理想郷
ここにお嫁に来て50年近くが過ぎたが、ここで生活できて本当に良かったと思っている。後悔なんてない。
夫と私は年が10才近く離れている。お見合い結婚で知り合い、この山間の小さな集落に嫁いできた。夫は年が離れていることもあり、大きな声さえ上げたことのない働き者の優しい人だった。町の工場に勤めていたが、庭でシャクナゲの花を育てるのが、趣味だった。
シャクナゲは赤、白、黄ピンクの色とりどりの大きな花が特徴だ。この大きな花房を作るためには、花が咲終わったあとに枯れた花を全て摘む必要があり、非常に手間がかかる。花を増やすにしても挿し木で増やすため、人の手が必要だ。それでも夫はシャクナゲを好み、毎年綺麗なシャクナゲを庭に咲かせた。
シャクナゲが庭一杯になるころには、友達や親戚、集落の人たちが花見にくるようになり、この庭ははシャクナゲ見にくる人たちの笑顔が絶えない場所となっていた。
そんな夫も2年前に病でなくなった。
病院で夫は家に帰りたがり、シャクナゲのことばかりを気にかけていた。
「皆が笑顔になれるあの庭は俺にとって理想郷だ。早く帰って手入れをしめやらないとな。シャクナゲが可愛そうだ。」
夫の最後の言葉だ。
懐かしく思うこと
実家を離れて都会で1人暮らしを始めて1年とちょっとが経つ。自炊も減り、1人で外食に行くことに恥ずかしさも抵抗もなくなっていた。
前は1人でレストランやカフェに入るとソワソワしてしまい、慌てて注文し、慌てて食事をするそんな外食だった。もちろん味わうなんてできるはずもなく、かえってストレスを感じる程だったが、最近は1人でもゆっくり味わって食事ができるようになった。私も他の客も自分たち以外には興味がないことに気づいてしまったからだ。
美味しく食事ができればなんでもいい。そんな感じだ
アパートに帰ってもあとは寝るだけで済むし今では外食の方が断然に楽だ。
そんな私のアパートに半年に1回くらいのペースで、実家から段ボール箱が届く。
送ってくるのは母だ。1人暮らしの娘を心配して送ってくるのだが、箱の中身は米、味噌、醤油、砂糖、塩、ティシュペーパーにキャベツ、玉ねぎ、じゃがいも、洗濯洗剤、などなど日用品ばかりだ。自炊を辞めた私にとってはちょっとだけ、本当にちょっとだけ置く場所なくて邪魔だと思うことがある。
ピンポ〜ン。
玄関のインターホンが鳴り、母の段ボール箱を抱えた配達員が立っていた。段ボール箱を受け取り、箱を開けるとやはり日用品。
はぁ~。
ため息がでる。
ん?
段ボール箱の奥にいつもは見ない紙袋と母の手紙が入れてあった。手紙をを開けると母の丸みをおびた文字が目に飛び込んてきた。
元気にしていますか。
こちらは、みんな元気です。ところで、納屋の掃除をしていたら昔に使っていたミシンが出てきたのでお弁当風呂敷を作ってみたした。お昼ご飯の時にでも使ってちようだい。体に気をつけて。
母より
お弁当風呂敷って。自炊もしないのに何を言っいるのか。弁当風呂敷を広げてみると正方形の布の端がほつれないように真っ直ぐ綺麗に縫われていた。確かに母は昔、ミシンでいろいろなものを使っていた。スカートや巾着、通学用のバック、運動靴入れ
何でも作れてすごい母だと自慢していた。
その母がただ布の端を縫っただけの風呂敷を送って来たのだ。
母の弁当風呂敷を見ていると小さい頃のことが懐かしく思い出され、知らず知らずのうちに涙が溢れてきた。
明日、家にかえろう。
母のご飯が久しぶりに食べたい。
もう一つの物語
歩く。歩く。歩かなければならない。こんな乾燥した大地にいつまでもいたら干からびてしまう。足元はサラサラとした砂で、足を一歩出すごとに砂が崩れて足に力を入れることができない。
力の入らない足で進んでも推進力は得られず、多くの距離を稼げないでいた。
砂漠を歩く俺たちに太陽は容赦なく強い熱を注ぎ、喉の渇き、体の渇きを徐々に感じてくる。水筒の水もあと僅かとなり、ますます焦りが湧いてきていた。
水の確保が急務だ。砂漠の中で生き残るためには水は必ず必要となる。GPSでオアシスを探すと2キロ程先に水辺があるのが確認できた。重い足を引きずり砂の上を歩く。1キロ程歩いたところで、行く先に大きな穴が見える。
蟻地獄だ。
ここのアリは人間ほどの大きさで、蟻地獄は全長で5メートル程だ。落ちたらひとたまりもない。
慎重に蟻地獄の際を歩いて行く。ふと見れば、蟻地獄の底にウスバカゲロウの幼虫が顔を出していた。アイツもでかい。人間をもエサとしてしまうほどだ。
こんなところで虫のエサになる気はない。ゆっくり、ゆっくり歩いて行く。
急に強い風が吹き俺たちは風に煽られバランスを崩す。
「お、落ちる。」
ぎゃあ〜。
真っ暗な空間に見覚えのある模様の天井が見えた。また同じ夢を見た。砂漠を歩いて行き、穴に落ちる夢。妙にリアルで暑さや足に当る砂の感じが生々しい。ここ何日も同じ夢を見る。体中に汗をかき、寝苦しさに耐えかねて起き上がる。水を飲みにキッチンに向かうため、部屋の扉を開けると砂漠だった。砂漠の向こうには蟻地獄が見える。また落ちるのか。
1つは現実。
もう一つの物語は夢。
どちらが現実でどちらが夢なのかわからない。どちらも現実でどちらも夢。夢は幻し、うつつと言うが、夢なら早く覚めてくれ。もう繰り返すのは耐えられない。
暗がりの中で
タッタッタ。
ザッ。ザッシュ。
ここ数日、会社から帰る駅からの道で誰かにつけらている気がする。いや、気のせいではない。確かに足音が後ろからついてくる。ストーカーだろうか。怖い。怖い。
一度振り返ったが、暗がりの中でよく分からない。でも足音は聞こえる。
走れば振り切れるだろうか。
角を曲がり走り出そうとした時、後ろから肩を捕まれた。
「ぎゃあ〜」
驚いて大きな声を出すと目の前に父がいた。
「驚ろかすなよ」
「ちょっとお父さん!急に声かけないでよ。ビックリするでしよ。ねぇ。お父さんのほかには誰かいなかった?」
「いや。いなかったな」
父は曲がった角の少し手前で私に気がついたそうだ。その時は誰もいなかったらしい。でも、でも足音が聞こえたの間違いではない。
家に帰り後ろをつけられていることを家族に話した。みんなが心配したが、おばあちゃんがニコニコしながら「それ、ベトベトさんね。大丈夫。怖いことはないよ」と言った。
え!?
なんだったて?
「ベトベトさんよ。今度来たら、お先にどうぞと言えばいいよ」
「それさぁ。テケテケじゃねえ。」
なんだって!
弟からでたのは、都市伝説だった。
確かにどちらも足音だけで姿形は見えないと言われているが、どちらも妖怪。
怖い。怖すぎる。
暗がりの中で出会うものは、人間でも妖怪でも怖い。平穏に生活したい。
紅茶の香り
一浪して予備校に通っていた時、毎日、毎晩とにかく勉強ばかりしていた。もうこれ以上親に迷惑はかけられないし、来年は必ず大学に合格しなければならない。
それでもずっと勉強ばかりしていると気持ちが滅入ってくる。本当に勉強が好きな人は楽しく勉強できるのかもしれないが、私は無理だ。息抜きしたい。何でもいいから勉強から少し離れたい。
あー。しんどい。
予備校があるから旅行には行けない。買い物やウインドショッピングでもいいが、勉強していないことが罪悪感となってちっとも買い物に集中できない。
そんな時に出会ったのが紅茶だ。コーヒーでもいいが、勉強で疲れた頭と体を癒やすためには、苦みより少しの甘みが欲しいもの。かと言って、ロイヤルミルクティーほど手間はかけられない。紅茶に砂糖とミルクを入れるだけのものが、最高に癒される。
よし!頑張ろう!
次の3月に大学に合格し1人暮らしを始めた。今でも紅茶の香りがするとあの時の辛さや苦しさが蘇るが、一口飲めば心が落ちつき癒されていく。
私にとって紅茶は最高の宝物だ。