金も褥も甲斐性もないアンタにむりくり連れ去られて辿り着いた一際下水臭い河川敷の便所は、あたしが初めて女になったところなの。
ひとり酒など呷って子どもに還る月夜は、あの日のアンタの不器用な息遣いが思い出されて尚辛くなるばかりね。
あの河川敷は、ずいぶん前に一度台風で川が氾濫してね。
それから高い堤防が築き上げられて、血税叩いてテニスコートが整備されたりしてね。
だのに、あの古ぼけた便所だけそのままの顔つきで残されてしまってさ。
大きく変わったのは巷の治安がすこぶる良くなったようで、あの下水臭さが幾分風にまぎれて鈍くなってしまったことかね。
流水のか細い手洗い場で脹脛を洗って。
付け方もわからない橙色のスキンの封を切って。
建て付けの悪い内鍵を片手で抑えながら。
幾重に忍び込んだ真夜中。
よく分からないまま連れ込まれた真夜中。
快楽などない、ただそこにある安堵感と。
何度も何度も便器にゲェを吐き出しながら。
ある日。ウチを訪ねてきたアンタの父親が、あたしの顔を見るに散らかった禿げ頭で土下座を繰り出して。
頼むから、どうかふたりの未来のために、どうか考え直してください。
あたしの脚にしがみついて何度も何度もそう繰り返す中年太りの身体が酷く汗ばんでいる。
アンタの将来もきっとこうなるのかしら。
アンタはあれきり姿を見せないし、風の噂で耳に入ってくるのはあたしのシマリが悪いという愚痴話。
父親は強張った手で万札数枚を押し付けてくる。
アンタの名前を唱えながらあたしは張り詰めて窮屈なお腹をさする。
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あれから色々あって、あたしは高校を辞めて出稼ぎの毎日でさ。そろそろ苦しくなってきたとこなのね。
来週この街にも史上稀な大雨が降るらしい。
堤防は年月を経てとうにヒビ割れている。
ニュースでは窓ガラスが割れないよう養生テープを貼れと報せている。
そういえばあたし、このあいだ河川敷でアンタの父親が幼い少女を連れて睦まじく歩いてるのを、見たのね。
見間違いじゃない、アレは確かにアンタの。アンタの父親で。
来週にはきっと、総てを呑み込んで雨は降り頻るだろう。
-欲望
昔馴染みの酔い客から極めて達筆で手紙が寄越せられる。
ランプの下でも分かるほど焦げ色の派手な顔をしていたあなたから、前略で始まりかしこで終わる文をもらうとは、思わなんだで戸惑っている。
もう何年も会えていないのは、触れてはいけない事情があるのかと思っていた。
嫁いだ先は随分とご立派で、目まぐるしい日々の中で、こうして束の間を見つけて文を認めてくれたのだね。
聞いたことないような風靡な時候をどこで覚えたの。
ほんとはあの馬鹿騒ぎは大嘘で、あたしを楽しませようとバカを精一杯担ってくれていたのだろうか。
でもね、御身お大事に、なんてこの仕事選んだ奴には掛けてはいけない心苦しいひとことだわよ。
御身お大事に、それは私があなたに伝える言葉です。
送り元を見るに決して遠くはないけれど、電車で20分の距離が今では外つ国のように遠いね。
束の間を邪魔しないように本題から入る手紙を返すことをどうか赦して。
あなたの好きな酒で濡らした切手を貼ります。
お代わりなければいいけれど。
遠い街で-
未明に。遠雷を遮ってサイレンの音。
古ぼけた鉄筋のアパート。203号室。角部屋。南西向。
出しっ放しのシャワーからむせ返る悪臭の湯気。
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故:木沢こずえ。享年:22歳。職業:ホステス。
自宅ユニットバスでの失血死。死後7日前後。自殺と断定。身体の一部は湯に溶け出し排水溝を詰まらせ原型留めておらず。
第一発見者:砂田まあや。木沢こずえの同僚ホステス。
数日前より連絡の途絶えた仏の身を案じ訪ねる。
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クリスマスの灯りに混じってサイレンの灯りが煌々と燃えたぎっている。やがて人集りで賑やいで色とりどりのテープが飾りつけられる。
雪よりも白い雷が降っている。
メリークリスマス。メリークリスマス。
雪よりも白い車が道を塞いで停められる。
かつて酒を飲み交わした荒い木目のテーブルに小さなクリスマスツリー。
別府土産のキーホルダー。
干からびたケーキと雪よりも白い錠剤の山。
雪よりも白い人の悲しさ。
後日。古ぼけた鉄筋アパート。203号室。賃借紹介にて特記事項。
心理的瑕疵:ホステスの心中有り。
下水管に詰まった身体の一部が未だ残留しウジが沸き上がるとのこと。
木沢こずえ。
数日までは誰ひとり覚えのない悪評が駆け巡る。
華奢な女ひとりでは決して出来そうにない悪事の数々が暴かれる。
死んで良かったと嗤う面々。
木沢こずえ。
自らを語ることなく。
ただ言われるがままに語られる。
醜女。泥棒女。売女。阿婆擦。乞食。片端。
本当のことは誰も言えない。
数日経ち、その名を語る者なく。
今は誰も他人。忘れたい他人。
この世に生まれつきいなかった他人。
赦されざる他人。
他人。他人。他人。
木沢こずえ。
今は、誰も他人。
ひと通りの肌シゴトを終え深夜3時、脂臭いラーメン屋脇の外階段を上がって、看板の事切れてるのを直す気のない託児所に向かう。
先日まで派手な服を着せ込まないと見間違えるほどだったが、だんだんと毛深くなって奴と同じに右頬にだけえくぼのあることに気付いて、それからは遠目でもこの子が分かるようになった。
薬を飲む前の唯一起きていられる時間だから、懐いているとは言い難い我が子と未明まで束の間の親子を演る。
水浸しの酔い客を足蹴にする店々の軒先に、自分かと見粉う売女たちが男の首に柔らかな腕を回してどちらともなく顔を寄せ合う。華やぐ街の女衒たちもさすがにようやく手を引いて歩ける程度の子連れの女には手を出さないようだ。
時たま子を覗き込んでくる醜女の老婆に軽く会釈して、馴染みのトタン小屋の戸をくぐる。
この店には野次るマスターも客もいやしないから、大人用の椅子に座らせる。
私より先に野菜の食えるようになった我が子はサービスのオクラのおひたしを食べて少し笑った。
ママの房子さんは私のことを娘のようと言うが、私の本当の親は20くらいは下だろうね。
あたいが育てたから親に似てクズなのは気にすんなと房子さんばりの励ましが、今夜はヤケに沁みるなあ。
店の中は、母乳の頃から酒・煙草・薬キメてたからなとドッと笑う房子さんと、少し笑えない自分のふたりだけ。
娘だからって容赦しないと言い張る日もあれば、5回に1度くらいは房子さんは会計を受け取らない。
今日はそんな日だった。どういう日がそうなるのだろう。
子の手を引いてトタン小屋から表に出ると、陽が登って快晴。ネオンでは透き通って見えた遊び女の笑い皺が映えてよく見える。
空は雲が多めなくらいがちょうど良い。
物憂げな空
女「ねえさぶぅい。そのマフラー、貸して。うん、あったかい。でもちょっとくさぁい。ちゃんと洗ってるの? なんかタバコの匂いするよ。ショウって吸わないよね? 誰のだろ。違う女にも貸してんだったら許さないからね笑 うそうそジョーダンだよぉ。でもジョーダンじゃないからね。何かあったら絶対責任とってもらうから、ね。疑わしいことしたからマフラー、しばらく借りるね。うふふ、あったかぁい」
男(僕には2つ離れた姉がいたんです。親は僕が高校1年の時に事故で亡くなって、貧乏な家でしたから。姉は色々と仕事を掛け持ちして僕を大学まで送り出してくれました)
女「サユリって覚えてる? こないだ教えた。そうあの子。ケバいよね笑 でね、そのサユリがさ、テレビの人にスカウトされたんだって。今度シロウト集めた深夜番組にレギュラーで出るって話なの。なんかもうプロデューサーの人とご飯とか行っちゃってさ、すっかり芸能人ぶってるの。そんな可愛いと思う? サユリのこと。あたしきらぁい。前髪とかこーんな固めちゃってさ。でも男の人はああいうのが好きなのかな。ショウも私にああいう格好してほしい?」
男(姉はほんとに太陽のような人でした。身を粉にして働いて。いつも弱音ひとつ吐かず笑顔で。いつか恩返しがしたいと思っていました。それで最近羽振りの良い友人に頼み込んで稼げるって評判のシゴトを紹介してもらったんです。でも、それが間違いでした。いわゆるシノギってやつで、気付いたときにはもう手遅れだったんです)
女「ねー、寒いって、ば! ショウの上着貸してよ。ショウはこのパンスト、貸してあげるから笑 いらないの? 結構売れると思うよー。てか旅行行きたぁい。ショウってばバイトばっかじゃーん。そんなに働いてどーすんの? そのお金であたしにナニくれるの? ダイヤとかあたし欲しいなぁ。ねー、いつが空いてるの? 私予定見るからその日空けといてよ。最近雨続いてて嫌だよねー。早く晴れないかな」
男(やがて取り立てが激しくなって。怖くてたまらなくて、僕は逃げたんです。無断で連帯保証にしていた姉を残して逃げました。それから姉には会えていません。僕は意気地がなくて、せっかく姉に入れてもらった大学も、その時辞めてしまったんです。知らない街に流れ着いて、今はキャバレーのボーイをしています。姉には謝りたい気持ちとお金を返したい気持ちでいっぱいですが、今はまだその勇気がないのです)
女「ショウ。ショウって、ば。ねー車買いなよ。それで寒い日は迎えに来てよ。凍えちゃったらどうするの? ねー車あったら旅行とかも楽しいじゃん。ね、行こう? お金なんて貯めるよりパァと使おうよ。いまが1番大事じゃんか」
男(僕は自分なりにやってるつもりです。彼女のことも、それなりに愛しているつもりです。でもほんとは、姉がお嫁に行くと聞いた時。姉が僕からいなくなるのが寂しくて、僕は姉から何もかもを奪ったんです。ずっと僕のためにいて欲しくって。僕から離れるくらいなら、僕は姉を見殺しにしたんです)
太陽のような