藍星

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明日は・・あれをしないと・・。
でも、あれよりもこっちが・・・先、かな。
  ––––ガシャン!!––––

突然の破壊音に驚いて、足元を見る。
右手に持っていたはずのマグカップが足元で砕けて、中に入っていた紅茶と共に、四散していた。

あれ?私、どうして・・ちゃんと持っていたはず・・・なのに。
とりあえず・・・片付けない・・と・・
と、しゃがんで片付けようと手を伸ばす。

しかし、伸ばしているつもりの右手が、右腕が思うように動かない。力を入れてるつもりでも、右腕と右手の指が伸びない。
ひどく痺れているような、血が通っていないような、石にでもなってしまったかのようにほとんど感覚がない。

代わりに左手を伸ばそうとして、気がついた。左手が震えていた。
いや、左手だけではなく体が震えていた。次第に頭が重くなり冷や汗が浮かぶ。
息が苦しくなり、視界が歪んできた。

あ・・これは・・まずい。

と、認識したものの、少し遅かった。
その場に座り、懸命に深呼吸を心がける。
しかし、その場で倒れてしまった。

おーい。なんか壊れる音が・・
っ!?どうした!?

彼の慌てる声と、足音が聞こえた。



数時間後。
ベッドで落ち着いた私は、深呼吸を繰り返していた。

薬をのみ、ちゃんと呼吸ができるようになった。しかし、まだ立ち上がることができなかった。
そして、右手と右腕も思うように動かなくなっていた。

また・・動かなくなった・・。
はぁ、今度はいつまで続くかな。
というか・・動くようになるのかな。



かつて心身共に大きな負担のかかる作業を続け、怪我を負ってしまった。それでもその作業をやめるわけにはいかない状況だったため、無理をして続けた。
その結果、さらに大きい負傷をすることになり、結果主に作業をしていた利き手である右手と右腕が動かなくなってしまった。

それから長い時間をかけ、リハビリとケアの甲斐があって再び動くようにはなった。
しかし、利き腕と利き手が動かなかった間は日常的に大きな支障があった。

その間、左手で一通りのことをできるように努力した。
しかし、ハサミやカッターナイフなど右手で使うことが前提のものは使うことがなかなかできなかった。
世の中には、右手で使うことを前提に設定されているものが多いことに気づく良い経験にはなった。


それ以来、右手に負担がかかると動かなくなることがある。物が握れなくなり、動かせなくなる。
また動かない間は、左利きの生活になる。
だけど、今回は呼吸困難まで引き起こしてしまうとは・・

何気ない行動でギックリ腰になるように、持病の影響なのか、日常の少しの衝撃で呼吸困難と意識の混濁を引き起こすようになってしまった。
特に、疲労や気分の落ち込み・ストレスがあると起こりやすいから気をつけるようにと、忠告されていた。

今回はこうなった要因として、思い当たることはあるのか?

割れたマグカップを片付けて、様子を見にきた彼に聞かれて、私はぼんやりした頭を頑張って回して、しばらく考えた。
そして、ふと浮かんだことを呟いた。
焦ってた気がする–––と。

何を焦ってたのかと聞かれたが、それはわからなかった。
ただ・・いろんなことを早く終わらせないと。と、いつもより気を張っていた気がする。
春は・・世の中が新しいことを始めて活気づく時。だから、その流れというか雰囲気に合わせられるようにしないと・・置いていかれてしまう・・
みたいに、思っていた・・のかも。
そう、自信なさげに言うと、
彼は動かない私の右手をそっと取った。

あっ、怪我してるじゃないか。血が出てる。
痛くないのか?

私は自分の右手を見て、驚いた。
きっと割れたマグカップの上に倒れてしまったんだね。でも、痺れているせいか痛みがわからなくなっているみたい。
だから痛くはないよ。大丈夫。

大丈夫じゃないだろ。怪我して痛くないなんて、大丈夫じゃない証拠だ。

彼は顔をしかめながらも手当てをしてくれた。手当てを終えた傷をなでる。私が傷を触られても痛そうな表情をしないことに、彼は心配そうな表情を浮かべる。

本当に痛くないのか・・確かに、なんか冷たいし硬い手だな。握られてることも、わからないのか?

なんとなくなら、わかるよ。あたためながら血行を良くするように、少しずつマッサージしてリハビリしていくと、感覚が戻ると思う。こうやって・・
私は自分の左手で、右手のマッサージをしてみせた。すると、彼はそれを真似て右手のマッサージをしてくれた。

嬉しいけど、ゆっくり少しずつでないとダメなんだ。なんかマッサージのやりすぎも、負傷を悪化させることがあるらしくて。
昔、早く元に戻りたくてマッサージをやりすぎて、余計に痛みがひどくなったことがあったの。だから、今日はこれくらいでいいよ。
ありがとうね。
彼はマッサージをやめたが、私の手は握り続けていた。

こんな状態からまた動くようになることは、大変なことなんだな。なら、左利きになることも大変だっただろ。君はすごいな。
右手をリハビリしながら、左利きになる努力も同時にしたんだから。

彼は私の手を包み込んでくれた。
ほんのりとだが、あたたかみを感じた。

春ってさ、一気に芽吹くからついつい忘れがちだけど、その芽吹きには長い準備や蓄えや変容の時間が必要だよな。
君が次の春のために、前の秋から花の種を蒔いたりしてるのを見て、春の芽吹きってこんなに時間がかかることなんだって知ったんだ。
一朝一夕のことではないっていうのかな。
急いだところで、得られるものではないし、むしろ負担になる。
リハビリには時間がかかるんだろ?
だったら、一時的な活気にのらなければって焦って苦しくなるより、ゆっくり自分をいたわって回復させていこう。
君なら、春の芽吹きが焦るものや頑張らなきゃいけない時じゃなくて、自然と命が輝きはじめる時だって知ってるよな。
だって、君がオレにそれを教えてくれたんだから。

彼は私の隣に横になった。

大丈夫。君は今でも十分頑張ってる。これ以上の頑張りは、君自身を大切にすることにあててくれ。

ありがとうと伝えて、彼を左手で抱きしめた。彼は大きなあくびをして、私の枕に頭をのせた。

オレにとって春は、昼寝に最高の季節だな。君の腕枕がほしいところだけど、今の昼寝には君に抱き枕になってもらうかな。
君ももう少し寝たらいい。そばにいるから。

まだ寝るの?寝過ぎにならない?
と言うと、いたずらっぽい笑顔が返ってきた。

芽吹きには長い準備と蓄えと、睡眠が必要なんだよ。

睡眠はさっき言ってなかったよ。お昼寝したいだけ・・まあ、いいか。
彼に抱きしめられると、そのぬくもりに反論する気力が失せてしまい、眠気が襲ってきた。
私はすぐに眠ってしまった。

今日という春の心模様は、
春の寒さから、春のぬくもりへの
昼寝日和かなぁ。

4/23/2024, 1:35:16 PM