これで最後
君の事を、
恋人と呼べたのは、昔のこと。
今は、名前を呼ぶことも躊躇う、
顔見知りの、二人。
だけど、私は、
『これで最後』の言葉を、
免罪符にして、
今夜も君に会いに行く。
これで最後だから、と、
君に口付け、
これで最後だから、と、
君を抱く。
これで最後にしてくれ。
冬の湖面の様に寂しげな瞳で、
私を見詰める、君の呟きは、
重ねた口唇で、
無理矢理抑え込んで、
お互いの温もりに溺れていく。
これで最後、だなんて。
想ってもいない癖に、
何かに赦しを乞う様に、
これで最後、と繰り返す。
本当は、
『また明日』って、
約束したいのに。
『ずっと一緒だよ』って、
誓いたいのに。
『もう一度やり直そう』って、
頼みたいのに。
君はそれを、
赦してはくれないだろうから。
これで最後だからと、
自分に言い訳をして、
重なり合う時の中で、
言葉にならない想いが、
溶けては、消えていく。
何度も繰り返す、
これで最後の時の中。
君の心の片隅に、
私の影を残したくて、
君の身体に、私を刻み込むんだ。
君の元から立ち去る私に、
君は俯き、背を向ける。
何も言わず、何も問わず。
だから、私は、
最後の言葉を飲み込んで、
夜の闇に消えていく。
『――ねぇ。
これで最後、だから。
君の気持ちを…教えて?』
君の名前を呼んだ日
君は独りで生きていた。
誰にも気付かれず、
街の片隅の暗がりで、
人に怯える野良猫の様に、
息を潜めて暮らしていた。
君の名前を呼んだ日。
私は、この生命を掛けても、
君を護ろうと決めた。
君は充分過ぎる程に、
心も身体も傷付き、
冷たい世間の視線と、
醜い社会の汚泥の中で、
藻掻き苦しんだのだから。
君には、
幸せになる権利がある。
もう、他人に振り回されて、
辛い思いをしなくて、いいんだ。
君は今、
泣き笑いの様な顔をして、
私を見詰めている。
私の腹部からは、
鮮血が止め処なく流れ出し、
君の手には、
私の血で真っ赤に染まった、
ナイフが握られている。
君は、声にならない声で、
私の名を呼ぶ。
その澄んだ瞳からは、
涙が幾筋も溢れている。
けれど、私にはもう、
その涙を拭ってあげることは、
出来そうも、ないんだ。
か細い三日月が、空に浮かぶ夜。
不安で震える君に、
私が誓った事を覚えているかな?
君を護る為なら、
生命を捨てても構わない、と。
その、私の言葉に、
君は頷いてくれたよね。
だから、
泣かなくて、いいんだよ。
これで私の人生が終わろうとも。
君との約束を守った、
…それだけの事。
私の生命と引き換えに、
君が、悪夢から解き放たれるなら、
こんな私でも、少しは、
君の支えになれたのだと、
自分に誇れるのだから。
どうか、
後ろを振り向かず、
真っ直ぐ、夢に向かい、
歩いて行って欲しい。
最期に。
君の笑顔を見せて欲しい。
さぁ。
…笑って。
〜〜〜〜〜
やさしい雨音
貴方はここに居ます。
春の柔らかな日差しに、
微睡むように、穏やかに。
触れれば温かくて。
胸に耳を当てれば、
鼓動が聴こえます。
誰にでも優しかった貴方。
弱い私を護ってくれた貴方。
ずっと一緒に、生きていけると、
信じていたのに。
優し過ぎた貴方の心は、
世の中の悪意に、
無惨に傷付けられて、
壊れてしまったのです。
そんな貴方は、
まるで人形の様で。
目は開いていても、
何も写してはいなくて。
声をかけても、
返事は返ってこなくて。
それでも、貴方は、
ずっと変わらず、
私の大切な人。
とくんとくん…。
貴方の鼓動が、
やさしい雨音の様に、
音を立てて。
ぽつりぽつり…。
私の心の中に、
雨垂れの様に、
波紋を作ります。
想い出の中で、
永遠に色褪せる事のない、
愛おしい貴方の微笑みと。
今、ここにある、
器だけの貴方の面影に、
そっと縋るのです。
そして、私は、
やさしい雨音に包まれて、
貴方の戻る日を、
永遠に、待ち続けます。
歌
静かな夜。
消えそうなほどに、
細い細い三日月が、
孤独な私を、
そっと見下ろしてる。
窓辺に立つ私の影は、
酷く朧げで、
心は、月の光に溶けそうになる。
君が私の元を去ってから、
この身も心も、見える景色も、
全てが褪せているんだ。
記憶の糸を手繰り寄せるけど、
温もりは、何処にもなくて。
指先に残るのは、
冷たい痛みばかり。
月明かりに照らされて、
懐かしい歌を口遊む。
独りきりの私の声は、
暗い夜の底に沈んでいく。
嘗て、君の隣で、
口遊んでいた旋律も、
今は、ただ虚ろな響きとなって、
胸の奥で朽ちていくだけ。
夜が明けないで欲しいと、
密かに願う。
永遠にこの闇の中で、
あの日の余韻に、
身を委ねていたいから。
静かに、歌が終わる。
瞳を閉じて、
想い出の中の君に、
優しく微笑み掛ける。
でも、この歌は、
今はもう、私だけのもの。
私の歌声に、
微笑んでくれた君は、
もう…居ないから。
それでも、私は。
独りで、歌い続けるんだろう。
それが罰であろうと、
救いであろうと。
そっと包み込んで
貴方の心は、
今、何処に居るのですか?
貴方の腕は、
私を優しく包み込み、
貴方の口唇は、
私に愛を囁くけれど。
でも…。
貴方の瞳は、
私を見てはいなくて、
貴方の心は、
他の人を想っているのです。
そんな、私の心は、
まだ過去の影を追い、
過去に縛り付けられていて、
貴方ではない人を、
想い続けていて。
寂しさを埋めるように、
貴方の温もりに包まれ、
貴方の偽りの愛に、
溺れていきます。
二人の吐息は、
時計の音を掻き消して、
偽りで彩られた花が、
私の耳元で咲いては、
散っていきます。
「愛してる」――
その言葉の輪郭を、
誰のものでもない微笑みで、
私は指先でなぞるのです。
貴方の火照る身体を、
そっと包み込んで。
貴方の空っぽの心も、
そっと包み込んで。
私は微笑みかけるのです。
ですから…
私の偽りの恋も、
そっと包み込んで。
私の孤独な心も、
そっと包み込んで。
今だけは貴方を、
愛する事を赦して下さい。
昨日と違う私
私はずっと孤独でした。
人間の悪意に心を殺され、
人の目を避ける様に、
傷を抱えたまま、
独りきりで生きていました。
貴方は、こんな私を、
見付けてくれました。
貴方は優しくて、温かくて。
私は初めて、人として、
生きる事を赦されたと、
感じました。
貴方は優しかった。
私だけでなく、
他の人にも。
貴方の瞳は、
まだ誰かの影を映していて。
貴方の指先は、
他の誰かの心に触れていて。
それでも笑う貴方を、
私は一人、見詰めることしか、
出来なくて。
けれど胸の奥に、
名もなき闇が蠢き出しました。
それは『愛』と呼ぶには、
余りにも黒く、余りにも大きく、
余りにも熱いものでした。
貴方の優しい微笑みは、
変わらず温かいのに、
私だけのものではない。
その残酷な事実が、
私の冷たい心の闇は、
大きくなるのです。
昨日までの私は、
貴方の微笑みの欠片だけでは、
魂も心も虚ろなままで、
貴方の魂を求めて、
闇の中で藻掻いていたのです。
だから、私は。
焦燥心のままに、
貴方を、私のものにします。
貴方の心も、身体も、魂も。
貴方の身体から溢れる赤は、
私の身体を朱に染め上げ、
私のひび割れた心と身体に、
乾いた大地に降る恵みの雨の如く、
染み渡っていきました。
私の腕の中で、
貴方の鼓動は消えてゆき、
貴方の最期の吐息を、
私の口唇で受け止めます。
満たされた私。
昨日と違う私。
だって。
私と貴方の魂は一つとなり、
永遠となったのですから。