善次

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誰よりも、ずっと

 誰よりも努力してきたつもりであった。
 少しでも気分を変えようと何度も冷水を顔にぶつける。駅構内にある古ぼけたトイレは、悪臭がタイルの一枚一枚にさえ染み込んでいるかのようで、吐しゃ物と糞尿のにおいが芳香剤に混ざって鼻をつく。優真が顔を洗うたび起こる水飛沫がよりにおいを強めているようだった。びしょぬれの手を自動水栓から離し、むなしく流れ続ける水を見つめる。
 誰よりも努力してきたつもりであった。
 春だった。優真は新社会人になった。着慣れないスーツに身を包み、巻き慣れぬネクタイに締めつけられた首を撫で、鏡に映る男につぶやく――誰よりも努力してきたつもりだった。
 優真は郊外の出身だ。さして貧乏でも裕福でもない家庭に生まれた。息子にはいい学校に行かせるのだ、と勉強が口癖の母に育てられた。母は悪人ではなかったが、賢くはなかった。優真が試験でいい点を取るたびほほえみ、遊びに夢中になると悲しんだ。優真の青春は勉強しかない。父は優真に無関心だった。母の息子に対する情熱は、父への愛情の代替品だったのかもしれない。それでも優真は父と母を愛していたし、母の想いに応えてやりたいと思っていた。
 ――誰よりも努力してきたつもりであった。
 青春を捧げたはずの勉強の結果は振るわず、誰が聞いても失笑するような大学を卒業し、ぼんやりした社員が働く中小企業に勤めることになった。それが三週間前だ。
 仕事を覚えるのは難しかった。業務の内容や手順は理解できても、なぜ知らされないことがあるのか、なぜ話してもらえないのか、そもそも社員同士でどんな会話をすればいいのか、わからなかった。
 子どもの頃から常に感じてきた孤立――どの輪にも入れない、疎外感。
 この原因が優真にあるものなのか、育ちが生んだものなのか、わからなかった。勤務中は常に人の顔色をうかがい、言っていい言葉と悪い言葉の区別を学んだ。他人がすでに習得できていることを自分はできない。人間関係の不合格通知が並んでいく。合格発表の日の悪夢が毎日続く感覚に、優真は憔悴していった。
 誰よりも努力してきたつもりであった。
 つもりに過ぎなかったのか。
 鏡に映る己はやつれていた。もとから良い顔色をしていたほうではないが、土気色をしたゾンビが突っ立っているようだった。冴えない男そのものの風貌に笑いすら出てこない。いつまでも鏡の前で立ち尽くす。
 明日も仕事が待っているというのに、帰路につくことさえ億劫だった。
「ヒッ……ヒィッ……」
 荒々しく扉を開けてトイレに飛び込んできた男が、わき目もふらず個室に駆け込んだ。ガサゴソと荒っぽい衣擦れのあと、ブザーでも鳴らしたかのような音がした。腹を下したらしかった。
 びしょぬれの自分、腹を下した他人、たちこめる悪臭に反応もできない。疲れていた。
 男のすっきりした顔を見たくなくて立ち去ることを決めたとき、個室のほうから「エッ」と驚きの声があがった。
「アッ……あ、あっ、あ……」
 カラカラ、カタカタ、むなしく何かを動かす音がする。紙がないんだ――と言葉にせずとも理解できたが、男の発する声があまりにも憐れで思わず足が止まった。
 男はしばらく個室内でトイレットペーパーの替えがないか探したのだろう、探る気配を見せたが、やがて静かになり、しばらくして嗚咽を漏らし始めた。
「エッエェッ……うっ……ウェッ……エェッ……」
 男がなぜ腹を下したのか、このトイレに駆け込むまでどんな人生を送ってきたのか、優真にはわからなかった。一瞬見えた若い顔、自分と同じぎこちないスーツ姿から、同じ新社会人であることは窺い知れた。
 個室でいま泣いているのは優真と似た者だった。
 鼻をすする音、嗚咽、憂鬱さの極地にあるこのトイレで、優真は再び鏡を見た。
 誰よりも努力してきたつもりであった。
 つもりに過ぎなかったのか。
 ――ならば努力を示すべきであるのか。
 業務内容はいまだにわからないが、いますべきことはわかっていた。洗面台の下の戸を開け、替えのトイレットペーパーを探す。数個しかないうちのひとつを手に取り、優真は男がいる個室の戸をノックした。
 

4/9/2024, 1:27:33 PM