《鏡》
私は、本部の図書資料室で私が読むための本を借り、彼の執務室へ帰りの廊下を歩いているところ。
ここの廊下には、所々に横に長めの鏡が飾ってある。上層の人達が使う施設の物だけあって映りも綺麗だし、枠組みの装飾もシンプルながら品のあるよい物だと私でも一目で分かる。
身だしなみのためかな。と考えながら曲がり角に入ると、そのすぐ壁に掛けられた鏡に彼の横からの立ち姿が映っていた。
「今、若い娘と住居を共にしていると聞きましたがね。」
誰だろう。鏡面にも視界にも入らない所から、40代かそこらくらいの知らない男性の声がした。
方向から、彼と会話をしてるみたい。
私は、慌てて曲がり角の影に隠れる。なんか立ち聞きみたいで嫌だなぁ。でも、ここを通らないと執務室には戻れない。
仕方ないから、ここで様子を伺ってタイミングを見て出ていこう。
「ええ、知人を預かっているのですよ。」
その知人って、私のことだろうな。
私の監視の事情は、極一部の人にしか知らされていないらしい。面倒と混乱を同時に避けるために普段は知人と言ってると、前に彼から説明を受けたことがある。
闇の眷属にボロボロにされたこの帝都内で、この者はそいつらに関わる者かも、なんて広まったらそれだけでパニックになりかねない。冷静だし、彼や帝都を害する気持ちが全くない私からするとありがたい事この上ない話だよね。
「手に余るのではないのですか。若い身空で知人を預かり面倒を見るなど。そのような苦労をなされずとも。」
彼を思いやっている言葉だけど、口調はいかにも上から圧力を掛けるもので。
実際の立場は彼の方が上なのに。彼がその正義感から前皇帝に疎んじられていた名残が、まだ残ってるなんて。
気分が悪くなった私は曲がり角から少し顔を出し、鏡越しに彼を覗き見る。
そのスッと天へと伸びるような綺麗な姿勢と落ち着いた微笑みを湛えた横顔は、人柄の控えめさとは裏腹に確固たる誇りと清廉さに満ちていた。
「苦労、ですか。それなりにはありますが。」
鏡越しの彼の視線が、話し相手の方へ向く。
微笑みはそのままなのに、視線は相手を撃ち取らんばかりの鋭さだった。
「少なくとも毎日退屈はしなくなりましたね。」
堂々とした彼の声が、朗々と響く。
ああ、この人は強くなった。
かねてより続く前皇帝派からの弾圧も、国を導く重責も、ちゃんと彼の手に負えている。
その横顔を見て、私は心から安堵した。
と、同時に。
これは、何とも言えない感想。
時々…うん、時々彼に心配を掛けたりハラハラさせていた自覚はあるので、本当に何も言えない。
いらない刺激を与えてはいるな、と意気消沈する。
いつも申し訳ないです…と、私は鏡の中の彼に向かって心の中で手を合わせて謝った。
話は終わったのか、相手の人の軽い挨拶の声と共に、1人分の足音が遠ざかっていく。
鏡面の彼も、ホッとしたのか一度大きく胸を膨らませて息を吐いていた。
私は、そのままぼんやりしながらこっそりと鏡の彼を見ていた。
チカリ、と一瞬鏡が光を弾いた。
すると、立っていた彼の身体が鏡の方を向く。
そして、鏡の中の彼がまっすぐに私を見つめて、ふわりと柔らかく微笑んで手招きをした。
あ、立ち聞きしちゃったの気付かれてた。
そんな気まずい動揺と。
さっきまで鏡の中で見せていた男性に向けた鋭い視線と、今私に向いている暖かな視線とのギャップ。
そんな全く違う面を見て、心を射抜かれた動揺。
私は激しく心を揺さぶられながら曲がり角を出て、彼の手招きへ向かって歩を早めた。
8/19/2024, 6:51:56 AM