善次

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1/29/2023, 12:10:48 PM

街へ

 『はるま』のラーメンが食べたい。
 春にしては寒い日だったから、そんな思いがコウヘイの体を動かした。球体ベッドの中に収めていたゲル状の体でぬるぬると這い出し、外着に身を滑り込ませる。四足歩行式耐衝撃スーツは、首を根本で切られた馬のような外見をしている。スライミィ、いわゆる不定形生命体のコウヘイは、外へ出る際には儚いプルプルボディを守るため、こうしたスーツが必要なのだった。
 馬に例えるならヒヅメの上にある、球節の部分に取り付けられている個人認証キーで家の戸締まりをし、カポカポと『はるま』を目指す。
 『はるま』は十数年前に駅前にできたラーメン屋で、ヒト型から獣人向けまで幅広いラーメンを提供している。そのせいで味は「しょう油」しかないのだが、コウヘイは『はるま』の大雑把な空気が好きなので気にしたことがない。
 閑静な住宅街を通り過ぎ、最寄り駅が近くなると自然と活気づいた雰囲気に包まれる。鱗も角も牙もないヒト種が着飾って電車を待っていたり、サイ系獣人がむっつりとパチンコ店の看板を手に佇んでいたりする。コウヘイと同じスライミィのグループが、似たようなスーツに身を包んで慌ただしく駆けていった。塗装まで統一されていたから、たぶん学生だろう。
 コウヘイは過ぎ去った学生時代に思いを馳せながら、『はるま』の戸をくぐった。昼の一番忙しい時間帯は過ぎ去り、まばらに客が席についている。掃除は行き届いているのだが、全体的に古臭くてさびれた印象が、コウヘイは好きだ。
「ラーメンひとつ」
「ウッス」
 バイトのエビ型マシンが首を縦に振った。触角で端末に注文が入れられると、待機していた大将がのっそりと身を起こしてラーメンを作り始める。
 『はるま』の大将はヒト・サイボーグだ。三対の腕を器用に使いこなし、全部で十二個ある目で温度・塩分・麺の茹で具合・スープの濃淡をチェックし、しょう油ラーメンができあがる。
「おまち」
「ありがと」
 スライミィ用ラーメンは他の種族用ラーメンと比較すると、冷えていると表現してよい。スライミィは急な温度変化に強くないので、摂取する食餌もできれば体温と似た温度が求められる。
 使い古された器に波打つ茶色いゲルは、コウヘイにとっては〈熱いラーメン〉だ。給餌用のストローをスーツから突き出し、ちょっとずつラーメンをすする。熱いスープと、糸のように細い麺をすすり、フゥフゥはぁはぁ言いながら夢中で食べる。
 最後の一滴もストローで吸い尽くし、冷えた飲料水で一服する。
 端末でくだらない情報を読み、ラーメンの消化を待つ。体全体をあたためていた熱が落ち着いた頃、コウヘイは席を立った。
 会計を済ませ、昼下がりのぬるい風をスーツの温度表示で知る。傾いた太陽がのんきな光を街へと注いでいた。
 そのまま家に帰ろうかとも考えたが、せっかく外へ出たので目的なく散歩することにした。どうせ今日は休みだ。抱えていた案件も片付いたし、急に連絡がくることもないだろう。祈りにも似た気持ちでカポカポ、街をさ迷う。
 〈都市〉はいちばん人口の多いヒト種に合わせて計画・建設されているから、スライミィのコウヘイが暮らすには不便な点も多かった。ビカビカと眩しくて、乾燥していて、スーツがなければまともにドアも開けられず、食料品店で売っているスライミィ向けのものと言えばマズい流動食しかない。
 それでも――ヒトも獣人もマシンもモンスターも混在するこの街の野放図さを、コウヘイは愛している。
 地元ではコウヘイの技術を活かせる仕事はなかった。反対する一族から逃げるように街へ出て、苦しいながらも自由な生活を謳歌している。自分だけの悩みだと感じていたことも、他種族も味わっていることを知った。
 公園のベンチのそばで動きを止める。終戦祝いで植樹された桜が、ふっくらとしたピンク色のつぼみでいっぱいになっていた。
 ――やっぱ、ここに来てよかったな。
 スーツの一部を開けて生身で桜を見上げながら、コウヘイは和やかな街の昼を愛しんだ。

1/27/2023, 2:23:29 PM

優しさ

 学校の帰り道に暴れイノシシに衝突したおれは、気がつくと異世界に転生していた。ふしぎな世界『ボア・ボタン』で冒険者として生きることを決めたおれは、いろいろあって魔王を倒す勇者に認定されてしまった。気の合う頼もしい仲間たちと一緒に、厳しい旅の最中にある。
 おれは『ボア・ボタン』に転生する際、女神マータギから特殊な能力を与えられた。それは〈時間操作〉だ。過ぎてしまった時間を戻してやり直すことができたり、長くはないがある瞬間に時間を止めてしまうことだってできる。この能力を駆使して、おれは冒険者として名を挙げてきたのだ。
 そして、いま、魔王の配下たちを激闘の末に打ち破ったおれの前に、とてつもない難関が立ちはだかった――


 レオンはおれのパーティの中では最古参にあたる、頼れる戦士だ。おれよりずっと年上で恰幅もよく、冒険者として生きる上で大事なことをたくさん教えてもらった、恩人だ。
 そのレオンの尻が丸見えになっていた。
 より正しく言えば、魔王の配下の攻撃のせいで、スボンの尻部分だけが器用に破れていて、そのせいでレオンの鍛え抜かれた尻が丸見えになっている。
 ウワッどぉーーしよぅ――情けなくうろたえたおれは、思わず他のみんなの顔を見渡した。レオンの尻に気づいている者もいれば、まだ知らない者もいる。何人かチラチラとレオンの尻と顔へ視線を送っては、レオン自身が気づいてくれないものかと祈っていた。
 しかし当のレオンは最近いい感じになったマリア相手にデレデレしていて、自分の尻の無惨さに気づいていない。くっきりしたムチムチの谷間が風通し良く露わになっているのだが、レオンは目の前のマリアに夢中だった。
 時間を戻してレオンの尻を守るべきだろうか――それとも――立ち尽くすおれの代わりに、動く者がいた。
「おい! レオン! しつこいぞ! 姉さんが困ってるじゃないか!」
 マリアの弟、弓使いのヘンリーだった。ずかずかとレオンに歩み寄り、具足に守られた足を蹴る。
 いつものシスコン発作かな……と見ていると、ヘンリーはごく自然にマリアの視界からレオンの尻が見えない立ち位置をキープしながら怒鳴っていた。
「おいおいヘンリー、勘弁してくれよ。ベヒーモスの爪から守ってやっただろ? マリアと話すくらいいいだろ」
「それとこれとは話が別だ。さっさと汚れた体をきれいにしてこい!」
「わかったよ」
 しぶしぶマリアの下を去るレオン――尻がマリアに向けられる――ヘンリーが体を盾にマリアを尻から守る。
「もう、ヘンリーったら。話してただけなのよ」
「あいつは姉さんに相応しくないよ!」
 レオンへの不満を姉へ並べたてるヘンリーから離れ……レオンへマントを差し出す者がいた。
「これを忘れてるぞ」
「……おまえさんからプレゼントを貰うのは怖いな」
 マントを手にしているのは、オーガ族のエンリケだ。種族や連綿と続く争いのせいで、人とオーガの関係は悪い。レオンとエンリケもまた、性格の違いもあって対立することが多かった。
 それでもエンリケはレオンを傷つけまいと、尻が隠れるマントを送っている。
「きさまの働きは見事だった。称賛に値する。それだけだ」
「剣に迷いがあると怒ってたくせにか? よく言うぜ。ま、貰えるものは貰っておく。ありがとよ」
 マントを受け取ったレオンは真紅の外套を身につけ――歴戦の戦士として、誇り高き姿を輝かせた。
 尻も隠れた。
 おれは思わず拳を握る。解決に気づいた魔法使いのルビーや、薬師のアルゴルも小さく歓声をあげた。
 よかった、と思うと同時に、おれは気づいた。
 レオンの尻を守るために、みんなが力を尽くしてくれた。
 嫌ってるように見えても、いがみあっていても、仲間の尻を守るために、優しさを惜しみなく注いでくれたのだ。
 おれの能力は時間を操作できる。けれど、時間の保存はできない。この、みんなが尻へ与えた優しさを保存しておくことは、できないのだ。
 みんなの優しさ――慈しみ――が流れ行く時間に埋もれてしまうことがひどくさびしく感じられ、おれはちょっとだけ泣いた。

1/26/2023, 1:33:44 PM

ミッドナイト

 ミッドナイト・ブルー――夜にだけ現れる青。
 暗くて深い色のなかに街の灯りが輝く……。
 人の営みを飲み込んでうつろい、眠りを誘う。
 微睡みを友とし、静謐と喧騒とをまとめて紫煙で彩った、深夜……ミッドナイト……。
 人々が夢の中で禍福を噛みしめる時間にだけ現れるそれを、蜜のように、毒のように味わう。

 あなたの手を照らすブルーライト。その源。
 人が社会の一員として、集団として、組織として、個人として、つながるために鎖のごとく拘束するスマートフォン。
 探してみるといい。
 あなたが滑らかなディスプレイを撫でてやれば、それは幻夢のように視界を彩る――

 おにぎり……やきそば……ラーメン……焼き鳥……あるいはビール(BEER)。

 深夜に現れる妖精。肉体が求めて止まぬ豊かな味わい……夜食――不健康――成人病を招くあなたの敵。あなたの神。あなたは止められない。

 ハンバーガー……うどん……牛丼……スシ……そしてウィスキー(WHISKEY)。

 いのちを選ぶ?
 欲を満たす?
 深夜の問い――答えは出ない/迷いはない――あなたの運命。
 コンビニへ歩むあなたが握るのはSuica……それとも飲食店へICOCA?
 ミッドナイト・ブルーをはらんだ街があなたを誘惑する。

 血糖値……体脂肪率……BMI……虫歯……だけど、幸福(HAPPINESS)。

 ミッドナイト、夜にだけ現れる。
 ミッドナイト――夜食とあなたの華麗なるワルツ。
 誰にも止められない。

1/25/2023, 12:17:59 PM

安心と不安

「保険、入ってみないか」
 数年ぶりの連絡自体、嫌な予感がしていた。うさんくさい笑みを浮かべて鞄からタブレット端末を取り出す友人に、雅紀は己を守るように腕を組む。
「おれに金はない」
「まあ、そう言うなって。大した保険料じゃねえからさ。試しと思って入ってみろよ。今なら衣料用洗剤とタワシもつけるし」
「いらねえ」
「中身だけでも聞いてけって。ただの生命保険とか車両保険じゃない、創作保険だ。ものを作る人間のための、保険だ」
 また胡乱な話を――カップいっぱいに注がれたぬるいコーヒーを口につける。熱っぽく創作保険について語る友人こと雄大は、出来の悪いパワーポイントを表示させながらあれこれ説いた。
「創作、クリエイティブな仕事に携わる人間は不安定な状況に置かれることが多い。所得だけじゃない、身体面、精神面もだ。健康的に過ごせそうにない環境下で長時間の労働を求められるし、人間関係やら自分のスランプのせいでメンタルをやられるやつもいる。そんなとき活躍するのが創作保険ってわけだ。月にたった二千円お支払いいただけるだけで、こんなサービスが受けられる」
 箇条書きのサービス内容がグルグル回転しながら所定の位置におさまる。
 タクシー割引券五百円分、家事代行、お子様の送迎、病院までの送り迎え、専門家によるメンタルケア、創作に関する相談およびアイデア提供――すべて月に一度のみ。しかもすべてのサービスが使用できるわけではなく、いずれか三つを選べる、というもの。
「信用できるかこの野郎しばくぞ」
「あいかわらず短気だな、おまえは。大人気サークル『キャラメル納豆』のサークル主として、人を頼りにしたいときもあるだろ」
「公共の場でサークル名を出すんじゃねえ。商売としては、いいだろうさ。あったら助かるやつもいる。ただ安すぎるんだよ。どのサービスを組み合わせて受けるにしても、だ。それに、保険っていうのが、気に入らない」
「どうして?」
「保険はそもそも安心と不安をセットにして売る商売だ。人生なにが起こるかわかりませんから、今のうちに備えておきませんか、っていう人間の不安につけこんでる形態自体が好きじゃねえ。クリエイターのための保険というのなら、そもそもクリエイター、クリエイティブな仕事で生きる人間が生きやすい制度を整えるべきだろう。この保険はそもそもクリエイターが所属してる集団や組織と衝突する危険はねえのか? だいたいアイデア提供ってなんだ。職業によっちゃ越権行為だし著作物の権利にも関わる――」
「わかったわかった。保険というのが気に食わないんなら、言い換えよう。創作お手伝い屋さんだ。クリエイターの補佐を、仕事内容の他で支える仕事さ。どうだ?」
 雄大の妙に軽薄な態度や、お手製感バリバリのパワーポイント資料、具体性のなさ、長年の付き合い……そういうものから、雅紀はピンときた。
「さては創作保険なんて事業、ないんだろ。おまえの思いつきでおれから金をとろうってんだな」
「そんなことは――」あからさまに狼狽し、雄大。「ごめんなさい」
「ふざけんなブッ殺すぞボケナス」
「ワーッ! 待て待て! 騙そうってんじゃないんだよ!」
 フォークを突きつけて脅すと雄大は白状した。むかしからそうなのだ、こいつは。
「悪かった、正直に言うよ。おれもさ、最近ようやく仕事が落ち着いて……むかしみたいに活動したくなったんだよ。でもひとりじゃ全然だめだった。なんにもできねえんだ。で、おまえの補佐ってことなら……いいかなあって」
「最初からそう言えばいいだろうが」
「だっておまえ、信じないだろう」
「もちろん」
 がっくり肩を落とした雄大に、コーヒーをぶちまけてやりたい気持ちになりつつ――雅紀はダラけた学生時代を思い出していた。
 二人で立ち上げた同人サークル、刷りすぎてさばけなかった同人誌、締切に間に合わなくて印刷所に泣きついた夜、入稿データが消えた朝――どれもろくでもない――そこそこ楽しかった日々。
 雄大の存在が、雅紀にとっては〈保険〉だ。安心と不安をセットにしてやってくる。
「わかったよ。やろうぜ、二人で。久しぶりに」
「……ありがとな」
 眼鏡の奥の目をうっすら涙で濡らし、雄大が鼻をすする。おれはまだ完全に許したわけではないのだぞ、という態度で、雅紀は尋ねる。
「んで、なにやりてえの」
「マンションポエム擬人化麻雀バトルとかどうよ!」
「またテメェは意味のわからん寝言をほざきやがって! 描くのはおれだぞ! おれが描きてえのは甘酸っぺえ青春なんだよッ!」
「得られなかった幻にいつまでもしがみついてんじゃねえ! 時代は闘争だ! 常に新しい考えが勝つんだ!」
 いい年をしたオッサンが喚き始めたことで二人して店を追い出され、冷たい北風が吹きすさぶ街を歩く。どこへ行くでもなく、ただ口論を続けるためだけに、二人は歩いた。

1/24/2023, 3:36:02 PM

逆光

 寿司下駄の上に並べられた寿司たちを、ユキはいつも宝石を眺めるように見つめていた。
 真っ白に洗いあげられた白衣に身を包んだ父が自慢だった。ユキには優しくてあたたかい笑みを向けてくれる、その顔を、記憶にある通りいまよりずっと低い視点から見上げる。
「おとうさん」

 ユキ。

 父が振り向く。照明を背負ってユキの目の前に立つ父の、その笑顔が、見えない。
 逆光のせいで見えなかったのか、それとももう父の笑顔すら思い出せなくなってしまったのか、悲しみを感じながらユキは夢より覚めた。


「おはようございます、ユキさん」
「おはよ、ソラボウ」
 寿司屋の朝は早い。日も昇らぬうちから今日のネタを仕入れに市場へ向かい、魚だけではなく客に提供するすべての食材を買いつける。ユキは寿司職人ではないが、生家である寿司屋『バハムート』の大将であった父・テンスケの一人娘としてできる限りのことを行っている。
 父は数年前、病に倒れ、助かることなくこの世を去った。後を継いだのは父の一番弟子であったソラボウだ。元々三つ星ホテルでソムリエとして働いていた労働アンドロイドのソラボウは、まかないで振る舞われた寿司の味に感動して寿司職人へと転向したのだという。
 ごろつきに半壊させられたソラボウを拾ってきたのは父だった。寿司職人を目指すアンドロイドはどこの寿司屋でも受け入れてもらえず、貯金も尽き、あてもなくさまよっていたところを襲われたらしかった。軍で培った技術でなんとかソラボウ――その頃はシャイニィという名だった――を直した父は、変わり者のアンドロイドを弟子に迎えた。
 自転車のフレームに回転灯をくっつけたような姿をしているソラボウは、寿司を握るためだけに手を特注のヒト型手指へと換装していた。奇怪な姿に幼いユキは警戒したものだが、物腰柔らかで口もうまいソラボウをいつしか兄のように慕うようになった。
 生まれてすぐ母を亡くし、厳しい父とふたり暮らしていたユキが触れる、母性に等しい優しさをソラボウは与えてくれた。父が病に倒れたときも、葬儀のときも、ずっとユキに付き添ってくれた。ソラボウがいない生活など考えられない。
「今日はいいサバが手に入ったよ。脂がのっててすごく美味しそう」
「ユキさんの目利きは世界一ですからね」
「またそんなお世辞ばっかり」
「本当ですよ。いくら聞いて見て触っても、私にはわからないところを、ユキさんには感知できる。目利きだけで仕事ができますよ」
「ありがと」
 ソラボウが頭部、回転灯みたいな筒状のそれをクルクル回して光らせた。お世辞じゃないですよ、という否定の意味だ。
 むずがゆい思いで笑みを浮かべたままユキは店の掃除を始めた。寿司を握れないユキができるのは、店を支えるための雑用だ。客が心地よく寿司を堪能できるようにテーブルを拭き、椅子の調子を確かめ、湯呑にひびがないかをチェックする。毎日おしぼりを届けてくれる業者から重い箱を受け取り、タオルウォーマーへおしぼりを並べていく。
 昼にはお腹を空かせた客がたくさん来るだろう。アンドロイドが握る寿司屋でも、味がよければ客は来る。
 のれんをかけるためユキは外へ出て、そこで異変に気づいた。
 通りのほうが騒がしい――悲鳴が聞こえる。
 朝の街に轟音が響く。再び悲鳴、爆発音、そして金属同士をものすごい勢いでこすり合わせたような異音――。
 息を切らせて走ってきた者が、傷だらけの様相で叫んだ。
「暴れ人食い鮫だ!」
 建物の陰から見え隠れする凶悪な背ビレに、ユキは身動きひとつできなくなった。
 暴れ人食い鮫は戦争中に開発された半機械生体兵器だ。動くものすべてを見境なくチタン合金の歯で食いちぎり、体内の反重力装置でもって空を舞う。終戦後に大半が駆除されたが生き残りが街へやってくることがあった。
 逃げる男の背に暴れ人食い鮫が踊りかかる。ワッと声すらあげる間もなく男の首が鋭い歯にちぎられ、ユキの足元に転がった。
 ――逃げなきゃ……でも足が……。
 感情のない暴れ人食い鮫の目に睨まれると、もうだめだった。がたがたと笑う膝には力が入らず、すぐ横にある店の戸を開ける勇気さえ持てない。
 鮫の口が迫る――血と皮と肉にまみれた刃――覚悟すらできぬままユキの目に焼きつく光景。
 すさまじい金属音の余韻が耳を痛めるのと、道路に突っ伏す我が身に気づくのは、ほぼ同時だった。
「ソラボウ!」
「ユキさん……逃げ、て……」
 暴れ人食い鮫に噛まれ、ぼろぼろになったソラボウが横たわっていた。動けぬユキを突き飛ばし、代わりに自分を犠牲にしたのだろう。自慢のヒト型手指がついた腕が火花を放って転がっていた。
「ソラボウ、ソラボウ!」
「ユキさ、ん……逃げて……にげ、テ……」
「やだよ! ソラボウが死んじゃう! そんなのヤダ! ソラボウまであたしを置いてかないで!」
「ユ……、キ、…生きて……」

 ユキ、生きろ。おれの分まで。

 病床の父がささやく――痩せ細った父は笑いすら浮かべられなくなった。父の笑顔が思い出せない。逆光で見えない。
 ――ソラボウまで失いたくない!
 勢いに任せて近隣の建物へ突っ込んでいた暴れ人食い鮫が、身を反転させ、再びユキたちへ襲いかかる。時間はない。
 ソラボウが持っていたのだろう、道路にべしゃりと落ちていたサバを、ユキは握る。尾の部分をしっかり握りしめ、暴れ人食い鮫と対峙した。
「『サバ・ソード』!」
 サバを握る右手に力が湧く。華奢なユキの手から放たれた力がサバを輝かせ、鱗の一枚一枚が激しい光を放つ。
「わあああああああっ!」
 裏返った絶叫が喉からほとばしる。猛スピードで突っ込んでくる暴れ人食い鮫の、凶悪無比な鼻っつらへ、ユキはサバを振り下ろした。
 輝くサバが鮫の身を切り裂く。
 突っ込んできた勢いのまま、暴れ人食い鮫はレーザーにでも裂かれたかのようにきれいに分断され、血と機械油をまき散らしながら活動を停止した。
 ユキが寿司を握れない理由がこれだった。手にした魚が武器になる。いい魚であればあるほど、強力な武器になってしまう。
 サバを投げ捨てソラボウに抱きついたユキは、あふれ出る涙を止めることができなかった。鮫を退治できたってソラボウを救うことはできない。父の跡を継ぐこともできない。忌々しい力のことがユキは嫌いだった。
「ソラボウ、やだよ……置いてかないで……」
「ユ……テ……」
 だいじょうぶか――誰か――救急車――
 サイレンと叫びが淡い水色の空に響き渡る。まるで父が死んだ日の朝のように、清らかに晴れ渡った空だった。


 コアが無事だったことでソラボウはなんとか助かり、寿司屋『バハムート』は営業再開までこぎつけた。
「二度とあんなことしないでよ。約束だからね」
「それはどうでしょう。テンスケさんとの約束は破れませんからね。あなたを守るのが、テンスケさんと私の約束なんです」
「ソラボウが勝手に死んだら密漁業者の用心棒になって手を汚してやる」
「やめてください」
 でも厄介な客を追い払うのに力を使うのはいいかも、とユキは笑った。
 呆れを表すためにソラボウが頭部を点滅させる。
「ソラボウ」
「はいはい、なんでしょう」
 ソラボウに顔はない。それでもどういう〈顔〉をしてユキを見ているのかは、わかる。そのことを深く胸に刻み、ユキは「なんでもない」と首を振った。
 今度の夢は逆光に悩まされることはないだろう。

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