「国語の問題ってさぁ、意味わかんなくない?」
「は?」
持っていたペンを机に転がして、テキストの上にどさりと被さる椋に、七海は思わず筆が止まる。
「どうしたの?くーくん。宿題わからないとこあった?」
同じく手を止めた灰原が尋ねる。
「この問の答えって意味ならわかるよ?でもさぁ…見てよぉコレ」
七海と灰原は一旦自分の課題をやめ、椋の取り組んでいた国語の問題集を覗き込む。
抜粋された小説を読んで答える、所謂文章問題だ。
「この問4の、『―線Bの「彼を止めようとしたのは僕だけだった」とある僕の心情について、次の中から当てはまるものを選びなさい。』って問題」
椋は転がっていたペンの先で問題を叩く。
「前後の文章を読めば、『A嬉しさ、Bやるせなさ、C誇らしさ』のうち、Cの誇らしさだって言いたいのはわかる、わかるんだけどぉ…」
ガッ音が付くほど勢いよく状態を起こして喚く。
「『誇らしさ』ってなぁに!?どうしたらこの展開で誇らしく思えるの!?こんなのただの自己中じゃん!誇りなんてワンちゃんにでも食べさせちゃえ!」
「犬にでも食わせとけ、ですか。
まぁ気持ちはわかりますがね、誇りも、国語の読解問題も」
「えっ七海もそんなこという!?」
「この手の小説の、主人公の感情を断定するのは好きじゃないんです」
ただの七海の私怨である。
『誇り』だって、そんなもののためにこの学校にいる人間はいないだろう。いたとしたらおそらく、もう去ってるか、二度と会えない人物か、だ。
「俺は『誇り』ってあるよ!」
「えっはーくんが?」
まさかの灰原発の回答に、椋が驚いて詰め寄る。
七海も内心少し驚いたので止めはしない。
「はーくんの誇りって?」
「七海とくーくん…来曲に、『仲間』って認めてもらってること!」
一瞬の沈黙。
「っっもおぉはーくんてばぁ!!そんなのあったりまえでしょお!?」
「うわっ、くーくん危ないよ!」
座ってる灰原に飛び付く椋のせいで、椅子がぐらりと揺れる。
なんとか踏ん張った歴史の長い椅子に労りの気持ちを送りながら、七海はため息を吐く。
「そんなくさい台詞を照れもなく言えることの方が誇れるんじゃないんですか」
「あー!またななくんったら自分だけスンッて顔してるぅ!うれしいくせにぃ」
「うるさい、早く課題を終わらせますよ」
まだじゃれ合っている二人を無視し、計算問題に戻る。
下を向くと落ちてくる邪魔な髪は、しばらく耳にかけられそうにない。
【誇らしさ】
夜の海は好きじゃない。
あの人のようだと、思ったことがあるから。
ザザーン、と遠いようで近くの暗闇から波の音が聞こえる。
月明かりで薄ぼんやりと浮かぶ人影を見て、これは夢だと気付く。
「よぉ、久しいな」
「久しく感じるほど、ぼくのことなんて覚えてないでしょ」
砂が靴に入り込むのもお構いなしといった調子でザクザクと歩く音がして、椋の嫌いなしたり顔がはっきりと認識できた。
足元は裸足だった。
「幽霊ならもっと足音たてないで来たらぁ?」
「あ?生きてようが死んでようが足音なんてどうにでもできるだろうが」
そんなのはお前だけだ、と言ってやりたいのを飲み込む。
「てか、なんでわざわざぼくのとこに来たの?もっと会いたい人いないの?夢の中でまでとーじくんの顔見なきゃとか最悪なんだけど」
「命の恩人にひでぇ言いようだな?」
「命の恩人だろうが嫌いなものはきらい」
「俺はお前のこと結構好きだぜ?
なんせお前がピイピイ泣き喚いてたおかげで、あのクソの実家出るのが少し楽になったからな」
嘘つき。
ぼくが何しようと、家から出るのなんて簡単だったくせに。
男は傷のある口元を吊り上げて笑ってから、椋の横を抜けていく。
暗闇の方へと歩いていく足音はしなくなった。
代わりに波の音が近付いた気がする。
「アイツが世話になってるみたいだからな。ちょっとした挨拶だ」
「…そんなキャラじゃないでしょ」
「これはお前の夢の中なんだろ?じゃあお前が俺のことそういう奴だって思ってんだろ」
「ぜぇったいちがう!とーじくんなんて、子どもにも全く優しくなくて容赦なくて、底知れないやな奴だもん!」
「ハハッ、違いねぇ」
パシャリと波以外の水の音が跳ねる。
案外近くまで波が押し寄せてるのかもしれない。
でも、もう月の光は届かないから、わからない。
「じゃあな」
「じゃあね。もう二度と会いたくない」
椋は枕に暴言を、手向けの言葉にして送った。
【夜の海】
「今日の買い出し、コレで行くよ」
どこから見つけてきたのか、古びた自転車を出して来たのは良い。
しかし、その後が良くない。
「なんでぇしょーこセンパイが漕ぐ方で、ぼくがうしろに乗る方なのぉ!?」
「私が先輩だから?」
「でもこーゆーのはぁ、男の子が女の子をうしろに乗せて、『しっかり掴まっててね』とかなんとか言ってぇ、心も体も距離が縮まるシチュエーションが少女漫画のお決まりなんだよぉ!?」
椋が大袈裟に地団駄を踏む姿を、停めた自転車のハンドルを肘置きにして硝子は鼻で笑う。
「でもそれ私たちじゃ実現不可能じゃん。相手、私だよ?」
薄笑いのまま、持っていた煙草を口元に運ぶ。
……たしかに、彼女がテンプレな少女漫画のヒロインに成り代わっても、ドキッ、キュン、等の効果音は1mmたりとも出ないだろう。
「たしかにぃしょーこセンパイにテンプレヒロインは似合わないけどぉ」
「第一、」
ずい、と短い白棒で指を差される。
「来曲、チャリ乗れるの?」
「ゔ……のっ…たことはないです…」
「そうじゃないかと思った。いいとこの坊っちゃんアイツも乗ったことないって言ってたから、来曲んちもそうかと」
「で、でもぉちょっと練習すれば多分、乗れるもん!きっと!」
「ハイハイ、後で練習付き合ってあげるから。買い出しが先」
硝子は食い下がる椋の肩を押し、本来乗る場所ではない自転車の荷台に座らせた。
「あぁ、それに」
スタンドを外しながら椋を見下ろし、煙草を持っていない方の指で顎を掬い、ニヤリと笑う。
「最近の少女漫画は、女の子がかっこいいってやつも流行りらしいよ?」
紫煙を燻らせながら平然と自転車を漕ぐ少女と、先輩の格好良さにやられて赤面する少年の姿も、ちょっと変わっているが、まさしく青い春だ。
【自転車に乗って】
憎い、あぁ憎い。
「椋様、あの年でもう任務を遂行されていらっしゃるそうよ、それもすべて良い結果を出しているとか」
「さすが生まれる前から選ばれた“愛し子”ね」
女中たちがひそひそと井戸端会議をしている声が耳に届く。
酷く苛つく話題だ。
「それでお上の覚えも良いそうで。禪院家のご当主のご子息にも気に入られたって」
「今日もそれで出かけてらっしゃるのよね?」
「そうそう!まぁあんなに愛らしく聡明だったら気に入られて当然よね」
ただへらへら笑って、自分の意見もろくに言えないだけじゃないか。
どうせ媚びへつらったのだろう。吐き気がする。
「聡明といえば、どの先生方もいつも褒めて帰られるそうよ。勉学も他のお稽古もすばらしく優秀だと」
「それでいて、呪術の方は歴代当主の中でも最高峰と言われているんでしょう?」
「まさに神童よね!あの方がご当主になるなら安泰だわ」
あいつが生まれてくるまでは、僕があの場にいたのに。
神童なんて馬鹿みたいな呼ばれ方しているのだって、ただ化け物に選ばれたからだけだというのに。
「…樒様もねぇ、出来は悪くなかったけれど、椋様と比べてしまうとねぇ…」
「樒様は癇癪持ちなところもあったから…その点椋様はまっすぐでいい子だもの」
「シッ!そんなこと声に出さないの!」
「…っ!」
憎い、憎い、憎い。
蝶よ花よと愛され、手厚く育てられているあいつが憎い。
あいつさえ生まれなければ。あいつさえ、いなければ。
「……そうか」
そうだ。あいつさえいなければいいんだ。
あの羽を、花びらを、引きちぎってしまえばいい。
すべてむしって、みすぼらしい、ただの屑にしてしまえばいい。
「ハハ…なんで気付かなかったんだろ」
少年は奥歯を噛み締めていた力を、口端を持ち上げる力に変えて、計画を考え出した。
少年は知らない。
一族を背負う当主となるべく子供が、蝶よ花よと育てられている訳がないことを。
雁字搦めの籠の中で、鮮やかな蝶の羽の下に蜂の針を、美しい花弁の元に鋭い棘を、研ぎ澄ませているとは、知らない。
少年は、気付かない。
自分こそ、蝶よ花よとやわく包まれていたことを。
自由な蝶で、気ままな花だから気付かない。
その色はやがて呪いで濁って、堕ちた。
【蝶よ花よ】(過去のお題)
暗い部屋の中、煌々と光るモニターに流れるエンドクレジットをぼーっと眺めていると、突然部屋の灯りが全て光り、明るい声が飛び込んできた。
「ねぇそこの少年!夏、満喫しない?」
「へ?」
「ほら、ゆじくんって今、身を隠して生活してるから、お天道さまが出てる間は外に行けないでしょお?
せっかくの夏も楽しめないと思ってぇ、ぼくが夏満喫セットを中途半端に持ってきてみましたあ!」
明るい声の持ち主、来曲がじゃーんと効果音を口に出しながら、両手の大荷物を持ち上げる。
「マジで!?サンキュー先生!…でも中途半端って?」
「まぁまぁ見てくれればわかるよぉ」
荷物を床に置き、がさごそと漁ってから、一つずつ何かを掲げていく。
「まずはぁ……浮き輪!」
「おぉ!夏っぽい!」
「ただ、海もプールも行けないので使い道がないです!
次は…虫取り網と籠!さぁこれは使えると思う?」
「虫がいないと使えない?」
「ぴんぽーん!せいかーい!部屋の中に出るような虫は捕まえなくて結構です!
そして次!手持ち花火セット!」
「おっ!これは夜にできねぇかな!?」
「できるかもしれないけど、チャッカマンもライターもマッチもろうそくも持ってない!…コンロで火付けるぅ?」
「えーっと火事になると思うから保留で!先生、次は?」
「次はぁ…なんと!かきごおりき〜」
「やっべぇ!かき氷機は使えるっしょ!」
「残念ながら、氷を忘れました」
「あー…ここの冷蔵庫も氷なかったわ…」
「って感じでね、中途半端な物しか用意できなかったから、今日は夏楽しめないんだぁ…ごめんねえ」
「いや、こんなに用意してくれたので十分だって!」
「…あ、でもこれはいいと思って!はいっ」
底をついたかと思った荷物の袋から来曲が最後に取り出したのは。
「麦わら帽子?」
「うん!まぁこれも本来は暑い夏に適してる帽子だからぁ、こんなクーラーの効いた部屋じゃ意味ないんだけどぉ…ほら、頭かして?」
ぱさりと頭の上から音がして、薄い影がそそがれる。
「…うん!麦わら帽子、ゆじくんは絶対似合うと思ったんだよねぇ!」
満足げに笑う来曲が、影の下に入ってきて、麦わら帽子を動かす。どうやら位置を整えているらしい。
虎杖は少し気恥ずかしくも、そのまま動かず身を任せる。
「幼い頃ね、夏になると、近所の子が麦わら帽子を被って、楽しそうな声をあげて走って出かけていくのを家の窓から見てたんだぁ。あぁ夏だなぁ、楽しそうだなぁって」
来曲の指が、ふわりと帽子のつばをひと撫でしていく。
「ってごめん、これじゃあ夏を感じてるのはぼくの方だねぇ…はい、カンペキ!」
そう言って離れていった手の跡をなぞるように、虎杖もそっと思い出を辿る。
「小学生の頃 、夏にじーちゃんが麦わら帽子買ってくれたんだよね。すっげー嬉しくて、その夏どこに行くにもかぶってたら、枝に引っ掛けて脳天のところ、穴空いちゃって。」
あの日の情景が、ぼんやりと頭の片隅に蘇る。
「大泣きしながら家に帰ったら、泣くんじゃねえ!これぐらいすぐ直してやる!ってじーちゃんからゲンコツ食らって。ちょっといびつだったけど本当にすぐ直してくれて。痛いやら、嬉しいやら…ってのが俺の夏の思い出」
あの麦わら帽子はどこへやっただろう。
ちゃんと取っておけば良かった、なんて今更で。
「ふふっ、すてきなおじいさんだねぇ」
「…いや素敵か?ゲンコツだよ?」
くふくふ笑う来曲に改めて向き合って感謝を告げる。
「でも、麦わら帽子で早速夏を味わえたよ。ありがとな、先生」
「えへへ、ならよかったあ」
そう笑う来曲も、夏を感じてもらえたならよかった、と虎杖は思った。
「あっごじょーセンセ、この後帰ってくるってぇ!氷頼んじゃおうか!」
「え?いいんかな?ついでにシロップもないけど」
「うーん、じゃあ適当にジュースも買ってきてもらお!だめだったら砂糖水かけて食べよ!」
「砂糖水!?かけたことねぇ…うまいの?」
「うん!シンプルながらにおいしいよぉ」
「へぇー!ならシロップなくてもそれで食べてみたい!」
「じゃあ砂糖水作って待ってよ!お砂糖どこにあるっけ?」
「あーそっちじゃなくてこっち」
「あっ!浮き輪付けながら、サメ映画見るってのはどお?夏っぽくない?」
「いいけど、五条先生チョイスのサメ映画、海出てくるのあんまないよ」
「え!?サメなのに海舞台じゃないの?!」
「最近俺が見たのは、台風が舞台」
「た、台風…?どうやってサメが関連するの…?」
「来曲先生、サメ映画あんまり観たことないっしょ」
「うん、有名どころ1,2本くらいかなあ」
「サメ映画は、なんでとかどうしてって考えちゃだめなんよ、フィーリングが大事」
「サメ映画で悟り開けるの!?」
こうして夜が更けても、海も太陽もなくても、夏は楽しめることを、虎杖は教えてもらったのだった。
【麦わら帽子】