秘密の場所
ひび割れた石の階段を、
そっと降りると、
冷たい静寂が、ゆっくりと、
心を締め付けます。
この秘密の場所には、
誰も知らない時間があります。
古びた椅子に腰を下ろすと、
微かな灯りが、
柔らかな影を揺らします。
ここには、まだ、
貴方が微笑んでいた、
あの日の言葉が、
静かに息衝いているのに、
私の想いは、行き場をなくし、
冷たい空気に溶けていきます。
閉ざされた扉の向こうでは、
季節が巡り、時が流れ、
全てが変わってしまったのに、
この場所だけは、
何ひとつ変わらず、
時を止めたままでいます。
どんなに願っても、
声は記憶の彼方に消えていき。
どんなに探しても、
微笑みは時に溶けてしまい。
どんなに手を伸ばしても、
温もりは戻らなくて。
叶わないと、知りながらも、
それでも私は、
ここへ戻ってきてしまうのです。
この秘密の場所だけが、
まだ、貴方との絆を、
覚えているから……。
ラララ
ラの音が鳴る。
それは、
雨粒のように落ちる涙の音。
冷えた空の底から、
重く、ゆっくりと落ちていく。
ひとつ、またひとつ。
耳の奥に沈んでいくたび、
忘れたはずの旋律が、
黒い波のように揺れ、
そして…滲むんだ。
君と奏でたあの曲は、
もう、聞こえない。
ただ、胸の中だけで、
静かにリフレインする。
ラ、ラ、ラ。
澄んでいたはずの音が、
こんなにも、鈍く響くのは、
何故だろう。
嘗て、
共に弓を引いた指先も、
鍵盤に触れた掌も、
今はもう、君の温もりには、
届かなくて、
今はただ、宙を掴むばかり。
あの頃は、
笑い合う友がいて、
そして——君がいた。
皆で奏でた、ラの音。
想い出の曲。
君は私の手を振り解き、
友は鬼籍に入った。
残されたのは、
歌えなくなった、バイオリン。
ラの音が鳴る。
低く、深く、沈む音。
もう君には届かない。
そして、ひとりきりの部屋に、
降り積もるだけ。
風が運ぶもの
早春の風が吹き抜ける。
春霞の淡い幻に包むように、
俺の頬を、そっと撫でてゆく風は、
微かな、お前の気配を纏っていた。
風が運ぶものは、
お前の幸せそうな笑い声。
淡く揺れるその残響。
そして、
俺の喉の奥に沈む、
名前も付けられない…痛み。
伸ばした指が、
触れられそうで、
触れられない。
その距離に、
俺の心は音を立てて、軋む。
長い間、ずっと。
俺は、遠くから、
お前を見ていた。
俺が立っている場所は、
「親友」という名の、
賭けて失うには、
余りに惜しい境界線。
風は気まぐれに流れてゆき、
俺の足元に枯葉を転がす。
まるで、忘れてしまえと、
静かに囁くように。
けれど、
風が運ぶものを、
誰しも、拒めないように、
この想いを手放すことは、
きっと出来ないだろう。
例え、それが、
進むことも戻ることも、
許されなくなる、
呪いだったとしても。
question
貴方は、
気付いていないのですか?
私の瞳が、
いつも、貴方だけを、
映していることを。
私を汚泥の中から救い出し、
生きる喜びを教えてくれた、
貴方という存在が、
ただ一つの光として、
私の心を照らしていることを。
そして、私の指先は、
そっと空気をなぞりながら、
触れられないもどかしさに、
焦がれているのです。
貴方は私の全てです。
もし、貴方が、
私の愛を拒むのなら。
いっそ、貴方の全てを、
壊してしまいましょう。
そして、私と二人きり、
最期の吐息を交わしましょう。
そうすれば、
貴方にも分かる筈です。
私がどれほど、
貴方を愛しているのかを。
――では、最後に。
貴方に質問です。
…私を、愛していますか?
約束
冷たい夜の風が、
静かに頬を撫でる。
独り影を踏みながら、
空を仰ぎ、星を数えた。
お前は覚えているだろうか。
あの日交わした約束を。
変わらぬものなど、
ないと知りながら、
それでも、信じた誓いを。
あの日、瓦礫のように、
崩れ落ちた日常。
拾い集める事も出来ず、
ただ、砕ける音だけが響いた。
もう二度と、
温もりに希望を探しはしない。
もう二度と、
お前の名を呼ぶこともない。
それでも、まだ。
私の胸の奥には、
鈍い灯が残っている。
もし、これを、
約束と呼べるのなら。
せめて、最後まで、
燃やし尽くそう。
そして。
お前の幸せを祈ろう。
二度と交わらぬ道の先から。