愛言葉
「次に生まれ変わった時に、お前だって気がつくように合言葉を決めないか。」
別れると決めてから数日。彼女を呼び出したのは俺だったが、未練があるのも俺の方だった。喧嘩別れする訳ではないが、一緒にいる時間が減り、付き合っているのかと思うほど会わない日が何日も続いていた。
彼女から別れ話しをしてくるかと思ったが、結局俺が呼びだした。
「生まれ変わるつもりなの」
「ああ。絶対にない。なんてないかもしれないだろ。」
「何を言ってるのよ。それに合言葉って、馬鹿馬鹿しい。」
付き合い始めたころは、あんなに愛の言葉を強請っていたのに今はロマンチックの欠片もない。別れる時はこんなものなのかもしれない。
「まあ、いいわ。愛言葉決めましょう」
愛言葉が合えば、見た目は分からなくても俺たちはまた会うことができる。
その日までサヨナラだ。
友達
友達と同じ大学に進学した。高校の時から仲が良く、大学では上京して見知らぬ土地で生活する不安を和らげるてくれる存在となった。そんな友達から大学の駅伝部に誘われた。いつか見た正月の駅伝にいたく感動し、大学に行ったら駅伝部に入ると決めていたらしい。
自分たちの大学は、正月に駅伝を走るほど強い学校ではないため比較的初心者でも入部が認められる。どちらかといえば、練習が厳しいとの噂もある駅伝部は入部希望者が少なくWelcome状態だった。
毎日、毎日走っいる。
10キロ走。20キロ走。駅伝部なので当たり前だか、持久力を付けるためにとにかく走る。走る。足はそれほど早くないのに持久力がついて来ると自然と長い距離が走れるから不思議だ。
長く走るのは苦しくて辛いこともあるが、何も考えず自分と仲間の息遣いと足音だけが聞こえてくる静寂の時間は、僕にとって自分を見つめる大切な時間となった。
この静寂の時間は駅伝部に入らなければ知ることのできなかった時間だろう。駅伝部に誘ってくれた友達には感謝しかない。
駅伝の魅力は静寂の時間だけではない。マラソンのように個人競技ではないため、タスキを繋ぎ、1人の喜びも苦しみもチームの力に変えてゴールを目指す、チームスポーツの面白さがある。
大学4年間で大会の選手に選ばれることはなかったが、卒業した今でも休日には軽いランニングをしている。駅伝に誘ってもらったことで生涯を通してできる趣味を手にすることができ、本当に友達には感謝しかない。
今日も通り過ぎる風が心地よい!
行かなで
「ちょっと待ってよ!行かなで!」
「いいえ。私はもう行くわ。」
事務机から立ち上がり、鞄を手に持ち歩き出す。
「待ってよ。あなたがいなくなったら、私たちはどうしたらいいの?困るわ。」
「困る?困ればいいわ。そうすれば、自分で考えるでしょ。私は仕事をしているのよ。自分では勉強しない。人に聞くのはいいとしても覚えようとはせず、同じことを何度も聞く。覚える気はないわよね。
ああ。こんなこと言うとパワハラかしら。パワハラで訴えられる気はないから、異動を希望だしたのよ。」
「新しく異動してきたら分からないことを聞くのは当たり前でしょ。もう一人のあの子は何でも教えくれるわ。」
「教えてくれる?あの子の口ぐせは、私がやっておきます。でしよ。つまりあなたの仕事を変わりにやってくれるのよ。その時、あなたはその仕事を一緒に見に行きましたか?他にやることがあったのよね。仕方がないわ。でも、私は見に行くわ。次の時に対応できるようにね。考え方が違うから無理なのよ。この話しはおしまい。」
私はオフィスを出ようとしたが、彼女が追いかけてきた。
「待って。まだ話しは終わっていないわ。今までのことは謝るわ。仕事を覚えるように努力するわ。でもこの忙しさでは勉強する時間も丁寧に教えてもらう時間もないでしょ。」
「時間がないなら、私が手伝いにくるからその間に休憩室であの子に分からないことを教えてもらって下さい。危機感を持って欲しい。あなた、私より先輩でこの仕事も長いでしょ。持病があることを考慮しても、責任感を持って欲しい。あの子は時短勤務だから、帰ったあとはあなたが責任者になるのよ。」
「責任者って。急にそんなこと言われても困るわ。」
「困る。困るって。こっちが困るのよ。あなたが異動してきたら少しは仕事が分担できるかと思っていたのに、結局は私がやるのね。それもあなたにも教えながら。あなた、自分が何を渡しているかも分からない物をよく取り引先に渡せるわね。私にはできない。やっぱり考え方が違うのよ。歩み寄れないでしょ。」
彼女を振り切りエレベーターに乗り込む。俯いたままの彼女。もう追いかけては来なかった。
次の週明け。パワハラ委員会なるものに呼び出され、指導のあり方について幾つか尋ねられた上に厳重注意を言い渡された。
注意で済んだが、前の部署への手伝いが増やされていた。
パワハラについては匿名でのメールが届いたそうたが、誰が送ったかは明白だ。
やはり時代は私をパワハラと認定した。時代がそう決めただけで、私は仕事を真面目にやらない人、何でも丸投げにする人、仕事をしているつもりで無意識に楽な仕事を選ぶ人とは仕事はできない。
パワハラ上等だ!
こんなのパワハラだ。異動して来たばかりの頃は優しかったのに、急に厳しくなった。イヤ。意地悪になった。
通院のために休みたいと行ったからだろうか。電話に出ると誰からの電話なのか、内容がなんだったのか分からなくなることがあると言ってからだろうか。持病があるのは事実だ。大変な中で、できることをやってきた。それなのに、あんな言い方しなくてもいい。あんな言い方されたり、無視されたら誰だってパワハラだと言いたくなる。私は私の仕事をしている。仕事を覚えようともしている。
あの人は、前からこの部署にいるのだから仕事が分かっているから業務の多さに気づいていない。
あの人の指導の仕方が間違っているし、コンプライアンスも間違っている。
本当に意地悪だ。仕事の仲間に「困ればいい」なんて時代錯誤もはなはだしい。私より若いのになんて時代遅れなのか。
パワハラ委員会からの呼び出しもあったようだしあの人も変われば、この部署も良くなり仕事がしやすくなるはず。
「おはようございます」
「…」
無視された。なんで。パワハラ委員会呼ばれたのに反省してない。どう言うつもりよ。無視って。意地悪すぎ!
「行かないで」と引き止めたけれど、その必要は全くなかった。人はそんなに簡単には変われない。こちらが優しく接しても、相手には届かないこともある。こんなの意地悪ではない、イジメだ。大人のイジメは悪質で陰湿だ。
また匿名のメールを送らないと分からないらしい。
どこまでも続く青い空
神社の境内まで戻ってきた俺は、空を見上げだ。そこには、どこまでも続く青い空が広がっていた。
あーあ。なんて綺麗で鬱陶しい。クソッ。
負けた。負けた。
この辺は俺の縄張りだったが、隣町から来た黒いヤロウに負けた。年的には同じくらいだが相手はオレよりも一回り大きく、ガタイが良かった。
まあ何を言っても俺が負けたのは事実だし、敗者がいつまでもウロウロしているのは目障りでしかない。
それで、根城にしている神社まで戻ってきたと言う訳だ。
俺が野良猫になって1年。その前は人に飼われていたが、窓から見える外の世界が眩しくて家出をした。ちょっとした冒険心だった。見たことのない建物や嗅いだことのない土や川の匂いにウキウキしていたら、帰る家の場所が分からなくなってしまった。だいぶ遠くまできてしまったのだろう。帰れないものは仕方がない。
雨上りに神社まで来ると人が猫の飯をいれた小さな皿を境内に置いていた。人の気配がなくなるとどこからか猫たちが集まって来ては、飯を、ああ、飼い猫的にはエサを食べていた。
何日もエサに有りつけていなかった俺も皿に群がる野良猫どもを押しのけて貪り食った。それからは、ここで生活している。
ここは、気のいい猫たちばかりで急に現れたら見知らぬ猫の俺を怖がることも毛嫌いすることもなく普通に接してくれた。俺は飼い猫だったが、だいぶヤンちゃで運動神経が良かったのか喧嘩は強かった。気がつけば神社にいる猫たちのボス的なポジションで猫たちを守りながら生活をしていた。
そんな俺が喧嘩で負け根城の神社に戻って来た。猫たちが遠巻きに俺の方を見ている。いつもなら戻って来るとすぐに駆け寄ってくる子猫たちも母猫と一緒に俺を見ているだけだ。
ガザ。ガザ。
音がして振り向くと、俺の後ろの草むらからあの黒いヤロウが出てきた。俺の後をついて来たのか。何の用だ。
「ニヤー」
「ミヤー。ミヤー。」
「シャアー」
猫たちは一勢に泣き出した。喧嘩に負けた弱い俺に出て行けと言っているのか。
黒いヤロウが黒い尻尾を立てのっしのっしと歩き、俺の横を過ぎて神社の境内へ向かう。もう、俺の居場所はもうここにはない。
神社を離れ歩き出す。
上を見上げればどこまでも続く青い空だ。
俺は野良猫。自由気ままに次を探す。
この空はどこまでも続いているのだから、気の向くままに歩けばいいさ。
衣替え
9月の中旬になると娘の高校の制服をクリーニングに出さなければならない。
10月は衣替えだ。
私が高校のときはセーラ服だったため、衣替えは白い薄手のセーラから黒い厚手のセーラに変わる。衣替えの時期とは言え、暑くて暑くて大変だったのを覚えている。
娘はブレザーのため衣替えの時はカーディガンを着て学校に行っており、それほど暑くはないようだ。
10月の晴れた朝、衣替えの済んだ子供たちが家の横を通り過ぎ、楽しそうに話しながら登校して行く。
ふと見ると手に赤切れができていた。赤切れができる季節になってきたのだ。季節の移り変わりは早く、家で父の介護を始めてもう2年になる。炊事に洗濯、掃除に寝たきりとなってしまった父の介護、全てを1人でやっている訳ではないけれど、時々どうしょうもなく暗い気持ちになる。
聡明で優しかった父も今は人が変わったように怒鳴りちらす。私だけならまだしも、介護に来てくださるヘルパーさんたちにもだ。
ヘルパーさんたちは仕事ととは言え、優しくニコニコしながら受け流してくれるが、私は全てを受け流すことはできない。
「娘さんたがら甘えてるのよ。」
ケアマネジャーさんはそんな言葉をかけてくれくが、怒鳴り散らす父を怒鳴る私がいる。
あ〜。辛い。
介護を辛いと思ったら長く続けるのは難しいと言われた。全くその通りだ。もう、無理かもしれない。
「ただいま〜。お腹すいた。ご飯!」
呑気な娘の声がなおさら癪に障る。娘を睨みつけて小言の1つでも言ってやろうかと思った時、足元で猫のトラ吉が私の足に頭を擦りつけながら「ミィ〜」と鳴いた。
お前もご飯の催促か。なんか嫌味を言う気も失せた。
「はい。はい。ご飯ね。トラ吉の分もね」
キッチンへ向かう私。「ミィ」「ミィ」と鳴きながら後を付いてくるトラ吉。
「お母さん。顔怖いよ。ほら、トラ吉も心配してる。おじいちゃんのことで大変なら言って。私もできることはするから。」
娘からの思いがけない言葉に娘の方に振り向いたまま動けずにいた。
「何よぅ〜」
「だって〜、あんたにそんなこと言われるなんて思ってなかったから。お母さん。嬉し〜。う〜。トラ吉もありがとう〜。」
涙が溢れ出て持っていたタオルで顔を押さえた。嬉しかった。娘が私の辛さ分かっていてくれたことが、本当に嬉しかった。
自分だけではできないと思いながらも、自分の父親の介護だから私がやるのは当然だと1人で背負っていたのかもしれない。
ヘルパーさんだけでなく、家族にもっと相談していけばいい。できることを手伝ってもらえばいい。こんな簡単なことにも気がつけなくなっていたのだ。
夕食を美味しそうに食べる娘とトラ吉。優しい1人と1匹を眺めながら、心が温まる思いがした。
衣替えとともに秋が深まっていく。