《やるせない気持ち》
「うう…いちごが食べたい…。」
正午を知らせる鐘が鳴り響き、休憩時間に入った直後。
いつも通り本部の彼の執務室で闇の者として監視されながら過ごしている私は、今朝からのもやもやとした気持ちを吐き出した。
それというのも、昨日の夜に雑誌で見かけたいちご特集が心に突き刺さって、いちごが食べたくて仕方なくなってた。
なので、今朝の朝食は最後の一回分残されてたいちごジャムをトーストに塗ってわくわくしながら口に入れようとしたら。
手を滑らせてしまいました。
しかもテーブルの上ならまだしも、床の上に落ちちゃって。
その瞬間は、数時間たった今でもスローモーションで蘇る。
あれは、切なかったなぁ。
ジャムも切れてたし、しょうがないので今朝はチーズトーストに切り替えたんだけど、すっかりいちごを味わう気分でいたので今もそれを引きずってる。
「もう、口の中がいちごしか受け付けなくなってる…。」
もう本当にやるせない。
すると彼の机の方から、トントンと紙の束を揃えるリズミカルな音がした。
「無性に食べたいと思っていた物が食べられないのは、すっきりしませんよね。」
彼は揃え終わった書類を丁寧に机の上に置き、椅子に座ったまま軽く組んだ腕を頭上に上げて背中を伸ばしていた。
同意してもらえて心は慰められたけど、口は慰められない。頑固な味覚、辛い。
背中を伸ばし終えた彼が、椅子から立ち上がりながら私に声を掛けた。
「いちごジャムは帰りに買っていくとして、まずは食堂で昼ご飯を食べましょう。」
確かにここで腐っていても仕方がない。
私は頷いて、彼の後に着いて食堂に向かった。
今日は早めに入れたからか、昼とは言え食堂はまだ人もまばらだ。
それでも、メニューを張り出してる壁の前には兵士達の人垣が出来ている。
私は背が低めなので人垣の隙間から今日のメニューを見ようと首を伸ばすと、背の高さから先にメニューを読めた彼が私に教えてくれた。
「よかったですね。今日限定のデザートは、いちごパフェだそうですよ。」
え? 本当に?
「果物を特産としてる国から仕入れる事が出来たみたいですね。季節柄量は無いので今日のみの限定のようですが、タイミングがよかったじゃないですか。」
「はい! やった、これでいちごが食べられる!」
ふあぁ。本当、最高のタイミング!
私は昨日からのいちごの味覚を満足させられると思うと、気分が最高潮になって頬が緩んだ。
しかも、パフェ。そのままのいちごもだけど、アイスやクリームと組み合わさったいちごのソースや果肉を想像しただけで、もう幸せになれる。
メニューを見ていた彼が私に顔を向け、くつくつと笑い出した。
「先程までの意気消沈ぶりが嘘のようですね。」
だって、ねぇ。
「昨日からのいちごの味覚が満たされますからね。当然ですよ。」
なんて話をしていると、メニューを見に集まっていた兵士達の視線がこちらに集まる。
確かに彼は、あまり人前で声を上げて笑ったりしない。
真面目な彼はいつも表情はあまり崩さず、誰かと話す時も表情を和らげたり微笑みはするけれど、声を上げて笑うのは珍しいかな。
でも最近は、私が何かやらかすとこうして笑われたりする事が増えたから、私は結構慣れている。
まずはやらかすなって話ですね、ごめんなさい。
まあそれはともかく、集まった慣れぬ視線にむずむずした気持ちを抑えていると、メニューに夢中になっている兵士の声が聞こえてきた。
「お! 今日は3日煮込んだカレーだってよ!
しかも量が1.2倍のサービスだと!」
…はあぁ!?
3日煮込んだカレー! そんなの美味しいに決まってるじゃない!
「もうご飯はカレー、デザートはいちごの味覚に固まっちゃった…。」
でも、1.2倍は…少し量が多いかな。パフェと合わせて食べ切れるかどうか…。
ぽかんと口を開けながら考え込んでしまった私の横で、彼が私を見続けまだくつくつと笑っている。
もう、笑いを噛み殺してるレベルで。
「本当に…くくっ…忙しい人ですね…。」
うう。なんか、悔しい。
よし、決めた。
「カレーとパフェ、食べます! 今日の夕飯は軽めで抑えます!」
ここは私の味覚を信じる!
お残しだけは絶対にしません。頼んだからには、食べ切ってみせます。
お腹と…カロリーの事は食べ終わってから考えよう。
私は、腰の両脇で拳を握りしめた。
決意の表明、というものです。
いよいよ自分のお腹に手を当て口元に拳を添えて身体を震わせている彼は、そんな私を見て一言。
「今日の午後休憩には、軽いトレーニングを入れた方がよさそうですね。」
その瞬間、私の思考は完全にストップして、両脇の拳を緩めて脇腹を突付いた。
そんな私を見て身体を震わせ続けている彼は、もちろん軍人としての基礎訓練も欠かしていないので脇腹に余計な肉などない。
そんな私達の様子をまだ見ている兵士達からは、ざわざわひそひそという声も聞こえ始める。
それは珍しいでしょうね! 彼がここまで笑いを堪えてるとか!
現実は、厳しい。
私はまた心を襲った凄まじいやるせなさを紛らわそうと、大きく肩を落として溜め息を吐いた。
《海へ》
太陽が眠りに就き、空には夜の帳が降りる。
帳の色を映し取った海は、優しく揺れる波間に青白く輝く月の光を受けて煌めいている。
それは、黒い海に注がれる月の光が溶けていくかのようだ。
僕は、波打ち際でそんな夜の海を眺め佇む彼女の背を見つめていた。
沖からの潮を含んだ風が、彼女の柔らかな髪をふわりと靡かせる。
その白銀は、月の光に透けて仄かに青や緑に輝きながら揺らめく。
美しく、不思議な髪の色だ。
彼女は、海へ引き寄せられるように二歩、三歩と足を進める。
そして小さな足から靴を脱ぎ外すと、それを手に取り足を波に浸す。
まるで、波に声無き言葉を乗せて海に語りかけているかのようだ。
そんな幻想的な光景を目の当たりにした僕は、胸が押し潰されそうになった。
彼女が、海へ溶けてしまうのではないか、と。
あの、波間に溶ける月の光のように。
恐れに囚われた僕は、気が付けば彼女の元へ足を進めていた。
「…帰りましょう。」
声を絞り出すように伝え、彼女の存在を確かめるように髪を一房手に取る。
その指通りの良さと輝きに、確かに彼女はここにいると安堵する。
彼女はそっと振り向き、そんな僕の手を慈しむように見つめる。
そして僕の目へその瞳を合わせ、今にも泣き出しそうな、それでも嬉しそうな微笑みで頷いてくれた。
《裏返し》
喜び。楽しみ。思いやり。驚き。恥じらい。
彼女の表情はコロコロとよく変わり、それがとても心地好い。
ゲームに負けたり軽いミスをした時のがっかりした顔も、本人には申し訳ないがとても微笑ましい。
僕に新しい喜びを教えてくれ、僕の苦しみを悔しがってくれる彼女は、知らぬうちに僕の心の支えになっていたようだ。
だが、最近気付いた。
例えば。
書類の確認中にふと顔を上げれば、外の風に揺らぐ木をを見ている彼女。
読書、特に帝国の近代歴史についての本を読んでいる彼女。
夜の月を眺める彼女、それが満月に近ければ近い程。
彼女は微かにではあるがどこか淋しげで、それでも決意に満ちた表情をしている。
気付いた時に、頭を過ぎった。
彼女の普段の明るさは、何か心に置き留めた重さの裏返しではないのかと。
彼女を闇の者として監視している立場でこのように考えるのは、烏滸がましいとは思う。
それでも、何かの折には彼女のその心の重さを分け与えてほしい。
その為にも一層彼女に誠実に向き合おうと、僕は心に誓った。
《鳥のように》
彼は幼い頃に、親と呼べる人を喪った。
そして、半分血の繋がらないご兄姉からは疎まれていた。下級労働者の血が入っていると、侮蔑を込めて。
それでも彼は、ご兄姉を憎む事は決してなかった。
生まれてからずっと立派な軍人となるよう育てられ、真摯に努力をして。
邪神討伐の旅の最中で彼をずっと育ててくれた乳母…実のお母様が殺されても、悲しむ暇さえなく自分を見失わず進み続けて。
無事に討伐が叶った今は、帝国の復興に全力を注いでいる。
指導者になるのは気が進まないと彼は言っていたけれど、帝国の未来の為ならばと見えないところでも全身全霊をかけて職務に励んでいる。
そんな彼は。
「白鳥みたいだなぁ。」
執務室の机で書類に目を通している彼を見ながら、ふとそう思った。
裏でも表でも、何事にも真剣で。
でも、その苦労を表には出さずいつも穏やかで。
湖面にゆったりと浮かぶために、水中は足で水を掻く。
私は、ぼんやりとその思考に集中していた。
「どうかしましたか、白鳥みたいとは?」
気が付けば、書類から目を上げた彼が私を見て微笑んでいた。
その柔らかく細められた目と視線が合わさり、ようやく私は認識した。
また、考えてたことをぽろっと口に出してしまった事を。
「す、すみません、何でもないです!」
妙な独り言で彼の仕事を邪魔してしまった。
慌てて私が謝ると、彼は「謝らなくていいですよ。」とまた優しく微笑んで書類に目を戻した。
その一連の動作も笑顔も、私には丸い月夜に湖面に浮かぶ白鳥のように輝いてみえた。
《さよならを言う前に》
ここのところ、帝国の議会が荒れているそう。
前皇帝の派閥の一人が、彼の汚職を捏造しようと躍起になっているらしい。
彼の正義感は諸国を征服しようとしていた前皇帝の主義に合わず、彼は疎まれ左遷された事がある。
その時から嫌がらせレベルの妨害は続いてはいたけれど、今回は互いに徹底抗戦で行く構えのようで、連日彼は議会での対応に苦慮していた。
ずっとあちこちを駆け回って資料の作成や対応に追われている彼は、徐々に窶れてきているようで。
表には出さないようにしてるみたいだけど、口数も減って来ていて表情にも張りがない。
しかもここ最近は、私の事も責められているとか。
私が表れて職務が疎かになっているんじゃないか、って。
通りすがりの人に当てこすりのように言われたこともある。
私は関係ない、と彼は突っぱねてくれてるけれど、もうそろそろ限界かな。
微かにだけど苦しみを浮かべてる彼の笑顔を見ているのが、辛い。
闇の者として彼の監視を受けている私はもしかしたら、別の誰かに手渡されるかもしれない。
それならば、かつての相棒の所に行こう。
私はそう決めて相棒の許可を取り、今日はこっそり本部を抜け出してきた。
監視と言いつつ私を丁寧に扱ってくれて、ありがとう。
少しずつ私を信用してくれて、ありがとう。
今まで一緒に過ごしてくれて、本当にありがとう。
弱い私で、ごめんなさい。
これ以上、あなたの足枷になりたくないから。
あなたに迷惑を掛けたくないから。
…違う。私は、卑怯だ。
あなたからのさよならを聞くのが怖いから。
さっきまでの気持ちも、本当。
でも、あなたからその一言だけはもう聞きたくないから。
だから、ごめんなさい。
どうか、元気で。幸せでいてね。
影がもうすぐで長くなろうかという時刻。
彼との思い出がたくさん詰まった屋敷を出る。
どんな出来事も、大事な宝物。それを思い、涙が零れそうになる。
私は玄関に立ち、誰もいない屋内に身体を向けて口を開く。
さよなら。
しかし、全てを言葉にすることは叶わなかった。
最後の一文字が音になる寸前、私の身体は背後から強く抱きすくめられ、口を塞がれたから。
「それは…言わせませんよ…。」
荒く乱れた息。全力で走ったであろう、汗のにおい。
私を抱く腕は強いのに、口を塞ぐ手は言葉を紡ぐことは許さないけれど、ひたすらに優しい。
なぜ…どうして…あなたがここにいるの?
午後の議会の時間を狙って抜け出してきたはずなのに。
我慢していた涙が、堰を切って溢れ出す。
口元に置かれた彼の手に自分の掌を乗せると、彼はそっと私の口を解放してくれた。
「ど…して…?」
彼は、切らした息を整えながら答えてくれた。
「貴女の相棒に、通信機で忠告を受けました。」
『あいつから目を離してるんじゃないぞ。
何しでかすか分からないからな。』
私は、顔を彼に向け目を見開いた。
その連絡を受けたにしても、あまりにも早過ぎる。
議会は? あなたの汚職の疑いは晴れたの?
すると、彼はふっと笑って話し出した。
「議会の方は片が付きましたよ。疑惑の捏造というよりその罪を擦り付けようとしてきていたので、ありとあらゆる証拠をかき集めて徹底的に潰して来ました。」
う。爽やかな笑顔だけど、圧が強い。
これは、さぞや念入りに潰してきたんだろうな。
「貴女を引き合いに出してまで、僕の仕事ぶりを舐めていただきましたからね。どこからも隙の無い証拠を提示する事で、そちらの懸念も払拭しておきました。」
私は、その迫力に涙も引っ込んだ。
この人は、曲がったやり方が大嫌いな人だから。
解決したようで何よりだけど、これは余程腹に据えかねてたんだろうな…。
「よ、よかったです。…にしても、まだ話し合いの時間じゃないんですか?」
私は、少し吃りながら質問した。
その途端、お腹に回った彼の手に力が入った。
「そもそも議題とは関係のない話ばかりでしたからね。後は代理に任せて大急ぎで走ってきましたよ。
何せ、貴女は目を離すと何をしでかすか分からない。」
あ、え?
笑顔…なんだけど、何やら空気が不穏に。
「そういうわけなので、ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。
貴女が心配する事は何ひとつ無くなりましたので、どうぞ安心してください。」
いや心配は確かにしたけど、それは良くてですね。
あれ、これ抵抗不可とかそんな感じ?
そして、私はそのまま片腕で身体を持ち上げられると屋敷の中に連れて行かれ、懇願か説教かよく分からない話をされました。
そんなわけで。
彼を思って繰り広げた私の逃亡劇は、彼にさよならを言う前に終わりを告げました。