また会いましょう。
そう書いておけば、きっと叶うと信じている。
小学生の頃、ある転校生と仲良くなった。
彼は物腰が柔らかく、常に優雅な微笑みを浮かべていた。女子からは当然、男子からも「なんかどきどきする」と一目置かれていて、クラスだけでなく学校全体で大人気だった。私も例に漏れず、彼の優しくて穏やかな微笑みの虜になっていた。
幸運なことに同じクラスだった私は、隙あらば話しかけたり遊びに誘ったりと、今では考えられない積極性でアプローチをかけていた。その甲斐あって、彼とはものすごく仲良くなれた。
残念ながら全国を飛び回るご両親の都合で、すぐに転校してしまったけど、社会人になった今でも文通を続けて関係を保っている。
「あんたもよくやるわ。もう二十年だよ?」
「うるさいなー。別にいいでしょ」
仕事帰りの居酒屋は賑やかな笑い声が溢れている。
私の目の前でジョッキを空にした彼女は小学校からの友達で、なんだかんだ近況報告をするくらいには仲が良い。だから今も、彼のことを話したのだ。
「そんなにハマるほどイイ奴だったっけ?」
「イイ奴……かどうかは分かんないけど、すっごく優しくて、穏やかで、とにかく一緒にいて落ち着く人だったの!」
「ふーん。ていうか、なんで文通なわけ? 今の時代、通信手段なんて腐る程あるのに」
「まあそうなんだけど……なんか、言い出しにくくて。メッセージとか電話とかって印象変わるしさ。お互いに」
「少女漫画か。今どき小学生の方が進んだ恋愛してるわ」
冷めたような呆れたような目で見られる。
そう言われるのも仕方がないとは思うけど、長年続けてきた習慣はそうそう変えられるものでもない。
何度もアドレスや番号を聞こうとして、そのたびに便箋を捨ててきたのだから、きっとこれからも聞けずじまいだろう。
「でもさ、私らだって結婚適齢期って言われる年齢になったってこと自覚しなよ?」
「分かってるよ。親がめっちゃうるさいもん」
「あんたのことじゃなくて相手のことだよ。優しくて穏やかで仕事も順調なんて、そんな優良物件が残ってるわけなくない?」
彼女に言われて押し黙る。
考えなかったわけじゃない。むしろ、最近は返信が遅くなってきたのだ。もしかしたら――という推測は止まることはない。
手紙には書かないだけで、もう誰かと結ばれているかもしれないと思うと胸が張り裂けそうになる。
「会えるかどうかも分からない相手に入れ込んで、あんただけが寂しい思いをするなんて嫌じゃん」
「……私だけ?」
「そ。あんただけ」
店員が運んできたジョッキを受け取って口をつけながら、彼女は左手を見せてきた。
綺麗な爪に施された薄桃色のネイルを見て、光を反射する何かに気づく。細い指に燦然と輝いているのは指輪だ。しかも、薬指にぴったりと嵌っている。
「うっそ! 結婚するの!?」
「あんた全然気づかないんだもん。報告しようにも、ずーっとあいつのこと喋ってるしさぁ」
「それはごめん。でも、おめでとう! 付き合って何年だっけ?」
「もう六年になるかな。私の仕事が軌道に乗っちゃったから、予定よりも大幅に遅れちゃったんだよね。でも、ずっと待っててくれてさ」
「だって、彼氏さんベタ惚れだもん。待っててって言われなくても、ずっと待ってたと思うよ」
「やっぱり? まあ、まだ何も決めてないんだけどね」
「乗れそうな相談ならいくらでも乗るからね! 結婚式には絶対呼んでよね!」
「ありがと。ていうか、あんたは強制参加。友人代表スピーチ、めっちゃ期待してるんだから」
幸せそうな顔をしながら笑う彼女を祝うのと同時に、いつまでもこのままじゃ駄目なのかと現実を突きつけられた気がした。
翌日出社してから、自分の部署にいる既婚者たちを改めて見つめてみた。
先月入籍した女性は幸せそうだし、十三年連れ添った男性は今日も手作りのお弁当を広げているし、子供さんがいる人は連休中の予定を立てるために仲間と調整を掛け合っている。
私が彼と文通をしている間に、あの人たちはもっと身近で出会って、もっとよく知っている人と恋に落ちたんだ。
今までの時間に後悔なんてないけれど、ほんの少しの焦りみたいなのは感じるかもしれない。
こんな風に思ってしまうのも嫌で、誰にも気づかれないように小さく静かに息を吐き出した。
お昼休憩が終わり、余計なことを考えなくてもいいように仕事に集中しようとした。そのタイミングで上司に呼ばれて別室に移動する。
デスクで片付く要件ではないのだろうかと怪訝に思いながらついていく。
「明日から入社する子なんだけど、君と知り合いだと言うから先に顔を合わせた方がいいかなと思って」
「知り合いですか……?」
どこか癒やしの雰囲気をまとっている上司に言われながら部屋に入ると、ソファーに腰かけていた女性が立ち上がった。
真っすぐ伸びた姿勢と優雅に微笑んでいる顔を見て、綺麗な人だなと圧倒される。
「お久しぶりです。私のこと、覚えていらっしゃいますか?」
あなたみたいな美人と知り合った覚えはないのですが。
喉のギリギリまで出かかった言葉をなんとか飲み込んで、考えるふりをしながら首を傾げる。曖昧に笑う私に、彼女は怒るどころか明るく笑った。
「手紙の文末に『また会いましょう』って、必ず書いてくれたでしょう? 私にとって、そのひと言がずっと心の支えになっていたんです」
「……え?」
「また会えて、とても嬉しいです」
言葉のとおり、本当に嬉しそうに笑う彼女は、私がずっと文通していた相手だった。
天高く 青く澄みたる 秋晴れの
下に響くは 頬を打つ音
思わず一句詠んでしまったが、そんな和やかな状況じゃない。なんと今、駐輪場のフェンスを挟んで、幼馴染みの想い人である彼女持ちの先輩と向き合っている。
テスト期間ということで通常よりも早く帰れるのが仇になった。幼馴染みに自習室での居残り勉強に付き合ってほしいと言われたけど、今日は弟と妹の面倒を見なくてはならないので断った。
足早に駐輪場に向かい、今日に限って奥の方に停めてしまった自転車を見つけ出す。カシャンとロックを解除して車体を動かした瞬間、ぱんっという拍手のような乾いた音が聞こえた。ついでにヒステリックな女子の甲高い声も聞こえてくる。
やめとけばいいのに、野次馬根性は止められない。
そろそろと自転車を押しながら、声のする方へ歩いていく。フェンスを挟んで数メートル前方に喧嘩中のカップルがいた。背中を向けている彼女が誰かは分からない。が、向かい合っている男子生徒には見覚えがあった。冒頭で述べた例の先輩だ。
頬が赤くなっているのが遠目にも分かる。なのに、先輩は困ったように微笑んでいるだけだ。聞き取れた部分を切り取って意訳すると、どうやら『私以外の女の子にも手を出すなんて最低』という言われているらしい。一方的に責め立てた彼女は、耐えきれなくなったのか走り出してしまった。
かなりの修羅場だ。見なかった、聞かなかった、知らなかったことにして退散しよう。
そう思ってゆっくりハンドルを切ろうとしたら、フェンスの網目に引っかかってしまった。ガシャンと大きい音がすれば、誰だって視線を向ける。顔を上げた先輩と目が合ってしまった。
──というのが、事の顛末だ。
「あちゃ~……もしかして見てた?」
困ったように笑いながら歩み寄ってきた先輩の片頬は赤い。よほど強く叩かれたんだと思う。
「見てたことは謝ります、ごめんなさい。でも、早く手当てした方がいいですよ。私、保健室から氷嚢借りてきますから」
「いいよ、別に」
「は……?」
「気をつけて帰ってね。あ、できれば見たことは忘れてほしいな。平手打ちされたなんてカッコ悪いからさ」
「え、ちょっと」
「じゃあね」
ひらひらと手を振って歩いていってしまう。
──いや、放置するのはよくないでしょ!
自転車のスタンドを立ててフェンスをよじ登る。ガシャガシャとした音に驚いて振り向いた先輩の目の前に飛び降りる。やんちゃ盛りの弟を追いかけ回している経験が役に立った。
「言いふらしたりしませんから、ちゃんと手当てしてください。いいですね、ここで待っててくださいね」
短く言いつけて保健室へと走り出す。
先生には「なんかぶつけたーとか騒いでるんで氷嚢貸してください」とか適当なことを言った。返さなくてもいいように氷と水を袋に入れてくれたので、持っていたハンドタオルで包む。
駆け足で戻ってくると、先輩はフェンスに背中を預けて座り込んでいた。ちゃんと待っていたことにほっとして、努めて普通の顔で差し出す。
「どうぞ。先生には上手く言っておきましたのでご安心を」
驚いたというか呆気にとられているような顔で氷嚢を受け取ると、ふふっとおかしそうに吹き出した。
「なんですか?」
「いや、ごめんごめん。面倒見が良いんだなーって」
「……これくらい普通です。では」
「あ、ちょっと待って」
緊急でもないのにフェンスを登るわけにはいかないので、ぐるりと回ろうとしたら呼び止められた。
「どうもありがとう。お礼したいから名前教えてくれる?」
「大したことではないので気にしないでください。お大事に」
ついさっき頬を叩かれたというのに、全然懲りてないんだろうか。それとも、この間見た光景は幻だったのだろうか。
どちらにしても、私が踏み込むことじゃない。
ひんやりと凉しい木陰から足早に抜け出して、秋晴れの空の下で待っている自転車に飛び乗った。
私には大切な友人がいる。
彼は嘘がつけなくて、能天気で、すごく優しい。
そんな彼との、忘れたくても忘れられない思い出話をしてみようと思う。
小さい頃から人の嘘を見破ることに長けていた私は、同級生だけでなく大人からも煙たがられていた。
実の親にも「気味が悪い」だの「可愛げがない」だのと蔑まれ、物心つく頃にはひとりぼっちが当たり前だった。
見かねた祖父母が私を引き取ってくれて、祖父母の家から学校に通うことになった。小学校から高校卒業するまでの間、本当の親のように育ててくれた。
私の前でだけ嘘をつかないようにする生活は、きっと息が詰まるものだったと思う。嘘を嘘だと分かっていながら、聞き流せない性分だったせいで揉め事も多かった。その度に言われた言葉がある。
「正直に生きることは素晴らしい。けど、何か理由があって嘘をつかなければならない人もいることを理解しなさい。人を傷つけないための嘘や、自分を守るための嘘もあるんだからね」
頭では分かっていても、実際に行うのはとても難しかった。自分の中に落とし込むまでに、ずいぶん苦労したことを覚えている。
ある日、常に同じクラスで席も隣同士になる彼とのことを冷やかされた。そのほとんどが思春期特有のからかいだったけど、彼のことを好きな女の子からは嫌がらせもあった。
物を隠されたりひとりぼっちにされたり──まあ、よくある話だ。
ずっと蔑まれてきた私には特に効果が無くて、痺れを切らした彼女が手を上げてしまった。その場所が階段の踊り場で、避けたときに足を踏み外した。目の前にはしたり顔の彼女がいて、私はのんきに「ああ、死ぬのか」なんて思っていた。
でも落ちることはなかった。
後ろからすごい勢いで駆け上がってくる足音がして、私の背中に体当たりをしてきた誰かがいた。そのまま弾き飛ばされて踊り場の床に転がった。
同じように床に這いつくばって肩で息をしていたのは、その彼だった。
「君──」
「び、っくりしたぁ!」
大きな声を出したかと思ったら、ごろんと天井を仰いで大の字になった。ひときわ大きく息を吐きだして、私の方を見るといつもの笑顔で笑ってくれた。
「間に合ってよかったー。ごめんな、体当たりして」
「──ううん。助けてくれてありがとう」
「あ、あの、ごめんなさい……あたし、そんなつもりじゃ」
ぽろぽろと泣きながら謝ってくれる。
本心か否かを見抜くのは容易い。でも、この場は丸く収めた方がいいんだろうと思った。
問題を起こしたと知られたら、彼女はきっと居場所を失う。それを悲しいことだと知っているから、幼いながらに同情したのかもしれない。
「別に、気に」
「嘘つけよ」
怖い声だった。
立ち上がった彼はにこやかな笑顔を引っ込めて、ものすごく怖い顔で彼女を睨んでいた。
「階段であんなことすれば、足を踏み外すかもしれないって分かるだろ。分かっててやったくせに、適当に謝ってんじゃねえよ」
それから私の手を引いて保健室に連れてってくれた。だけど彼は、先生に本当のことを言わなかった。
「俺がぶつかって転ばせちゃったんです。ごめんなさい」と。
ぶつかったのは私を助けるためだったのに、なんで彼が謝るのだろうか。そのときは憤りにも似た不満を抱いた。
「なんで君が嘘をつくんだ! 彼女のせいなのに!」
「いいんだよ。俺が体当たりしたのは事実だし」
「それでも、君が怒られるのは違うだろ!」
「おまえだって、あいつの嘘を見過ごそうとしただろ。まあ、全部顔に出てっからバレバレだけどな」
彼が事実を話さなかった理由はすぐに分かった。
一部始終を見ていた複数の生徒がいて、その子たちから報告があったらしい。それからしばらくして彼女は転校していった。
「君が報告するまでもなかったわけだ」
「ていうより、あのときは保健室に連れて行くのが先だと思ったんだよ。どうせほっといても悪事はバレるし、わざわざ俺が口出す必要ないだろ」
「結構冷たいんだな、君」
「嘘つく奴は嫌いなんだよ。その点、おまえは嘘つかないから気楽でいいわ」
たぶん、このときから急速に仲良くなったと思う。同じクラスで席も隣同士なんて嫌がられてもおかしくなかったのに、いつも笑って「よし、これで平穏な日々が確保される」なんて言っていた。
私の生涯でただひとり、真っ直ぐで優しい友人だ。
そんな彼とは今も仲良くしている。
当初は県内の大学を考えていたのだが、在りし日の『一緒にいてくれるなら是非に』という言葉を延々恨み言のように言われ続けたので、彼と同じ大学も受験して合格してしまった。まあ、講義が受けられればそれでいいので、結果オーライとしておこう。
地元に未練も愛着もなかったので、お世話になった祖父母に県外へ出ることを伝えた。祖父母は「自分のやりたいことがあるのなら頑張りなさい」と背中を押してくれたので、思い切ってひとり暮らしをすることになった。
それを彼に言ったら何て言ったと思う?
「じゃあ、俺とルームシェアしようぜ」
だってさ。
いつもと同じ通勤時間に通勤手段。できるだけ人混みを避けて、一本早いバスに乗る。左側の空いてる席に腰を下ろして、朝日にきらめく街並みや通りすぎる車の流れを眺める。
今までは手持ち無沙汰を解消するために携帯を取り出していたけど、ここ最近で楽しみができたから触る時間はだいぶ減った。
信号を曲がった先の停留所に、その人はいつも背筋を伸ばしてバスが来るのを待っている。打ちつけるような雨が降ってても、うだるような夏の日でも、関係ないと言わんばかりに凛と立っている。
なんだか彼女の周囲にだけやわらかな光が降り注いでるみたいに幻想的で綺麗なので、つい見てしまうのだ。
充電を忘れていて携帯に触れなかったあの日、ふと窓の外を見た自分を褒めてやりたい。それほどに日々の活力になっている。俗に言う『推し活』というものかもしれない。
ゆっくりとバスが曲がって停留所が見えてきた。
今日も背筋を伸ばして立っていた。そよ風に吹かれて揺れた髪を耳にかけて、目の前に止まったバスに乗り込んでくる。さっと車内を見渡して手近な席に腰を下ろして見えなくなった。
私の方が先にバスを降りるので、彼女がどこで何をしている人かなんて知ることはない。ただ、姿を見られたら今日も一日、頑張れるような気がしているだけだ。
「いや、めっちゃ怪しいからね」
「う゛」
「最近やけにテンション高いから恋人でもできたのかと思ったら……まさかの女かい。期待して損したわ」
昼休憩で一緒にランチをとっている同僚の呆れ顔がつらい。
「相手は一般人なんだからさ。ちょっとは考えなさいよ」
「座るまでの数秒くらい眺めててもいいじゃん……。めっちゃ綺麗な人なんだってば」
「じゃあ、私があんたに同じことしてもいいわけ?」
「私を見ても楽しくないでしょ」
「それもそうね」
「えー即答はちょっとひどくない? 最近は彼女を見習って、いろいろ頑張ってるつもりなんだけど」
ヘアケアにスキンケアに適度な運動で体型維持、食事も栄養バランスを意識した料理を作るようにしてるのに。傍から見て何も成果が無いのは少し悲しくなる。
「綺麗になったから聞いたのよ。あんた、自分の評判とか気にしてないの?」
「評判? んー……そういえば、この間のプレゼンは評判良かったなぁ。部長も褒めてくれて嬉しかった」
「そうじゃないでしょ。この仕事人間め」
むにっとつままれた頬をさすりつつ業務に戻った。
特に大きな問題も起きず、急ぎの仕事も舞い込んでこず、おまけに一本早い時間のバスに乗り込むことができた。よし、今日はツイてる。
窓側の方へ詰めると隣に誰かが座わろうとする気配がした。邪魔にならないように服の裾を整えて鞄を膝に乗せる。
ふわりといい香りがして、つい横目で見──。
「え」
ばっちりと目が合ってしまった。ほんの少し首を傾げて“どうも”と柔らかそうな唇が動いた。なんてこった、推しが! 隣に!
近くで見るとなお綺麗だ。やわらかな光が降り注いでるんじゃなくて、彼女自身が輝きを放っているようで眩しい。
混雑しているバスの中で声を上げるわけにもいかず、口元を手で覆い隠して小刻みに頭を下げながら目を逸らす。そろりと逸らした視界に入るように携帯の画面が差し込まれて、書かれている文字を読んで絶句した。
『毎朝同じバスですよね?』
バレている。
推し活とか馬鹿なことを考えている場合じゃない。血の気が引くのが分かって、まともに彼女の顔を見られない。でも、何か返さないとと思って取り出した携帯に文字を打つ。
『ごめんなさい。あまりにも綺麗だったのでつい眺めてました』
文字を読んだ彼女の目がまん丸くなった。焦るあまり謝罪に見せかけたナンパみたいになってることに気づいて、さらに言葉を付け加えようとしたら──。
「ごめんごめん。別に怒ってないよ」
耳元で低い声がした。
右側は窓だから声がするはずもない。かといって、左隣には楽しそうに微笑む彼女しかいない──え?
目を白黒させている私の前に画面をかざす。
『俺、男なんだよね』
ここ最近で、一番の驚きを得た。
☆
俺の友達には真実を見抜ける奴がいる。
冗談ではなく、ガチのマジで嘘が通じない。切れ長の鋭い眼差しに射抜かれたが最後、どんなに巧妙な嘘を張り巡らそうとも必ずバレる。腐れ縁の俺ですら隠し事ができた例がない。
「あいつ、ぜってえ特殊能力あるよ」
「この間なんか先生の嘘を見抜いたらしいぜ。それが奥さんの耳に入って修羅場になってるとか」
「俺も経験あるんだけど、マジこえーよ。『課題の提出期限ですが、終わっていますか』って聞かれて、俺が答える前に『やってないんですね』って言われたからな」
「それは日頃の行いのせいじゃね?」
「むしろ疑う必要がないレベル」
今日も彼女が通った後にはざわめきが広がる。
俺は風が通り過ぎた後の木の葉が擦れる感じに似てるから好きだけど、当の本人はどうだろう。いつも涼しい顔をして前を見据えているから分からない。
「何?」
「え」
「視線を感じる。言いたいことがあるならどうぞ」
「いや、おまえが通った後って賑やかだよなぁって思って」
「……そう?」
訝しげな目が俺の言葉を確認するかのように後ろを見ると、喋っていた三人組が肩を跳ね上げて逃げていった。別に何もしてないだろうが。
「全然気にしてなかった」
「みたいだな。まあ、別に悪口ってわけでもねえしな」
「ふふっ。君は相変わらず優しいね」
見逃すくらいの小さな微笑みを浮かべて、彼女はまた前を見据えて歩き出す。その眼差しはやっぱり鋭い。
俺と彼女の関係は腐れ縁としか言いようがない。
小学校からずっと同じクラスで、席替えをしても常に隣同士。小学四年から中学二年あたりまではからかわれることもあったけど、こっちが反応しなければ大したことにはならない。
公正なくじ引きの結果だし、俺も彼女も『また一緒か。よろしく』くらいの感想しか抱いてなかったことも幸いした。今では誰も何も言わない。
「そういえば、君は県外の大学を志望してるらしいね」
「まあな。そこに行かねえと必要な資格が取れねえし、在学中に研修受けられんのも魅力的だったからさ」
「夢があるのは良いことだ。応援するよ」
「そりゃどーも。おまえは何かしたいこととかねえの?」
「したいことか……あると言えばあるが、ないと言えばないな」
「ほーん。まあ、おまえはなんでもできるしなぁ」
勉強はもちろん、スポーツもわりとできる彼女の進路は手堅い。俺はちょっと頑張らねえとならないから羨ましい。
「そういや、おまえって特殊能力あんの?」
「どうした急に」
「さっきいた三人組が話してたんだよ。おまえが必ず嘘を見破るのは、何か特殊な能力を持ってるんじゃないかって」
「へぇ。イイ線いってるな」
「へ?」
思わぬ言葉が返ってきて足が止まった。
少しだけ楽しそうに口角を上げた彼女が肩越しに振り向いて、人差し指を目元に押し当てた。
「私の目には、どんな相手でも正直になってしまう魔法がかけられている。だから、私の前では誰も嘘をつけないのさ」
ふふんと鼻で笑う顔はとても楽しげだ。まさか乗ってくるとは思わなくて、上手い切り返しができなかったのが悔やまれる。
「つまり俺は、おまえといる限り嘘をつけないってわけだな」
「そのとおり。さすがの君でもドン引きだろう?」
「いや別に」
止めていた足を動かして隣に並ぶ。
「嘘をつかなくて済むなら、その方がいいに決まってるし。なんか理想の友情って感じで最高じゃね?」
気を使う必要がないなんて気楽でいいよなぁ。
俺の呟きを拾った彼女は、しばらく間抜けに口をぽかんと開けていた。その時間があまりにも長かったから首を傾げると、今度は腹を抱えて盛大に笑い飛ばされた。
「なんだよ! そんな笑うことか!?」
「あはははっ! だって、君が……ふふ、高校を卒業しても私と一緒にいる前提で言うから」
「……あ、マジだ」
一緒にいることが当たり前になりすぎてて、これから先もこんな感じでいるもんだと思ってたらしい。涙目になるほど笑われると、なんだか小っ恥ずかしいむず痒さに襲われる。
「あーもううっせ! おまえは俺と一緒にいたくねえのかよ!?」
「いや? 一緒にいてくれるなら是非にとお願いしたいね」
「本当だろうな?」
「本当だとも。この目を見ても信じられないかい?」
いつもの鋭い眼差しを引っ込めて、まだ笑みの残る柔らかい眼差しが向けられる。
それが嘘だとは、どう見ても思えなかった。
高く高く舞い上がった後は、綺麗さっぱり燃え尽きるものだと思っていた。だが、現実はそう甘くない。叶わなかった事実は残酷なまでに傷を残すし、絶望にも似た虚無を連れてくる。
週末の深夜、もういいやと自棄になってしまった。駅近のお高めなホテルにチェックインして、着の身着のままですぐ近くにある飲み屋を徘徊し、かなり悪酔いした状態で今カウンターに伏せている。
まだ半分以上残っているジョッキに映る、なんとも不細工な顔をした女と見つめ合うことになるとは予想外だ。
「お客さん、そんな飲み方したら危ないよ」
──優しさからくる言葉じゃないんだろ、どうせ。
反射的に心の中で毒づく。単にここでぶっ倒れられたら困るっていうだけの話だ。心の底から心配してくれる人なんて、きっと私の人生には用意されてない。
重たい頭をもたげて、ゆっくりと体を起こす。悪酔いしている自覚はあるけど、見も知らぬ相手に喧嘩を売るようなみっともない真似はしない。そこまでは落ちぶれたくない。
「ご忠告、ありがとうございます」
「お、おお。なんだ、ちゃんとしてたんだな。こりゃ失敬」
そそくさと奥に引っ込んでいった店長の背中を眺める。今の私のどこを見て『ちゃんとしてる』って言ったんだ。酒の力を借りてもなお泣けないような理性が褒められることならば、誰もが眉をひそめるくらい醜悪になりたい。
もうそろそろ引き上げようとジョッキに手をかけたそのとき、隣から伸びてきた手に押さえられた。
「さすがに飲みすぎですよ、先輩」
誰かと思ったら後輩だ。呆れたような顔で頬杖をついている彼の手を振り払おうとしたけど、酔っ払っているせいで上手く力が入らない。
「プライベートの時間なのよ。別にいいじゃない」
「体に障るでしょ。いくら酒に強くても、過剰なアルコール摂取は褒められたことじゃないですよ」
「うるさい! 私の体をどうしようが、あんたに関係ないわ!」
「はいはい、ここで暴れないでください。お店に迷惑ですから」
私の両手を片手で押さえ込んだ彼は空いてる方の手でジョッキを持ち、まるで見せつけるかのようにひと息に飲み干してしまった。
「ごちそうさまでした。勘定お願いします」
「ちょっと、なに勝手に」
「先輩のことだから、どっかのホテルに部屋取ってるんでしょ。送りますから教えてください」
手早くカードで精算した彼は、私の手を開放することなく外へ出る。ひやりと冷たい風に身震いすれば、コートを肩に掛けられる。彼のではなく、私のお気に入りのコート。そうだ、夜は冷えるからって持ってきたんだった。
「……なんで泣いてるんですか」
ああもう、最悪だ。
「可愛げないでしょ」
「は?」
「帰りの心配をしなくていいようにホテル取るし、夜は冷えるからってコート持ってるし、あれだけ飲んだのに腰が抜けることもないし」
「まあ、最後のは体質でしょうからスルーするとして、かなり用意周到ですよね」
「可愛くないんだって。しっかりしすぎて隙がなくて、おまえといると息が詰まる……って」
今日の朝、付き合ってた彼氏から一方的に別れを告げられた。口には出してなかったけど、いずれ結婚できたらいいなって思ってた。
なのに『可愛げがないから別れてくれ』だなんて、自分でも納得できちゃうような理由でフラれたなんて、誰にも知られたくなかった。
「なんで、一番情けないところを……君に見られなきゃなんないのよ」
もう頭が痛い。涙で思考も顔もぐしゃぐしゃだ。子供みたいにしゃくりあげるなんて信じられない。それでもお気に入りのコートを汚したくなくて、必死に手の甲で拭ってて馬鹿みたいだ。
「別に情けないなんて思ってませんよ」
優しくはない真面目な声と一緒にハンカチが差し出される。それを戸惑いながら受け取ると、今度は柔らかく手を握られる。
「で、ホテルどこなんですか?」
「この状況で他に言うことないわけ!?」
「ドラマの観過ぎじゃないですかね。何を期待してるんだか」
「してないわよ!」
悲しいのか腹立たしいのか分からなくなってきた。半分怒鳴るようにホテル名を言うと、彼はさっさと歩き出す。そう遠くまで足を伸ばしてないところも、可愛くないって言われる要因なんだろう。
──ダメだ、何を考えても卑屈になってしまう。
借りたハンカチはすぐびしょ濡れになってしまった。化粧も染み込んでしまったから、買い直して弁償しないといけない。
──ああもう、今はそんなこと考えたくないのに。
「俺、慰めとか同情とか、そういう手を使いたくないんですよ」
ホテルの前まで来て、彼は突然そう言った。そうして、見たこともないくらい真剣な顔で私に向き直る。
「一夜の過ちとかで逃げられても困るんで」
「……は?」
「相手がいるなら諦めようと思ってましたけど、その必要もなくなったので口説くことにします」
「え、は、なに言って」
「どっかの馬鹿と違って、俺は自立しているあなたが好きです。そもそも、頼れない相手を前にして隙ができるわけないじゃないですか。その男が馬鹿なんですよ」
目の前がぐるぐるしてくる。握られたままの手がじわりと汗ばんできて、なんだか顔が熱い。言葉も出てこないままで彼を見上げていれば、ぎゅうっと眉間にしわが寄った。
こほんと咳払いをしたかと思うと、私をホテルの中へと連れて行く。暖かいロビーに足を踏み入れたら、彼の名残惜しそうな指先が手を掠めながら離れていく。
「風邪引かないでくださいね。……おやすみなさい」
足早に立ち去った彼を呆然と見送りながら、彼に言われた言葉を反芻する。彼は私を好きだと言った。逃げられたら困るから手は出さないとも言った。
──つまりなに、私は今告白をされたわけ?
回転の遅い頭が結論を出したとき、我ながら呆れるほどの速さで鼓動が高鳴りだした。ちょっと待ってよと意味のない制止をかけたが、高く高く舞い上がりそうな不謹慎な感情は止められそうになかった。