お隣さんが再婚したらしい。
ずっと沈みがちだったのだが、最近はすごく表情が明るくなったように思う。やっぱり好きな人と一緒に暮らすってのは良いことのようだ。幸せそうでなによりなのだが、夫婦にはそれぞれ子供がいて、その二人がちょっと……まあ、うん。
再婚に反対しているわけではなく、ただただ相性が悪いらしくて、毎日片方の大声が必ず聞こえてくる。
もうすっかり慣れてしまったので、こちらは特に気にしていないのだが、たまに夫婦揃って頭を下げに来るので大変そうだなとは思う。
「俺の靴下どこやった!」
涼やかな秋晴れの閑静な住宅地に、片方の元気な声が響き渡る。登校前の身支度をしているんだろう。先ほどまでの静寂が嘘のようだ。
「おまえが履いてんじゃねえか! 返せ!」
なるほど、靴下の取り違えか。よくある話だ。
換気のために開けている窓からそよ風が入ってくる。風を受けてふわりと舞う挽きたてのコーヒーの香りを堪能しつつ、トーストが焼き上がるのを待つ。
からからと隣の窓の開く音が聞こえてきて、今度は眠そうなのんびりした声が聞こえてきた。
「靴下くらいで、ふぁ……騒がしい奴だな」
「まだ新品なんだよ!」
「分かった分かった。……ほらよ」
「裏返しのままで返すなよ! おまえ、ほんと雑だな!」
チンと焼き上がりを知らせるベルが鳴った。
椅子から立ち上がりキッチンへ。
「あんたが着てるシャツは俺のじゃないか?」
「はあ!? んなわけ──あるわ。すまん」
冷蔵庫から取り出したバターとジャムをパンにたっぷりと塗る。ヨーグルトを器に盛って、カットフルーツを適当に盛っていく。
「あれ、ここに置いてたハンカチは?」
「洗濯物かと思ってかごに投げた」
「なんでだよ!」
お盆に乗せてダイニングテーブルへ戻る。絶えず風と遊んでいるカーテンの向こうで、似たような背格好の影が慌ただしく動いている。
それを尻目に椅子に腰かけ、いただきますと手を合わせる。
「やっべ遅刻する! おい早くしろよ!」
「自転車の鍵がない」
「はあ!? どこに置いたんだよ!?」
「……さあ?」
「なんで決まった場所に置いとかねえんだよ! ああくそっ、どこに、ってここにあんじゃねえか! よく見ろよ!」
「わりぃわりぃ。さんきゅ」
さっくりと焼き上がったトーストから、じゅわっとバターが染み出して、ジャムの甘さを引き立てる。
もぐもぐと咀嚼していると、隣からガンッゴンッと低い音が聞こえてきた。きっともつれ合うようにして転がり出たのだろう。なにやら言い合いながら、ガチャガチャと金属音を立てている。
「いってきまーす!」
「いってきまーす」
息の揃った大きな声を聞きながら、コーヒーに口をつける。今日も元気なようでなによりだ。
小さな子供のように、じゃれ合いながら日々を過ごせるなんて少し羨ましい。耳をすまさなくても聞こえてくる喧騒を、私は毎日楽しみにしている。
放課後の醍醐味は制服姿で街を闊歩することだ。
きっちり着ている制服を少し崩して、校則にギリギリ引っかからない程度のメイクをして、ほんのちょっとだけ背伸びをする感覚は学生でしか味わえない。
部活もしてないし、テスト前でもないし、門限までは何も考えず自由でいられるこの時間が好きだ。別に不平不満なんてないけど、窮屈な学校から開放される気がして足が軽くなる。
そんなわけで、特に予定もないのにふらふらしていると、高頻度でナンパに遭う。よほど暇してるように見えるんだろう。
「俺らと一緒に遊ぼうよ」
爽やかさを演じている大学生っぽい二人組が逃げ道を塞ぐように立つ。こういうやり方は怖がらせるだけだと、どうして気づかないのかな。もっとこう、スマートに紳士的にすればいいのに。
「手持ちが少ないので遠慮しておきます」
「俺らが奢ってあげるって」
「近くにいいお店あってさ。期間限定メニューやってんだよね」
期間限定メニュー……それはいいことを聞いた。とは言え、この二人組と一緒に行っても楽しくなさそうだし、どうにか上手く逃げ出したい。
どうやって逃げようか考えを巡らせていると、正面の男の背後に見知った顔が登場した。
良くも悪くも人たらしで隙のない完璧な従兄弟が。
「なんだなんだ、ずいぶんと賑やかだな」
「は? なんだ、おまえ」
「おいおい、そんな態度とっていいのか? 俺はこの子の大事な人だぜ? 将を射んと欲すれば先ず馬を射よって言葉を知らないのか?」
「知らねえけど」
「不勉強なのは感心しないな。彼女は可愛いだけじゃない。頭も良くて家庭的だ。そんな彼女を口説き落とすのに知性がないのは心許ないぞ」
ぺらぺらと軽口を叩きながら、ごく自然な流れで私の隣に来て肩に腕を回してくる。踏み出す彼に合わせて動けば、嘘みたいにさらりと抜け出せる。
さりげなく肩を押されて前に出れば、その高い背を活かして私の姿を隠してくれた。
「相手を口説くならもっと状況を読まないとな。次からは気をつけろよ」
空いた片手をひらひらと振って、ご丁寧にアドバイスまでしちゃって、まるで友だちと別れるかのように歩き出す。
勝ち目なしと諦めてくれたのか、頭のおかしい奴だと判断されたのかは分からないけど、二人組が追いかけてくることはなかった。
「まったく。近頃の若人は危機感が足りん」
「……助けてくれてありがとう」
「礼はいらないが、あまり隙だらけの無防備さでふらつかないようにな。変な輩に絡まれると面倒だろ?」
さすが、隙のない人間は言うことが違う。
頭ひとつ分高い整った顔を見上げて、すぐに彼の手元へ視線を落とす。右手に提げられているエコバッグから長ねぎが覗いている。
「買い物してたの?」
「まあな。これからマイダーリンの家に行って、手料理を振る舞おうと思ってな」
「ふーん。サプライズとか?」
「いや、マイダーリンはサプライズが苦手だからな。事前に連絡を入れてある。明日は仕事も休みだって言うから、今日はのんびり晩餐を楽しむのさ」
「相変わらず仲がよろしいことで」
思わず鼻で笑ってしまった。
よくもまあ恥ずかしげもなく『マイダーリン』と連呼できるものだ。
「まだ遊ぶつもりなのか?」
「んー……そろそろ引き上げようかな。なんか萎えちゃった」
「じゃあ送ってってやろう」
ほれ、と腕を差し出してくる。手を握るなんて可愛いものじゃない。腕に掴まれというエスコートの仕草だった。すれ違う人たちがうっとりしたり、羨ましそうな顔をしていることに気づいてないのか。
「マイダーリンに見られたら困るんじゃないの?」
「問題ない。君のことは顔写真付きで話してあるしな」
「いや、こっちのプライバシーは無視すんのかい」
「家に置いてあるアルバムで盛り上がってなぁ。姪っ子ちゃん可愛いーって褒められたから、つい自慢しちまったんだよ」
どこの世界に、恋人に姪っ子を自慢する男がいるんだよ。ああもう、本当におかしいんじゃないの。
恥ずかしいやら呆れるやらで、もうごちゃまぜだ。
くるりと踵を返して来た道を戻る。ちょっと遠回りして帰ろう。一緒にいたらおかしくなる。
「なんだ忘れ物か? まったく仕方な」
「ひとりで帰る! あんたはさっさとマイダーリンのところに行け! この無自覚天然人たらしが!」
「自覚はあるぞー。じゃあ、気をつけて帰れよー」
間延びした明るい声に後ろ手で手を振り返して、青信号に変わった歩道を駆け抜ける。気恥ずかしさを塗り替えるような嬉しさをどうにかしたかった。
「ねえ、大丈夫?」
クラスメイトの椅子を拝借して、机に突っ伏している幼馴染みのつむじを見下ろす。移動教室から戻ってきてからというもの、彼女はずっとこの調子で凹んでいる。
理由はひとつ。先輩が彼女と思しき女子生徒とキスをする瞬間を目撃してしまったから。まるでドラマみたいなワンシーンを、こんな身近で目の当たりにするとは思わなかった。
正直、彼女が先輩を好きな理由が分からない。確かに綺麗な顔だと思うし、ひときわ目立つ雰囲気もある。けど、恋人は取っ替え引っ替えだと聞くし、良い噂なんて聞いたこともない。
それでも彼女はショックだったらしい。この世の終わりみたいな顔で、魂の抜け落ちた屍と化している。事情を知らない友達も声をかけてくれたけど、当の本人は答える気力すらないようで、代わりに私が「大丈夫」と答えておいた。
「全然大丈夫じゃないのに……」
「じゃあ、言ってもよかったの?」
「よくなーい!」
両手を高く突き上げて絶叫しながら勢いよく起きる。そのせいで教室にいたクラスメイトが肩を跳ね上げたし、開いてるドアから様子を窺う生徒と目が合ってしまった。
人の色恋沙汰に首を突っ込むほど野暮じゃないし、冗談のつもりだったんだけど、どうやら怒らせてしまったらしい。彼女は頬杖をついて唇を尖らせている。
「ていうか、なんであんたは平然としてるわけ?」
「なんでって……私は別に、あの人に興味ないし」
「まずそこから信じらんない。たとえ好みじゃなくてもさ、あんなシーン見せつけられたら、ぎゃあってなるじゃん!?」
「へえ」
賛同を得られなかった彼女は、再び顔を伏せてもごもご言い出した。そんなに落ち込むことなのかねぇと半ば呆れて、なんとはなしに視線を廊下に投げる。
そこに、涼やかな顔で通り過ぎる先輩の姿があって目を開く。視線に気づいた彼の黒目がするりと滑り、しっかりと私を捉えて微笑んだ。
「……ちょっと、聞いてる?」
「え! あ、うん!」
「いや挙動不審か。なに、誰かいたの?」
ふてくされたような顔をしたまま彼女が廊下を見る。すでに先輩は通り過ぎていて、何事もなかったかのように賑やかなざわめきがあるだけだ。
訝しげに眉をひそめて顔を戻した彼女が、今度はびっくりした顔で身を乗り出してくる。
「え、なんか顔赤くない?」
「なんでもない」
「なになになに。ついに先輩の魅力に気づいちゃった感じ!?」
「そんなんじゃない!」
「照れんなって〜。先輩は来る者拒まずって話だし、チャンスあるかもよ〜? お互いがんばろーね~」
「断じて違う!」
からかい混じりの言葉を強く否定する。もうすぐ授業が始まるからと立ち上がり、振り払うように自分の席に戻る。
開いた窓から吹き込む風がカーテンを大きくはためかせた。
あのとき見たワンシーンの後には続きがある。
照れたようにカーテンから出ていく彼女を愛おしげに見送った先輩は、不意にこちらに目を向けた。なんだか悪いことをしたような気がして心臓がはねた。
視線を遮るようにカーテンを広げるその一瞬──長い指を唇に押し当てて、こちらに目配せをしたあの人は、いたずらっ子のような顔で笑っていた。
あんなに幸せそうに微笑む人が、他の誰かに現を抜かすとは思えない。失恋が確定しているのに、絶対好きになんてならないし、チャンスなんてあってたまるもんか。
バタバタとうるさい白いカーテンを、八つ当たりのようにタッセルで固定してやった。
ざあざあ、ざあざあ。
目の前を落ちていく、滝のような水の流れを眺める。冷たい風に乗って弾けた飛沫が顔に飛んでくる。もはや拭うのも払うのも、避けることすら面倒で、胡座をかいて腕を組んで薄目になりながら待つ。
ざあざあ、ざあざあ。
時折天を仰いでみるけれど、頭上は舞い上がる飛沫のせいで白く煙っていて何も見えない。下の景色も似たようなものだから、結局正面を見るしかない。
まったく、いつまで待てばいいんだ。
ざあざあ、さあさあ────ぴたり。
「お、やっと泣き止んだか」
わざとらしく肩をすくめて、世話が焼けるぜなどと思ってもいない言葉を吐く。すると靄の向こうから、銀色の髪と翡翠の着物を靡かせて竜神の娘がやって来た。綿雲に乗った彼女は真っ黒な目を潤ませたまま、嗚咽をこぼしている。
「今年はまたよく泣くなぁ。人間どもがきゃんきゃん吠えてるぜ」
「だって」
「あー待て待て。泣くなよ。たまには御天道様にも仕事させねぇとバランスが崩れちまうからな」
しゃくりあげる小さい鼻を指先でつまめば、これ以上は下がらないくらいに眉が下がる。長い袖に手を隠して、さらに顔半分を隠してしまえば目しか見えなくなった。
「んで? 何をそんなに泣いてんだよ」
「昨日ね、水不足で困ってるって聞いて悲しくなって」
「うん」
「役に立ちたかったの。でも、降ってほしかった場所じゃなかったみたいで、でも時間差で落ちていっちゃうから止められなくて、それで、またやっちゃったって……ごめんなさい」
ついに目すら見えなくなった。顔を伏せて微かに震えているのは、泣くのを我慢しているせいだろう。
竜神一族は総じて涙もろい。些細なことで感動するし、しょうもないことで地の底まで落ち込むし、しょっちゅう目頭を押さえて涙を堪えている。
一族の長ともなればコントロールできるらしいが、まだまだ幼い娘には無理な話。おまけに、かなりのお人好しで歴代随一の降水量を誇る。人間が言うところの“変な天気”をもたらしているのは彼女で間違いない。
「やっちまったもんはしょうがねぇだろ。つうか、運び屋の風太郎はどこに行ったんだよ。平等に届けるのがあいつの仕事だろ」
「『こんな重いもの運べるか!』って、どこかに行っちゃった……。今は台風を作るのが楽しくて仕方ないみたい」
「あの野郎」
風神一族の問題児──風太郎は、よその国から流れてきた風にちょっかいをかける悪趣味をもっている。
あの一族は気まぐれで有名だから半分諦めてはいるが、そんなことしてる暇があるならついでに運んでくれればいいのにな。気の利かねえ奴め。
少し落ち着いてきたらしい彼女が顔を上げて、今度は俺に対して申し訳無さそうな顔をする。
「ごめんね。私のせいでライちゃんも怖がられちゃうね」
「いや俺様は雷神様だからな? 怖がらせてなんぼなんだよ」
「でも、私が泣けば泣くほど打ち鳴らす太鼓が増えるでしょ?」
「そりゃあな……でもほら、別にいつも鳴らすわけじゃねえし! どっかの問題児と違って、俺様は予定通りに仕事するしな!」
事実だから肯定しようとしただけなのに、じわりと潤んでいく目を見て慌てて取り繕う。こっちの状況を慮る必要なんてないのに、優しい彼女は俺のことを心配して憂いてくれる。
「そんな心配すんなって。やってるうちにコツが掴めてくるさ」
慰めではなく、彼女なら近いうちに完璧な仕事ができるようになると確信している。そう信じている俺の言葉に、彼女は力なく笑った。
「どうだろう……あのね、私、一族の皆に『出来損ない』って言われてるの。せめて降水量くらい調整できないのかって」
「できたら苦労しねえよって言い返せ」
「迷惑かけてばっかりで、失敗ばっかりで……私、ライちゃんにも見限られたらどうしむ!?」
めそめそと後ろ向きなことを垂れ流してる顎を鷲掴む。両側から押された柔らかい頬が唇を押し上げて、なんとも情けない顔になった。その上、驚いて目を丸くしているもんだから、まあ可笑しくて吹き出してしまった。
「ばーか。おまえに叩かれたところで痛くも痒くもねえよ」
見様見真似の拳を振り上げてぽこすか叩いてくるけど、元が優しいのに暴力なんてできるわけがない。真っ赤な顔して抵抗する彼女に、馬鹿げた質問の答えを返す。
「安心しろよ。どんな理由で泣いてようが、俺様はずっと隣にいてやっから。おまえこそ、ゴロゴロうるさくてやだーとか言うなよ」
雨と雷なんてお似合いだろうが。けらけらと笑ってやれば、黒目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。
あーあ、また雨が降っちまうなあ。
中性的な見た目で、口調は粗雑で、仕草は上品。
背は高くて、手足も長くて、髪も爪も瞳も綺麗。
いつも穏やかで、にこやかで、なのに隙がない。
そんな知り合いに呼び出された。
「なんか不機嫌だな?」
今日の待ち合わせは古民家風のカフェだった。癒やしの雰囲気に似合わないゴツいスピーカーから流れるアップテンポな曲は、いかに日々が楽しく心躍るものかを説いている。静かなクラシックに変えてほしい。
「ふむ、こんな楽しい曲を聞いてもしかめっ面のまま……さては、恋人にでもフラレたか」
「フラレてない。あんたと一緒にしないで」
「失礼だな! 意見のすれ違いが発生しただけで別れてはいないぞ!」
「その結果、音信不通のまま一週間経過したんでしょ。世間ではそれを自然消滅と言うの」
こいつが私に連絡を寄越すのは、大抵ひとりになって暇を持て余してるときだ。今回もどうせ大した用事じゃない。
「で、今回はどんな意見のすれ違い?」
「おまえが心躍るときってどんなとき?」
「はあ?」
人がせっかく話を聞いてやろうとしてんのに、突拍子もないことを──いや、こいつはそういう奴だ。真面目に取り合うだけ無駄だ。
「……恋人と一緒にいるときかしらね」
「あー、やっぱ同じこと言うよな。そりゃそうだ」
頻りに頷く顔が“予想してましたよ”と小馬鹿にしたように笑うので、思わず眉間にしわが寄る。
「じゃあ、あんたは心躍らないわけ? 愛しい愛しいマイダーリンと一緒にいて」
「踊るに決まってんだろ〜? なんなら軽快なステップを踏みながら愛を歌うし、勢い余ってプロポーズからのハネムーンへ飛び立つぜ」
「馬鹿じゃないの?」
我ながら辛辣な感想が口をついて出た。
「ココロオドルってのは好きだっていう感情の表現だろ? 一緒にいるからじゃなくて、好きだから心が躍る。だから、俺はいつでもどこでも心躍ってるぜ」
「……つまり?」
「マイダーリンがいてもいなくても、俺の心は常に踊ってるぜってこと」
「馬鹿じゃないの」
可愛い恋人のいじらしい問いかけに対する回答とは思えない。信じられないとばかりに顔をしかめて睨んだところで、こいつは顎に手を当てて唸り始めた。
「うーん。なんか盛大に誤解されてんな」
「私に弁明するよりも、マイダーリンに謝罪すべきだと思う」
「謝罪?」
「マイダーリンは、もっとときめくセリフを期待してたでしょうね。君といるだけで心が踊るとか、君が特別なんだとか」
「言われたいのか?」
「……どうかな」
改めて聞かれると困ってしまう。もし恋人にそんなセリフを言われたら、素直に喜べるだろうか。正直今は自信がない。
「ほらな? 誰かとか何かに心が踊るわけじゃないだろ?」
「……うるさい」
「その対象を好ましく思うからこそ、ココロオドルってもんだろ。だから、近くにいようが遠くにいようが関係ないのさ」
ふふんと鼻高々に胸を張るこいつが腹立たしい。苛立ちを隠すのも馬鹿らしくなって、真正面からジト目を向けてやる。
何かしらの反論でもしてやりたかったけど、恋愛初期は確かに距離なんて関係なかったと納得してしまって、結局何も言えなかった。
ため息をこぼして視線を下げた瞬間、テーブルの上に置かれていた携帯が鳴る。ご丁寧に『マイダーリン』と書いてあって、背筋がぞわぞわするような気色悪さを覚えた。
「登録名がキモい」
「名前だって立派な個人情報だろ? こうしておけば、ぱっと見誰だか分かんねえしな。──もしもーし、ひと段落ついたのか?」
秘匿するにしても他に方法があるだろう。うんざりするような脱力感に襲われて、額を押さえて項垂れる。その間もやけに楽しそうな弾んだ声が聞こえてきて、なおのこと気分が沈む。
「んじゃあ、いつもの場所で──はいはい。仰せのままに」
通話を終えてすぐさま立ち上がる。見上げた顔はいつも通りの明るさで、曇り空を知らない太陽みたいだった。
「じゃまたな! ここの支払いはしておくから、美味いランチでも食って元気出せよ!」
それだけ言って二度と振り返らない背中を見送る。言葉通りなら、もうすぐランチが運ばれてくるんだろう。どこまでもスマートで、やっぱり腹が立つ。
「……あーもう。マジで勘弁してよぉ」
軽やかなベルの音を聞いてからテーブルに突っ伏す。気遣われて嬉しいのに、特別じゃない事実が虚しくて、それでも拒否できない自分が情けない。
ココロオドル理由が好意をもっているからだと分かっているのなら、好意を抱かせるような振る舞いをしないでくれ。見たこともない名前も知らない『マイダーリン』に嫉妬してしまうから。