水白

Open App
8/23/2024, 7:10:25 AM

気付くと、知らない図書館にいた。

「え?」
今まで己は何をしていたか、少年は何も思い出せなかった。
靄がかかる頭で周りを見渡すと、等間隔に書架が整列しており、両端が見えないほど広い。
書架にはもちろん本が配架されていて、同じ高さの本が軍隊みたいにみっしり揃っている所もあれば、バラバラなサイズの本がお互いに寄りかかってギリギリ転倒を免れているスカスカの所もあって、場所によってまちまちだった。
しかし、統一されていることが一つだけあった。
すべて、題名が見えないのだ。
文字が消えかけていて読めない、などではない。
タイトルが書かれた背中の部分が棚の奥に向けられていて、こちら側からは連なるページ部分しか見えないという物理的なものであった。

「ようこそアリス、裏返しの国へ」

後ろから声をかけられ、初めて自分以外にひとがいたことを知った少年は、弾かれたように振り返る。
そこは貸出などをするカウンターのようで、台に肘を置き手を組んで座る人物がいた。
中肉中背の、特徴のないのっぺりした顔。
白い無地のワイシャツにエプロンを付けたその人は、どこにでもいそうな印象を受けるのに、あまりに特出することがなさすぎて目を離した瞬間に忘れてしまう、そんなどこにもいないような人物だった。
老けた顔の同い年くらいにも見えるのに、若い顔の老人のようにも見える、ひどく不思議な男だ。

「だれ?」
「わたくしのことはどうでもよいのですよ、アリス」
そう言う穏やかな声は、先ほど聞いた音と違う気がする。
少年はまず、わかっていることから訂正をした。
「ぼく、アリスなんておとぎ話に出てくるような名前じゃないけど。ちゃんと素敵なお名前が「いいえ、」
威圧感のある重低音に遮られ、思わず黙る。
「いいえ、貴方はアリスだ。前の呼び名が違っていたとしても、今は裏返され、貴方はアリスになったのです。我は知っています」
ずっと笑っているのに、感情が読めない。
発せられる声も毎回印象が変わるこの奇妙な人物はなんなのだろう。
「呼びかけるのに不便だとと言うのなら、そうですね、キャロルとでもしておきましょう。小生のことはキャロルと呼んでください」
「はぁ」
理解することを早々に放棄した少年もといアリスは、生返事をした。

「ここは裏返しの国。さぁ、アリスは何を裏返しますか?」
「何って…なにが?」
意味のわからない言葉に、知らない場所、奇妙な隣人。
そろそろ頭が痛くなりそうなのに、靄が晴れないせいで、うまく思考が回らない。
「なんだっていいんですよ。モノでも、場所でも。ここでは全てを裏返すことができる。それこそ世界でも」
「世界を、裏返す?」
「おや、世界の裏側に興味が?」
「世界の裏側って…アンダーグラウンド的な?」
アリスの疑問に、わざとらしくため息をついて見せるキャロルが首を振って答える。
「それは比喩というのもでしょう。そうではなく、本当にひっくり返して、裏返す。だからこそここは裏返しの国なのです。」
満足げな高い声を無視して、アリスは質問を重ねる。
「世界を裏返したら…すべて変わる?」
「さぁ?それは裏側次第ですね」
キャロルはカウンターを迂回して、アリスの後ろに設置された書架を撫でていく。

「裏返し、とは裏と似て非なるもの。」
呟きが反響する。

「表と裏、とは対を成す言葉ですが、実際のところ、裏側が必ずしも表の反対とは限らないでしょう?ここは鏡の国でも逆さの国でもない」
名推理を披露する探偵のように、書架の間を行ったり来たりと歩き回り、時々姿すら見えないのに、演説の音量は均一であった。
「それは、リバーシブルかもしれないし、表よりもド派手かもしれないし、言葉のイメージ通り陰鬱としたものかもしれない。表と全く変わらない可能性だってあるし、もしくは、何も無いかも。それが裏側」
結局アリスの元に戻ってきたキャロルは、いつの間にか1冊の本を手にしていた。
裏表紙を表にしていて、相変わらずタイトルは見えない。

「そして一番大切なのは、ここでは裏は裏でなくなる。
裏返した時点で、それは表となるのですから」
「裏が、表になる」
どうなるかは裏返すまで誰にもわからない。
それでも、今の、あまりに多くを失った今の世界を変えられるなら。
アリスはじんわり手のひらに浮いた湿っぽさを拭う。

「さぁ、貴方は世界を裏返しますか?アリス」
「ぼくは…」
彷徨いながらも手を伸ばし、そして―――



【裏返し】

8/21/2024, 12:33:34 PM

生憎の渋滞。迎えの車はしばらく来ないらしい。
6人で待ちぼうけ、というやつだ。
廃線したバス停、屋根などはないさびれた長ベンチに、肩を揃えて座っていた。
西からの日差しは雲に覆われているものの、ジメッとした暑さが、どこからか聞こえるセミの鳴き声で増幅する。

「あー…あっつ」
「あついねえ」
「暑いですね!」
「暇」
「ひまだねえ」
「暇ですね!」
「所持品は全て置いていくのが条件の任務だったからね。暇潰しできるものが何もないよ」
「私は煙草は持ってる」
「なんで持ってんだよ」
「いる?」
「いらねぇ…おい誰かなんかしろよ」
「悟は相変わらずの無茶振りだな。しりとりでもする?」
「あー…リンゴ」
「ゴリラ」
「硝子なんでこっち見ていうの?ラジオ」
「えっ先着順なのぉ?じゃあ、おにぎり」
「おにぎり食べたくなってきたよ!陸上!」
「…」
「…」
「……おい、お前の番。おもしろいこと言えよ」
「ハァ……うどん」
「しりとり終わらせんな!」
「七海が真顔でうどんって言うとおもしろいからいいんじゃない?…うどん…っ」
「なんでちょっとツボってんだよ」
「七海、そこは好物のパンで終わらせる方が良かったんじゃないか?」
「なんでですか嫌ですよ」
「えーそうかな…あ」
「どうしたの?灰原」
「ほら!あれ、電線に何匹も並んでる鳥ってくーくんと同じ名前の鳥だよね!」
「あーほんとだぁかわいいねえ」
「かわいいかぁ?あんな詰め寄って並んでるの見ると暑苦しいだろ」
「なかよしって感じでいいじゃぁん!」
「ねぐらへ安全に帰るため、あぁやって集まる習性があるらしいから、言いようによっては仲良しなのかもしれないね」
「さすが夏油さん!物知りですね」
「私もそろそろ帰りたいんだけど」
「さすがにそろそろですかね」
「あっ、飛んでっちゃった」

徐々に橙色に近付く太陽。虫の鳴き声も変わっていく。
彼らの後ろ姿もまた、電線に仲睦まじく並ぶ鳥のように見えていることには、まだ誰も気付かない。



【鳥のように】

8/21/2024, 4:15:33 AM

「この世界へさよならを言う前に、辞世の句でも読めると思った?
残念、大間違いだよ。走馬灯を見る隙すらあげない」

右足。

「最期を悟った後に時間をもらえるなんて考え自体贅沢だなぁ。自分がいつ死ぬかなんてわからないし、突然終わることの方が圧倒的に多いでしょ、ぼくらみたいなのの場合」

左足。

「そんなに遺したいことがあるんなら、遺書でも書いておかなくちゃ。…何度も書くのは面倒だけどねえ」

右手。

「終わりが見えて、始めて浮かぶ言葉があったとしても。誰にも何も伝えられない。それが後悔ってやつだよ。
それが嫌なら毎回覚悟を決めておかないと」

左手。

「だから、さよならを言う前に、こんな風にダラダラ話したり、いろんなものをもらってゆるされるのは、いつだって勝者だけなの」

少年はニコリと笑って、

「ほらね、さよなら」

心臓を奪った。




「あああああああ私のピカチュウううううう!!!!でも椋さまの勝ち誇った顔かわいいいいい」
「ふふん、ぼくのカービィに敵うものはないってことだねっ!次勝てば、ぼくのお願い聞いてもらうからぁ…ぼくのケーキが待ってる!」
「この、キャラランダム&正座&コントローラー握っちゃいけない&サイレント縛りがなければ…椋さまにあんなお洋服やこんな衣装を着てもらえるのに…っ!」
「だってつぐみちゃんが縛りプレイでもしないと相手にならないでしょ?初心者のぼくが」
「あの、正座で足しんでるからちょっと休憩を…」
「はーい最後のラウンドいきまぁす!」
「ドSの椋さまもいいな…新しい扉開きそう…」
「わーつぐみきもちわるいー。…こんな感じぃ?」
「ヴッ心臓奪われた」

暫定勝者の椋は、無視して容赦なくAボタンを押した。



【さよならを言う前に】

8/19/2024, 2:24:10 PM

雲一つない晴天を最高、というなら、今日の空模様は最低最悪というやつだ。
灰色の空に、黒い雲が工場の煙のように充満している。
時折、猫の機嫌のような風と共にぽつり、ぽつりと水滴が顔にぶつかるのは、雨か、電線を濡らしていた雨粒か。
極めつけは、
「あ、光った」
間を置いてから腹に響く轟音。遠雷。
「…ははっ」
雷に少し心躍るのは、さすがに幼心が過ぎるだろうか。
でも、不謹慎さすら感じずにわくわくする気持ちには嘘が付けない。

しとしとと音もせずに肌を撫でるような湿ったらしい雨は大嫌いだ。
でも、この小さな嵐のような天気は嫌いじゃない。
手のつけられない悪ガキのように荒れ狂い、滅茶苦茶で、破茶滅茶に笑う、あの人たちを見出してしまうから。
ゾクリとする真っ暗闇の中に羨望を、そして、切り裂く光に美しさを。

「あ、降ってきた」
ぽつ、ではなく、ボツボツとした雨が地面を叩いて奏で始めた。
それはすぐに矢に変わり、天からなだれ落ちてくる。
周波数の合わないラジオのような水音に、横切る落雷。
彼を邪魔するものは何もない。
「よーし…仲間入りするぞっ、と!」
少年は、屋根の下から飛び出した。



【空模様】

8/17/2024, 1:53:17 PM

いつまでも捨てられないものがある。
心情で、という話ではない。本当に、捨てられない。

ソレを見つけたのは、台所の戸棚の中だった。
水道の調子が悪く、素人心で水道管を見てみようと普段あまり使うことのない戸棚を開いて確認していると、奥になにか光るものを見つけて、手に取ってみた。
指輪、だった。
よくあるシンプルなシルバーリング。
真新しく見えるのに、表面の所にわかりやすく傷が付いている。
「なんだこれ」
見覚えはない。引っ越してきてからもう随分経つが、前の住居人の忘れ物、だろうか。
指輪なんて感情の籠もりそうな他人の物なんてあまり持っていたくない。
その日のうちに、燃えないゴミと一緒に捨てた。
はずだった。

「…あれ?」
また、指輪を見つけた。今度はベッドの下で。
傷が付いているその指輪は、昨日見たものと同じ物のように見える。
捨てたはずだが、袋からこぼれでもしたか。
不思議に思ったが、ゴミ袋にやぶけなどないか確認して、もう一度ゴミ捨て場に持っていった。

次の日も、指輪があった。洗面台の棚の中。
自分は昨日確実に捨てたはずだ。
同じ物が2つあった?しかし傷は同じ位置に同じ向きで付いている。同じ物としか思えない。
ではなぜこんなところに。……戻ってきている?
そんな馬鹿な、気のせいだろう。
なんにせよこんなところに中古品の指輪があるのが見つかったら、彼女に変な勘違いをされてしまう。
ただでなくても最近会えていないのだ、最後に会ったのはいつだったか。
苛立ちと共にゴミ箱に追いやった。

しかし、家に帰るとまた、指輪が戻っていた。
備え付けではない、自分が買って設置した冷蔵庫のチルド室に。
さすがに気味が悪くなってきて、その場で窓から投げ捨てた。

そのはずなのに。
その次の日も、次の日も、次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も、指輪は戻ってきた。
なぜ。
気持ちが悪い。
こわい。
今まで居心地の良かった自分の家が、得体のしれない場所になってしまったように感じる。
「…そうか!」
そうだ、きっとこの場所がいけないのだ。
ひとまずここにいたくなくて、いつも通り不気味な指輪を投げ捨ててから、外出し、漫画喫茶で夜を明かすことにした。

狭い個室スペースに閉じ籠もり、鍵を掛け、スナック菓子にペットボトル、マンガで城壁を作ったら、指輪のことなんて忘れてしまえるはずだ。
気になっていた映画を見るためヘッドホンを付けて、世界を遮断した。

気付くとモニターが真っ暗になっている。眠ってしまっていたらしい。
今は何時だろうか。机の上に置いておいたはずの携帯電話を手で探ると、カツンと何かに当たる。
携帯ではない。しかし、この感触を知っている。それも最近。
冷えた円状の金属。輪を乱すような凹凸の跡。
あの指輪だ。
「ヒッ…!?」
なんで、どうしてここに、なんで、ここは家じゃない。
なのになぜ、とパニックになるかたわら、脳の冷静な部分が囁く。
お前に着いてきたのだと。


「……それで、ぼくに相談に来た、と?」
「そうだ、君、こういうのに強いんだろう?助けてくれよ!」
大きな瞳を丸める少女―に見紛う少年、いや、同じ大学生のはずだから青年と言った方が正しいか―はきょとんとまばたきをしている。
「前聞いたんだよ、うちの大学のピンク頭の可愛い子がオカルトに強くて、他の奴の悩み解決したこともあるって!君の事だろ?」
「うーん…ピンクの髪ってだけじゃなくぅ、かわいいとまで来たらぁ十中八九ぼくのことだろうね!」
えっへん、と言って腰に手を当てている青年に、例の指輪を見せる。
もう触りたくなくて、そこらにあった紙に包んで持ってきた。
「なぁ、これって呪われてるとかそういうやつだろ!?」
「うん、まぁ、呪いだね?」
歯切れが良くないのが少し気になるが、藁にでも縋る思いで彼に詰め寄る。
「これどうにかしてくれよ!もう頭がおかしくなりそうで…」
「どうにか…って言ってもなぁ…」
「なぁこれ、引き取ってくれないか?」
「えっ!?もらっちゃっていいのお?!」
最初に声を掛けた時と同じく、驚いた顔をしている。
「もう持っていなくない、二度と見たくない」
「…へえ?じゃあもらったら、何してもいいってこと?」
一瞬、躊躇う気持ちが生まれたのはなぜか。
彼の目が、猛禽類のように見えたからだろうか。
「…あ、あぁ、俺の所に二度と戻って来ないなら何でもいい」
「わーい!じゃあ、約束ね?」
鋭い嘴も爪も持ち合わせていないふわふわとした顔で彼は笑った。


帰ってきてから一晩経ち、家中くまなく探したが、例の指輪は見つからなかった。
持ち主は、彼に移ったのだ。
安堵から玄関の横で座り込む。
「はぁ…よかった…」
今度会ったらお礼をしなくては。あまりに焦っていたので、名前すら聞いていなかった。
噂をしていた奴に確認してみるか、とポケットの中の携帯電話を取り出そうとした時だった。

パリン、と何かが割れた音がした。
薄い飴細工が砕けた、ような。

「わーほんとに罠でもなんでもなかったんだねえ?」
「なん、で」
いつの間にか、玄関の外に桃色の髪の青年が立っていた。
「生前の記憶を中途半端に残してるにしても、祓除する側に自分の核渡してくる呪霊ってどんな罠ぁ?って思ったけどぉ」
その手には、何片にも砕けたあの指輪があった。
「一番大切な記憶がないと、こんな展開になっちゃうのかな?…いやでもやっぱりレアケースすぎるでしょお」
彼は何を、なにを言っているのかわからない。
生前?
記憶がない?
どういう意味だ。
彼に近付こうとしたが、己の足も、口も、喉も、なかった。
「    」
どうして。
それだけが頭を巡る中、あの指輪の欠片に残る傷跡を見て、思い出した。
あぁ、そうだ、それは彼女が


「…消えたね、痕跡とかも…なし!消滅かくにーん!任務かんりょー!
それにしても変なおばけちゃんだったなー…やっぱり指輪がキーかな?持って帰ってもっとちゃんと調べてもらおーっと」
鞄から布袋を取り出し、指輪の欠片たちを流し込む。
青年が手をかざすと、ぶつかり合って鳴っていた小さな金属音が消える。
そして、さっきの出来事など忘れたかのように振り返りもせず、桃色はその場から消え去った。



【いつまでも捨てられないもの】

Next