藍星

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6/1/2024, 4:21:03 AM

それでは、テストを返却します。
平均点は64点。赤点だった者には補習があります。授業が終わった後、内容を伝えるので科学室まで来るように。
では–––


先生が返却する科学のテストの回答者を読み上げる。しかし、その声よりも–––


え〜、補習だってぇ。私絶対補習だよー。
 64点って、高すぎじゃない?
     絶対皆カンニングしてるでしょ?
結構サービス問題多かったから、
        今回は自信あるなぁ。
 問題の中に答えがあるのもあったよな。
  ラッキーって感じだったし、
あんまり意地悪い言い方とかなかったよな。
  そうか?普通に難しかったけど?
 補習なんて、どうせ答えを丸暗記すれば良いような問題よ。


各々の落胆や期待、補習に対する予想の呟きが、先生の声よりも大きく教室内を満たしていた。


テストの返却と授業が終わり、
休み時間になった。
すると友人が私の元に駆け寄ってきた。


聞いてよ!
宇宙人を捕まえに行くんだって!!


あまりに突拍子のない発言に、私は一瞬聞き間違いかと思った。
えっ・・もう一度言って。と言うと、

宇宙人を捕まえに行くんだよ!
それが、赤点だった人の補習授業だって!

ますます私は混乱した。
宇宙人を捕まえに行くことが、補習授業?
レポートとか、追加のテストとかじゃなく?
再び聞いた私の言葉に、友人の彼女は興奮気味で頷いた。

私は少し彼女を落ち着かせて、ゆっくりと話を聞いて、内容を整理した。
まず、今回の科学のテスト、赤点だったんだね。と聞くと、

そ、そこはいいでしょ。
そういうあなたはどうだったの?

あなたの点数を聞いた後で言うのは気が引けるんだけど・・94点。単位と記号を間違えちゃってさ。あと少しだったんだけど・・
私の言葉に彼女は、思いきり嫌そうな表情をした。
私は慌てて、話を戻した。

それで補習を受ける対象になったと。補習者は科学室に来いって言ってたから、さっき行って来たんだね。
それで、具体的にどう説明されたの?
なるべく先生の言った言葉通りに再現して。
と、言うと、彼女は説明してくれた。


まず、補習はレポートを提出するか、特別授業に参加するか、二択を示された。

レポートのテーマは、今までで学んだこと。それを中心に自身の考察や、深掘り・発展した知識などをまとめて提出すること。A4の紙で最低枚数十枚、それ以上での提出とのこと。
もちろん、パソコンなどで他の文献からの完全複製は禁止。参考にする分にはいいが、レポートは手書きのみ評価の対象とみなす。提出期限は一週間後。

特別授業は、指定した日に先生と共に調査を行う。時間は午前9時から午後5時まで。場合によっては時間が前後する可能性あり。しかし、最後まで参加した時点で補習合格とするとのこと。
そして、その調査の内容が–––


宇宙人の採取、なんだって。

彼女は再び興奮気味に言った。

しかし私は、採取、という言葉に
違和感を覚えた。
宇宙人を採取だなんて・・まるで、どこにでも存在していて、ちょっと拾いに行ってこよう、みたいな言い方だ。それに、宇宙人を本当に捕まえるとしたら、そういう方面に力を入れているアメリカの組織とかがやっていそうなのに。

それで、どっちがいいか選んでって言われたの。私は宇宙人の方を選んだってわけ。

レポートの方を選んだ人はいたの?
という私の言葉に、彼女は顔をしかめた。

いたけど、一人だけ。特別授業の日にちは絶対変更できないんだって。その日は部活か何かの用があって、そっちにも参加しないといけないからとか。レポートは期限があるけど、いつ取り組むかは選べるからって言ってた。
まあ、私は勘弁だけどね。今まで学んだことなんて、曖昧すぎて何書けばいいか分からないもの。おまけに十枚以上なんて無理。


確かに、レポートのテーマは範囲が広くて、曖昧とも言える。だからこそ、何を書くのか自由でいいとも捉えられるが、彼女のように何を書けば良いのかわからないとも捉えられる。

補習を受けるような人はどちらかと言えば、後者の捉え方になる人が多い気がする。
しかも、もう一択の方が宇宙人に関することとなれば好奇心でそちらを必然的に選択するのは目に見えている。

ところでさ。

思考していた私の顔を覗き込んで、彼女は不安そうに言った。

あなたも一緒に参加してよ。
宇宙人に興味ない?それに、私、正直ちょっと怖くてさ。

どうして?と聞くと、

だって宇宙人だよ?UFOでやってきて、乗せてくれるような宇宙人だったらいいけど、連れて行ってしまうような宇宙人かもしれないし・・魂を抜かれたり、脳を乗っ取られたり、変なビームとか撃ってきたり、光の剣とかで襲いかかってくるような奴かもしれないじゃない?

私は内心、映画やドラマに感化されすぎなのでは・・と思った。
しかし、無垢な彼女の宇宙人に対しての認識はそういうものなのだろう。
ともかく、私もその特別授業に少し興味がわいてきた。


先生に参加してもいいかを聞くために、科学準備室を訪れた。

先生は私を見て、少し意外そうな表情をした。事情を話すと、先生は構わないと了承してくれた。

先生はちょうど、準備室の整理をしていたようだった。私は机の上に並んでいる砂の入ったいくつもの瓶を見て、特別授業の本当の目的に気づいた。
しかし、私はそれを授業が終わるまで黙っていることにした。


特別授業の日。
ハイキングでも行きそうな出立ちの補習生徒数人を、大きなリュックを背負った先生が引率している。
友人の彼女は–––

ねぇ、ワクワクしてる?それとも、ソワソワしてる?

うーん、ドキドキしてる、かな。
どんな"宇宙人"に出会えるのか、
楽しみだよ。
と、答えると、彼女は複雑な表情になった。

今更なんだけどさ、本当に宇宙人っているのかな?それも、補習授業で本当に見つけられるのかなぁ。あなたは宇宙人って、信じる?

もちろん、信じるよ。
本当の目的を知っていた私は、自信満々に答えた。


先生に連れて行かれた場所は、高台や大きな施設の屋上だった。古い天文台の上や、灯台の上などもあった。

そこには、すでに設置されていた透明なアクリルのような板があった。その板には、クリームのような粘着性のあるものが塗られていた。それを汚さないように、ケースに入れて保管した。

生徒達から、宇宙人はいないな。
今回は外れた?などと、声が上がったが、先生はかまわずに次々と板を回収して回った。

たくさんの距離を移動して、途中から飽きてきたのか、集中力が切れたのか、疲れたのか、次第に生徒達は宇宙人のことは言わなくなっていった。

しかし、代わりに道中のハイキングを楽しむ会話が増えていった。とくに、高い場所に苦労して登ったあとの眺めはとても良かった。
特に、灯台の上で風に吹かれながら食べる昼食は美味しかった。先生が食後のおやつとしてクラッカーをくれた。先生って実験だけじゃなくてお菓子作りができるのかと、生徒達に驚かれたりと、補習授業だということはすっかり忘れてしまったように、朗らかな時間だった。


学校に戻ってきた時には、先生を含めさすがに全員が疲れていた。
しかし、先生は回収してきた板を並べて、ここからが授業だと姿勢を正した。


今回集めていたのは・・
宇宙の人類の宇宙人ではなく
宇宙から降ってくる塵の、
宇宙塵『ウチュウジン』である。

皆には、あらかじめ私が設置しておいた宇宙塵採取装置の回収に行ってもらったのだ。

さて、これからその塵の分析を行うが–––
と続く先生の説明は
"宇宙人"を捕まえると思っていた生徒達の落胆や驚きの声に揺らぐことはなかった。

しかし、先生の笑いをこらえる顔を見て、私は先生がこの反応が予想通りで、かつ楽しんでいると感じた。
この時の先生は無垢な生徒にいたずらをして成功したような、無垢な子供みたいな人だった。


特別授業が終わり、帰り道。
友人の彼女は、複雑な表情をしていた。
対して私は、楽しかった授業で満足していた。

彼女に、"宇宙人"のことを知っていたのかと聞かれて、知っていたと答えた。

実は、先生に参加の許可をもらいに行った時にね。砂が入っている瓶を見て、わかったの。あんなにたくさんの宇宙塵を集めるなんて、よほど宇宙のことに興味があるんだなぁって、感じてたんだ。だから、私も先生の授業を受けてみたくてさ。楽しかったよ。

彼女は、大きくため息をついた。
しかし、すぐに少し表情が明るくなった。

まぁ、いっか。私も楽しかったよ。
それに、灯台の仕組みとか天文台の仕組みとか聞いてて、実際はこんななんだって、感じたのが良かった。
あちこち歩いて疲れたけど、こんな授業なら科学も好きになれそうだよ。

      ––––––––––––––––––

君が星を見るのが好きなのは、その先生の影響なのか?

違うよ。確かに、あの先生の宇宙塵の授業のおかげで宇宙の奥深さをより知った。
でも、星を見るのはそれ以前から好きなんだ。
と、星座早見表を掲げながら星を見ている私の横で、彼が同じように星空を見ている。


補習授業に、宇宙塵の採取か。
なかなか面白いことを考える先生だな。

補習授業だから、追加のテストかと思いきや、課外授業だったんだ。
でも、補習授業を受けるような生徒にはそれが一番かもしれない。
彼が私の顔をみる。

どうしてだ?

赤点をとる生徒はだいたいがその科目が嫌いな傾向にある。
それは、点数がとれないから。
でも、先生は点数がとれなくても科学への好奇心は失わずにいてほしかったんだと思うの。
純粋無垢な好奇心は、大きな自信になるって言ってたんだ。

好奇心が自信か。何となくわかる気がする。
そういえば、知ってるか?
この世で最も強い自信は、
   根拠のない自信なんだってさ。

根拠がないから、根拠で覆せない。
だからこそ最強なんだって。
と、彼の言葉をきいて私はふと思った。

それは、無垢な好奇心の持ち主はロマンチストってことかな。ロマンチストって、なんか強いっていうか、好奇心の自信に満ちているイメージがあるから。

かもな。あるいは、夢見る者ってことかもな。その先生も、宇宙への夢やロマンを知識以上に大切にしていたのだろうな。

うん。きっと、そうだね。


今宵の宇宙塵は、また宇宙からのロマンを運んできてくれるのだろう。
無垢な心の持ち主にロマンを届けるために。

5/19/2024, 12:10:43 AM

夕焼けがきれいに見えるいつものお散歩道。
もう完全に日が沈み、空も黄昏色から濃い藍色になってきている。
寒くもなってきたが、私はまだ帰路につく気にはなれなかった。

一人の日は、久しぶりだなぁ。


今晩は、帰宅しても私一人。だから、夜のお散歩を始めようとしていた。
でも、帰宅しても一人だと再認識した途端、心が寒くなってきた。


おかしいな。一人でいるときって、こんなに寒かったっけ。
この私が、寒いと感じるなんて。
あんなに寒さには平気だった私が。

寒さなんて気のせいなんて言っていた、かつての私が今の私を見たら何て言うかな。
・・きっと、何も言わないだろう。
呆れて言葉が出ないか、赤の他人を見るように、全く眼中にないだろうな。
別の表現をするなら、信じないだろう。 

そして、そんなかつての私なら、
こんな寂しさという心の寒さを知ることはなく、同時に愛のぬくもりと幸せを知ることもなかったのだろう。



私が初めて彼への想いを自覚した時、私は罪悪感でいっぱいだった。

誰かを好きになることは、その誰かを傷つけて不幸にすることだと思っていた。
そう思っていたのは、私に想いを寄せてきた相手が私のことを傷つけて、脅して怖がらせ、嫌悪感を抱かせる行動をしてきたからだ。
私と相手だけのことだったならまだしも、家族や友人にも波及し、金銭的犯罪や性犯罪的な不祥事にまで発展してしまった。

私は、全て自分が悪いと思った。

傷つけられたのも、怖い思いをしたのも、犯罪的不祥事にまで発展してしまったのも、私の人間としての技量や人間としての精神力が足りないからだと思った。

それからはひたすら努力を積み重ねた。とにかく今のままではダメなんだと、自分にムチを打ち続けた。でも、どこまでやればいいのかわからなかった。ただ努力をやめることが怖くて、ムチを打つのを止めるのが怖くて・・また、何か起こっても努力はしているという言い訳を失いたくなくて。その思いで、心身共にすり減らし続けていた。

だから、私の彼への想いを認めてしまったら、彼を傷つけてしまう。
不幸にしてしまう。
私は誰かを幸せになんて絶対にできない。本当に相手を大切に想うのなら、私は一人で生きていくべき人間なんだ。

一人で生きていくためには、一人で何でもできる人間にならないと。頼りになる人がいても頼ってはいけない。いずれ私は一人になる。なら、最初から一人になってしまえばいい。

彼は私とは別の世界にいるんだ。



より成果を得るため、食事や睡眠も削り始めた。だけど、その生きるための行為を減らしたことにより、私の体はいよいよ踏ん張りがきかなくなってしまい病院へ送られた。

結果、いくつか病気が見つかり、体の機能もずいぶんと低下してしまった。



夜のお散歩を始めた私の元に、彼から電話がかかってきた。

–––もしもし?今は何してた?–––

あっ・・お風呂に入ろうかなって。
と、夜のお散歩をしていると言ったら心配させると思い、嘘をついた。

–––そっか。なら、今すぐ家に帰れよ。少なくとも、いつも通りの時間には寝られるようにな。まだまだ夜は寒いんだから。–––

どうやら、夜のお散歩をしていたのがバレていたようだ。
どうしてわかったのかときいた。

–––君が一人になった時の行動はだいたい想像がつく。特に夜は、君の心の傷が出てきやすいからな。その痛みを感じたくなくて、良からぬことをしがちだ。今だって、気持ちが沈んでたような声がしたぞ。–––

私は返す言葉がなかった。
そして返事がないことは、彼の言葉が当たっていることを表していることになる。

–––オレが帰った時元気でなくてもいいから、君におかえりって、迎えてもらいたいからさ。せめて・・ちゃんと生きててくれよ。–––

軽く言っているように装っているけれど、その言葉の深いところには、真摯な願いがあるように感じた。


ねえ・・あなたは私と一緒にいて後悔してない?私に想われてて不幸になってない?

無意識に口から
ありのままのの気持ちが溢れていた。
その答えは聞きたいようで、聞きたくない。だけど、取り消す言葉は喉の奥に引っかかって出てこなかった。

彼は一拍おいてから
懐かしむような声で答えた。
–––そういえば、君は最初のうちは無視するわけではなかったけれど、オレが関わろうとするとすぐ心を固くして閉じこもってたよな。
口調は優しいし丁寧だけど、常にどこかで警戒して隠れている敵を探しているような感じで常に心の距離を取られてたなぁ。
あの時は、正直ちょっと嫌だった。
君に対して悪いことをしたつもりはないのに、オレの何に警戒しているのかもわからなかったから、なおさら。ずっと一方的に警戒されててさ。
でも、今ならわかる。
あれはオレを大切に想うからこその、あの時の君なりの思いやりの行動だったんだって。君は自分と一緒にいる人が不幸になるって思っている。だからあえて自分から距離を置いてたんだよな。–––

彼はフゥと、一息をついた。
そして、優しい声で続ける。

–––そういう行動を続けられるくらいの君の一途さっていうか、誠実さっていうか、強い信念は、オレはすごいと思う。その強い信念はそれだけ強くて優しい愛だとも感じるんだ。
オレはそんな君に想われて、一緒にいられて・・ずっとこうしていたいって思うくらいに、幸せだよ。–––

そっか・・そう、なんだ。
あたたかい涙が一筋、頬を流れた。
きっと、電話で顔が見えなくても、彼には私がどんな表情なのかわかっているのだろう。私も彼が電話の向こうで、優しく笑っているのがわかるのだから。

–––あのさ・・
君にとって、オレはどうなんだ?
君はオレといて、後悔したり不幸になったりしてないか?–––

珍しく不安そうな、弱い声だ。
やわらかくてもろい普段は隠れている心の深いところから、溢れてきたような思いやりと優しさを感じる声だった。

私は、その言葉を
大切に受け止めるつもりで答えた。
あなたのその大きな心は、私は最初、別世界の存在だと感じるほどに、とても遠くて尊くて手を伸ばしたいけど伸ばすだけおこがましいって思うくらいにあたたかく輝いていた。
その輝きには、ずっとそのまま美しく輝き続けてほしいって思った。
でも、ある時気づいたの。私はその輝きとぬくもりが満ちている世界に、行きたいって望んでいることに。
まるで、今まで読んだことのない物語の本を手に取りたいって思っているように。その物語は私に読める字で書いてあるのかとか、私が触るだけで燃えてしまわないかって不安もあった。だけど、私はその物語の世界が本当に求めていたものだったんだって思うの。その物語は、私の心にあなたと同じような光を与えてくれるから。
その光はとても安心するの。
そして、今はこう望んでるの。
このあたたかい愛と光の物語をあなたと一緒にこれからも作っていきたいって。

少し遠回しな台詞になってしまったかなと思いつつ、彼の言葉を待っていた。

彼は数秒後に、
ありがとう。と言ってくれた。

–––じゃあ、早く帰れよ。その物語の続きは君がいないと作れないんだから。–––

ふふっ。わかったよ。あなたもなるべく早く帰ってきてね。あっ、お土産に甘いものでもあったら、作業が進むと思うよ。

–––君が今すぐ帰るって約束したら、オレも買って帰るって約束する。–––

わかった。約束だからね。


すっかり暗くなってしまった帰路を急ぐ。
しかし、寒くなっていた心はいつのまにか
すっかりあたたかくなっていた。

きっと、明日からも作られていく恋物語は、この心のようにあたたかく輝いていることだろう。

5/11/2024, 2:46:25 PM

ねえねえ、知ってる?
夜景の中に星型を見つけられたら、流れ星を見つけたのと同じで、願いが叶うんだって。

私は、ハート型を見つけられたら好きな相手と両想いになれるって聞いたよ。

本当!?じゃあハート型を探そうっと!

でもそのハート型を見つけた後、展望台にある高い鐘楼まで登って鳴らして、好きな相手の名前と想いを叫ばないといけないんだって。

ええ〜〜っ!!なにそれ〜?ウソでしょ?
それはイヤだなぁ・・。

でも本当にしたら、両想いになれるかもよ?
実際、想いが通じたって話があるらしいし。

それって、ただ公開告白して成功したって話なんじゃないの?その鐘楼で叫んだ愛が、その相手にたまたま聞き入れられただけなんじゃないの?

フフッ、かもね。こんなきれいな夜景の中で、かつ大勢の人の前で叫ばれた愛なら、素敵に聞こえたのかもね。


––––なるほど、そんな話があるんだ・・
  それで、この人だかり・・––––
吐き出した息が白くなり、地面に氷がはるような寒さだというのに、夜景が見える展望台は人でごった返していた。

夜景が綺麗に見られるとは聞いていた場所だった。しかし、ここまでの人の多さは予想外で、私は夜景の美しさを楽しむどころではなかった。何せ、ここに私を連れてきた友人とはぐれてしまい、かつ人ごみの中で足を踏まれて挫いてしまったのだから。
私は自販機横のベンチに座り、購入したあたたかいココアを飲んでいた。

しばらく座っていると、何度か鐘の音が聞こえた。そして、一人が何かを叫んだ声がした。内容は聞き取れなかった。しかし、その後に喝采のような大勢の人の声が聞こえたことから考えるに、あの噂で聞いたハート型を見つけた後の"愛を叫ぶ儀式"を実行した人がいたのだろう。

その"愛を叫ぶ儀式"の噂は有名なのか、叫びが聞こえてくる回数はなかなか多い。足が痛くて動けない私は、その叫びを何気なく聞いていた。

––––これからも
   夫と一緒にいられますように!–––
–––ずっと、かなちゃんと親友で
   いられますように!–––
––––絶対に、彼女と幸せなるぜ!–––
––––おじいちゃんとおばあちゃんが
  元気でお小遣いくれますように!–––
––––モテたい!!–––
–––お母さん!お父さん! 
  いつもありがとう!大好き!–––
–––お兄さん!怖いけど本当は尊敬してる!––
–––小遣いを増やしてくれる優しい
  家内よ。いつもありがとう!–––
–––大切な家族が、健康でいますように!––

夜景の美しさのためか、はたまた儀式の信ぴょう性が高いのか、叫びたくなる愛はそれなりにあるようだ。
たまに思わず笑ってしまったり、下心が溢れている愛もあるが、聞いている気分はさほど悪くはなかった。


あっ、大丈夫?夜景見てるのかと思って探してたんだけど・・

友人が見つけてくれたが、私の足を見て気の毒そうな表情を浮かべた。
私はこの足で、この人だかりの中を進んで夜景を見に行く気力は失せてしまっていた。

その心情を話すと、友人は売店に行きしばらくして戻ってきた。友人は、私にここの夜景のポストカードをプレゼントしてくれた。
せめてもの記念に、とのこと。

私達は帰路につくことにした。
私は肩を貸してくれた友人に、"愛を叫ぶ儀式"の噂を話した。すると––

叫んでおかなくていいの?あなたにだってそういう人の一人や二人いるんじゃないの?

じゃあ、遠慮なく。と、
私は友人に向かって、ポストカードを示し––
ポストカードで夜景をくれたあなたと、これからも友達でいられますように。

友人は照れ隠しをしながらも、喜んでくれたみたいだった。
そして、お返しにと、友人は言った。

いつか、あなたが素敵な恋をして幸せになれる相手と出会えますように。


私には、そんな人いないよ。きっと。と苦笑していった。しかし友人は、

そう言うあなただからこそだよ。
私が願っておくの。


       ––––––––––––––

あの時プレゼントされたポストカードの夜景は、今でも美しいままに手元にある。
でも、やはり直接見る景色は美しかったのだろうなぁと、少し惜しい気持ちに浸っていた。

ポストカードの写真には、夜景を背景に逆光になった鐘楼のシルエットがある。その写真の下には、詩のような文があった。
『夜の灯りは愛しいあなたへの道導。
導かれた想いを祝福する鐘楼の音が響く』


その写真はなんだ?きれいな夜景だな。

後ろから彼がポストカードを覗き込んでいた。私は彼の前に写真を差し出す。

以前に友人と見に行ったこと。人でごった返していて足を痛めてしまい、結果見られなかったこと。その私を気づかって、プレゼントしてくれたポストカードだということを話した。

この下にある詩のような文は?

あぁ、それはね。その場所ですると想いが通じたり、願いが叶うって言われている儀式みたいなものがあるらしいの。
と、あの"愛を叫ぶ儀式"のことを話すと、彼の表情が少し真剣さを帯びた。

君は、その儀式ってのをやったのか?

えっ?あ・・一応、やったよ。
効果は、まぁあったと思う。今でもその友達は友達でいてくれてるから。
と、答えると彼は、そっか、と呟いた。

しばらくポストカードを眺めている彼の顔を見て、私はふとあの時の友人の"愛を叫ぶ儀式"の言葉を思い出した。そして、その儀式の効果があったことも・・。

勝手に顔が熱くなってしまい、私は彼にポストカードを返してと言った。
しかし彼は、私の掴もうとする手をかわして少しいたずらっぽい笑みを浮かべた。

君はその時、この夜景をじかに見られなかったんだろ?オレもこの夜景は見たことがない。なら、今度一緒に見に行かないか?
その儀式ってのを、今度はオレのためにやってほしいな。

私はさらに顔が熱くなるのを感じた。
あんな高い展望台に登るのは、今は難しいし具合が悪くなるかも。
と、諦めてもらおうとした。しかし、彼の表情は変わらなかった。

その儀式は効果はあるんだろ?君の実証済みなら、オレは君をおぶってでも行きたいな。
あ、君が自分だけじゃ割に合わないって言うなら、オレもその儀式をやることにしよう。もちろん君のためにな。

私は人でごった返しているあの展望台に、彼の声で私への想いが響くのを想像したら、顔から火が出そうになった。

きっと、あの時あの場で愛を叫ばれた人達も、さぞ恥ずかしかったことだろう。
叫ぶ方も結構な勇気や覚悟が必要なのは想像できた。あの時私は、笑いながら聞いていたけど、今なら叫ばれる側の気持ちもよくわかる。

絶対やめて!恥ずかしすぎるよ!
と、抗議するも彼の意志はなかなか揺るがなかった。私の慌てる様子を楽しんでいそうなところもあったが、本当に儀式をやりたいような気持ちがあるようだった。

私は、ふと彼に展望台での儀式を諦めてもらう方法を思いついた。
彼の手からポストカードを取り返し、宛名などを書く方に、文を書いた。
そして、そのカードの文面の方を彼の目の前に突き出した。

はい!これでいいでしょ!?
本物の夜景が見られなかった私は、あの時このポストカードの夜景に対して儀式をしたの。だから、あの時と同じ儀式を、これでしたことになるよ。
これ・・あなたにあげるから。だから、あなたへの儀式はちゃんとしたよ。
一気に言い終わり、真っ赤になっているであろう顔を彼に向けると、彼も少しばかり赤くなっていた。

ポストカードを受け取り、彼はありがとうと、呟いた。

ど、どういたしまして。
これで話は終わったかと思いきや、彼は私の手をつかんで引き寄せた。

なぁ、儀式ってのは叫ばないといけないんじゃなかったのか?
想いを書いてもらえたのは嬉しいけど、せめて声に出してくれないと効果のある儀式にならないんじゃないか?

彼の瞳には、真剣さといたずら心がどっちも宿っているように見えた。いや、いたずら心の方が少し勝っていた気がした。

顔が赤くなるだけじゃなく、心臓までもが激しく早鐘をうつ。こうなった彼はもうおさまりがつかない。満足するまで手を離してはくれないのはよく知ってる。
私は意を決した。

叫ぶということは、
想いを強く届けるということ。
なら、一番近くから私の想いを届けよう。

彼の耳元に顔を近づけて、ポストカードに書いた文面を読み上げた。

あなたがいつもそばにいてくれて、
    とても幸せだよ。
        あなたが大好き。
 あなたを心から愛してます。 
私もこれからもずっと、一緒にいるからね。


恥ずかしいけど、
たまにはこうして愛を叫ぶのも、いいかも。

5/3/2024, 2:38:12 AM

もう、私に優しくしないでよ!!
と、思わず叫び、彼に背を向けて走り出す。

っ!?ちょっ・・あっ、待て!



––んで、飛び出してここまできたわけか。

鼻をすすりながら手で顔を覆っている私の背を、友人のマツがさすってくれた。
しかし、少々過呼吸になってしまっていて息が苦しく、その苦しさからまた涙が出て––-を繰り返して、なかなか息の乱れは治らなかった。



彼の元を飛び出した後、その私の足は無意識に、日頃からよく散歩の行き先にしている丘に向かった。

そこはちょうど春の花が見頃を迎えていて、近くに公園を兼ねた見晴らし台がある。
そこで昼間から花見酒をしている友人、マツと出会してしまった。

状況が状況なだけに、いくら親しい友人でも–––おまけに酔っ払いだ–––
その場を立ち去ろうかと思った。

しかし、酔っていても私がいつもと違うことに気づいたらしく、気遣う言葉をかけてくれた。その行動に、少し安心してしまった私はマツの前で泣き崩れてしまった。



なあ、アイツに迎えに来てもらった方がいいんじゃないか?

アイツとは彼のこと。
彼との親しい友人でもあるマツは、しばらくして私が少し落ち着いた頃、彼に連絡しようとスマホを取り出した。
しかし私は、その手を掴んでスマホを取り上げた。

絶対に連絡しないで。と、
私はスマホを握りしめ、マツを睨みつけるくらいの気迫を込めた。
マツは小さくため息をついた。

わかった。・・んじゃ、代わりにアイツと何があったのか話してもらおうか。

事情を話せるくらいには、落ち着いていたものの、ためらいがあった。
実を言うと彼との間で、特別何かあったわけではない。だから、なおさら言葉が出てこなかった。



彼は一見すると、少し近寄り難い雰囲気を感じさせる人だ。
どちらかと言うと無愛想で、あまり社交的ではない。おとなしい感じではあるものの、怒らせると怖そうな印象があり、何を考えているのかあまりわからないところによって、より近寄り難い人と思われている。

だが本当は、いたずら好きな少年のようなところがある人で、時には優しい兄や父親のような包容力も持っている。確かに怒ると怖いけれども、その態度や言葉には愛が感じられるし、彼なりの誠意がいつもこもっているのを感じる。

その上、実力や気概もある人。

そんな彼は、最近周りの人達にとても好かれている。
彼の才能や技量なんかはもちろん、彼の内にある優しい人柄が周りの人を惹きつけているのだろう。
あと、きっと彼の見た目の印象と、本来の人柄が合わないからこその、惹きつける魅力があるのだろうと思う。


彼のことを想う身としては、それは嬉しいことだ。大切に想う相手が、周りの人達からも好かれているのは、喜ばしいこと。
実際、最近の彼は笑顔が増えたなぁと、私も感じていた。
きっと、それだけ周りの人達から良くしてもらえているのだろう。

私としては、彼のその笑顔を邪魔したくない。とは、本当に思っている。
だけど・・その人達の中に、彼を恋慕の眼差しで見ていそうな人を見てしまうと、なかなか心から彼の笑顔を喜べない自分もいた。

彼の前では、その気持ちを押し込めていた。そんなことで心を乱してしまう器の小さい自分が嫌で、そんな気持ちを出してしまったら情けなさで愛想を尽かされてしまいそうで。本当に彼の笑顔の邪魔になってしまうんじゃないかと不安で・・・そんな気持ちを出してしまうと、彼を信じてないことになってしまうような気がして・・

彼の前ではいつも通りに振る舞い、彼と共にいる時は彼の存在で生まれる安心を、愛おしさを感じていた。

でもその気持ちに比例して、押し込めた気持ちは彼との時間を過ごすほどに、大きくなってしまう。
彼は幸せそうだ。なら、私も幸せだよね。
と言い聞かせ、心の中で湧き上がる乱れを抑えることをしばらく繰り返していた。


そんなある日、彼のことを話題にしている人達の会話が耳に入ってしまった。
–––あの方、とても立派な方ですよね。あんな方なら是非にと思うのは、私達だけではないでしょうね。–––
–––ですよね。もう、お話しくらいはあの人には届いていらっしゃるのではないでしょうか。あとは、あの方次第ですね。悪い話とは思われないでしょう。–––

今思うと、仕事やそれに関係する話だったのかもしれない。でも、その時の私は彼に対して想いを寄せている相手がいると、思い込んでしまった。彼の評価や人徳が上がっていること、彼がそれを喜んでいることは私も気づいていたから。

また日に日に不安が募り、余裕がなくなっていたから、そう思ってしまったのだろう。私の見解が当たっているかはわからないということは、間違えているかもわからないのだから。それに何せ、彼の素晴らしさは誰よりもわかっている自負があったから。
それに、会話の内容は彼をよく思っていることは確かだ。

だから、応援しなければと、なおさら自分で気持ちを抑えることになったのだろう。


それが、自分でも気づかないうちにずいぶんとため込んでいたようだった。顔や態度などに出していないつもりだったが、彼に何かあったのかと聞かれた。

何かあるなら、話してほしい。
ちゃんと聞く。君は日頃からため込みがちだ。話すだけでも楽になると思う。

この優しい言葉を、彼のことでなかったら嬉しく感じられていただろう。だけど、
あなたのために・・
こんなに我慢してるのにっ。なのにっ・・
と、まるで私の我慢していた大きな風船という気持ちが、彼の優しさという小さな針で割れてしまったように、気持ちが抑えきれなくなってしまった。

優しくされればされるほど、彼が愛おしいと思うし、彼の幸せを願う。そして、同時にそのために彼が私の元からいなくなって、誰かの元へ行ってしまうかもと感じて苦しい。


もう、私に優しくしないでよ!!

この気持ちの板挟みに耐えられなくなった私は、彼の優しさを突き放して逃げ出してしまったのだ。

そして突き放した今、私の心に残っているのは、彼の気持ちが私の元からなくなってしまうかもしれないという恐怖だった。



そっかぁ・・そらぁ、つらいわなぁ。
そんで、優しくしないでよって、なっちまったわけか。

一通り話し終えると、マツは私の頭を撫でた。再び泣き出してしまった私が落ち着くのを待って、マツは言った。

お前さん、ずいぶんとアイツのことを想うようになったんだな。
おれが知る限り、お前さんが誰かのためにここまで気持ちが動いたことなんかないからなぁ。それだけ、アイツが特別で大切なんだな。

その通りなのだけど、こうして相手に言われると気恥ずかしいものだ。でも、マツは私と彼が一緒にいる前から、私達のことをよく知っている。
私は頷いた。

優しくしないでよって言うのは・・本当は、"アイツからお前さん以外の誰かに優しくしないで" っていう意味だったのかもな。

言われてみれば、その通りなのかもしれない。でも、そんな幼稚な言葉、はっきり言ったら呆れられそうだ。
いや、すでに呆れられてるかもしれない。



突然、後ろから足音が聞こえた。
振り返ると少し息を荒くした彼がいた。
マツは待ち侘びたという様子で、彼の肩を叩いた。

ようっ、来たなぁ。おまえぇ〜〜幸せもんだなぁ。ははっ!

彼は、わけがわからないという様子だ。
なんのことだ?と、私とマツの顔を交互に見た。

私も、マツのスマホばずっと私が持っていたのに、どうして彼がここに来たのかがわからず、マツを見た。
マツはスマホを私の手から取って、
背を叩いた。

実は、お前さんが最初にここに来て泣いている間に連絡しといた。
保護はした。泣き終わった頃合いを見計らって迎えに来い、ってな。

マツは彼の胸を小突いた。

事情は聞かせてもらったが、詳しいことは本人から聞くべきだ。いろいろとお前からも直接言ってやった方がいいみたいだぞ。
一言だけ内容を伝えるとな、こいつは、
ずっと嫉妬してて苦しかったんだと。

んじゃ、おらぁ帰るから。あとは二人でゆっくり話せよ〜。
と、マツは飲みかけのお酒をあおぎながら帰って行った。

私がどう言おうかと考える暇もなく、彼は私の前に歩みより、私の額を指で強くはじいた。

まったく・・わけがわからないこと言われて、突然逃げ出される身にもなってくれ・・・心配する以上に、気が気じゃなかった。


彼の瞳は動揺と心配と、安心が混ざってるように見えた。

小さくため息をついた彼は、逃げないようにするためか、私の手を握って聞いた。
優しくしないでよとは、どういうことか。
泣いてたと聞いたが、それは何故か。
嫉妬して苦しかっとは・・何のことかと。

説明するまで、絶対に手を離してくれないと感じた。でも、マツにすでに一言だけだけど、内容は伝えられてしまっている。
私は、呆れられることを覚悟して事情を話した。


それで、優しくしないでって・・そういうことだったのか。・・はぁ、そっか。
確かに、少し呆れてしまうな。

その呟きに、私はまた気持ちが湧き上がってしまった。
元はと言えば、あなたがカッコいいのがいけないんじゃないっ・・だんだん素敵になっていくし、前はあんまり笑わなかったのに、今はすっかり魅力的な笑顔をするようになったし、雰囲気もやわらかくなってすごく頼りになりそうに感じる。実際、あなたは強くてとても頼りになるんだから、より素敵だよ!
そんなあなたが周りの人達に好かれるのは当然で、私がもっとあなたを好きになるのはもっと当たり前じゃないっ・・だからこそ私はっ、あなたを想うならあなたのためにって・・
再び涙が出てきそうなところを必死にこらえてわめいていると、耳の先まで赤くなった彼が抱きしめてきた。

あーー、わかった!わかったから!もうそれ以上は、すごく嬉しいけど・・さすがに恥ずかしいから言わないでくれ。
確かに、少しだけ呆れてしまった。だけど・・その何百倍も嬉しいよ。そんなに苦しい想いをするほど、オレのことを想っててくれてるって感じてさ。
マツが言ってたように、オレからもいろいろちゃんと伝えないといけないことがあるのは、よくわかったよ。
でもまずは、これだけは覚えておいてくれ。
オレは絶対に、君から離れたりしない。
君だけだから。オレが特別に想っている唯一無二の存在は。
だから、安心してほしい。

やっぱり、優しくしないでほしいと思った。だって、必死にこらえていた涙をいとも簡単に引きずり出してしまうのだから。
カッコわるいから、彼のことで彼の前では泣きたくなかったのに。
しかし彼は–––

君のオレのための涙なら、オレが受け止めるべきだろう。他の奴が受け止めるなんて、正直マツでも嫌だ。
あと・・他の奴に優しくしないでって、オレだって君に言いたい時はあるんだ。

なんのことか私は見当もつかなかった。
だけど、そのことはなかなか彼は教えてくれなかった。
本当にそういうところは、優しくしてくれないなんて・・・

でも私はきっと、彼に本当に優しくしないでなんて、言えないんだろうな。

だって、優しくされたら私も嬉しいから。

4/23/2024, 1:35:16 PM

明日は・・あれをしないと・・。
でも、あれよりもこっちが・・・先、かな。
  ––––ガシャン!!––––

突然の破壊音に驚いて、足元を見る。
右手に持っていたはずのマグカップが足元で砕けて、中に入っていた紅茶と共に、四散していた。

あれ?私、どうして・・ちゃんと持っていたはず・・・なのに。
とりあえず・・・片付けない・・と・・
と、しゃがんで片付けようと手を伸ばす。

しかし、伸ばしているつもりの右手が、右腕が思うように動かない。力を入れてるつもりでも、右腕と右手の指が伸びない。
ひどく痺れているような、血が通っていないような、石にでもなってしまったかのようにほとんど感覚がない。

代わりに左手を伸ばそうとして、気がついた。左手が震えていた。
いや、左手だけではなく体が震えていた。次第に頭が重くなり冷や汗が浮かぶ。
息が苦しくなり、視界が歪んできた。

あ・・これは・・まずい。

と、認識したものの、少し遅かった。
その場に座り、懸命に深呼吸を心がける。
しかし、その場で倒れてしまった。

おーい。なんか壊れる音が・・
っ!?どうした!?

彼の慌てる声と、足音が聞こえた。



数時間後。
ベッドで落ち着いた私は、深呼吸を繰り返していた。

薬をのみ、ちゃんと呼吸ができるようになった。しかし、まだ立ち上がることができなかった。
そして、右手と右腕も思うように動かなくなっていた。

また・・動かなくなった・・。
はぁ、今度はいつまで続くかな。
というか・・動くようになるのかな。



かつて心身共に大きな負担のかかる作業を続け、怪我を負ってしまった。それでもその作業をやめるわけにはいかない状況だったため、無理をして続けた。
その結果、さらに大きい負傷をすることになり、結果主に作業をしていた利き手である右手と右腕が動かなくなってしまった。

それから長い時間をかけ、リハビリとケアの甲斐があって再び動くようにはなった。
しかし、利き腕と利き手が動かなかった間は日常的に大きな支障があった。

その間、左手で一通りのことをできるように努力した。
しかし、ハサミやカッターナイフなど右手で使うことが前提のものは使うことがなかなかできなかった。
世の中には、右手で使うことを前提に設定されているものが多いことに気づく良い経験にはなった。


それ以来、右手に負担がかかると動かなくなることがある。物が握れなくなり、動かせなくなる。
また動かない間は、左利きの生活になる。
だけど、今回は呼吸困難まで引き起こしてしまうとは・・

何気ない行動でギックリ腰になるように、持病の影響なのか、日常の少しの衝撃で呼吸困難と意識の混濁を引き起こすようになってしまった。
特に、疲労や気分の落ち込み・ストレスがあると起こりやすいから気をつけるようにと、忠告されていた。

今回はこうなった要因として、思い当たることはあるのか?

割れたマグカップを片付けて、様子を見にきた彼に聞かれて、私はぼんやりした頭を頑張って回して、しばらく考えた。
そして、ふと浮かんだことを呟いた。
焦ってた気がする–––と。

何を焦ってたのかと聞かれたが、それはわからなかった。
ただ・・いろんなことを早く終わらせないと。と、いつもより気を張っていた気がする。
春は・・世の中が新しいことを始めて活気づく時。だから、その流れというか雰囲気に合わせられるようにしないと・・置いていかれてしまう・・
みたいに、思っていた・・のかも。
そう、自信なさげに言うと、
彼は動かない私の右手をそっと取った。

あっ、怪我してるじゃないか。血が出てる。
痛くないのか?

私は自分の右手を見て、驚いた。
きっと割れたマグカップの上に倒れてしまったんだね。でも、痺れているせいか痛みがわからなくなっているみたい。
だから痛くはないよ。大丈夫。

大丈夫じゃないだろ。怪我して痛くないなんて、大丈夫じゃない証拠だ。

彼は顔をしかめながらも手当てをしてくれた。手当てを終えた傷をなでる。私が傷を触られても痛そうな表情をしないことに、彼は心配そうな表情を浮かべる。

本当に痛くないのか・・確かに、なんか冷たいし硬い手だな。握られてることも、わからないのか?

なんとなくなら、わかるよ。あたためながら血行を良くするように、少しずつマッサージしてリハビリしていくと、感覚が戻ると思う。こうやって・・
私は自分の左手で、右手のマッサージをしてみせた。すると、彼はそれを真似て右手のマッサージをしてくれた。

嬉しいけど、ゆっくり少しずつでないとダメなんだ。なんかマッサージのやりすぎも、負傷を悪化させることがあるらしくて。
昔、早く元に戻りたくてマッサージをやりすぎて、余計に痛みがひどくなったことがあったの。だから、今日はこれくらいでいいよ。
ありがとうね。
彼はマッサージをやめたが、私の手は握り続けていた。

こんな状態からまた動くようになることは、大変なことなんだな。なら、左利きになることも大変だっただろ。君はすごいな。
右手をリハビリしながら、左利きになる努力も同時にしたんだから。

彼は私の手を包み込んでくれた。
ほんのりとだが、あたたかみを感じた。

春ってさ、一気に芽吹くからついつい忘れがちだけど、その芽吹きには長い準備や蓄えや変容の時間が必要だよな。
君が次の春のために、前の秋から花の種を蒔いたりしてるのを見て、春の芽吹きってこんなに時間がかかることなんだって知ったんだ。
一朝一夕のことではないっていうのかな。
急いだところで、得られるものではないし、むしろ負担になる。
リハビリには時間がかかるんだろ?
だったら、一時的な活気にのらなければって焦って苦しくなるより、ゆっくり自分をいたわって回復させていこう。
君なら、春の芽吹きが焦るものや頑張らなきゃいけない時じゃなくて、自然と命が輝きはじめる時だって知ってるよな。
だって、君がオレにそれを教えてくれたんだから。

彼は私の隣に横になった。

大丈夫。君は今でも十分頑張ってる。これ以上の頑張りは、君自身を大切にすることにあててくれ。

ありがとうと伝えて、彼を左手で抱きしめた。彼は大きなあくびをして、私の枕に頭をのせた。

オレにとって春は、昼寝に最高の季節だな。君の腕枕がほしいところだけど、今の昼寝には君に抱き枕になってもらうかな。
君ももう少し寝たらいい。そばにいるから。

まだ寝るの?寝過ぎにならない?
と言うと、いたずらっぽい笑顔が返ってきた。

芽吹きには長い準備と蓄えと、睡眠が必要なんだよ。

睡眠はさっき言ってなかったよ。お昼寝したいだけ・・まあ、いいか。
彼に抱きしめられると、そのぬくもりに反論する気力が失せてしまい、眠気が襲ってきた。
私はすぐに眠ってしまった。

今日という春の心模様は、
春の寒さから、春のぬくもりへの
昼寝日和かなぁ。

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