無理だと思っていたのですが、まさか奥様を説得されるとは……
「お母さまに、きちんと懸念事項を伝えたのだ。
今の時期、あの服では使用人が倒れてしまう。
使用人が倒れてしまっては元も子もないとな
お母さまは言えば分かってもらえる方なのだ」
「なるほど」
確かに言い分は正しい。
でも、それだけで説得できるのでしょうか?
問題の根幹は旦那様ですからね……
「お父様のほうは、全部男の使用人が世話することで解決した。
お父様の方からも近づかないようにと、お母さまが厳命されている」
「な、なるほど……」
私が言いにくそうにするのを察したのか、坊ちゃんは聞く前に教えてくれます。
話が早すぎるクリス坊ちゃんに感心しつつ、旦那様から迫られる可能性がなくなったことにも安堵します。
あの人の、なめるような視線が苦手なんですよね。
改めて頂いたメイド服を眺めます。
メイド服は前の物よりも全体的に薄くなっており、とても涼し気に感じられました。
これを着れば、たとえ暑い日でも楽に仕事が出来そうです。
一通り眺めた後、坊ちゃんに視線を戻すと、ワクワクしたような顔で私を見ていました。
「あの、坊ちゃま?」
「じゃあ、着替えてくれ」
「ここで、ですか?」
「そうだ。
もしかして部屋に戻る気か。
ダメだ、俺と遊ぶ時間が少なくなるだろ」
「……でしたら、後ろを向いていただけますか?」
「うん? 何の意味があるんだ?」
「向いてください」
「なんで?」
「いいから!」
「お、おう」
何が何だか分からないまま、不承不承後ろを向くクリス坊ちゃん。
女性の体に興味があるのかとも思いましたが、どうやら違うようです。
時折大人な表情を見せる坊ちゃまですが、まだまだ子供のようです。
私は、坊ちゃんが後ろを向いたことを確認して、新しいメイド服に着替えます。
実際に着てみると、生地が薄いためか、体が軽くなった気がし、ゆとりをもって作られたのか、動きやすくもなってました。
袖も半袖となっており、坊ちゃんの気持ちが少し分かりました。
気のせいか、あれほど重たかった頭も少し楽になった気がします。
「着ました」
私の言葉で、坊ちゃんは私に向き直ります。
「うん、これで動きやすくなったな。
じゃあ、遊びに行くぞ」
新しい服をきた私に何か一言無いのか?
そう思いつつも、私は坊ちゃまの後ろをついていきます。
そういえば坊ちゃんを見ても、前ほどドキドキしなくなりました。
坊ちゃんの白い腕を見ても、もうなんとも――いえ、まだ少しエロく見えますが、前ほどではありません。
ひょっとして、暑さにやれてていたのでしょうか?
なんにせよ、これで不意の衝動で坊ちゃんを襲わなくて済みます。
いろんな意味で助かりました。
「メアリー、どうした?
まだ調子悪いのか?」
坊ちゃんが心配そうな声をかけてきます。
前回はさらに心配されましたが、今日は心配させません。
私は、坊ちゃんに不敵に笑い返します。
「ご安心ください。
今の私は万全なので、全力を出せますよ」
「そうこなくっちゃ」
走り出した坊ちゃんを追いかけます。
坊ちゃんと遊ぶ間、私は決意します。
私はこの子の姉でいよう、と。
そうすれば、私の恋心はいつか消えるはず。
その思いを胸に、私は弟と遊びに興じるのでした。
天国と地獄
『まさに天国? その甘さは天使の囁き! クリームパアアアン』
VS
『地獄を味わえ! 脅威の辛さ! カレーパアアアン』
私は、パン屋入り口の前に置いてある、新商品紹介ののぼりを見くらべる。
パン屋はこの商品にかなりの自信があるようで、これでもかと新商品をアピールしていた。
そしてそれは功を奏していると言えるだろう
かくいう私も、これを食べたくてこのパン屋にやってきたから。
私は、自分が大の甘党だという自負がある。
なのでスイーツハンターである私は、常に話題のスイーツを探している。
このクリームパンも、日課のネット探索で見つけたものだ。
しかし不思議なことに、クリームパンはカレーパンと必ずセットで紹介されていた。
水と油の様に正反対の二つのパンが、である。
しかもどちらも大絶賛であった。
特に辛党がクリームパンを、甘党がカレーパンを褒めちぎるのは異常事態。
私は辛い物に興味が無かったのだが、他の人の評判を見ている内に、完全にカレーパンを食べたくなったのだった。
しかし、私も学生の身……
お小遣い事情は心許ない上、新作のゲームを買いたかったため、来月のお小遣いを前借りまでしている……
なので両方食べようものなら、来月はひもじい思いをすることになる。
ではどうしたらいいか?
ぜいたくな悩みだが、私には秘策がある。
それは――
「沙都子、どっちもおいしそうだよ。
別々に買って、半分こしよ」
『友達の財布を当てにする』である。
『お金が無いなら、友達のお金を使えばいいじゃない』by私。
それに沙都子は世界有数のお金持ち。
莫大なお小遣いをもらっているだろうから、私の心は痛まない。
けど正直、これは賭けだ。
沙都子は、これよりおいしい物なんて食べ慣れているはず……
こんなネタに極振りしたような食べ物に興味を持つか?
私は沙都子の様子を伺う。
「いいわよ」
「いいじゃん、一緒に食べようよ――えっ?」
自分の耳を疑う。
てっきり渋ると思ったのだが、まさか了承するとは……
どんな気まぐれだろうか?
「百合子も半分なんて、けち臭いこと言わないで、たくさん買いましょう。
もちろん私のおごりでいいわ」
まさかのおごり発言。
たくさん食べれる上、パン代が浮く。
友達にするならやはりお金持ちだな。
なんて言うと思ったか。
「沙都子、何か企んでる?」
そうなのだ。
沙都子が気前の良さを発揮するのは、たいてい私に悪戯を仕掛けるときである。
悪い予感しかない。
「何も企んでないわ。
大切な友人の百合子を困らせるような事、するはずがないじゃない」
しらを切る沙都子。
普段『大切な友達』なんて言わないくせに。
これは怪しい。
「それともおごりは嫌?」
「それは……?」
だが『おごり』という魅惑の言葉に心を揺さぶられる。
沙都子はイタズラこそするが、嘘をつくタイプではない。
奢ると言った以上、奢ってくれるだろう。
けれど、沙都子の『たくさん買ってあげる』という気前の発言はかなり不気味である。
私は財布の中身と、罠の可能性、クリームパンとカレーパンへの興味。
私は全ての要素を考慮し、一つの答えを導き出す。
「沙都子、奢って」
「分かったわ。買ってくるから、席取っといて
「分かった」
沙都子の悪だくみ?
そん時はその時だ。
私は沙都子の悪意に負けず、一つでも多くのパンを食べる所存である。
◆
「ほら、買って来たわよ」
「あ、ありがとう」
取った席に買ったパンを持ってくる沙都子。
だがそのパンの量が尋常ではない。
「クリームパン20個、カレーパン20個よ。
足りなかったらまた買ってくるわ」
多過ぎである。
たくさんとは言ったが、とてもじゃないが食べきれる数じゃない。
パンはかなり小さめだが、これはさすがに無理だ。
「沙都子、食べきれないし、いくつか返品しようよ」
「うーん、確かにそうね。
次から気を付けるわ」
「いや、食べきれないって」
「残りは使用人にお土産に持って帰るわ」
「……さいですか」
どうやら私の進言は聞くつもりはないらしい。
まあ、捨てるのではなく、最終的に誰かの口に入るから良しとしよう。
それでは実食。
「「いただきます」」
まずはクリームパンを食べることにする。
天使のささやきとは如何ほどか?
口に入れた瞬間、パンの甘い香りが口の中に広がる。
そして噛めば、中のクリームが口の中に溢れ出す。
あまーーーーーーーい。
これほど甘いクリームは初めてだ。
そして後味もいい。
当たりだ、また食べに来ることにしよう。
「あら、なかなかね」
沙都子はというと、これほどうまいクリームパンを表情を変えずに食べて――いや、口がほころんでいる。
どうやら気に入ったようだ。
さて次はカレーパンだ。
地獄の辛さとはどういう物だろうか?
見た目は普通のカレーパンなのだが、食べるの怖いな。
やっぱやめるか
「あら百合子。手が止まってるわ。
食べさせてあげる」
「もがあ」
私が怖気づいていると、沙都子がここぞとばかりに、私の口にカレーパンをねじ込む。
こいつ人の心が無いんか!
パンを口の中に入れた瞬間、カレーの香辛料の香りが口の中に広がる。
噛めば中のカレーが、からぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ。
いや、辛い。
辛すぎる。
発火しそうなほど体が熱くなる。
辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い―――ウマい。
辛さの果てにうまさがあった。
さっきの辛さが、最初から無かったかのような後味の良さ。
そして今日も生き残ったという実感がわいて、安心する。
こんなのもあるんだな……
くせになりそう。
また食べにこよう。
ああ、でも次はティシュがいる。
辛さのあまり鼻水が出た。
「あら、まあ、なかなか、ね」
見れば沙都子がカレーパンを食べていた。
何でもない風を装っているが、顔が真っ赤だ。
それでも食べきった後は満足したような顔をしている。
「なかなか良かったね」
「そうね」
「では口直しにクリームパンを」
あまーーーーーーーい。
クリームパンの甘さにホッとする
やはり自分は甘党だと実感する。
カレーパンも良かったが、何度も食べる物じゃないな。
「あら百合子、今口の中甘いでしょ。
口直しにどうぞ」
「もがあ」
カレーパン再び。
「からぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ」
「他のお客さんに迷惑でしょ」
「ほれは、ふりこが(それは百合子が)」
口に入れられたカレーパンを、嚙んで飲み込む。
良かった生きてる。
「辛かった? じゃあ口直しに」
あまーーーーーーーい。
「甘い? じゃあ口直しに」
からぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ。
「辛い? じゃあ口直しに」
あまーーーーーーーい。
「甘い? じゃあ口直しに」
からぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ。
「辛い? じゃあ口直しに」
あまーーーーーーーい。
「甘い? じゃあ口直しに」
から……あま?
からぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ。
交互に体験する甘さと辛さ。
ふり幅がすごすぎて味覚がおかしくなる。
おのれ沙都子、これが狙いか!
でもこれ以上は無理です!
常に口の中にパンがあって喋れないので、腕で大きく×をつくる。
「ちっ」
沙都子の舌打ちが聞こえた。
でも、さすがにこれ以上は無理と判断したのか、パンではなく水を差しだしてくる。
た、助かった。
「ところで百合子。
奢ったおれいとして一つ質問いいかしら」
「……何?」
「天国と地獄を体験して、今どんな気分?」
「……そうだね」
私は、、お腹をさすりながら答える。
「地獄かな。
食べすぎてお腹痛い」
『月に願いを』
「キャー」
草木すら眠る夜の時間、悲鳴が響き渡る。
しかし不幸なことに、ここは灯りが月しかない寂れたシャッター街。
もはや、人が住んでいるかどうかすら怪しく、誰も助けに来ないと思われた。
だが、上げられた悲鳴に颯爽と現れる人影があった。
「乙女の悲鳴は聞き逃さない。
ガクランムーン、ただいま参上。
月に代わってお願いよ」
悲鳴を聞いて駆けつけた人影――ガンランムーンが口上を述べる。
ガクランムーンは歳は40半ばほどの男性で、名前の由来になっているであろう学ランを着ていた。
しかしサイズが合っていないのか、学ランは男の体格に対して非常に小さく、見る者をドン引きさせる格好であった。
だがガクランムーンは、そんなことなど些事だと言わんばかりに、地面に座り込んでいる人物に笑いかける。
「お嬢さん、私が来たからにはもう安心です。
あなたを困らせる悪い奴は、お願いしてどこかに行ってもらいます。
その後、一緒に月に願いをかけませんか――
おや?、お嬢さんはどこに?」
「すまんが悲鳴を上げたのは俺だ」
声を発したのは女性ではなく、男であった。
そしてその男は、しりもちをついてガクランムーンを見上げていた。
風貌も、子供が泣くほどの強面で、どちらかといえば犯罪者顔であった。
「いえ、さっきの声はどう聞いても女性でしたよ」
ガクランムーンは、訝しみながら男性を見る
状況的に男の言うことに間違いはなさそうだったが、どうしても目の前の男が上げた悲鳴だとは信じられなかったのだ。
「だからスマンって。
俺、悲鳴を上げる時やたら甲高くなるんだよ。
虫が大の苦手でな、くっつかれて叫んじまった」
「虫ねえ」
ガクランムーンは、つまらなさそうに大きくため息をつく。
「ま、いいでしょう。
困っている女性がいなかったことをヨシとしましょう……
ではサラバ」
「ちょっと待て」
「なんです?
私は、忙しいんです」
ガクランムーンは、不愉快そうに男を見る。
「助けてくれよ」
「あなた男でしょう。
虫くらい一人でなんとかしてください」
「虫嫌いなんだよ」
「私も嫌いです」
「一緒に月に願いごとしてやるから!」
「それ、女性限定なんですよね」
「最低だな、お前。
くそ、自分でやるしかないか」
男は目をつむって、虫を払いのける。
見えてないので、払っている場所は見当違いであったが、最終的に振り払うことが出来た。
「終わりましたね、サラ―」
「待て!」
「……なんです?」
ガクランムーンは、またしても男に呼び止められる。
何度も呼び止められたガクランムーンの顔には怒りが滲んでいた。
「さっきは虫でそれどころじゃなかったが、お前にどうしても言いたいことがある」
「……はあ、さっさと言ってください。
私、忙しいんですよ」
渋々といった風に、ガクラン仮面は男に体を向ける。
「確認だが、お前、最近ここらへんに出没するガクランムーンで間違いないな?」
「そうです、最初に名乗ったでしょう」
「そうか」
男は、ガクランムーンの言葉にうなずき、大きく息を吸う。
「何が『ガクランムーン』だよ、この野郎!
『セーラームーン』のパクリじゃなねぇか!」」
「パクリじゃない、インスピレーション!」
「その結果がパンパンの学ランか、出直せ!」
「学生時代に着てた思い出の学ランなんですよ」
「卒業したら着ないんだよ!」
「心はあの頃のままだからセーフ」
「きもい」
「ぐは」
ガクランムーンは、シンプルだが辛辣な男の言葉にダメージを受け、ゆっくりと膝をつく。
恰好から想像つかないが、ガクランムーンは繊細なのだ。
「あなた、言っていい事と悪い事があるの知らないんですか?」
「お前みたいな変質者は言われて当然だろ。
そんな格好で恥ずかしくないのか?」
「慣れたら意外とそうでもないんですよね」
「嘘だろ……」
今度は男が呆れから溜息を吐く。
それを見たガクランムーンは、いらただしそうに吐き捨てる。
「そ、そういうあなたこそいつまで座っているんですか?
恥ずかしくないんですか」
「腰が抜けたんだよ。 助けてくれ」
「嫌ですよ!」
「あとな、さっき気づいたんだが、お前臭うぞ。
風呂入ってるか?」
「もう嫌だ」
ガクランムーンは絶叫する。
「これ以上ここにいられるか!」
ガクランムーンは、男の悪口から逃げるため、踵を返す。
「ほう、逃げるか……
俺の悪口から逃げられるかもしれないが……
他のやつから逃げられるかな?」
その言葉を合図に、物陰からたくさんの人間が出てくる。
全員警察官だった。
警察官たちは、逃げ道をふさぐように近づいてくる。
「警察!? ば、ばかな、著作権は問題ないはずだぞ」
「違うわ! やっぱりお前もパクリだと思ってんじゃねえか!」
男――私服警察官は思わずツッコむ
その後我に返った男は、コホンと咳払いしガクランムーンに自身の罪を告げる。
「お前、助けた女性に付きまとったろ。
セクハラで被害届け出てるぞ」
「すいません、反省します。
警察だけは勘弁を!」
「だめだ。
そればっかりは、月に願い事しても通らんよ」
「雨、やまないなあ……」
コンビニの中、外を見てひとり呟く。
学校から帰る途中、腹が急に痛くなったので、トイレを借りようとコンビニに入ったのだが、トイレから出てビックリ、外は土砂降りであった。
俺はため息を吐きながら、スマホを取り出し、天気予報を見る。
予報によれば、30分くらいで止むらしい。
季節外れの夕立のようだ。
だけど一つ問題がある。
傘を持ってないのだ。
最近の天気は晴れ続きで完全に油断し、折りたたみ傘すら用意していない。
傘を買って帰るべきか、このまま雨宿りするか……
懐事情が厳しい事もあり、なかなか悩ましい問題だ。
と窓の外を見ていると、向こうから走ってくる人影が見えた。
スカートなので女子校生のようだ。
彼女は、カバンを傘代わりにして走ってくる。
だが雨の勢いが強いということもあり、遠目からでもびしょぬれだった。
彼女も災難な事だ。
それにしても、あの女子校生、どこかで見たような……
クラスの女子だろうか?
そんな取り留めのない事を考えている間に、彼女はコンビニの入り口までやってくる。
「セーフ」
入ってくるなり、見当違いなことを叫ぶ女子校生。
『どこがセーフだ』
どう見てもアウトでなので思わずツッコみそうになるが、寸でのところで言葉が止まる。
なぜならコンビニに走り込んできたのは、妹の百合子だったのだ。
愛すべき、可愛い妹である。
だが、この場で百合子と出くわしたくなかった。
見つかったら面倒なことになるので、店の奥に逃げ込む。
もし百合子に見つかればどうなるか……
百合子は『お兄ちゃん大好きっこ』だ。
きっと抱き着いてくるだろう。
びしょびしょのままで……
そして俺も濡れる。
誰も幸せにならない。
一応、誤解の無いように言うが、自分は自他ともに認めるシスコンだ。
普段なら抱き着かれるののは、なんの問題ない。
むしろ抱き着いてこなければ、こちらから抱き着く所存である。
誤解無きように。
だが、いくらんでもびしょぬれの百合子に抱き着くわけにはいかない。
自分の愛はそんなものだったのかと少しショックを受けるが、緊急事態だと自身に言い聞かせる。
そんな葛藤をしつつ、百合子の動向を見守る。
はたから見れば不審者だろうが、背に腹は抱えられないのだ。
運よく濡れることが無かったので、抱き着かれるのは御免こうむりたい。
百合子が歩くたび、『グショ、グショ』と水音がする。
靴の中までビショビショのようだ。
音を聞くだけでも気持ち悪くなってくるのに、当の百合子は全く全く気にせず、お菓子の陳列棚を眺めていた。
……この前太ったと言って騒いでいたのに、また食うのか?
まあ、それは本人の勝手か。
「新作新作、チョコレート。 甘いぞ甘いぞ、チョコレート♪」
突然お菓子の前で、謎の歌を歌い始める妹。
周りの客も、何事かと妹を見ている。
他人の振りをしているとはいえ、ちょっと恥ずかしいな、これ。
妹を陰から観察していると、急に百合子が顔を上げた。
「あ……」
と間抜けな声を出して、こちらに目線を向ける。
気づかれたか?
「トイレ、トイレ」
トイレだったらしい。
俺に気づくことなく、トイレに入っていく妹。
どうやら、少しの間猶予ができたようだ。
百合子がトイレに行っている間、スマホを取り出し、もう一度天気予報を見る。
まだ雨は止まないのか?
スマホを素早く操作し、もう一度天気予報を見る。
天気予報を見れば、あと40分くらい……
え、長くなってる……
正直これ以上この場にいることはできない。
さすがにこれ以上誤魔化すのも厳しい。
こうなっては仕方がない。
予定外の出費だが、傘を買うことにしよう。
俺は入口の横に置いてある傘を手に取り、レジの列に並ぶ。
が、突然背中がぐっしょりと濡れる、嫌な感触を感じる。
ゆっくりと振り返ると、そこには百合子がいた。
「お兄ちゃん、おっす」
「……おっす、お前トイレどうした?」
「へ、見てたの? 今使用中だった」
「そっか……
でも、さすがに濡れたままで抱き着いてほしくなかったかな」
「ゴメン、お兄ちゃん見たら抑えきれなくなって……」
「ははは。 百合子らしい」
俺はなんとか愛想笑いをする。
今笑えてるよね、俺。
百合子は俺の持った傘に目線を向ける。
「傘買うんだ?」
「ああ」
「じゃあ、相合傘しようよ」
「そうだな」
多分相合傘で密着すると、また濡れることになるだろう。
だけど、俺は濡れてしまった……
もうどうにでもなれだ。
「お会計どうぞ」
レジの店員から声を掛けられる。
「じゃあ、兄ちゃんは傘買うから入口で待っててくれ」
「分かった」
そう言いながら百合子は、レジ横に置いてあるチロルチョコを、俺の前に置く。
「これもお願いします」
用事は済んだとばかりに離れる百合子。
相変わらずの手癖の悪さである。
店員は困ったような顔でこちらを見ていた。
俺にはいつもの事だが、店員にとってはトラブルみたいなものだろう。
「えっと、どうしますか?」
一緒に買うのか?と聞いている店員。
ならば答えは決まっている。
「買います」
会計を済ませて入り口に向かうと、百合子はスマホを見ていた。
百合子は俺に気づいて顔を上げる。
「雨やむの一時間後だって。
お兄ちゃんがいて助かったよ」
「そうか、ほら」
「ありがとう」
チロルチョコを渡すと、百合子は嬉しそうに笑う。
この笑顔を見れば、背中が濡らしたかいもあったと思う。
……濡れないに越したことは無いけどな。
「じゃあ、帰るか」
「うん」
降り止まない雨の中、俺たちは仲良く相合傘で帰る。
百合子は隣で『あめふり』の鼻歌を歌いながら、ご機嫌に歩くのだった。
『あの頃の私へ』
高校へ進学する際、長く伸ばした髪をバッサリ切った。
誰も知り合いのいない高校へ心機一転、高校デビューというやつだ。
知り合いなんていないから、本当は髪を切る必要なんてないんだけど、こういうのは気持ちが大事だからね。
『あの頃の私よ、さようなら』みたいな……
マア、ある種の儀式だ。
中学校時代の私は、いつも教室の隅で一人うじうじていた典型的な陰キャだった。
高校生になった私は違う。
誰とでも話が出来る陽キャに、華麗にクラスチェンジ。
目指せ友達百人。
のはずだったのに、友達百人どころか、一人も出来ず。
もともと話すことが苦手だった私に、ちょっと気合を入れたくらいで、話がうまくなるわけがない。
コミュ障の私には、どだい陽キャは無理な話だったのだ……
今日も一人寂しく、お弁当タイム。
陽の気に満ちた教室を出て、校舎の隅にあるベンチを目指す。
今から行く場所は、この時間ちょうど影になって日が当たらず、風通しも良くて居心地がいいのだ。
それに他の場所からは見えにくいことも高評価。
こういう陰気臭い場所を好むのは、やはり私が陰キャだからか?
ちょっと憂鬱になりつつ、行く途中の自販機でお茶を買う。
そして意気揚々とベンチに向かえば、なんと先客がいた。
お互い、予想しなかった出会いに、お見合い状態になる。
どちらも硬直し、何も言わない時間が過ぎる。
なんて言うべきか考え居ると、先客の彼女が口を開く。
「そこ座って下さい」
「あ、ありがとう」
彼女の勧めるまま、私はベンチの反対側の端に座る。
出鼻を挫かれたが、やることは変わらない。
あとは飯を食うだけである。
風が優しく頬を撫でる。
今日はもう一人いるが、やはりここはいい場所だ。
弁当を食べる前に、自販機で買ったお茶を口にする。
予定外の会話で喉乾いたんだよね。
くう、冷えたお茶が身に染みていく。
「あの……」
お茶を飲んでいると、声を掛けられる。
私はお茶を口に含んでいるので、顔を向けるだけにする。
「上村さんだよね」
「!」
なんで私の名前を?
知り合いか?
一瞬クラスメイトかと思ったが、見覚えが無い。
クラスメイトの名前は一致していないが、これだけは断言できる。
ネクタイの色を見る限り、同学年であるみたいだが……
「私、中島です」
中島、中島……
駄目だ。
全く思い出せない。
自分の事を、一方的に知られていることに、少し恐怖を感じる。
この子、いったい何者?
「上村さんに前から聞きたいことがあって」
私が悩んでいる間も、中島さんの話は続く。
ほとんど初対面だと思うけど、そんな相手に聞きたい事ってなんだろう
私は動揺する心を落ち着かせるため、もう一度お茶を口に含む。
「なんで髪切ったの?」
「ブフッ」
あまりにも予想外の質問に、私は口に含んでいたお茶を噴き出す。
入学前の私を知ってる!?
この子いったい何者?
「上村さん、髪長かったよね。 肩まで伸ばしてた」
「うん……」
「似合ってたのに、なんで切ったの」
「えっと、飽きたから、かな」
さすがに高校デビューとは言えぬ。
詮索されたくないので、こちらからも質問する。
「えっと、ゴメン、中島さん。
どこかで会った?
全く思い出せないんだけど……」
と私が聞くと、中島さんの顔が赤くなっていく。
やっぱ忘れられてたらショックだよなあ。
「ゴメンね、私記憶力悪くて」
「えっと、違うの。
話すのがこれが初めてだから、知らなくても仕方ないの」
「どういう事?」
「私、上村さんのファンで……」
「ファン?」
ファンだって。
私にファンがいたとは初耳だ。
「中学校の時、上村さんの体育の時の姿を見て、カッコいいなあって思てって」
『中学の時』というからには同中か。
それにしても、体育の授業ね。
私は自慢じゃないが、運動神経は良い。
体育の授業では、割と頼りにされていた。
クラブにも入ろうかと思ったけど断念した。
コミュ障の私に、チームプレイが出来るとは思えなかったのだ。
「体育の時の上村さん、本当にカッコよくて。
他の運動部の子と、対等に渡り合って、みんなでカッコいいって噂してましたもん。
多分私以外にもファン居ますよ」
なん、だと。
恥ずかしさと嬉しさがごちゃ混ぜになった感情を抱く。
てっきり私の事を、体育の時に調子に乗るオタク野郎と思っているとばかり。
あの頃の自分に教えてあげたい。
そうすれば陽キャの仲間入り――は無理だな、うん。
「それでですね。 卓球やりませんか?」
「え、なんで?」
話の流れを無視して、いきなりぶっこんで来た。
なんでそうなる?
「私、卓球部なの」
「ああ、それで……」
なるほど、私の運動神経を見込んで勧誘か……
普通なら『めんどくさい』で断るのだけど。さっき褒められてしまったので、結構まんざらでもない。
「でも私素人だよ。大丈夫なの?」
「大丈夫。 部員は私も含め、高校からの人間しかいないからね」
「……それ、別の意味で大丈夫なの?」
まあ、経験者がいないなら、練習もきつくなく、楽しくやれるかもしれない。
それに友達百人計画は、まだ完全に諦めたわけではないのだ。
「うん、分かった。いいよ」
「それでね。 私とペアを組みませんか?」
「いやいやいや」
この子、ファンって言ってたけど、距離の詰め方えぐいな。
もしやがガチ勢というやつか
「あの、卓球のこと知らんけど、もう少し様子を見て決めるもんでは?」
「大丈夫、みんな下手すぎて誰と組んでも一緒なの」
「とんでもないトコだな……」
早まったかなと、少し後悔する。
「そんな感じなので、上村さんならすぐレギュラーですよ」
「分かったよ。
ま、楽しくやるさ」
◆
そんな安請け合いをした後、私たちはペアを組み、練習を積みかさね、そしてインターハイで優勝しました。
高校を卒業した後も、大学に入った後も卓球で大活躍……
今ではプロの卓球の選手になりました。
もしあの頃の私へ言っても、絶対に信じないんだろうな。
今でも夢じゃないかと疑ってるもん。
本当、人生って分からんね。