《カレンダー》
「すみません。よければですが…この日に印を付けてもいいでしょうか?」
ある日、彼女がカレンダーを指さしておずおずと僕に聞いてきた。
「ええ、構いませんよ。」
闇の眷属に魅入られた者として彼女を監視している僕としては、その予定などを把握出来るのはむしろ都合が良い。
当時はそのような考えもあって、彼女の希望を受け入れた。
すると彼女はそれを聞き、それは華やかな笑顔を僕に向けてきた。
「ありがとうございます! じゃあ、失礼しますね。」
先程のおずおずとした態度から一変、心の底から嬉しそうな様子になると、カレンダーを捲ってある日付に赤いペンで花丸を書き込んでいた。
「一体その日に何があるのですか?」
不思議に思い、赤いペンに蓋をした後も嬉しそうにしている彼女にそれを尋ねるも、
「うーん…うん、秘密、です。」
と、少しはにかんだ様子でそう答えるだけだった。
今になれば分かる事だが、その日は彼女にとって本当に嬉しい特別な日なのだろう。
あの笑顔は、彼女が心底喜んでいる時の表情だ。
何か悪事を企んでいるわけでも、それを実行しようと目論んでいるわけでもない。
しかしだ。ならば、尚更分からない。
今日、壁のカレンダーを見る。
彼女の書いた花丸の日付は、3日後。
果たして、その日に何があるのか。
カレンダーの前に立ち、愛おしそうにその花丸を指で擦る彼女にまた同じ質問をするも、心の底から嬉しそうに、それでもはにかんだ様子で、
「…今はまだ、秘密です。」
そう答えられるだけだった。
その後、紆余曲折を経てその日付の秘密を知る事になる。
それはとても信じ難く、しかしそれを遥かに上回る喜びに満ちた日であった。
《喪失感》
皆で力を合わせ邪神を倒し、過去に喪われた全てを取り戻したあの時。
旅の仲間の心に住まう貴女が、元の世界へ帰る時が来た。
旅の仲間は、言っていた。
自分が貴女を呼んだのではない。
貴女が皆を、僕達を求めていたのだ。
探している大切なものは、きっと貴女の世界で見つかる。
だから、ここで別れよう、と。
彼女がその時に何を思ったのか、僕には知る術は無い。
それでも僕は心の底から彼女の幸せを願い、笑顔で今までの礼と別れを告げた。
他の仲間達も同じ気持ちだったのだろう。皆思い思いの言葉で彼女を労い、幸せを祈る言葉を伝えていた。
遥か遠い、決して交わらぬ世界。
そこで生きる貴女は今、幸せだろうか。
探しているであろう大切な何かを、無事に見つけ出せているだろうか。
闇の眷属に蹂躙され疲弊しきった帝国の復興に従事しながら、僕は彼女の幸せを願っていた。
人手も足りない。恵まれぬ環境下での日々の生活が如何に過酷かの経験も無い。
まずはそれを埋めるべく、僕は住民区の土木や建築の作業に加わっていた。
軍での訓練の経験も活き、作業を順調に進めながら色々な人と交流を深めた。
そこでやはり実感したのは、全ての人々の生活を良くするならば然るべき地位に就く必要があるという事。
旅の仲間にその地位が向いていると言われた時は、自分にその資質があるとは感じられなかった。
しかし、そのような弱腰では何も解決はしない。
幸いな事に、僕の家系は代々帝国に仕えてきた家柄だ。一定の地位に就く資格は十分に備えている。
そして先の邪神討伐の件もあり世間の目も上々な事も手伝って、無事に帝国の上層部に就く事が出来た。
ここまで来れたのは苦しんでいる帝国の人々を救いたいという僕自身の希望も勿論あるが、かつての旅の最中に貴女が伝えてくれたたった一言が支えにあったからだ。
『信じてます。』
未だ帝国の術に操られ邪神復活への手助けをしてしまうのではないかと己を全く信じられなくなっていた僕に、旅の仲間の中に住む貴女は彼の中で真っ直ぐに答えたそう。
それだけではない。
彼女は、僕が今まで受けた心の傷から無意識に敵にそれを爆発させてしまうという暗く重い部分まで受け入れてくれた。
旅の仲間が言うには『むしろそこがいい』との事だったらしく、他の顔ぶれは入れ替われど戦いはずっと僕に任せてもらえていた。
どうしてそこまで僕を受け入れてくれたのか、その理由は全く分からない。
それでも無条件で僕を信じてくれる人がどこかにいるという事実は、家族も乳母も全て喪った僕には途轍も無く大きな支えだったのだ。
そして、あの別れからちょうど一年が経過した時。
僕は、気が付いてしまった。
そのどこかというのは、決してこの世界ではないのだと。
貴女がどこかで呼吸をしていても。何かを見ていても。
咲っていても。
強く望んでも、それを見て感じる事は叶わないのだと。
知っていたはずだ。分かっていたはずだ。
理解していた上で、あの時僕は笑顔で彼女の幸せを願い、別れを告げたはずだ。
それだけではない。そもそも彼女とは決して出会う事は叶わないのだ。
旅の最中も仲間の口を借りて話せただけで、姿形すら知らない。
なのに何故。どうして今、それに気が付いてしまったのか。
僕の目からは、涙が一粒零れた。
それは、心の奥底から溢れ出した喪失感の代わりのように。
たった一粒。
だが、喪った大事な人達を悼んで以来泣く事がなかった僕にとっては大きな一粒だった。
その一年遅れの喪失感から、更に二年後。
彼女を名乗る少女が現れた。
ただし、闇の眷属に魅入られた者と同じ髪と瞳の色を持って。
どこからその情報を手に入れたかは知れないが、もし帝国を、世界を害しようものなら容赦はしない。
しかしその行動からは、全く忌まわしさを感じられない。
それどころか、僕に対する真摯な信頼さえ感じられる。
どうしてそこまで、この僕を信用するのか。
帝国復興への忙しなさか賑やかになった生活故か、心の喪失感は薄れてきている。
今は帝国の、世界の未来を守るため、僕は自らの信念を直走る。
気が付けば必ず、その少女の笑顔を連れ添って。
《世界に一つだけ》
ポケットから取り出した、銀杏の葉。
今日彼が私の髪に付いてたこの葉を、そっと摘んで取ってくれた。
私はついそれを受け取って、ポケットに入れてしまった。
彼が私の頭に手を伸ばした瞬間が嬉しくて、それを忘れたくなくて。
家に着いてすぐ、私は銀杏の葉を大事に古紙に挟んだ。
そして、上からそっとアイロンで熱を与えつつ押さえる。
銀杏の緑をそのままにするため、丁寧にムラのないように熱を加えて平らにしていく。
そうして綺麗に水気が抜けて厚みが取れた銀杏の葉を、綺麗な紙に乗せて糊付けする。
まだ緑の銀杏の葉によく映える、薄いレモンイエローの紙。
糊が乾いたら、それを透明なシートで包んで上の部分にリボンを付ける。
リボンは、赤。あなたの髪色にとても良く似た、暖かい赤。
出来上がった栞を見て、私は目を細めた。
あの時ほんの少しだけ、彼の指が私の髪に触れた。
この緑が、その嬉しさをそのまま残してくれている。
世界で一つだけの、形になった大事な私の想い出。
《胸の鼓動》
真夏の濃い青から少しずつ柔らかくなっている空の青。
そんないい天気の今、私は彼と広場の横を通りかかった。
ここには、たくさんの銀杏が植えられている。
黄金色の金属で出来た建物達の中、ここは植物が多くて何だかホッとする。
銀杏は私の好きな樹だから、尚更なんだよね。
今日はいい風も吹いてて、銀杏達も気持ちよさそうに音を立てている。
すると、彼が入口で立ち止まって広場の中を見始めた。
視線の先には、銀杏達。
私も一緒に立ち止まって、緑のささやきに耳を澄ます。
彼がそっと広場の中へ歩き出し、優しい緑の中に佇んだ。
あなたも銀杏達に惹かれたのかな。
同じ想いなら、凄く嬉しい。
彼に着いてそっと銀杏を眺めていると、突然大きな葉擦れの音。
急に吹いた強い風にびっくりして、私は目を瞑り咄嗟に髪を押さえる。
風は少し収まったけど、銀杏達はまだざわめいてる。
髪は乱れるけど、こういう風も好きだなぁ。
銀杏のざわめきも、元気なおしゃべりに聞こえる。
あなたはどんな表情で銀杏を見てるのかな。
ふと隣を見上げると、きょとんとした彼としっかり目が合った。
銀杏を、見てるんじゃ、なかったの?
想定外の事に、私の胸はどんどん高鳴る。
彼の綺麗に切り揃えられた髪が、さらさらと靡いて彼の頬を撫でている。
銀杏の緑と木漏れ日に映える、とても綺麗な色。
いや、見惚れてる場合じゃない!
「な、何かありましたか?」
私は慌てて彼に聞いた。
何もなく彼が私を見てるはずない。何か変なところがあったんだきっと。
それでも繋がった視線を逸らす事も出来ずに、私は彼の返事を待っていた。
「…いえ! その…えっと…。」
彼にしては珍しく歯切れの悪い返事が。
さっきよりも目を見開いて、何だかわたわたしてる。
いつも冷静で落ち着いてる人なのに。
そんな様にすらドキドキしていると、彼はふと表情を落ち着け私の方に手を伸ばした。
限界まで高鳴る鼓動。私の耳上の髪にほんの少し触れる、彼の指。
「あ…その、これが付いていました…。」
そう言って私からスッと離れた彼の指には、小さな銀杏の葉が。
な、なるほど。これが気になってたのね。そうなのね。
あんなに見られてたから、何があったのかと凄くドキドキした。
本当に心臓に悪い。
「あ、ありがとうございます。」
取ってくれた銀杏の葉を受け取り、私は足元を見る。
物凄く、気恥ずかしい。
相変わらずざわざわとおしゃべりに励む銀杏達。
この葉っぱは、重しを乗せて綺麗に乾かして取っておきたい。
受け取った銀杏の葉を、ポケットに忍ばせると。
「…そろそろ行きましょうか。」
彼がスッと私の手を取り、歩き出す。
こんな事一つでも、泣きたくなるほど嬉しい。
闇の者とあなたに監視されてる私が、普通の人としてあなたに接してもらえる。
こんな幸せは、絶対に受け取れないと思ってた。
鳴り続ける、胸の鼓動。
繋がる掌から伝われ、でも伝わるな。
今はまだ、その時じゃない。
伝わってもそれはきっと、銀杏のざわめきだから。
複雑な想いに駆られながら、あなたに手を引かれて私は広場を後にした。
《踊るように》
僕は、広場横の通りを彼女と二人歩いている。
広場には銀杏の樹が植えられている。
季節により新緑から鮮やかな黄、葉が落ちた枝の慎ましくも逞しい様と、取り取りの趣を楽しませてくれる。
今は、色濃い緑が徐々に黄色に変わる支度を始める時期。
夏の高い青空に映える濃緑から、秋の優しい空に馴染む緑へ姿を変えつつある。
吹く風のリズムに合わせさやさやと揺れる銀杏達。
僕はふと立ち止まり、そよぐ緑に耳を澄まし目をやる。
彼女も僕の隣に佇み、同じように銀杏に目を向けた。
優しい風にも誘われて、僕達は広場に立ち寄る。
その空間は優しい風と銀杏の葉のささやきに満ち、心が安らぐ。
しばしほうっと佇んでいると、一陣の風が広場を吹き抜けた。
急速にグッと強くざわめく銀杏。
風の指揮を合図に、その演奏は始まった。
突然の風に驚き隣を見ると、彼女の白い髪が木漏れ日を浴び虹色に輝きながら舞っていた。
その白は、闇に魅入られた者が持つ色のはず。
しかし、風に煽られ踊るように光り輝きふわりと靡く髪を耳元で押さえる彼女の横顔は、とても清廉に見えた。
その髪が靡く横顔に、僕の胸の鼓動が鳴った。
…dansant…