「嬉しい」「楽しい」「幸福感」といったプラスの感情より、
「不安」「悲しみ」「後悔」「嫉妬」や「憎しみ」といったマイナスの感情の方が人の心を捕らえてなかなか離さないものらしい
特に「憎しみ」は、生涯に渡ってその人の人生に纏わりつくこともある
けれど、このどれもが実体の無い、形の無いもので、それはその人自身の心が作り出すものなのだ
もちろん、高価な金品や見目麗しい容姿といった実体のあるのもに心を奪われることもあるけれど、
形の無いものにまるで支配されるように感情を揺さぶられたり、極端な行動に出たり、結果として人生を誤ることがあるなんて何と愚かなこととも思ってしまう
人間とはそんな愚かな生き物なのだ
願わくば、これらの形の無いものに捕らわれることなく軽やかに生きていきたいものだ
『形の無いもの』
子供の頃、近所の公園のジャングルジムのてっぺんへ登ることは、どこかステイタスを感じることだった
自分より年上の子たちが当たり前のようにサッサと上に登り、実に気持ち良さげな顔で持って上がった紙ヒコーキを飛ばしたり、ピーピーと音の鳴るラムネをそこで食べたりしていた
同じ歳の子が次々と登る中でも、臆病な私はなかなか挑戦する気持ちさえ準備しきれずに、ただただ羨望をそのてっぺんに向けていた
「早く登って来ればいいのに」
という視線が、皆が見ている…と余計に私を躊躇させた
ある日、ようやく決心しててっぺんへ上がる事が出来た日、とても大人になった気分がしたことを良く覚えている
「こんな景色だったんだぁ…
こんなに高かったんだぁ…」
と達成感でいっぱいな気持ちでそこで感じた風は特別心地が良かった
あれだけ怖かった気持ちは、登ることに精一杯ですっかりどこかへ行ってしまっていたが、てっぺんの心地よさをゆっくり味わい、いざ降りようとした時、降りるための勇気を使い果たしてしまったことに気が付いた
どうやって降りて良いか分からない
下を見下ろすと改めてその高さを実感した
「ここにまず足を置きな」
と、友達が教えてくれる
ジャングルジムのバーにしがみつくように腕を絡めながら、足を降ろしていく
「目を瞑っちゃダメだよ」
と友達が叫ぶように下から声を掛けてくれた
登るより降りる方が数倍怖いことを、その時初めて知った
さっきまでの心地よい風は、ただ恐怖心を煽る冷たい風に感じられた
そんな記憶が鮮明に思い出される
あの時も臆病だったけれど、大人になって益々臆病になった
経験が増えた分、何かをやる前に起こるだろう数々のことが脳裏を過る
だから益々臆病になるのだ
子供の頃、何かを成し遂げた先のことまで想像出来なかったから挑戦出来たように、
もう少し心が無防備であれば、今からでも何かに挑戦出来るだろうか…
ジャングルジムに挑戦した勇気
とても良いことを思い出した
『ジャングルジム』
『人生』という名の列車を途中下車しようと思ったことが幾度か、ある
その度に
「今じゃないんじゃない? このまま大人しく乗っていたって、いつかは必ず終点に着くんだ
そんなに先を急がなくても、これからまだまだ出会うだろう美しい景色を見ないなんて勿体ないよ」
という声が私をその場にとどまらせてくれた
辛く苦しい時、嬉しくて舞い上がりそうな時、日々の何かの折に聞こえてくる声
励ましだったり、叱咤だったり、賞賛だったり、共感だったりの声がどこからともなく降りて来るのだ
きっとそれは、私が誰かに掛けて欲しいと無意識に欲している声を、どこからともなく降りてきた声として聞いているのだろう
ここで言葉を綴り始めるきっかけも、
「書いてみたらいいじゃない」
と言う父の声だった
その半年前に他界した、物を書くことを生業のひとつとしていた父
生前父から書くことを勧められたことは一度も無かったが、何気なく父に送ったメールに
「なかなか良いじゃないの」
と珍しく感想をよこした
そんな父の声が聞こえた気がして、今もこうして綴っている
父の言うところの「書く」にはまだまだ程遠く、ようやく文字を羅列し始めたところだけれど、
いつか
「なかなか良いじゃないの」
と言う父の声が聞こえる日を楽しみに、文字を並べていこうと思う
『声が聞こえる』
「自分の人生にこんな日々が訪れることなど想像すらしたことも無かった
年が明ければ初孫も誕生予定の、もはや人生の晩秋を迎えているこの私に春が訪れているのだ」
柊子は今にも溢れ出しそうな心のときめきを、冷静さを取り戻すためにこうして度々自分が非日常の状態にあることを自分に言い聞かせるように思い起こしては原点に立ち戻る努力をしている
そうでもしなければ糸の切れた凧のように、パンパンに空気の入った風船のように舞い上がって行ってしまうだろう
彼との出会いは、区の公民館で行われている「手話講座」だった
彼はそこに講師として招かれていて、柊子はボランティアでその講座のアシスタントとして通っていた
ある日、次回の講座の資料作りをしている際に柊子がちょっとしたアイデアを思い付くと、彼が「それはいいね!」と満面の笑みで賛成してくれたのだ
よく通る、艶のある若々しい声
青年の様な清々しい屈託のない笑顔を
惜しげもなく柊子に向けた
今から思えば、それが俗に言う「雷に打たれた」瞬間だった
それまで、志願したもののそこへ通うことが何となく億劫になり始めていたはずが、一転、その日を指折り数えて待つようになり、あまり気にもしていなかった服装や化粧にも清潔感の印象を大切に心掛けるようになった
久しぶりに帰ってきた娘にも
「お母さん、最近キレイになったんじゃない?何か良いことあった?」
と冷やかされた
確かに自分でも感じていた
目には光が宿り、肌も艶やかだ
そう言えば最近更年期の辛さも忘れている
実際、それどころではないのだ
もう長いこと、自分が女であることも忘れかけていたというのに、最近の柊子は身も心も女であることを実感している
彼への思いはその講座にいる間だけに、と思っていたはずが、
今は家に居てもつい彼の笑顔や声を思い出しては顔が火照ってしまう
もちろんこの想いを彼には伝えてはいない
そんな事の出来る立場ではないし、それ以上を望んでいる訳でもない
ただ、柊子のその想いには恐らく彼も気付いているはずだ
視線を感じてふと彼を見ると、彼の熱を帯びた遠慮の無い視線が一瞬柊子をたじろがせる
弾けそうな嬉しさを悟られまいと、わざと無表情で視線を逸らすが、かえってそれが「心の高まりを必死に抑えている」ことを伝えてしまっているのだろう
どちらかが気持ちに触れるような言葉を吐けば、「始まってしまう」ことをお互いヒリヒリと感じ取っているからこそ、あえて何も言わずに過しているのだ
お互い待つ人の居る身、始まった日から終わりに向かうしかないことを
人生の晩秋を迎えた柊子も彼も分かり過ぎるほど分かっている
だからこそ、このままで、恋したままで、この体中が疼く様な感覚を楽しんでいたいのかも知れない
柊子自身夫婦仲はいたって良好で、夫にも不満は無い
それでも、雷に打たれる時は打たれるものなのだ
不思議とこんな想いを夫以外の男に抱いていることに罪悪感は無い
それは夫に対しても、家から一歩外に出た後のことは考えないようにしているからかも知れない
それは「信頼」という言葉で柊子の心は処理しているが、それが愛なのだと思っている
夫にだって恋心のひとつやふたつはあるだろう
それは人生の彩りと言うものだ
愛はおおらかなのだ
この先、彼との間に何かが生まれるのかどうかは分からない
ただ、自分の人生が再び色づくことなど無いと思っていた日々に起った奇跡にしばらく身を委ねたいと柊子は思っている
人生はまだまだ長い
『秋恋』
夜の帳が落ち始めると、彼はやって来る
チラホラと灯り始めた街の明かりを背に受けながら、彼はやって来る
指先から足元から私の体に絡みつくように彼は私の体を包み込む
待ちに待った彼との逢瀬の時間は毎回こうして始まるのだ
春には少し肌寒い空気に身震いしながら夜の桜を楽しみ、
夏には夜の海へ小さな小舟で繰り出してみたりする
秋にはくっきりと空に浮かんだ月を並んで見上げ、月明かりが眩しいほど美しい彼が愛おしい
冬には着ぶくれして大きくなった私を更に大きな体で彼が覆いかぶさって来る
そのどんな時でも私達は離れる事はなく、迫り来る別れの時までの濃密な時を紡ぎ合うのだ
こんな私達を引き裂けるものは存在しない
例えお互いが別れを決意したとしてももはや、それは不可能なほど私達の絆は深く強い
唯一、私達を分かつもの…
それは夜明け、だ
私達の逢瀬は日が落ちてから夜が明けるまでの間の、日の目を浴びることのない睦みなのだ
空が白み始めている
夜が明ける
どれだけすがって泣いても、あれほどまでに私に纏わりつくように私と重なり合っていた彼は、淡々と、未練ひとつ残さず去っていく
「また、明日も会える?」
そう呟く私に彼は言う
「天気次第だね」
幾度交わした言葉だろう
私はこの夜明け前の時間が恨めしい
そんな彼を世の中では、『影』と呼ぶらしい
『夜明け前』