《空模様》
この帝国は砂漠もある地域なので、他国に比べれば気候は乾燥している。
それでも砂漠から離れている帝都は、夏でも時にはそれなりの雨には見舞われる。
終業時刻間際。
スッと窓の外が少し薄暗くなったと思えば、空からの雨粒がバラバラと窓を叩く。
「降ってきちゃいましたね。すぐに止むといいんですが。」
彼女が、窓から空を見上げて呟いた。
「まあこの季節の雨ですから、すぐに止むでしょう。」
僕は後もう一押しで仕事が片付く段階だったので、書類に目を通しながら答えた。
薄暗くなったと言っても、然程ではない。おそらく、空は雲に一面覆われているわけではないだろう。
バラバラとリズミカルな音が鳴り響く。
この国にとっては、まさに恵みの雨だ。
その優しい音に包まれながら、僕は最後の書類にサインをした。
「ふう。お待たせしました。それでは帰りましょうか。」
「はい。お疲れさまでした。」
そうして僕達は帰支度をし、二人並んで帰路に着こうと建物を出る。
その頃には雨は晴れ、考えていた通りの散り散りの雲が、所々を赤く色を染めていた。
東は雲が多めだが、西の空は薄っすら透けるような雲があるばかりだ。
歩を進め、通用門から通りへ出たその時。
「うわぁ! あれ、見てください!」
彼女が感嘆の声を上げ、西の空を指差していた。
振り向き見れば、指の先には地平線へと降りようかという太陽。
その太陽の周りには美しい光の輪、上には七色のプリズムが頂点を地平に向け弧を描いていた。
「ハロに逆さ虹…ですか。」
太陽光線の作り出す自然の神秘。
赤く染まった西の空によく映える、黄金の光の輪。
その上の少し彩度を落とした青の中で逆さに光る七色は、光の輪という的にある太陽を射止めんとする弓のよう。
同時に起こることはそうはない、自然の織りなす芸術。
僕達は暫しの間、無言でそれを眺めていた。
「…美しいですね。」
僕は沈黙を破るように、ぽつりと感想を口にする。
彼女も同じように、ぽつりと言葉を口にした。
「うん。明日も何かいい事ありそう。」
いつもとは違う、言葉遣い。
ハッとして、僕は隣の彼女を見る。
そこには心の底から気を緩めたような彼女が、真っ直ぐな目で自然の芸術を見つめていた。
「…そうですね。」
ほんの少し浮足立つような、それでも気が引き締まるような。
何とも言い難い、不思議な気持ちだ。
僕は、再度空を見る。
雨を降らせた雲は東へ流れ、西の空は雲が薄い。明日は概ね晴れるだろう。
もし雨が降ったとしても、その恵みはきっと良いものだ。
《鏡》
私は、本部の図書資料室で私が読むための本を借り、彼の執務室へ帰りの廊下を歩いているところ。
ここの廊下には、所々に横に長めの鏡が飾ってある。上層の人達が使う施設の物だけあって映りも綺麗だし、枠組みの装飾もシンプルながら品のあるよい物だと私でも一目で分かる。
身だしなみのためかな。と考えながら曲がり角に入ると、そのすぐ壁に掛けられた鏡に彼の横からの立ち姿が映っていた。
「今、若い娘と住居を共にしていると聞きましたがね。」
誰だろう。鏡面にも視界にも入らない所から、40代かそこらくらいの知らない男性の声がした。
方向から、彼と会話をしてるみたい。
私は、慌てて曲がり角の影に隠れる。なんか立ち聞きみたいで嫌だなぁ。でも、ここを通らないと執務室には戻れない。
仕方ないから、ここで様子を伺ってタイミングを見て出ていこう。
「ええ、知人を預かっているのですよ。」
その知人って、私のことだろうな。
私の監視の事情は、極一部の人にしか知らされていないらしい。面倒と混乱を同時に避けるために普段は知人と言ってると、前に彼から説明を受けたことがある。
闇の眷属にボロボロにされたこの帝都内で、この者はそいつらに関わる者かも、なんて広まったらそれだけでパニックになりかねない。冷静だし、彼や帝都を害する気持ちが全くない私からするとありがたい事この上ない話だよね。
「手に余るのではないのですか。若い身空で知人を預かり面倒を見るなど。そのような苦労をなされずとも。」
彼を思いやっている言葉だけど、口調はいかにも上から圧力を掛けるもので。
実際の立場は彼の方が上なのに。彼がその正義感から前皇帝に疎んじられていた名残が、まだ残ってるなんて。
気分が悪くなった私は曲がり角から少し顔を出し、鏡越しに彼を覗き見る。
そのスッと天へと伸びるような綺麗な姿勢と落ち着いた微笑みを湛えた横顔は、人柄の控えめさとは裏腹に確固たる誇りと清廉さに満ちていた。
「苦労、ですか。それなりにはありますが。」
鏡越しの彼の視線が、話し相手の方へ向く。
微笑みはそのままなのに、視線は相手を撃ち取らんばかりの鋭さだった。
「少なくとも毎日退屈はしなくなりましたね。」
堂々とした彼の声が、朗々と響く。
ああ、この人は強くなった。
かねてより続く前皇帝派からの弾圧も、国を導く重責も、ちゃんと彼の手に負えている。
その横顔を見て、私は心から安堵した。
と、同時に。
これは、何とも言えない感想。
時々…うん、時々彼に心配を掛けたりハラハラさせていた自覚はあるので、本当に何も言えない。
いらない刺激を与えてはいるな、と意気消沈する。
いつも申し訳ないです…と、私は鏡の中の彼に向かって心の中で手を合わせて謝った。
話は終わったのか、相手の人の軽い挨拶の声と共に、1人分の足音が遠ざかっていく。
鏡面の彼も、ホッとしたのか一度大きく胸を膨らませて息を吐いていた。
私は、そのままぼんやりしながらこっそりと鏡の彼を見ていた。
チカリ、と一瞬鏡が光を弾いた。
すると、立っていた彼の身体が鏡の方を向く。
そして、鏡の中の彼がまっすぐに私を見つめて、ふわりと柔らかく微笑んで手招きをした。
あ、立ち聞きしちゃったの気付かれてた。
そんな気まずい動揺と。
さっきまで鏡の中で見せていた男性に向けた鋭い視線と、今私に向いている暖かな視線とのギャップ。
そんな全く違う面を見て、心を射抜かれた動揺。
私は激しく心を揺さぶられながら曲がり角を出て、彼の手招きへ向かって歩を早めた。
《いつまでも捨てられないもの》
3年前に闇の眷属に蹂躙された帝都だけど、軍の施設は利用価値が高いからかその被害を受けずにそのまま残っている。
ここは、そんな帝国軍の中にある一般兵向けのエリア。
あちらこちらで、制服を着た人達がバタバタと動き回る。
手に持つのは、箒に塵取り、バケツに雑巾、モップにはたきに大きな袋。
何でもここの建物内に害虫…いわゆる黒光りするアノ虫が大量発生したらしく、今は大掛かりな駆除作戦に行く前の大掃除の途中なのだそう。
ここには、彼と一緒に責任者と害虫駆除に必要な期間と予算の話し合いの為。
今はその話し合いが終わって、一般兵の宿舎に入っている。
無関係の私がなぜ一緒にいるのか。それは、
「いい機会ですから、一般兵の生活ぶりを見学してみませんか?」
と誘われたから。
…少し前に、私が兵士さんに手紙で呼び出されてホイホイ応じちゃったのに関係してるのかな?
あの時は話のほぼ出だしで彼が来たから、何の用事か結局分からなかったけど。
廊下を歩く兵士達が、彼を見ると立ち止まって敬礼する。
彼が労いの言葉を返し、私は軽く会釈をする。
通りがてら、廊下に出されている不要物や掃除中の部屋のいくつかを軽く検分する。
一部の兵士さんは、私と彼の顔を交互に見て青ざめている。
その様子に、
「あの、これ私がいてもいいものなのですか?」
と聞けば、彼は
「女性に見られても問題無いくらいまで綺麗になれば、害虫騒ぎも収まるでしょうから。」
と。厳しいご意見、ありがとうございます。
兵士の皆様方にはご心労お掛けしますが、ご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。
そして各部屋を見て回る。
ある部屋は。
「大量の薄汚れた肌着。」
「洗濯が億劫だったのでしょうか?」
「各自の洗濯の徹底を指示。」
彼は、手にしたメモに気付いた事を書き留めていく。
次の部屋は。
「袋詰めされたキノコ。」
「うわ、凄い。どこに生えていたのか…」
「…考えたくもないですね。」
寝具の天日干しを徹底、と彼のメモ書き。
そしてその次は。
扉の入口をバッチリ塞ぐくらいに、大量に積まれた本。
「! これは見ないように!」
彼の手に、急に両目を塞がれた。
「あ! ああ、なるほど。そういう本なんですね!」
突然触れられた驚きにどもりながら答えると、
「無理して平静を装わなくてもいいですから。」
と。平静を失ってるのは本のせいじゃないんですけど!
まあある意味お約束の展開を経て、また次の部屋に向かうと、一人の兵士が直方体の金物の箱を手に悩んでいた。
「お疲れさまです。どうしましたか?」
彼が声を掛けると、
「お疲れ様です! あの、冷蔵庫の奥にあったこれなのですけれど。」
と、敬礼をした兵士が、手にした包みを差し出してきた。
「かなり以前の物なので捨てるべきなのでしょうけど、異常も見られないし変な臭いもしないので、怖いもの見たさで食べてみたくなっていまして。」
「ふむ、これですか。」
と、彼は片手の平で支えられるくらいの箱を開けて中身を観察する。
箱の中身は、しっかりと油紙で包まれた、箱にピッタリと合うサイズの物だった。
私も覗かせてもらったけれど、微かに鼻を擽る洋酒の香り以外は感じない。包みを見る限り、カビとかもなさそうだけど。
「これの中身は何ですか?」
と、彼が当然の疑問を口にした。
それに、兵士が返事のお手本のような快活さで答えた。
「はい! 20年前のフルーツケーキです!」
「はあっ?!」
目を見開いて仰天した彼の声が、宿舎中に響き渡る。
まあ、普通はそうか。
でも…。
「…貴女は驚かないのですか?」
半ば呆れた様子の目で、彼は私に聞いてきた。
「はい。下拵えと保存状態がよければ100年以上は持ちますから。」
こちらの情報ではないけれど、私はそれを知っているから。
「軍用食の研究に使えると思いますよ?」
まっすぐに彼の目を見て答えると、彼は呆れていた目をきょとんとさせて、薄く口を開いて固まった。
ほんの少し眉間に寄せられた眉を見るに、今は入ってきた情報の整理をしてるところなんだろうな。
しばらくその様子を見つめていると、一瞬意識を私に向けた彼が、メモにペンを走らせていた。
「…そのフルーツケーキは、今すぐ軍の研究課に提出してきて下さい。」
そう言って、彼は自分のサインを入れたメモを兵士に手渡した。
「はい! 承知いたしました!」
その指示に従いフルーツケーキを急いで提出に走った兵士の背中を見ながら、彼は独り言ちた。
「…何でしょうか。なぜ不要物をいつまでも捨てられないものなのでしょうかね。」
うん。
真面目で規則正しくて、強い彼がその疑問を抱くのはよく分かる。
なので、私は自分の考えを口にしてみた。
「もちろん性格もあるのが大前提ですけど、精神的な疲労が溜まると捨てるかどうかの選択が既に辛いものになるのかな、と。」
これも、私が『持っている』知識。
それを聞いた彼は、驚きながらも思案を深めている目で私を見つめてきた。
その後、ふっと一つ息を吐いてまたメモを書いた。
「…兵士の精神状態に更に気を配るよう配慮しないといけませんね。」
よかった。
せっかく連れてきてもらったんだもの。この害虫騒ぎも、有意義なものになるといいな。
私は何かにホッとして、顔を緩ませた。
兵士の皆様、お疲れさまです。
これからも頑張ってくださいね。
《誇らしさ》
邪神を倒した時。彼は、胸を張ってはいなかった。
自国の皇帝の暴挙により起こった、他国への侵略行為に対しての今後の処理。
闇の眷属に蹂躙され、荒れてしまった自国の復興。
祝いの席にいてなお、彼は傷付いた他者への配慮とそれに対する責任の重さをただひたすらに噛み締めていた。
それでも自ら荒れた地へ赴き、厭うことなく力仕事も行って、民への信頼を築いていったよう。
民に混ざって額に汗して働いていた彼は、それは明るい笑顔だった。
そして、3年後。
彼はそうして民からの信頼を得たからか、国政に就き帝国をまとめ上げていた。
自分は指導者になる自信はない。
以前そう言ってはいたけれど、野望は持たずひたすら国民に対して真摯な彼は、本当に良き方向に国を導いていたようで。
相棒の中からではなく初めてこの目で直接見た帝国は、まだ復興が進まない箇所もあるけれど、それでも人々の笑顔で溢れていた。
皇帝に支配された結果持ち上げられた者の驕りの笑いではなく、全ての人達の安心から来る幸せの微笑み。
黄金色の街並みから生まれる人の営みが生む煙は呼吸のようで、そこに穏やかな生活がある事を示していた。
それは、彼の導きがたくさんの人の心を救ったという確実な成果で。
気が付いた時、嬉しさで胸が一杯になって泣きたくなった。
ああ、彼は3年もの間、こんなに頑張っていたんだなって。
そして今、私は彼の隣で街を見ている。
夕焼けの光を浴びて輝く、黄金色の街並み。優しい風にそよぐ、営みの炎が生む煙。
切り揃えた髪を風に靡かせながら、彼は背筋を伸ばして街並みを見つめている。
日の光で赤く染まった彼の表情は柔らかく、眼差しは慈愛に溢れている。
その姿は彼自身も気付いていない誇らしさが滲み出ていて、本当に美しくて。
私は燃えるような赤い光とともに、その美しさを瞳に焼き付けた。
《夜の海》
雲一つない、晴れた空。
そこにあるのは太陽ではなく、大きな白い月。
宵闇に包まれた穏やかな海は、空と同じ闇に染まりながらも、月の光を受けて昼間よりも一層輝いて見える。
わだつみ、三股の矛、老人、網…。
色々な姿を知っているけれど、ここの海は母の姿が相応しい。
掌に乗るようなものから建物のように大きな生き物、未だ生まれぬ目に見えぬものもいる。
全ての命が生まれ、そして還る場所。それが、この海。
目を閉じると、寄せては返す優しい波の音。
微かに湿った風に混ざる潮の香りを胸に満たすと、不意に泣きたくなってくる。
たくさんの事を、思い出して。
私は、森の宵闇の中で月の光を受ける泉に大きな縁がある。
だから、私の還る場所は、きっとこの海ではない。
それでも静かな波の音を聞くと、不思議な懐かしさに胸が痛くなる。
目を開き、ひとつ足を踏み出す。さくり、と足を伝わる砂の感触。
さく、さく、と足を進めていくと、そこは波の辿り着くところ。
靴を脱いで、さらに足を進める。
昼間と違い、少しひんやりとした濡れた砂。
ざあ…と足に潮水が被る。
昼の太陽に火照った足を冷ました波は、足元の砂と一緒に、月に煌めく沖へと還った。
もし、ずっと彼の隣に立てたなら、この砂のように私も一緒に還れるかな。
遠い未来に彼が必ず還る、この海の懐に。