《雨に佇む》
僕が買い物帰りに急な通り雨に降られ軒下に佇んでいると、屋根の裏側に小鳥が二羽止まっているのが目に入った。
彼らも雨宿りなのだろうか。その丸くて小さな身体を互いに寄せ合って時折囀る様は、非常に仲睦まじく見える。
この二羽は、番なのだろうか。
鳥も生き物としては雨に比較的強いと言えど、飛び辛く餌を確保し辛い状況はなるべく避けたい事態だろう。
こんな辛い時でも共にある相手に恵まれているのは、彼らにとっては本当に幸いだろう。
雨は、少し小降りになってきた。
降り止んだら、急いで帰ろう。彼女の待つ、僕の家へ。
《私の日記帳》
窓の外は太陽が雲で覆われて、薄暗くなり始めてきた。
私は手持ち無沙汰になった状態で、ぼんやりと外を眺めていた。
あっちに置いてきた物は、どうなってるんだろう。
いつも読んでいた本。毎日起動させていたゲーム機。
ああ、こういう時の定番って、日記帳だなぁ。
行方不明になる直前の内容が、事件の核心に触れている。
事件に繋がる描写だったり、人外に変貌していく様子が記されてたり。
まあ、私の日記は大抵三日坊主で終わってたんですけどね。
何回かチャレンジはしてたけれど。
…だからこそ、見られると恥ずかしいんだよね。
『こいつ続かないのに何冊も日記帳買って、懲りない奴だな。』
とか絶対思われてる。
それに日常の事はネットで呟いてたから、むしろそっちの方が見られたら恥ずかしいかも。
本名を使わずHNで登録してた分、本音がダダ漏れだったり。
うん。そっちの方が羞恥心で死ねる。
空は本格的に雲に覆われて、窓からはパタパタと夏の名残の雨の音。
今こうして彼の傍にいることに、後悔は全くない。
けれど、置いてきたものに心残りはほんの少しだけある。
《向かい合わせ》
今日は空も青く、明るい日の光で空気は強く温められているが穏やかな風が吹き、比較的爽やかな日だ。
自宅の僕の書斎から見えるいつもの木の根元に、彼女が座っている。寄りかかって昼寝をしているようだ。
そよ風に煽られさわさわとそよぐ木の葉と共に、彼女の透けるような白銀の髪も揺らぐ。
木陰で眠るその表情は、とても安らかだ。
すると、どこからか赤茶の縞の猫が優雅に歩いてきた。
猫は木に近付くと、それが当たり前であるかのように彼女の膝に乗り、正面から向かい合わせる体勢で腰を降ろした。
ずいぶんと人に慣れている猫だ。どこかの飼い猫なのだろうか。
その時ほんの少し彼女の頭がぴくりと動いたが、その瞼は下りたまま。
猫は、そんな彼女の顔に自分の顔を近付け、彼女の口元を小さな舌でぺろりと一舐めした。
猫の舌は、ざらついた構造をしている。
おそらくその為だろう。彼女はゆるりと瞼を半分程上げ目の前の猫に気が付くと、嬉しそうに柔らかく微笑んで猫の首筋を撫で始めた。
するり、するりと彼女の白い手が、赤茶縞の毛の上を何度も滑る。
猫も心地好さそうに目を細めると、彼女の頬に額を擦り寄せた。
彼女の表情は更に笑み崩れ、赤茶の後頭部から背中までを念入りに撫でていた。
その様子は、とても緩やかで優しくて、穏やかだ。
ふわり吹き抜ける風も、柔らかな空気を運び込むかのようだ。
ずっと見ていたくなる。そんな光景の筈なのに。
今は彼女の首元に顔を寄せ、身体を持たれかけている猫にどうしても意識が向く。
すると、心の奥に微かに擡げている想いに気付く。
あの空気に、共に包まれたい。
その想いは、あの猫と彼女の穏やかな佇まいから来る物か。
それとも、もっと違うところから来る物か。
何れは、自分の心と真剣に向き合って答えを見つける事になりそうだ。
《やるせない気持ち》
「うう…いちごが食べたい…。」
正午を知らせる鐘が鳴り響き、休憩時間に入った直後。
いつも通り本部の彼の執務室で闇の者として監視されながら過ごしている私は、今朝からのもやもやとした気持ちを吐き出した。
それというのも、昨日の夜に雑誌で見かけたいちご特集が心に突き刺さって、いちごが食べたくて仕方なくなってた。
なので、今朝の朝食は最後の一回分残されてたいちごジャムをトーストに塗ってわくわくしながら口に入れようとしたら。
手を滑らせてしまいました。
しかもテーブルの上ならまだしも、床の上に落ちちゃって。
その瞬間は、数時間たった今でもスローモーションで蘇る。
あれは、切なかったなぁ。
ジャムも切れてたし、しょうがないので今朝はチーズトーストに切り替えたんだけど、すっかりいちごを味わう気分でいたので今もそれを引きずってる。
「もう、口の中がいちごしか受け付けなくなってる…。」
もう本当にやるせない。
すると彼の机の方から、トントンと紙の束を揃えるリズミカルな音がした。
「無性に食べたいと思っていた物が食べられないのは、すっきりしませんよね。」
彼は揃え終わった書類を丁寧に机の上に置き、椅子に座ったまま軽く組んだ腕を頭上に上げて背中を伸ばしていた。
同意してもらえて心は慰められたけど、口は慰められない。頑固な味覚、辛い。
背中を伸ばし終えた彼が、椅子から立ち上がりながら私に声を掛けた。
「いちごジャムは帰りに買っていくとして、まずは食堂で昼ご飯を食べましょう。」
確かにここで腐っていても仕方がない。
私は頷いて、彼の後に着いて食堂に向かった。
今日は早めに入れたからか、昼とは言え食堂はまだ人もまばらだ。
それでも、メニューを張り出してる壁の前には兵士達の人垣が出来ている。
私は背が低めなので人垣の隙間から今日のメニューを見ようと首を伸ばすと、背の高さから先にメニューを読めた彼が私に教えてくれた。
「よかったですね。今日限定のデザートは、いちごパフェだそうですよ。」
え? 本当に?
「果物を特産としてる国から仕入れる事が出来たみたいですね。季節柄量は無いので今日のみの限定のようですが、タイミングがよかったじゃないですか。」
「はい! やった、これでいちごが食べられる!」
ふあぁ。本当、最高のタイミング!
私は昨日からのいちごの味覚を満足させられると思うと、気分が最高潮になって頬が緩んだ。
しかも、パフェ。そのままのいちごもだけど、アイスやクリームと組み合わさったいちごのソースや果肉を想像しただけで、もう幸せになれる。
メニューを見ていた彼が私に顔を向け、くつくつと笑い出した。
「先程までの意気消沈ぶりが嘘のようですね。」
だって、ねぇ。
「昨日からのいちごの味覚が満たされますからね。当然ですよ。」
なんて話をしていると、メニューを見に集まっていた兵士達の視線がこちらに集まる。
確かに彼は、あまり人前で声を上げて笑ったりしない。
真面目な彼はいつも表情はあまり崩さず、誰かと話す時も表情を和らげたり微笑みはするけれど、声を上げて笑うのは珍しいかな。
でも最近は、私が何かやらかすとこうして笑われたりする事が増えたから、私は結構慣れている。
まずはやらかすなって話ですね、ごめんなさい。
まあそれはともかく、集まった慣れぬ視線にむずむずした気持ちを抑えていると、メニューに夢中になっている兵士の声が聞こえてきた。
「お! 今日は3日煮込んだカレーだってよ!
しかも量が1.2倍のサービスだと!」
…はあぁ!?
3日煮込んだカレー! そんなの美味しいに決まってるじゃない!
「もうご飯はカレー、デザートはいちごの味覚に固まっちゃった…。」
でも、1.2倍は…少し量が多いかな。パフェと合わせて食べ切れるかどうか…。
ぽかんと口を開けながら考え込んでしまった私の横で、彼が私を見続けまだくつくつと笑っている。
もう、笑いを噛み殺してるレベルで。
「本当に…くくっ…忙しい人ですね…。」
うう。なんか、悔しい。
よし、決めた。
「カレーとパフェ、食べます! 今日の夕飯は軽めで抑えます!」
ここは私の味覚を信じる!
お残しだけは絶対にしません。頼んだからには、食べ切ってみせます。
お腹と…カロリーの事は食べ終わってから考えよう。
私は、腰の両脇で拳を握りしめた。
決意の表明、というものです。
いよいよ自分のお腹に手を当て口元に拳を添えて身体を震わせている彼は、そんな私を見て一言。
「今日の午後休憩には、軽いトレーニングを入れた方がよさそうですね。」
その瞬間、私の思考は完全にストップして、両脇の拳を緩めて脇腹を突付いた。
そんな私を見て身体を震わせ続けている彼は、もちろん軍人としての基礎訓練も欠かしていないので脇腹に余計な肉などない。
そんな私達の様子をまだ見ている兵士達からは、ざわざわひそひそという声も聞こえ始める。
それは珍しいでしょうね! 彼がここまで笑いを堪えてるとか!
現実は、厳しい。
私はまた心を襲った凄まじいやるせなさを紛らわそうと、大きく肩を落として溜め息を吐いた。
《海へ》
太陽が眠りに就き、空には夜の帳が降りる。
帳の色を映し取った海は、優しく揺れる波間に青白く輝く月の光を受けて煌めいている。
それは、黒い海に注がれる月の光が溶けていくかのようだ。
僕は、波打ち際でそんな夜の海を眺め佇む彼女の背を見つめていた。
沖からの潮を含んだ風が、彼女の柔らかな髪をふわりと靡かせる。
その白銀は、月の光に透けて仄かに青や緑に輝きながら揺らめく。
美しく、不思議な髪の色だ。
彼女は、海へ引き寄せられるように二歩、三歩と足を進める。
そして小さな足から靴を脱ぎ外すと、それを手に取り足を波に浸す。
まるで、波に声無き言葉を乗せて海に語りかけているかのようだ。
そんな幻想的な光景を目の当たりにした僕は、胸が押し潰されそうになった。
彼女が、海へ溶けてしまうのではないか、と。
あの、波間に溶ける月の光のように。
恐れに囚われた僕は、気が付けば彼女の元へ足を進めていた。
「…帰りましょう。」
声を絞り出すように伝え、彼女の存在を確かめるように髪を一房手に取る。
その指通りの良さと輝きに、確かに彼女はここにいると安堵する。
彼女はそっと振り向き、そんな僕の手を慈しむように見つめる。
そして僕の目へその瞳を合わせ、今にも泣き出しそうな、それでも嬉しそうな微笑みで頷いてくれた。