耳を澄ますと
噂が流行りだしたのは三ヶ月ほど前だ。TikTokで再生数を稼いでいる動画が発端で、それは日本からずっとずっと遠いブラジルでの話のはずだった。
「鈴の音が聞こえるともうダメだ」
今度はインスタのストーリーで〝被害者〟が現れた。太ったラテン系の青年が恐怖に染まった顔でなにかを喚きたて、突然悲鳴をあげる。青年は「鈴! 鈴だ! 鈴の音がする!」と叫び(字幕にそう書いてあった)、放り投げられたスマホが暗闇を映す。そして青年のあわれな声をスマホが拾う。
「ウンコぶりっちょ! ウンコぶりっちょ!」
その〝ウンコぶりっちょ〟はたちの悪いインフルエンザよりも広まる速度が早かった。スマホの普及率が高い国では被害者が続出し、道端でケツをむきだしにして「ウンコぶりっちょ!」と叫び続ける老若男女にみなが逃げ出した。
「二組の梶原もウンコになったってさ」
「マジかよ。西川がこの前ウンコになったばっかじゃん。てか梶原と西川て仲良かったっけ」
「いや、ぜんぜん。なんかイオンで西川がウンコになったのを見ただけっぽい」
「えぇ……」
もはや〝ウンコになる〟というのは僕たちにとって死を意味する言葉だった。鈴の音が聞こえると「ウンコぶりっちょ!」と叫びながら尻を出すのだから、まあ社会的には死ぬことになる。特に後遺症も再発もないのが〝ウンコ〟の救いであった。
僕は牧野たちが〝ウンコ〟になった西川たちについて話す場からそそくさと離れ、自分の席に戻る。〝ウンコ〟の話をするだけで自分も〝ウンコ〟になってしまうような気がしてこわかったのだ。
帰りだった。
自宅はさびれた住宅街にある。陽が長くなったとはいえ、春の夕方は冷たい風が吹き、〝ウンコ〟になることをおそれて他人と接触を絶った人々が家にこもる気配だけがただよってくる。
カレーのにおいに腹を空かせながらとぼとぼ歩く僕は、たったひとりだった。
リン。
小さく聞こえた音に僕は身を竦ませた。
そんな馬鹿な――
僕は〝ウンコ〟になった者をリアルでは見たことがない。動画だって全部は見なかった。感染を広めるためにいたずらでSNSに動画や静画をバラまく者はいたが、それだって必死に目を細めてスクロールしてきたのだ。
リン。
僕は走った。意味がないのがわかっていても、恐怖が体を動かした。
リン。
鈴の音が聞こえる。鈴が鳴っている。ぜえぜえ言う僕の呼吸よりも近いところで、鈴が鳴っている。
リン。
鈴の音が聞こえるともうダメだ。
ケツをさらして叫びたくて仕方がない――!
僕はカバンを投げ捨て、制服のズボンに手をかける。乱暴に脱いで尻を外気に晒すと、まるで真夏の昼に冷たいプールに入ったような、とても心地よい解放感に包まれた。
肺いっぱいに空気を吸い込み、歓喜のまま叫ぶ。それが僕の生まれた理由であり、僕が天国に至るために必要な行為だった。
「ウンコぶりっちょ!」
こうして僕は〝ウンコ〟になった。
鈴の音が聞こえるともうダメだ。抗えない。僕たちはケツを露出して叫ぶしかない。人類のDNAに刻まれた原罪のように、神仏を信じた純粋さのように、僕たちは〝ウンコ〟になってしまう。
ほら、君にも聞こえない?
耳を澄ますと聞こえてくるよ。
リン。
二人だけの秘密
夫が食器を乱雑に置く。新婚当時言ってくれた「ごちそうさま」「おいしかったよ」の言葉はもうない。ゴミを避けるかのように手で食器を私の方へ押しやると、発泡酒を片手にスマホを眺め始める。動画から聞こえてくる笑い声を背に私は食器をさげ、皿を洗う。
毎日がこんな調子だった。私は妻ではなく家政婦のように思われていて、夫は家に食事と睡眠のためだけに帰ってくる。浮気を隠す様子もなく、堂々と通話していることすらある。
どうしてこうなってしまったのだろう――思い返せば自分のだめな部分ばかり浮かんできて、悪いのは私なのだ、といつもの結論に落ち着いてしまう。ため息すらつくのが億劫で唇から漏れ出るのはただの吐息だ。蛇口からとめどなく流れ出る水が冷たく、指が痛む。
――ピンポーン。
思考を遮るインターホンの軽快な音に思わず夫を振り返った。スマホから顔を上げた夫も怪訝な顔つきで、無言で、出ろ、と私に促す。私は付近で水気を拭い呼び出しに応答する。
「はあい」
直後、ドアをドンドンと叩く音がした。一軒家なのでセキュリティなどがないとはいえ、閑静な住宅街だ。こんな強引に呼び出すご近所さんなどいない。恐怖に身を竦ませながらドアへ向かう。
「ど、どちらさまですか……」
返事はなかった。再びドンドンと重くドアを叩く音。さすがに夫もやってきて、腹立たしそうに怒鳴る。
「何時だと思ってるんですか。もう夜ですよ」
来訪者は帰らない。むしろ夫が来たことでより激しくドアを叩いた。舌打ちした夫がドアノブを握り、勢いよく開ける。
「うるせえな。何の用――」
ドアの前に立っていたのは、総白髪の、筋肉質な、巨漢だった。
ハッハッハッハッ、と舌を出して笑っている。その純真無垢でにこやかな笑顔に私も夫も凍りつく。男が私を見てこれ以上ないはほどの笑顔を浮かべた。
「なっ、なん、なっ……なっ……」
まさかという思いが脳裏をかすめる。あとずさる夫が私と男とを交互に見、「知り合いか」と叫んだ。
男は夫へ視線を変えると険しい表情になり、ぐるるるる……と唸る。
「ウォン!」
迫力ある咆哮のあと、四つ足になり、逃げ出そうとしていた夫の尻に男がそのまま噛みついた。
「キィアーーーーッッッ」
夫の悲鳴が玄関に反響する。男はジャージ越しの夫の尻に強く噛みついており、のたうち回る夫を両腕で押さえつけていた。
間違いない、この人間の尻めがけて噛みつき抑え込んでしまう癖。私は男の名を呼ぶ。
「ダメよ! はなしなさい、シロ!」
男は夫から口を離し、大人しくおすわりの姿勢をとる。私は男の頭を撫でてやる。感触はかなり変わってしまったが、忘れるはずがない、愛犬のシロだった。
愛犬シロはグレートピレニーズのむくむくとしたかわいい犬だった。三年前、病気で死んでしまったが、子犬から育てた我が子のような存在だった。こんな巨漢になって現れるとは想像もしていなかったが、私に向ける笑顔や優しい光をたたえた目が、男はシロであることを示唆していた。
「ひっ……ヒィッ、ヒィイッ……」
泣く夫が床を這って逃げていく。その情けない姿に、なぜあんな人を愛していたのだろうと疑問がわいた。夫との出会いのきっかけはお互い犬の飼い主だったからだ。ところがシロは結婚前に死んでしまい、夫は「飼い犬は実家に預けた」と言って家に犬がいることはなかった。
シロと暮らす未来だからこそ夫との人生に光を見出していたのだ。最初の願いを思い出し、涙があふれる。おすわりしていたシロがクンクンと鼻を鳴らし、悲しそうな顔で私を見上げた。
「大丈夫。なんでもないよ。ダメな私を守りにきてくれたんだね。ありがとうね」
「キュウーン」
そのとき、シロが握っているものに気づいた。私が手を差し出すとシロは握っていた小さな箱を離し、口で咥えて私の手へ落とした。
土まみれの箱――ビニールで梱包されたクッキー缶――を開ける。それは、私がシロと一緒に埋めた、ふたりだけのタイムカプセルだった。
いつかシロが死んだあと、きっと私は落ち込んで泣き暮らすことになる。そうならないために、シロと一緒に生きた人生はこんなに素晴らしかったのだと自分へのメッセージを保存することに決めた。
百枚を超えるシロの写真とともに、シロと行った公園やドッグラン、旅行先の記録が缶からこぼれた。このタイムカプセルについて知っているのは私とシロだけだ。
確かにこの巨漢はシロだった。私のために、ひとりでタイムカプセルを掘り返して、持ってきてくれたのだ。ふたりだけの秘密を思い出してもらうために。
流れる涙を抑える術を知らず、シロを抱きしめる。にこにこと笑うシロは昔に嗅いだ犬くさい香りであふれていた。
「ありがとう、シロ。ごめんね……ごめんね……!」
ふわふわした筋肉質な体を離す。見慣れたシロがそこにいた。大きな口から大きな舌を出し、最後にワンと一声鳴いて、陽炎のように消えてしまった。
玄関で長くうずくまっていたが、クッキー缶に写真を詰め直し、フタをすると、涙をぬぐった。やるべきことがあった。
リビングには尻をおさえて泣いている夫がいた。私は夫のスマホと財布を掴むと、夫の首根っこを掴み、片腕で持ち上げた。
「ひぃぃぃいっ」
グレートピレニーズを育てたのだ。人間ひとりくらい抱えるほどの腕力はある。夫を玄関から放り投げた。
「帰ってきたら殺す」
「ひっ……ひぃ〜っ」
スマホと財布を投げ捨てた。夫は震えながら投げ捨てられたものを拾うと裸足のまま夜の闇へ消えていった。
シロの飼い主に恥じぬ人間に成らなければ。とりあえずテコンドーでも習おう。私は久しぶりに明るい気持ちで歩き始めた。
春爛漫
「キエエエッ! キエエエッ!」
柴田は教室に入ってくるなり奇声をあげ、川崎に蹴りを入れた。柴田の机に腰かけて談笑していた川崎はというと、まともに蹴りを食らい机と椅子をなぎ倒して床に転がる。女子たちの悲鳴が廊下まで響いた。
「キエエエッ! キャッキャッキャッアー! キエエエッ!」
「アァアーッ! アァアーッ!」
すぐさま態勢を整えた川崎が柴田に掴みかかった。長い腕で柴田の胸ぐらをつかみ、小さな柴田の体を放り投げた。勢いよく壁に叩きつけられた柴田が痛みに悲鳴をあげ、両手両足を使って脱兎のごとく逃げ出した。
縄張り争いに勝利した川崎が両腕を振り上げ「キーッ!」と雄叫びをあげた。周りの腰巾着たちもキィキィと一緒になって騒ぎ、一帯が祭りの場と化す。
その様子を友香は教室の隅で見ていた。猿たちの狂騒はいまに始まったことではなく、日常茶飯事であったし、友達の麻衣も冷めた目で猿たちを見ていた。
「ホーホケキョ! ケキョケキョケキョ!」
「だよね」
麻衣がせわしくグルーミングを行いながら猿たちへ文句を言った。友香はまったく麻衣の言う通りだと思い、いつまで経っても成長のない猿たちに苛立ちをおぼえる。もう三年生にもなるというのに猿たちは毎日毎日マウンティングしてばかりだし、ひたすらにやかましい。食い散らかした果物で床を汚すから虫がわいて不潔になった。それを掃除するのは清掃委員の友香で、先生に抗議したこともあったが聞き入れてもらえなかった。
連中のリンゴに毒でも仕込んでやろうか――ハブの守口をちらりと盗み見る。守口は日向にある机の上でうとうととまどろんでいた。冷淡な態度の守口に頼み事をするのは億劫で、友香はため息をつく。
「カァーッ! カァーッ! カァーッ!」
騒ぎを聞きつけた担任の木下がめんどくさそうに翼をばたつかせながらやってきて、川崎と柴田に机を元通りにするよう叫んだ。猿ふたりはそれぞれ相手に責任をなすりつけあっていたが、木下に尻を突かれると渋々机を並べ出した。
――あたしの青春ってホント、灰色だわ。
友香は爪も羽根もないやわらかな人類の手で己の顔を触る。脆弱で毛皮もない貧相な体では彼氏もできず、麻衣の彼氏自慢にうんざりしながらも頷くことしかできない。
ホームルームが始まる。木下が出席番号順に点呼をとり、友香もまた返事をする。毎日つまらない日常の繰り返し。ゆううつなルーチンを繰り返して貴重な青春が終わっていく。
「ガー、カー、カー、コーアッ! コーアッ!」
ほう、転校生――教室が色めき立つ。
三年生にもなって転校とはめずらしい。家の事情か、はたまたいじめられて追い出されたか。麻衣のさえずりに友香も頬が緩む。
「ナァーオ」
転校生は黒く艷やかな毛皮をした猫だった。気品あるしぐさでするりと教室に入ってくると、黒板の前にしゃなりと座り、自己紹介をする。ンニャーオ。
そのきれいな緑の瞳といったら!
友香はしばし転校生の美しさに見惚れ、彼がなぜ転校してきたのかを右から左に聞き流した。するすると音もなく机の合間を縫って歩き、友香の斜め前の席についた転校生の背をぼうっと見つめる。四月の朝の日差しが転校生の毛皮を縁取り、金のヴェールがうっすら彼を覆っているようだった。
――あたしの春、きたかも!
友香の机に桜の花びらが落ちる。まぶしいほどの陽を受けて机たちが輝き、学校は春色に染まっていく。
新学期だった。
誰よりも、ずっと
誰よりも努力してきたつもりであった。
少しでも気分を変えようと何度も冷水を顔にぶつける。駅構内にある古ぼけたトイレは、悪臭がタイルの一枚一枚にさえ染み込んでいるかのようで、吐しゃ物と糞尿のにおいが芳香剤に混ざって鼻をつく。優真が顔を洗うたび起こる水飛沫がよりにおいを強めているようだった。びしょぬれの手を自動水栓から離し、むなしく流れ続ける水を見つめる。
誰よりも努力してきたつもりであった。
春だった。優真は新社会人になった。着慣れないスーツに身を包み、巻き慣れぬネクタイに締めつけられた首を撫で、鏡に映る男につぶやく――誰よりも努力してきたつもりだった。
優真は郊外の出身だ。さして貧乏でも裕福でもない家庭に生まれた。息子にはいい学校に行かせるのだ、と勉強が口癖の母に育てられた。母は悪人ではなかったが、賢くはなかった。優真が試験でいい点を取るたびほほえみ、遊びに夢中になると悲しんだ。優真の青春は勉強しかない。父は優真に無関心だった。母の息子に対する情熱は、父への愛情の代替品だったのかもしれない。それでも優真は父と母を愛していたし、母の想いに応えてやりたいと思っていた。
――誰よりも努力してきたつもりであった。
青春を捧げたはずの勉強の結果は振るわず、誰が聞いても失笑するような大学を卒業し、ぼんやりした社員が働く中小企業に勤めることになった。それが三週間前だ。
仕事を覚えるのは難しかった。業務の内容や手順は理解できても、なぜ知らされないことがあるのか、なぜ話してもらえないのか、そもそも社員同士でどんな会話をすればいいのか、わからなかった。
子どもの頃から常に感じてきた孤立――どの輪にも入れない、疎外感。
この原因が優真にあるものなのか、育ちが生んだものなのか、わからなかった。勤務中は常に人の顔色をうかがい、言っていい言葉と悪い言葉の区別を学んだ。他人がすでに習得できていることを自分はできない。人間関係の不合格通知が並んでいく。合格発表の日の悪夢が毎日続く感覚に、優真は憔悴していった。
誰よりも努力してきたつもりであった。
つもりに過ぎなかったのか。
鏡に映る己はやつれていた。もとから良い顔色をしていたほうではないが、土気色をしたゾンビが突っ立っているようだった。冴えない男そのものの風貌に笑いすら出てこない。いつまでも鏡の前で立ち尽くす。
明日も仕事が待っているというのに、帰路につくことさえ億劫だった。
「ヒッ……ヒィッ……」
荒々しく扉を開けてトイレに飛び込んできた男が、わき目もふらず個室に駆け込んだ。ガサゴソと荒っぽい衣擦れのあと、ブザーでも鳴らしたかのような音がした。腹を下したらしかった。
びしょぬれの自分、腹を下した他人、たちこめる悪臭に反応もできない。疲れていた。
男のすっきりした顔を見たくなくて立ち去ることを決めたとき、個室のほうから「エッ」と驚きの声があがった。
「アッ……あ、あっ、あ……」
カラカラ、カタカタ、むなしく何かを動かす音がする。紙がないんだ――と言葉にせずとも理解できたが、男の発する声があまりにも憐れで思わず足が止まった。
男はしばらく個室内でトイレットペーパーの替えがないか探したのだろう、探る気配を見せたが、やがて静かになり、しばらくして嗚咽を漏らし始めた。
「エッエェッ……うっ……ウェッ……エェッ……」
男がなぜ腹を下したのか、このトイレに駆け込むまでどんな人生を送ってきたのか、優真にはわからなかった。一瞬見えた若い顔、自分と同じぎこちないスーツ姿から、同じ新社会人であることは窺い知れた。
個室でいま泣いているのは優真と似た者だった。
鼻をすする音、嗚咽、憂鬱さの極地にあるこのトイレで、優真は再び鏡を見た。
誰よりも努力してきたつもりであった。
つもりに過ぎなかったのか。
――ならば努力を示すべきであるのか。
業務内容はいまだにわからないが、いますべきことはわかっていた。洗面台の下の戸を開け、替えのトイレットペーパーを探す。数個しかないうちのひとつを手に取り、優真は男がいる個室の戸をノックした。
I LOVE...
外見が良いと社会は優しい。優遇されると言いかえるべきか。美しく生まれた妹を羨むたび、みじめな気持ちになってしまう。
妹はわたしと二歳差でこの世に生を受けた。最初も女、次も女ということで母はがっかりしたようだが、かわいく、美しく成長していく妹のことは愛していた。父によく似て平凡オブ平凡な顔立ちをしたわたしのことは自分の手足か、妹のための試験紙程度に捉えており、扱いは良くない。
わたしもかわいく生まれていたらな――と毎日のように鏡を覗いてため息をつく。ぼんやりとした印象の薄い顔、中途半端な奥二重、低い鼻、厚い唇。顔の骨格もどこか四角くて、かわいらしい丸みや華やかさとは程遠い。
妹こそが主役であり、わたしはモブに過ぎない。傷だらけの自尊心を慰めるさもしい言い訳で自分を納得させ、目立たぬように生きてきた。が、人生には驚きが待ち構えているものだ。
「わたし、カニになりたいの」
深刻な顔をした妹がそう申し出たとき、なんのこっちゃか全くわからなかった。
家族会議になった。泣き喚く母、困惑する父、とりあえず理由を尋ねるわたし。妹はこの瞬間を想定していたように繰り返し「カニになりたい」「カニは美しい」「甲殻類こそが美の象徴」と答え、疲弊した家族の前でカニについて語り続けた。
結局、妹は種族変更試験に合格し、カニになった。マンジュウスベスベガニになった妹は、いまは太平洋沿岸のどこかの岩礁で波とたわむれ、生きているだろう。
愛された妹が愛したものはなんだったのか。妹の立場わ羨んでいたわたしの憂鬱はなんだったのか。わたしが本当に欲していたものは、なんだったのか。
母はかわいがる対象を失い、カニに憎しみをぶつけた。おかけで連日我が家にはカニかまが食卓に並んでいる。年に一度は本物のカニを食すのだが、いつか妹を食べる日が来るかもしれない。マンジュウスベスベガニは有毒らしいので可能性は低いが。
わたしは妹という、ある意味で絶対的障害であった存在を失い、己のアイデンティティの乏しさに気づいた。妹を羨み、妬むことで自己憐憫に浸り、成長する機会を自ら捨てていたのだ。
鏡に映るわたしは、なにも愛してこなかった者の顔をしていた。
まずは自分を見つめ直し、愛してやろうと決めた。そうすると鏡には意外とかわいい目をした自分がいた。ポジティブに捉えるとわたしはラッコに似ていなくもない。ラッコは高級食材が好物で、カニも食べるはずだ。
わたしはラッコを目指すことにした。試しにリビングで仰向けになり、腹にカニをのせて石で叩くと、いい音がした。父と母がわたしの奇行を咎めたが、仰向けになったままぐるぐる回りつつ腹のカニを石で殴るわたしに恐れをなし、なにも言わなくなった。
そんなわけで我が家は毎日カニの甲羅を叩くリズミカルな音があふれている。今日は『ボンゴを演奏するゴリラ』に憧れる後輩とセッションの予定だ。
自分を愛すると世界は変わるものだな、とわたしは幸せを感じた。