もしも私が生まれなければ、もっと他に出来たことがあったよねと。
居間の母と西瓜をいただきながら、ぽつり。
まあ、それはそうよ。
母は禿げかけた髪を手櫛で揃えて視線をテレビに向ける。
子供ながらに両親のあれこれを見てきたものだけど、思えば母の気の休まる時なんてあったろうか。
私は私でしくじっていたし、姉も手術したりと大忙しだった頃。子供ながらに母の髪の薄くなっていくのをそばで感じていた。
友人やら他所の人が、誰かを離婚させるのが当たり前になってきたけれど、その話のたびに私は母を思い浮かべる。
離婚してもいいよって、声をかけたこともあった。
それでも母は離婚しなかった。できなかったとも言えるが。
母は高卒の専業主婦だから、きっと子ふたりを大学に行かせることはできなかったろう。
情けない女、と思ったことも正直ある。
もっと強ければ離婚しても生きて行けたんじゃないかとも思う。
もしもあの時離婚していれば、どうだったろうね。
居間の母と西瓜をいただきながら、ぽつり。
ふと、母が。
関根勤、見ないうちにすごい老けたわね。
という。
母はそれほど健康には気を遣わない。
あとどれだけ生きることが子供のためになるのかと歳を数えている。
歩けなくなったら、言葉もわからなくなったら。
早いとこ金を残しておさらばした方が良いと。
もしも私が強ければ、安心して長生きすることも思ったろうにね。
居間の母と西瓜をいただく。
けれどもしもを幾度と繰り返しながら、またひとつ歳を経る。
そうであってほしい、そうであり続けろと切に願う。
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些細なこと
随分と1人でいる時間を経て、現世との別れが間も無くかなとのんびり見守りながら、怯えるわけでもなく生き残っています。
できれば迷惑かけず逝きたいわ笑
などと思いますが、もしもの時はどうぞごめんしてあげてくださいね。
できればすぐ見つけてくれると嬉しいわ笑
鍵なんか閉めることも最近はしなくなりました。
気がかりなのは、今まで遺してきた思い出の品々たち。
身内はもういませんから、私が去れば片されてしまうだろうから手元に置いとく必要はないのだけれど。
捨てられてしまうくらいなら、私の手で片さなければと仕分けいると、なんだかいつも楽しかったなあと自然と涙が溢れます。
本当はずっと記念に持っておきたいのだけれど、気持ちくらい持っていけるかな。
私の魂、すぐに成仏してね。迷惑はかけたら嫌よ。
だけどお疲れ様。よくやったよ!
いつかまた会える日まで。
開けっぱなしで湿った菓子パンをひとくち含むと、どっと疲れてやがてうなだれた。
ここ数日は家でひとりだったので、毎日していた家事炊事も疎かで、未明に旦那様の容態が……と今朝連絡をもらったときは、とうに手遅れに終わっていた。
ついさっき手続きを済まして、火葬は立ち会えないから、自宅に御骨をお返ししますと言われて戻ってきた。
あたしもいい歳だからね、何かあったらご迷惑だからね。
ずうっとひとりで生きてた親友のはる子も先日こっそり逝ってしまったばかりだから、この時ばかりは酷くめげてしまって。
死んだら、はる子と住もうかななんて剽軽なことも言っていたが、こうもあっけなくひとりになるんだね。
見そめられて気付いたら式日も決められていて、あれから随分と月日も経ちました。
けれどもそれはお互いさまだったね。
子を産めないと分かって跡取りも残せず、おかあさんはああこうだ言うていたけれど、それでも飯を食わせてくれたことには感謝しているよ。
はる子は、昔は結婚しない奴はロクでもなかったけれど、最近では段々と、今は結婚しないって選択も大いにあるのだよ。それに、結婚してふたりでいた方がひとりになって何も出来なくなる奴ばかりでさ。
なるほど、と思う。そうだね、確かにはる子の言う通りでさ。
これからどうすりゃいいか、見当もつかないでいる。
随分甘えて、ひとりになる準備をしていなかった。
これからひとりでいけるかな。
そんな気持ちで、菓子パンをまたひとくち。
ドンキーコングママ曰く、別に娘にするつもりで連れ去ったでない女の素性など興味はないが、今日まで飯を食わせて寝床を与えてきた居候がついに出て行く。
ドンキーコングママ。見た目がゴリラかジャイアンの母ちゃんのようだから誰ともなく付けられた。
居候は春を売るうちに段々と近しい友人も途絶え、書類に名前を書くことを酷く怯えてクチを聞けなかったが、骨ぼねしていた体付きも少しママに似てきてチークなしでも頬がうっすら赤らんで見えた。
ドンキーコングママ曰く、今度はこっちがげっそりしそうだ、と。
自営の酒屋でホールに居候を立たせるまで、どんな日々があったのか何と無く察するが、きっとそれで今日があるのだろう。
ある程度お客みたいなのも付いてきたけれど、ママは居候を外に出すことに決めた。
生まれてこの方初めて書いた履歴書には、ママの居酒屋の名前が揃った。
大人の習わしを短時間で叩き込まれ、けれども何かあれば頼って来いと餞別を据えられて、居候は人間好きになるために世間へ出る。
ドンキーコングママ曰く、過ぎて終わるだけのはずの歳月が違って見えた、と。
涙を湛えた顔を手拭きで覆っていた。
他の人の縷言は訊かないで、貴女を諦めさせたがるものだから。
語るほどにそうだよねと、辞めるべきだと真に受けてしまうものだから。
彼には極めて良い所があるよ。と云う僕を貴女は、まだ耐えさせる気かと宣うけれど、僕だって苦しい想いの数々がある。
彼に悪いからと、もう会わないほうがと云えない甘えがある。愚かさがある。
前の男より優れた人と結ばれたいと、磨きをかける君を窺うと、恋の数は多い方が良いのだろうと思い知らされる。
僕の一生は恋一個分。渡り漕ぐ櫂はない。
彼は君のことを考えているよ。と云う僕を貴女は、理解してくれないのかと叱責するけれど、時々言い返したい想いの数々がある。
惑わされてはにかむ思い上がりがある。ふと我に帰る情けなさがある。
僕の方が君をと云ってやれないもどかしさが、海嘯のように幾度も押し寄せて薙ぎ払う。
僕の為にと云えないけれど、貴女の為の僕でいたい。
僕の一生は恋一個分。辿り着く島は二度とない。
誰とのあいだの契りもなく、諦めさせたがる世論が嵐のように鳴り響く。
それでも。僕の一生は恋一個分。舫綱は端からなくとも。
僕の一生は貴女への一個分。