フラワー
腐りきった社会の泥濘の中で、
誰にも気付かれることなく、
独り、咲いていた私を、
貴方はどうして、
摘んでくれたのですか。
貴方に出逢って、
私は初めて、
人の優しさを知りました。
私は初めて、
存在が赦された気がしました。
そして、ひとひらの夜に、
私は芽吹いたのです。
貴方の手のひらに、鼓動に、
あの……温もりに抱かれて。
“The flower that blooms in adversity is the rarest and most beautiful of all.”
貴方が私に教えてくれた言葉。
貴方は、覚えていますか。
その意味を、今なら理解できます。
私は貴方の陰でしか、
生きられないのに、
貴方は私を見詰めながら、
何処か遠い場所を見ていた。
それが、私には、
どうしようもなく、
耐えられなかったのです。
だから、ねえ――
今、ここに、
花を咲かせましょう。
貴方と私の血を吸って咲く、
真紅の花を。
誰にも踏まれぬように、
誰にも見つからぬように、
暗い、暗い森の奥で。
二人きりの土に、
埋めてしまいましょう。
これで永遠に、離れません。
静かで、穏やかで、優しい世界。
貴方が私だけを愛し、
私が貴方を壊す。
これ以上、幸福な世界があるでしょうか?
でも――安心して下さい。
私も、すぐ、そちらへ参りますから。
さあ、目を閉じて。
最期まで、優しく、愛おしい、
私だけの……貴方。
新しい地図
俺達は、何度も同じ道を歩いた。
朝焼けの川沿いで、
空に描いた夢を指さしながら、
くだらない話をして、笑い合った。
お前の笑い声が、好きだった。
まるで、遠くで小鳥が羽ばたくように、
俺の胸をそっと撫でて、
何も残さず消えていく。
何度も、言いかけては飲み込んだ。
この想いを言葉にすれば、
築いた二人の距離が、
崩れてしまいそうで、
その怖さに、いつも負けていた。
お前を誰よりも信じている。
だからこそ、
それ以上を望んでしまう俺が、
どうしようもなく、嫌になる。
俺の心の中には、
お前と歩きたくても、
歩けない道ばかりが、
いくつも積み重なっていく。
踏み出せば崩れそうな足元を、
今日もただ、見詰めている。
新しい地図を持っているのは、
きっとお前の方で、
俺はまだ、あの日のまま、
破れかけの古い地図を、
握り締めている。
それでも。
俺は新しい地図を描けないまま、
“また明日”と、手を振るお前を、
今日も、黙って見送るんだ。
好きだよ
夜が深くなるたびに、
思い出の輪郭が滲んでいく。
君の声も、仕草も、
夢の続きのように、
浮かんでは、消えていく。
微笑んで、頷いて。
まるで恋人のような、
他の誰かとの、穏やかな日々。
けれど、それは、
君の影を濁すための、
仮初めの風景に過ぎないんだ。
「幸せそうだね」と、
他人は言うけれど。
例え、お互いに、
心に別の影を抱えていても、
春風のような優しさが、
孤独を隠してくれるなら、
それで、良かったんだ。
君にも、もう、
新しい誰かがいるのかな。
あの、はにかんだ微笑みが、
私じゃない、
他の誰かに向いている。
そんな光景を想像して、
勝手に苦しんで。
そんな自分が、
惨めで。哀れで。
…滑稽で。
ふとした沈黙の中で、
君の名が、喉の奥で疼く。
呼べないと知っていても。
届かないと知っていても。
それでも…。
好きだよ。
今でも――ずっと。
言葉にすれば、
幻が壊れてしまいそうだから。
せめて、夜風に紛れて、
そっと言わせて。
好きだよ。
君がもう、戻らないことは、
分かってる。
それでも、まだ、
心の奥で、君を待ってるなんて、
滑稽だよね?
だけど、好きだよ。
時間がどれだけ流れても、
他の誰かをこの腕に抱いても、
この胸にあるのは、
君の温もりばかり。
もう二度と、
君の時間を生きられなくても。
この想いだけは、本物だと、
信じて欲しいんだ…
桜
『桜の下には死体が埋まっている。
桜の花が美しく咲くのは、
その木の下に、死体が埋まっていて、
養分を吸っているからだという――。』
~~~
貴方は、現し世と戦い、
酷く傷付いていました。
この腐り果てた世の中を、
睨み据える、その瞳が、
何れ程、美しかったか。
私だけは、知っていました。
ねぇ、もう良いでしょう?
冷たい朝も、
無為なる昼も、
虚ろな夜も、
貴方に相応しいものでは、
ありません。
だから、ここまで来たのです。
この桜の木の下まで。
咲き誇る薄紅は、
幾つもの命を吸い、
その花弁に、静かな美を宿す。
だからこそ。
貴方に、似合うと思ったのです。
私の手は、
躊躇う事も、迷う事もなく、
震えてさえ、いませんでした。
何故なら、貴方は、
微笑んでいましたから。
だからこれは、
優しさではなく、欲望なのです。
貴方が、あの影を想い出さないように。
貴方が、誰にも渡らないように。
貴方が、この世の毒に触れないように。
共に堕ちてゆくことが、
救いではないと、
誰が言えるのでしょう。
貴方が、私の刃を、
拒まなかったことを、
私は赦しだと、
勝手に信じました。
冷たい土の中で、私の腕が、
貴方を抱き締め続けるでしょう。
誰にも邪魔されず、
誰にも奪わせず。
春の風が、そっと頬を撫で、
頭上では花びらが、
雪のように舞っています。
惜しげもなく、ひらひらと。
来年も、この桜は、
きっと美しく咲くでしょう。
……貴方という、
たった一つの養分を受けて。
君と
君と…。
──いや。
お前と、過ごした季節を、
今もまだ、忘れられず、
胸の何処かで、
微かに疼いている。
くだらない言葉で、
お前の心を傷つけたのは、
他でもない、私だった。
赦される筈がない。
そんな事は、分かり切っている。
それでも。
夜が深くなる度に、
お前の名を、呼びそうになる。
灯も差さぬ部屋で、
あの声が、あの瞳が、
幻のように、浮かんでは消える。
私にはもう、
お前を愛する資格などない。
それなのに、誰よりも強く、
お前を求めているんだ。
知っている。
お前も未だ、私の名を、
心の片隅に留めていることを。
それでも、私達は、
あの日の前には戻れない。
壊したのは私だ。
取り戻せないと知りながら、
それでも願ってしまう弱さが、
この痛みを、ただ深くする。
あの日、あの時。
怒りに任せて、
お前に叩きつけた「さよなら」は、
今も、私の喉を焼く。
君と──
交わした日々のすべては、
静かに、だが、確かに、
私の中を蝕んでゆく。
そして、今夜もまた、
「君」を「お前」と呼ぶことで、
記憶と現実の狭間に、
ただ、沈んでいく。