「自分の人生にこんな日々が訪れることなど想像すらしたことも無かった
年が明ければ初孫も誕生予定の、もはや人生の晩秋を迎えているこの私に春が訪れているのだ」
柊子は今にも溢れ出しそうな心のときめきを、冷静さを取り戻すためにこうして度々自分が非日常の状態にあることを自分に言い聞かせるように思い起こしては原点に立ち戻る努力をしている
そうでもしなければ糸の切れた凧のように、パンパンに空気の入った風船のように舞い上がって行ってしまうだろう
彼との出会いは、区の公民館で行われている「手話講座」だった
彼はそこに講師として招かれていて、柊子はボランティアでその講座のアシスタントとして通っていた
ある日、次回の講座の資料作りをしている際に柊子がちょっとしたアイデアを思い付くと、彼が「それはいいね!」と満面の笑みで賛成してくれたのだ
よく通る、艶のある若々しい声
青年の様な清々しい屈託のない笑顔を
惜しげもなく柊子に向けた
今から思えば、それが俗に言う「雷に打たれた」瞬間だった
それまで、志願したもののそこへ通うことが何となく億劫になり始めていたはずが、一転、その日を指折り数えて待つようになり、あまり気にもしていなかった服装や化粧にも清潔感の印象を大切に心掛けるようになった
久しぶりに帰ってきた娘にも
「お母さん、最近キレイになったんじゃない?何か良いことあった?」
と冷やかされた
確かに自分でも感じていた
目には光が宿り、肌も艶やかだ
そう言えば最近更年期の辛さも忘れている
実際、それどころではないのだ
もう長いこと、自分が女であることも忘れかけていたというのに、最近の柊子は身も心も女であることを実感している
彼への思いはその講座にいる間だけに、と思っていたはずが、
今は家に居てもつい彼の笑顔や声を思い出しては顔が火照ってしまう
もちろんこの想いを彼には伝えてはいない
そんな事の出来る立場ではないし、それ以上を望んでいる訳でもない
ただ、柊子のその想いには恐らく彼も気付いているはずだ
視線を感じてふと彼を見ると、彼の熱を帯びた遠慮の無い視線が一瞬柊子をたじろがせる
弾けそうな嬉しさを悟られまいと、わざと無表情で視線を逸らすが、かえってそれが「心の高まりを必死に抑えている」ことを伝えてしまっているのだろう
どちらかが気持ちに触れるような言葉を吐けば、「始まってしまう」ことをお互いヒリヒリと感じ取っているからこそ、あえて何も言わずに過しているのだ
お互い待つ人の居る身、始まった日から終わりに向かうしかないことを
人生の晩秋を迎えた柊子も彼も分かり過ぎるほど分かっている
だからこそ、このままで、恋したままで、この体中が疼く様な感覚を楽しんでいたいのかも知れない
柊子自身夫婦仲はいたって良好で、夫にも不満は無い
それでも、雷に打たれる時は打たれるものなのだ
不思議とこんな想いを夫以外の男に抱いていることに罪悪感は無い
それは夫に対しても、家から一歩外に出た後のことは考えないようにしているからかも知れない
それは「信頼」という言葉で柊子の心は処理しているが、それが愛なのだと思っている
夫にだって恋心のひとつやふたつはあるだろう
それは人生の彩りと言うものだ
愛はおおらかなのだ
この先、彼との間に何かが生まれるのかどうかは分からない
ただ、自分の人生が再び色づくことなど無いと思っていた日々に起った奇跡にしばらく身を委ねたいと柊子は思っている
人生はまだまだ長い
『秋恋』
9/22/2024, 3:04:50 AM