善次

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二人だけの秘密

 夫が食器を乱雑に置く。新婚当時言ってくれた「ごちそうさま」「おいしかったよ」の言葉はもうない。ゴミを避けるかのように手で食器を私の方へ押しやると、発泡酒を片手にスマホを眺め始める。動画から聞こえてくる笑い声を背に私は食器をさげ、皿を洗う。
 毎日がこんな調子だった。私は妻ではなく家政婦のように思われていて、夫は家に食事と睡眠のためだけに帰ってくる。浮気を隠す様子もなく、堂々と通話していることすらある。
 どうしてこうなってしまったのだろう――思い返せば自分のだめな部分ばかり浮かんできて、悪いのは私なのだ、といつもの結論に落ち着いてしまう。ため息すらつくのが億劫で唇から漏れ出るのはただの吐息だ。蛇口からとめどなく流れ出る水が冷たく、指が痛む。
 ――ピンポーン。
 思考を遮るインターホンの軽快な音に思わず夫を振り返った。スマホから顔を上げた夫も怪訝な顔つきで、無言で、出ろ、と私に促す。私は付近で水気を拭い呼び出しに応答する。
「はあい」
 直後、ドアをドンドンと叩く音がした。一軒家なのでセキュリティなどがないとはいえ、閑静な住宅街だ。こんな強引に呼び出すご近所さんなどいない。恐怖に身を竦ませながらドアへ向かう。
「ど、どちらさまですか……」
 返事はなかった。再びドンドンと重くドアを叩く音。さすがに夫もやってきて、腹立たしそうに怒鳴る。
「何時だと思ってるんですか。もう夜ですよ」
 来訪者は帰らない。むしろ夫が来たことでより激しくドアを叩いた。舌打ちした夫がドアノブを握り、勢いよく開ける。
「うるせえな。何の用――」
 ドアの前に立っていたのは、総白髪の、筋肉質な、巨漢だった。
 ハッハッハッハッ、と舌を出して笑っている。その純真無垢でにこやかな笑顔に私も夫も凍りつく。男が私を見てこれ以上ないはほどの笑顔を浮かべた。
「なっ、なん、なっ……なっ……」
 まさかという思いが脳裏をかすめる。あとずさる夫が私と男とを交互に見、「知り合いか」と叫んだ。
 男は夫へ視線を変えると険しい表情になり、ぐるるるる……と唸る。
「ウォン!」
 迫力ある咆哮のあと、四つ足になり、逃げ出そうとしていた夫の尻に男がそのまま噛みついた。
「キィアーーーーッッッ」
 夫の悲鳴が玄関に反響する。男はジャージ越しの夫の尻に強く噛みついており、のたうち回る夫を両腕で押さえつけていた。
 間違いない、この人間の尻めがけて噛みつき抑え込んでしまう癖。私は男の名を呼ぶ。
「ダメよ! はなしなさい、シロ!」
 男は夫から口を離し、大人しくおすわりの姿勢をとる。私は男の頭を撫でてやる。感触はかなり変わってしまったが、忘れるはずがない、愛犬のシロだった。
 愛犬シロはグレートピレニーズのむくむくとしたかわいい犬だった。三年前、病気で死んでしまったが、子犬から育てた我が子のような存在だった。こんな巨漢になって現れるとは想像もしていなかったが、私に向ける笑顔や優しい光をたたえた目が、男はシロであることを示唆していた。
「ひっ……ヒィッ、ヒィイッ……」
 泣く夫が床を這って逃げていく。その情けない姿に、なぜあんな人を愛していたのだろうと疑問がわいた。夫との出会いのきっかけはお互い犬の飼い主だったからだ。ところがシロは結婚前に死んでしまい、夫は「飼い犬は実家に預けた」と言って家に犬がいることはなかった。
 シロと暮らす未来だからこそ夫との人生に光を見出していたのだ。最初の願いを思い出し、涙があふれる。おすわりしていたシロがクンクンと鼻を鳴らし、悲しそうな顔で私を見上げた。
「大丈夫。なんでもないよ。ダメな私を守りにきてくれたんだね。ありがとうね」
「キュウーン」
 そのとき、シロが握っているものに気づいた。私が手を差し出すとシロは握っていた小さな箱を離し、口で咥えて私の手へ落とした。
 土まみれの箱――ビニールで梱包されたクッキー缶――を開ける。それは、私がシロと一緒に埋めた、ふたりだけのタイムカプセルだった。
 いつかシロが死んだあと、きっと私は落ち込んで泣き暮らすことになる。そうならないために、シロと一緒に生きた人生はこんなに素晴らしかったのだと自分へのメッセージを保存することに決めた。
 百枚を超えるシロの写真とともに、シロと行った公園やドッグラン、旅行先の記録が缶からこぼれた。このタイムカプセルについて知っているのは私とシロだけだ。
 確かにこの巨漢はシロだった。私のために、ひとりでタイムカプセルを掘り返して、持ってきてくれたのだ。ふたりだけの秘密を思い出してもらうために。
 流れる涙を抑える術を知らず、シロを抱きしめる。にこにこと笑うシロは昔に嗅いだ犬くさい香りであふれていた。
「ありがとう、シロ。ごめんね……ごめんね……!」
 ふわふわした筋肉質な体を離す。見慣れたシロがそこにいた。大きな口から大きな舌を出し、最後にワンと一声鳴いて、陽炎のように消えてしまった。
 玄関で長くうずくまっていたが、クッキー缶に写真を詰め直し、フタをすると、涙をぬぐった。やるべきことがあった。
 リビングには尻をおさえて泣いている夫がいた。私は夫のスマホと財布を掴むと、夫の首根っこを掴み、片腕で持ち上げた。
「ひぃぃぃいっ」
 グレートピレニーズを育てたのだ。人間ひとりくらい抱えるほどの腕力はある。夫を玄関から放り投げた。
「帰ってきたら殺す」
「ひっ……ひぃ〜っ」
 スマホと財布を投げ捨てた。夫は震えながら投げ捨てられたものを拾うと裸足のまま夜の闇へ消えていった。
 シロの飼い主に恥じぬ人間に成らなければ。とりあえずテコンドーでも習おう。私は久しぶりに明るい気持ちで歩き始めた。

5/3/2024, 11:59:21 AM