《裏返し》
喜び。楽しみ。思いやり。驚き。恥じらい。
彼女の表情はコロコロとよく変わり、それがとても心地好い。
ゲームに負けたり軽いミスをした時のがっかりした顔も、本人には申し訳ないがとても微笑ましい。
僕に新しい喜びを教えてくれ、僕の苦しみを悔しがってくれる彼女は、知らぬうちに僕の心の支えになっていたようだ。
だが、最近気付いた。
例えば。
書類の確認中にふと顔を上げれば、外の風に揺らぐ木をを見ている彼女。
読書、特に帝国の近代歴史についての本を読んでいる彼女。
夜の月を眺める彼女、それが満月に近ければ近い程。
彼女は微かにではあるがどこか淋しげで、それでも決意に満ちた表情をしている。
気付いた時に、頭を過ぎった。
彼女の普段の明るさは、何か心に置き留めた重さの裏返しではないのかと。
彼女を闇の者として監視している立場でこのように考えるのは、烏滸がましいとは思う。
それでも、何かの折には彼女のその心の重さを分け与えてほしい。
その為にも一層彼女に誠実に向き合おうと、僕は心に誓った。
《鳥のように》
彼は幼い頃に、親と呼べる人を喪った。
そして、半分血の繋がらないご兄姉からは疎まれていた。下級労働者の血が入っていると、侮蔑を込めて。
それでも彼は、ご兄姉を憎む事は決してなかった。
生まれてからずっと立派な軍人となるよう育てられ、真摯に努力をして。
邪神討伐の旅の最中で彼をずっと育ててくれた乳母…実のお母様が殺されても、悲しむ暇さえなく自分を見失わず進み続けて。
無事に討伐が叶った今は、帝国の復興に全力を注いでいる。
指導者になるのは気が進まないと彼は言っていたけれど、帝国の未来の為ならばと見えないところでも全身全霊をかけて職務に励んでいる。
そんな彼は。
「白鳥みたいだなぁ。」
執務室の机で書類に目を通している彼を見ながら、ふとそう思った。
裏でも表でも、何事にも真剣で。
でも、その苦労を表には出さずいつも穏やかで。
湖面にゆったりと浮かぶために、水中は足で水を掻く。
私は、ぼんやりとその思考に集中していた。
「どうかしましたか、白鳥みたいとは?」
気が付けば、書類から目を上げた彼が私を見て微笑んでいた。
その柔らかく細められた目と視線が合わさり、ようやく私は認識した。
また、考えてたことをぽろっと口に出してしまった事を。
「す、すみません、何でもないです!」
妙な独り言で彼の仕事を邪魔してしまった。
慌てて私が謝ると、彼は「謝らなくていいですよ。」とまた優しく微笑んで書類に目を戻した。
その一連の動作も笑顔も、私には丸い月夜に湖面に浮かぶ白鳥のように輝いてみえた。
《さよならを言う前に》
ここのところ、帝国の議会が荒れているそう。
前皇帝の派閥の一人が、彼の汚職を捏造しようと躍起になっているらしい。
彼の正義感は諸国を征服しようとしていた前皇帝の主義に合わず、彼は疎まれ左遷された事がある。
その時から嫌がらせレベルの妨害は続いてはいたけれど、今回は互いに徹底抗戦で行く構えのようで、連日彼は議会での対応に苦慮していた。
ずっとあちこちを駆け回って資料の作成や対応に追われている彼は、徐々に窶れてきているようで。
表には出さないようにしてるみたいだけど、口数も減って来ていて表情にも張りがない。
しかもここ最近は、私の事も責められているとか。
私が表れて職務が疎かになっているんじゃないか、って。
通りすがりの人に当てこすりのように言われたこともある。
私は関係ない、と彼は突っぱねてくれてるけれど、もうそろそろ限界かな。
微かにだけど苦しみを浮かべてる彼の笑顔を見ているのが、辛い。
闇の者として彼の監視を受けている私はもしかしたら、別の誰かに手渡されるかもしれない。
それならば、かつての相棒の所に行こう。
私はそう決めて相棒の許可を取り、今日はこっそり本部を抜け出してきた。
監視と言いつつ私を丁寧に扱ってくれて、ありがとう。
少しずつ私を信用してくれて、ありがとう。
今まで一緒に過ごしてくれて、本当にありがとう。
弱い私で、ごめんなさい。
これ以上、あなたの足枷になりたくないから。
あなたに迷惑を掛けたくないから。
…違う。私は、卑怯だ。
あなたからのさよならを聞くのが怖いから。
さっきまでの気持ちも、本当。
でも、あなたからその一言だけはもう聞きたくないから。
だから、ごめんなさい。
どうか、元気で。幸せでいてね。
影がもうすぐで長くなろうかという時刻。
彼との思い出がたくさん詰まった屋敷を出る。
どんな出来事も、大事な宝物。それを思い、涙が零れそうになる。
私は玄関に立ち、誰もいない屋内に身体を向けて口を開く。
さよなら。
しかし、全てを言葉にすることは叶わなかった。
最後の一文字が音になる寸前、私の身体は背後から強く抱きすくめられ、口を塞がれたから。
「それは…言わせませんよ…。」
荒く乱れた息。全力で走ったであろう、汗のにおい。
私を抱く腕は強いのに、口を塞ぐ手は言葉を紡ぐことは許さないけれど、ひたすらに優しい。
なぜ…どうして…あなたがここにいるの?
午後の議会の時間を狙って抜け出してきたはずなのに。
我慢していた涙が、堰を切って溢れ出す。
口元に置かれた彼の手に自分の掌を乗せると、彼はそっと私の口を解放してくれた。
「ど…して…?」
彼は、切らした息を整えながら答えてくれた。
「貴女の相棒に、通信機で忠告を受けました。」
『あいつから目を離してるんじゃないぞ。
何しでかすか分からないからな。』
私は、顔を彼に向け目を見開いた。
その連絡を受けたにしても、あまりにも早過ぎる。
議会は? あなたの汚職の疑いは晴れたの?
すると、彼はふっと笑って話し出した。
「議会の方は片が付きましたよ。疑惑の捏造というよりその罪を擦り付けようとしてきていたので、ありとあらゆる証拠をかき集めて徹底的に潰して来ました。」
う。爽やかな笑顔だけど、圧が強い。
これは、さぞや念入りに潰してきたんだろうな。
「貴女を引き合いに出してまで、僕の仕事ぶりを舐めていただきましたからね。どこからも隙の無い証拠を提示する事で、そちらの懸念も払拭しておきました。」
私は、その迫力に涙も引っ込んだ。
この人は、曲がったやり方が大嫌いな人だから。
解決したようで何よりだけど、これは余程腹に据えかねてたんだろうな…。
「よ、よかったです。…にしても、まだ話し合いの時間じゃないんですか?」
私は、少し吃りながら質問した。
その途端、お腹に回った彼の手に力が入った。
「そもそも議題とは関係のない話ばかりでしたからね。後は代理に任せて大急ぎで走ってきましたよ。
何せ、貴女は目を離すと何をしでかすか分からない。」
あ、え?
笑顔…なんだけど、何やら空気が不穏に。
「そういうわけなので、ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。
貴女が心配する事は何ひとつ無くなりましたので、どうぞ安心してください。」
いや心配は確かにしたけど、それは良くてですね。
あれ、これ抵抗不可とかそんな感じ?
そして、私はそのまま片腕で身体を持ち上げられると屋敷の中に連れて行かれ、懇願か説教かよく分からない話をされました。
そんなわけで。
彼を思って繰り広げた私の逃亡劇は、彼にさよならを言う前に終わりを告げました。
《空模様》
この帝国は砂漠もある地域なので、他国に比べれば気候は乾燥している。
それでも砂漠から離れている帝都は、夏でも時にはそれなりの雨には見舞われる。
終業時刻間際。
スッと窓の外が少し薄暗くなったと思えば、空からの雨粒がバラバラと窓を叩く。
「降ってきちゃいましたね。すぐに止むといいんですが。」
彼女が、窓から空を見上げて呟いた。
「まあこの季節の雨ですから、すぐに止むでしょう。」
僕は後もう一押しで仕事が片付く段階だったので、書類に目を通しながら答えた。
薄暗くなったと言っても、然程ではない。おそらく、空は雲に一面覆われているわけではないだろう。
バラバラとリズミカルな音が鳴り響く。
この国にとっては、まさに恵みの雨だ。
その優しい音に包まれながら、僕は最後の書類にサインをした。
「ふう。お待たせしました。それでは帰りましょうか。」
「はい。お疲れさまでした。」
そうして僕達は帰支度をし、二人並んで帰路に着こうと建物を出る。
その頃には雨は晴れ、考えていた通りの散り散りの雲が、所々を赤く色を染めていた。
東は雲が多めだが、西の空は薄っすら透けるような雲があるばかりだ。
歩を進め、通用門から通りへ出たその時。
「うわぁ! あれ、見てください!」
彼女が感嘆の声を上げ、西の空を指差していた。
振り向き見れば、指の先には地平線へと降りようかという太陽。
その太陽の周りには美しい光の輪、上には七色のプリズムが頂点を地平に向け弧を描いていた。
「ハロに逆さ虹…ですか。」
太陽光線の作り出す自然の神秘。
赤く染まった西の空によく映える、黄金の光の輪。
その上の少し彩度を落とした青の中で逆さに光る七色は、光の輪という的にある太陽を射止めんとする弓のよう。
同時に起こることはそうはない、自然の織りなす芸術。
僕達は暫しの間、無言でそれを眺めていた。
「…美しいですね。」
僕は沈黙を破るように、ぽつりと感想を口にする。
彼女も同じように、ぽつりと言葉を口にした。
「うん。明日も何かいい事ありそう。」
いつもとは違う、言葉遣い。
ハッとして、僕は隣の彼女を見る。
そこには心の底から気を緩めたような彼女が、真っ直ぐな目で自然の芸術を見つめていた。
「…そうですね。」
ほんの少し浮足立つような、それでも気が引き締まるような。
何とも言い難い、不思議な気持ちだ。
僕は、再度空を見る。
雨を降らせた雲は東へ流れ、西の空は雲が薄い。明日は概ね晴れるだろう。
もし雨が降ったとしても、その恵みはきっと良いものだ。
《鏡》
私は、本部の図書資料室で私が読むための本を借り、彼の執務室へ帰りの廊下を歩いているところ。
ここの廊下には、所々に横に長めの鏡が飾ってある。上層の人達が使う施設の物だけあって映りも綺麗だし、枠組みの装飾もシンプルながら品のあるよい物だと私でも一目で分かる。
身だしなみのためかな。と考えながら曲がり角に入ると、そのすぐ壁に掛けられた鏡に彼の横からの立ち姿が映っていた。
「今、若い娘と住居を共にしていると聞きましたがね。」
誰だろう。鏡面にも視界にも入らない所から、40代かそこらくらいの知らない男性の声がした。
方向から、彼と会話をしてるみたい。
私は、慌てて曲がり角の影に隠れる。なんか立ち聞きみたいで嫌だなぁ。でも、ここを通らないと執務室には戻れない。
仕方ないから、ここで様子を伺ってタイミングを見て出ていこう。
「ええ、知人を預かっているのですよ。」
その知人って、私のことだろうな。
私の監視の事情は、極一部の人にしか知らされていないらしい。面倒と混乱を同時に避けるために普段は知人と言ってると、前に彼から説明を受けたことがある。
闇の眷属にボロボロにされたこの帝都内で、この者はそいつらに関わる者かも、なんて広まったらそれだけでパニックになりかねない。冷静だし、彼や帝都を害する気持ちが全くない私からするとありがたい事この上ない話だよね。
「手に余るのではないのですか。若い身空で知人を預かり面倒を見るなど。そのような苦労をなされずとも。」
彼を思いやっている言葉だけど、口調はいかにも上から圧力を掛けるもので。
実際の立場は彼の方が上なのに。彼がその正義感から前皇帝に疎んじられていた名残が、まだ残ってるなんて。
気分が悪くなった私は曲がり角から少し顔を出し、鏡越しに彼を覗き見る。
そのスッと天へと伸びるような綺麗な姿勢と落ち着いた微笑みを湛えた横顔は、人柄の控えめさとは裏腹に確固たる誇りと清廉さに満ちていた。
「苦労、ですか。それなりにはありますが。」
鏡越しの彼の視線が、話し相手の方へ向く。
微笑みはそのままなのに、視線は相手を撃ち取らんばかりの鋭さだった。
「少なくとも毎日退屈はしなくなりましたね。」
堂々とした彼の声が、朗々と響く。
ああ、この人は強くなった。
かねてより続く前皇帝派からの弾圧も、国を導く重責も、ちゃんと彼の手に負えている。
その横顔を見て、私は心から安堵した。
と、同時に。
これは、何とも言えない感想。
時々…うん、時々彼に心配を掛けたりハラハラさせていた自覚はあるので、本当に何も言えない。
いらない刺激を与えてはいるな、と意気消沈する。
いつも申し訳ないです…と、私は鏡の中の彼に向かって心の中で手を合わせて謝った。
話は終わったのか、相手の人の軽い挨拶の声と共に、1人分の足音が遠ざかっていく。
鏡面の彼も、ホッとしたのか一度大きく胸を膨らませて息を吐いていた。
私は、そのままぼんやりしながらこっそりと鏡の彼を見ていた。
チカリ、と一瞬鏡が光を弾いた。
すると、立っていた彼の身体が鏡の方を向く。
そして、鏡の中の彼がまっすぐに私を見つめて、ふわりと柔らかく微笑んで手招きをした。
あ、立ち聞きしちゃったの気付かれてた。
そんな気まずい動揺と。
さっきまで鏡の中で見せていた男性に向けた鋭い視線と、今私に向いている暖かな視線とのギャップ。
そんな全く違う面を見て、心を射抜かれた動揺。
私は激しく心を揺さぶられながら曲がり角を出て、彼の手招きへ向かって歩を早めた。