善次

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逆光

 寿司下駄の上に並べられた寿司たちを、ユキはいつも宝石を眺めるように見つめていた。
 真っ白に洗いあげられた白衣に身を包んだ父が自慢だった。ユキには優しくてあたたかい笑みを向けてくれる、その顔を、記憶にある通りいまよりずっと低い視点から見上げる。
「おとうさん」

 ユキ。

 父が振り向く。照明を背負ってユキの目の前に立つ父の、その笑顔が、見えない。
 逆光のせいで見えなかったのか、それとももう父の笑顔すら思い出せなくなってしまったのか、悲しみを感じながらユキは夢より覚めた。


「おはようございます、ユキさん」
「おはよ、ソラボウ」
 寿司屋の朝は早い。日も昇らぬうちから今日のネタを仕入れに市場へ向かい、魚だけではなく客に提供するすべての食材を買いつける。ユキは寿司職人ではないが、生家である寿司屋『バハムート』の大将であった父・テンスケの一人娘としてできる限りのことを行っている。
 父は数年前、病に倒れ、助かることなくこの世を去った。後を継いだのは父の一番弟子であったソラボウだ。元々三つ星ホテルでソムリエとして働いていた労働アンドロイドのソラボウは、まかないで振る舞われた寿司の味に感動して寿司職人へと転向したのだという。
 ごろつきに半壊させられたソラボウを拾ってきたのは父だった。寿司職人を目指すアンドロイドはどこの寿司屋でも受け入れてもらえず、貯金も尽き、あてもなくさまよっていたところを襲われたらしかった。軍で培った技術でなんとかソラボウ――その頃はシャイニィという名だった――を直した父は、変わり者のアンドロイドを弟子に迎えた。
 自転車のフレームに回転灯をくっつけたような姿をしているソラボウは、寿司を握るためだけに手を特注のヒト型手指へと換装していた。奇怪な姿に幼いユキは警戒したものだが、物腰柔らかで口もうまいソラボウをいつしか兄のように慕うようになった。
 生まれてすぐ母を亡くし、厳しい父とふたり暮らしていたユキが触れる、母性に等しい優しさをソラボウは与えてくれた。父が病に倒れたときも、葬儀のときも、ずっとユキに付き添ってくれた。ソラボウがいない生活など考えられない。
「今日はいいサバが手に入ったよ。脂がのっててすごく美味しそう」
「ユキさんの目利きは世界一ですからね」
「またそんなお世辞ばっかり」
「本当ですよ。いくら聞いて見て触っても、私にはわからないところを、ユキさんには感知できる。目利きだけで仕事ができますよ」
「ありがと」
 ソラボウが頭部、回転灯みたいな筒状のそれをクルクル回して光らせた。お世辞じゃないですよ、という否定の意味だ。
 むずがゆい思いで笑みを浮かべたままユキは店の掃除を始めた。寿司を握れないユキができるのは、店を支えるための雑用だ。客が心地よく寿司を堪能できるようにテーブルを拭き、椅子の調子を確かめ、湯呑にひびがないかをチェックする。毎日おしぼりを届けてくれる業者から重い箱を受け取り、タオルウォーマーへおしぼりを並べていく。
 昼にはお腹を空かせた客がたくさん来るだろう。アンドロイドが握る寿司屋でも、味がよければ客は来る。
 のれんをかけるためユキは外へ出て、そこで異変に気づいた。
 通りのほうが騒がしい――悲鳴が聞こえる。
 朝の街に轟音が響く。再び悲鳴、爆発音、そして金属同士をものすごい勢いでこすり合わせたような異音――。
 息を切らせて走ってきた者が、傷だらけの様相で叫んだ。
「暴れ人食い鮫だ!」
 建物の陰から見え隠れする凶悪な背ビレに、ユキは身動きひとつできなくなった。
 暴れ人食い鮫は戦争中に開発された半機械生体兵器だ。動くものすべてを見境なくチタン合金の歯で食いちぎり、体内の反重力装置でもって空を舞う。終戦後に大半が駆除されたが生き残りが街へやってくることがあった。
 逃げる男の背に暴れ人食い鮫が踊りかかる。ワッと声すらあげる間もなく男の首が鋭い歯にちぎられ、ユキの足元に転がった。
 ――逃げなきゃ……でも足が……。
 感情のない暴れ人食い鮫の目に睨まれると、もうだめだった。がたがたと笑う膝には力が入らず、すぐ横にある店の戸を開ける勇気さえ持てない。
 鮫の口が迫る――血と皮と肉にまみれた刃――覚悟すらできぬままユキの目に焼きつく光景。
 すさまじい金属音の余韻が耳を痛めるのと、道路に突っ伏す我が身に気づくのは、ほぼ同時だった。
「ソラボウ!」
「ユキさん……逃げ、て……」
 暴れ人食い鮫に噛まれ、ぼろぼろになったソラボウが横たわっていた。動けぬユキを突き飛ばし、代わりに自分を犠牲にしたのだろう。自慢のヒト型手指がついた腕が火花を放って転がっていた。
「ソラボウ、ソラボウ!」
「ユキさ、ん……逃げて……にげ、テ……」
「やだよ! ソラボウが死んじゃう! そんなのヤダ! ソラボウまであたしを置いてかないで!」
「ユ……、キ、…生きて……」

 ユキ、生きろ。おれの分まで。

 病床の父がささやく――痩せ細った父は笑いすら浮かべられなくなった。父の笑顔が思い出せない。逆光で見えない。
 ――ソラボウまで失いたくない!
 勢いに任せて近隣の建物へ突っ込んでいた暴れ人食い鮫が、身を反転させ、再びユキたちへ襲いかかる。時間はない。
 ソラボウが持っていたのだろう、道路にべしゃりと落ちていたサバを、ユキは握る。尾の部分をしっかり握りしめ、暴れ人食い鮫と対峙した。
「『サバ・ソード』!」
 サバを握る右手に力が湧く。華奢なユキの手から放たれた力がサバを輝かせ、鱗の一枚一枚が激しい光を放つ。
「わあああああああっ!」
 裏返った絶叫が喉からほとばしる。猛スピードで突っ込んでくる暴れ人食い鮫の、凶悪無比な鼻っつらへ、ユキはサバを振り下ろした。
 輝くサバが鮫の身を切り裂く。
 突っ込んできた勢いのまま、暴れ人食い鮫はレーザーにでも裂かれたかのようにきれいに分断され、血と機械油をまき散らしながら活動を停止した。
 ユキが寿司を握れない理由がこれだった。手にした魚が武器になる。いい魚であればあるほど、強力な武器になってしまう。
 サバを投げ捨てソラボウに抱きついたユキは、あふれ出る涙を止めることができなかった。鮫を退治できたってソラボウを救うことはできない。父の跡を継ぐこともできない。忌々しい力のことがユキは嫌いだった。
「ソラボウ、やだよ……置いてかないで……」
「ユ……テ……」
 だいじょうぶか――誰か――救急車――
 サイレンと叫びが淡い水色の空に響き渡る。まるで父が死んだ日の朝のように、清らかに晴れ渡った空だった。


 コアが無事だったことでソラボウはなんとか助かり、寿司屋『バハムート』は営業再開までこぎつけた。
「二度とあんなことしないでよ。約束だからね」
「それはどうでしょう。テンスケさんとの約束は破れませんからね。あなたを守るのが、テンスケさんと私の約束なんです」
「ソラボウが勝手に死んだら密漁業者の用心棒になって手を汚してやる」
「やめてください」
 でも厄介な客を追い払うのに力を使うのはいいかも、とユキは笑った。
 呆れを表すためにソラボウが頭部を点滅させる。
「ソラボウ」
「はいはい、なんでしょう」
 ソラボウに顔はない。それでもどういう〈顔〉をしてユキを見ているのかは、わかる。そのことを深く胸に刻み、ユキは「なんでもない」と首を振った。
 今度の夢は逆光に悩まされることはないだろう。

1/24/2023, 3:36:02 PM