いつもと同じ通勤時間に通勤手段。できるだけ人混みを避けて、一本早いバスに乗る。左側の空いてる席に腰を下ろして、朝日にきらめく街並みや通りすぎる車の流れを眺める。
今までは手持ち無沙汰を解消するために携帯を取り出していたけど、ここ最近で楽しみができたから触る時間はだいぶ減った。
信号を曲がった先の停留所に、その人はいつも背筋を伸ばしてバスが来るのを待っている。打ちつけるような雨が降ってても、うだるような夏の日でも、関係ないと言わんばかりに凛と立っている。
なんだか彼女の周囲にだけやわらかな光が降り注いでるみたいに幻想的で綺麗なので、つい見てしまうのだ。
充電を忘れていて携帯に触れなかったあの日、ふと窓の外を見た自分を褒めてやりたい。それほどに日々の活力になっている。俗に言う『推し活』というものかもしれない。
ゆっくりとバスが曲がって停留所が見えてきた。
今日も背筋を伸ばして立っていた。そよ風に吹かれて揺れた髪を耳にかけて、目の前に止まったバスに乗り込んでくる。さっと車内を見渡して手近な席に腰を下ろして見えなくなった。
私の方が先にバスを降りるので、彼女がどこで何をしている人かなんて知ることはない。ただ、姿を見られたら今日も一日、頑張れるような気がしているだけだ。
「いや、めっちゃ怪しいからね」
「う゛」
「最近やけにテンション高いから恋人でもできたのかと思ったら……まさかの女かい。期待して損したわ」
昼休憩で一緒にランチをとっている同僚の呆れ顔がつらい。
「相手は一般人なんだからさ。ちょっとは考えなさいよ」
「座るまでの数秒くらい眺めててもいいじゃん……。めっちゃ綺麗な人なんだってば」
「じゃあ、私があんたに同じことしてもいいわけ?」
「私を見ても楽しくないでしょ」
「それもそうね」
「えー即答はちょっとひどくない? 最近は彼女を見習って、いろいろ頑張ってるつもりなんだけど」
ヘアケアにスキンケアに適度な運動で体型維持、食事も栄養バランスを意識した料理を作るようにしてるのに。傍から見て何も成果が無いのは少し悲しくなる。
「綺麗になったから聞いたのよ。あんた、自分の評判とか気にしてないの?」
「評判? んー……そういえば、この間のプレゼンは評判良かったなぁ。部長も褒めてくれて嬉しかった」
「そうじゃないでしょ。この仕事人間め」
むにっとつままれた頬をさすりつつ業務に戻った。
特に大きな問題も起きず、急ぎの仕事も舞い込んでこず、おまけに一本早い時間のバスに乗り込むことができた。よし、今日はツイてる。
窓側の方へ詰めると隣に誰かが座わろうとする気配がした。邪魔にならないように服の裾を整えて鞄を膝に乗せる。
ふわりといい香りがして、つい横目で見──。
「え」
ばっちりと目が合ってしまった。ほんの少し首を傾げて“どうも”と柔らかそうな唇が動いた。なんてこった、推しが! 隣に!
近くで見るとなお綺麗だ。やわらかな光が降り注いでるんじゃなくて、彼女自身が輝きを放っているようで眩しい。
混雑しているバスの中で声を上げるわけにもいかず、口元を手で覆い隠して小刻みに頭を下げながら目を逸らす。そろりと逸らした視界に入るように携帯の画面が差し込まれて、書かれている文字を読んで絶句した。
『毎朝同じバスですよね?』
バレている。
推し活とか馬鹿なことを考えている場合じゃない。血の気が引くのが分かって、まともに彼女の顔を見られない。でも、何か返さないとと思って取り出した携帯に文字を打つ。
『ごめんなさい。あまりにも綺麗だったのでつい眺めてました』
文字を読んだ彼女の目がまん丸くなった。焦るあまり謝罪に見せかけたナンパみたいになってることに気づいて、さらに言葉を付け加えようとしたら──。
「ごめんごめん。別に怒ってないよ」
耳元で低い声がした。
右側は窓だから声がするはずもない。かといって、左隣には楽しそうに微笑む彼女しかいない──え?
目を白黒させている私の前に画面をかざす。
『俺、男なんだよね』
ここ最近で、一番の驚きを得た。
☆
俺の友達には真実を見抜ける奴がいる。
冗談ではなく、ガチのマジで嘘が通じない。切れ長の鋭い眼差しに射抜かれたが最後、どんなに巧妙な嘘を張り巡らそうとも必ずバレる。腐れ縁の俺ですら隠し事ができた例がない。
「あいつ、ぜってえ特殊能力あるよ」
「この間なんか先生の嘘を見抜いたらしいぜ。それが奥さんの耳に入って修羅場になってるとか」
「俺も経験あるんだけど、マジこえーよ。『課題の提出期限ですが、終わっていますか』って聞かれて、俺が答える前に『やってないんですね』って言われたからな」
「それは日頃の行いのせいじゃね?」
「むしろ疑う必要がないレベル」
今日も彼女が通った後にはざわめきが広がる。
俺は風が通り過ぎた後の木の葉が擦れる感じに似てるから好きだけど、当の本人はどうだろう。いつも涼しい顔をして前を見据えているから分からない。
「何?」
「え」
「視線を感じる。言いたいことがあるならどうぞ」
「いや、おまえが通った後って賑やかだよなぁって思って」
「……そう?」
訝しげな目が俺の言葉を確認するかのように後ろを見ると、喋っていた三人組が肩を跳ね上げて逃げていった。別に何もしてないだろうが。
「全然気にしてなかった」
「みたいだな。まあ、別に悪口ってわけでもねえしな」
「ふふっ。君は相変わらず優しいね」
見逃すくらいの小さな微笑みを浮かべて、彼女はまた前を見据えて歩き出す。その眼差しはやっぱり鋭い。
俺と彼女の関係は腐れ縁としか言いようがない。
小学校からずっと同じクラスで、席替えをしても常に隣同士。小学四年から中学二年あたりまではからかわれることもあったけど、こっちが反応しなければ大したことにはならない。
公正なくじ引きの結果だし、俺も彼女も『また一緒か。よろしく』くらいの感想しか抱いてなかったことも幸いした。今では誰も何も言わない。
「そういえば、君は県外の大学を志望してるらしいね」
「まあな。そこに行かねえと必要な資格が取れねえし、在学中に研修受けられんのも魅力的だったからさ」
「夢があるのは良いことだ。応援するよ」
「そりゃどーも。おまえは何かしたいこととかねえの?」
「したいことか……あると言えばあるが、ないと言えばないな」
「ほーん。まあ、おまえはなんでもできるしなぁ」
勉強はもちろん、スポーツもわりとできる彼女の進路は手堅い。俺はちょっと頑張らねえとならないから羨ましい。
「そういや、おまえって特殊能力あんの?」
「どうした急に」
「さっきいた三人組が話してたんだよ。おまえが必ず嘘を見破るのは、何か特殊な能力を持ってるんじゃないかって」
「へぇ。イイ線いってるな」
「へ?」
思わぬ言葉が返ってきて足が止まった。
少しだけ楽しそうに口角を上げた彼女が肩越しに振り向いて、人差し指を目元に押し当てた。
「私の目には、どんな相手でも正直になってしまう魔法がかけられている。だから、私の前では誰も嘘をつけないのさ」
ふふんと鼻で笑う顔はとても楽しげだ。まさか乗ってくるとは思わなくて、上手い切り返しができなかったのが悔やまれる。
「つまり俺は、おまえといる限り嘘をつけないってわけだな」
「そのとおり。さすがの君でもドン引きだろう?」
「いや別に」
止めていた足を動かして隣に並ぶ。
「嘘をつかなくて済むなら、その方がいいに決まってるし。なんか理想の友情って感じで最高じゃね?」
気を使う必要がないなんて気楽でいいよなぁ。
俺の呟きを拾った彼女は、しばらく間抜けに口をぽかんと開けていた。その時間があまりにも長かったから首を傾げると、今度は腹を抱えて盛大に笑い飛ばされた。
「なんだよ! そんな笑うことか!?」
「あはははっ! だって、君が……ふふ、高校を卒業しても私と一緒にいる前提で言うから」
「……あ、マジだ」
一緒にいることが当たり前になりすぎてて、これから先もこんな感じでいるもんだと思ってたらしい。涙目になるほど笑われると、なんだか小っ恥ずかしいむず痒さに襲われる。
「あーもううっせ! おまえは俺と一緒にいたくねえのかよ!?」
「いや? 一緒にいてくれるなら是非にとお願いしたいね」
「本当だろうな?」
「本当だとも。この目を見ても信じられないかい?」
いつもの鋭い眼差しを引っ込めて、まだ笑みの残る柔らかい眼差しが向けられる。
それが嘘だとは、どう見ても思えなかった。
10/16/2023, 2:04:20 PM