気付くと、知らない図書館にいた。
「え?」
今まで己は何をしていたか、少年は何も思い出せなかった。
靄がかかる頭で周りを見渡すと、等間隔に書架が整列しており、両端が見えないほど広い。
書架にはもちろん本が配架されていて、同じ高さの本が軍隊みたいにみっしり揃っている所もあれば、バラバラなサイズの本がお互いに寄りかかってギリギリ転倒を免れているスカスカの所もあって、場所によってまちまちだった。
しかし、統一されていることが一つだけあった。
すべて、題名が見えないのだ。
文字が消えかけていて読めない、などではない。
タイトルが書かれた背中の部分が棚の奥に向けられていて、こちら側からは連なるページ部分しか見えないという物理的なものであった。
「ようこそアリス、裏返しの国へ」
後ろから声をかけられ、初めて自分以外にひとがいたことを知った少年は、弾かれたように振り返る。
そこは貸出などをするカウンターのようで、台に肘を置き手を組んで座る人物がいた。
中肉中背の、特徴のないのっぺりした顔。
白い無地のワイシャツにエプロンを付けたその人は、どこにでもいそうな印象を受けるのに、あまりに特出することがなさすぎて目を離した瞬間に忘れてしまう、そんなどこにもいないような人物だった。
老けた顔の同い年くらいにも見えるのに、若い顔の老人のようにも見える、ひどく不思議な男だ。
「だれ?」
「わたくしのことはどうでもよいのですよ、アリス」
そう言う穏やかな声は、先ほど聞いた音と違う気がする。
少年はまず、わかっていることから訂正をした。
「ぼく、アリスなんておとぎ話に出てくるような名前じゃないけど。ちゃんと素敵なお名前が「いいえ、」
威圧感のある重低音に遮られ、思わず黙る。
「いいえ、貴方はアリスだ。前の呼び名が違っていたとしても、今は裏返され、貴方はアリスになったのです。我は知っています」
ずっと笑っているのに、感情が読めない。
発せられる声も毎回印象が変わるこの奇妙な人物はなんなのだろう。
「呼びかけるのに不便だとと言うのなら、そうですね、キャロルとでもしておきましょう。小生のことはキャロルと呼んでください」
「はぁ」
理解することを早々に放棄した少年もといアリスは、生返事をした。
「ここは裏返しの国。さぁ、アリスは何を裏返しますか?」
「何って…なにが?」
意味のわからない言葉に、知らない場所、奇妙な隣人。
そろそろ頭が痛くなりそうなのに、靄が晴れないせいで、うまく思考が回らない。
「なんだっていいんですよ。モノでも、場所でも。ここでは全てを裏返すことができる。それこそ世界でも」
「世界を、裏返す?」
「おや、世界の裏側に興味が?」
「世界の裏側って…アンダーグラウンド的な?」
アリスの疑問に、わざとらしくため息をついて見せるキャロルが首を振って答える。
「それは比喩というのもでしょう。そうではなく、本当にひっくり返して、裏返す。だからこそここは裏返しの国なのです。」
満足げな高い声を無視して、アリスは質問を重ねる。
「世界を裏返したら…すべて変わる?」
「さぁ?それは裏側次第ですね」
キャロルはカウンターを迂回して、アリスの後ろに設置された書架を撫でていく。
「裏返し、とは裏と似て非なるもの。」
呟きが反響する。
「表と裏、とは対を成す言葉ですが、実際のところ、裏側が必ずしも表の反対とは限らないでしょう?ここは鏡の国でも逆さの国でもない」
名推理を披露する探偵のように、書架の間を行ったり来たりと歩き回り、時々姿すら見えないのに、演説の音量は均一であった。
「それは、リバーシブルかもしれないし、表よりもド派手かもしれないし、言葉のイメージ通り陰鬱としたものかもしれない。表と全く変わらない可能性だってあるし、もしくは、何も無いかも。それが裏側」
結局アリスの元に戻ってきたキャロルは、いつの間にか1冊の本を手にしていた。
裏表紙を表にしていて、相変わらずタイトルは見えない。
「そして一番大切なのは、ここでは裏は裏でなくなる。
裏返した時点で、それは表となるのですから」
「裏が、表になる」
どうなるかは裏返すまで誰にもわからない。
それでも、今の、あまりに多くを失った今の世界を変えられるなら。
アリスはじんわり手のひらに浮いた湿っぽさを拭う。
「さぁ、貴方は世界を裏返しますか?アリス」
「ぼくは…」
彷徨いながらも手を伸ばし、そして―――
【裏返し】
8/23/2024, 7:10:25 AM