みかん
テーブルの上に、
綺麗な紙箱が置かれていた。
ふと漂う、
みかんとチョコレートの甘い香り。
手を伸ばすけれど、
箱の蓋は重たくて。
その瞬間、浮かんだのは…
お前の、笑顔。
その笑顔が、酷く眩しくて。
指先が、一瞬止まったんだ。
箱の中には、
夕焼け色の輪切りが並んでた。
甘くて、ほろ苦い、
少しお洒落な、オランジェット。
半分だけチョコレートに覆われた、
オランジェットは、
何処か、お前に似てたんだ。
真面目だけど、何処か気取ってて、
少し意地悪な、お前の態度みたいで。
夕焼け色をそっと摘んで、
口に運ぶ。
オレンジは、酸っぱくて。
チョコレートは、ほろ苦くて。
だけど、凄く甘くて。
胸の奥が、きゅっと痛んだんだ。
いつもすぐ傍にいるのに、
お前は、全然気が付かないんだ。
ボクが抱えてる、
甘くて苦い、この想いに。
ふと、みかんの香りが、
鼻先を掠めた。
ボクは思わず、
宝石の様なオレンジ色から、
逃げたくなって、箱を閉じた。
きっと、
この甘さも、ほろ苦さも。
全部、全部…
お前のせいなんだ…って。
胸の痛みを誤魔化すように、
ボクは一人、呟くんだ。
冬休み
寒空の下で、
街は何時になく、忙しなくて、
行き交う人々の影さえ、
早足になる。
子供たちの声が通りに響く、
年末の帰り道。
家族の温もりに胸を踊らせる、
そんな光景は、
遠い世界の物語のようだ。
幼い俺には、
そんな夢は無く。
冬休みの静寂だけが
冷たく広がっていた。
金もなく、家族の愛もなく。
空腹と寒さに耐えながら
暖炉の火もない冷たい部屋で、
独り、膝を抱えていた。
孤独だけが、俺の隣に居た。
年末年始の飾りを纏った、
何処か華やかな明かりが、
俺の影を長くする。
賑わう街が見せるのは、
得られなかった過去の幻影。
だから俺は、
年が暮れようと、年が変わろうと、
変わらぬ日々の中に、
身と心を沈める。
遠くから聴こえてくる、
楽しげな声に、耳を塞ぎ、
年が暮れようと、明けようと、
機械仕掛けの人形の様に、
ただ、静かに働き続ける。
冬の風が吹き抜け、
哀しげな虎落笛が鳴る。
孤独の中、冷たい静寂が揺蕩う。
冷たく止まった時の中、
砕け散った、硝子細工の時計の様に、
俺は、自分だけの時を生きる。
手ぶくろ
貴方の黒い手袋。
こびり付いていたのは、
赤黒く錆びた、私の罪の証。
あの瞬間、
私の手に握られていた銀の刃が、
貴方の命の赤を纏い、
冷たく深い、愛情の色へと、
染まっていきました。
貴方の身体から、
静かに命の赤が流れ出しても、
貴方は、私が刻んだ傷を、
震える手で押さえながら、
微笑んでくれました。
貴方の嵌めていた黒い手袋は、
貴方の赤を吸い込み、
重く沈むように見えました。
でも、その姿は、
私の貴方への想いそのものでした。
手の中に残ったのは、
溢れる貴方への愛だけ。
赤黒く染めた、
貴方の黒い手袋は、
私だけの、永遠の宝物。
ですが…。
貴方を奪おうとする輩を、
私は赦せなかったのです。
「医療行為」という名前の偽善で、
過去の愛を引き摺りながら、
お互いだけをその瞳に映していた、
過去の愛おしい時間を、
取り戻そうとするように、貴方に触れる、
血に染まっていく、その白い手袋が、
私には、耐えられなかったのです。
そして、
私の前に残されたのは、
貴方を自分の元に縛ろうとする、
悪魔の手先が嵌めていた、
血に濡れた白い手袋。
だから、私は。
真紅に染まった白い手袋に、
錆び付いた鋏を、押し当てます。
白い手袋だったものは、
赤の混ざる白い繊維片へと、
形を変えていきました。
白と赤の残渣を、
風花に混ざるように、
空へと撒き散らします。
私が貴方の元へと向かう、
…この世の名残に。
そして、残るのは、
鮮やかに、深く紅く染まる、
貴方の黒い手袋。
そして、貴方の微笑みだけ。
変わらないものはない
世の中は、
目紛るしく移り変わる。
その流れに翻弄される、
情けない俺がいる。
この世界で、
変わらないものはない。
人の心は、残酷に姿を変え、
昨日の笑顔が、今日は刃となる。
積み上げてきた、常識さえも、
時の流れに朽ちていき、
脆くも崩れ去っていく。
変わらないと思っていた、
心の奥底に眠る、
お前への想いさえも、
知らぬ間に、
その形を変えていた。
美しく移ろいゆく季節に、
目を細めるお前を見つめながら、
俺の胸の痛みは、
募るばかりだ。
そうだ。この世には、
変わらないものはない。
けれど、
お前への想いだけは違う。
初めてお前と会ったあの日から、
それは、少しずつ膨らみ、
形を変えながらも、
ずっと俺の中で、
息衝いている。
もう、
隠し通すことなど、
出来ないのかも知れない。
それでも、俺は。
お前への想いを、必死に押し隠す。
…決して伝える事は赦されない、
お前への、この想いを。
……………
世の中は、
目まぐるしく移り変わる。
その流れに翻弄される、
哀れな俺がいる。
この世界で、
変わらないものはない。
人の心は表から裏へと裏返り、
優しさは黒い闇に姿を変える。
俺を形作ってきた常識さえ、
気付けば、誰も目もくれない、
時代遅れの残渣なんだ。
変わらないと思い込んでいた、
心の奥底に隠してきた、
君への想いさえも、
知らない間に、
その形を変えていたんだ。
巡り来る季節の欠片に、
目を奪われる君を見つめる度、
俺の胸の軋みは、
益々、強くなるんだ。
そうだ。この世に、
変わらないものはない。
だけど、
君への想いだけは違うんだ。
あの日、君と出会った瞬間から、
それは、少しずつ育って、
形を変えながらも、
ずっと俺の中で、
生き続けているんだ。
もう、
隠し通すことなんて、
出来ないのかも知れない。
それでも、俺は、
この想いを、必死に胸に隠すんだ。
…決して伝えてはいけない、
君への、この想いを。
クリスマスの過ごし方
今夜は街の灯りが、
やけに眩しく感じる。
何時もより楽しげに賑わう、
街の人の声が耳を刺す。
私は、薄暗い部屋に独り、
静かに座る。
世間の楽しげな声に、
背を向けて。
ワイングラスに注いだ、
仄暗い真紅の液体が、
今夜ばかりは、貴方を思い出させて、
胸が鋭く、ズキッと痛む。
窓の外、雪が降り積もる。
白い息を吐く恋人たち。
あの頃の貴方の笑顔が、
ガラス越しにちらつく。
そんな光景から、目を逸らす。
貴方が隣に居た頃は、
あんなに待ち遠しかった、
この聖なる日も、
今となっては、虚しいばかり。
カレンダーの赤い印さえ、憎らしい。
ツリーもなく、プレゼントもなく、
貴方の温もりもない。
ただ、この冷たい空気だけがある、
この静かな部屋で。
貴方が、私を赦してくれる日が、
私の隣でまた微笑んでくれる日が、
訪れることを、独り、願う。
そんな、クリスマスの過ごし方。
何度、繰り返しても、
貴方の居ないクリスマスには、
慣れる事はなくて。
毎年訪れるクリスマスの夜は、
冷たく突き刺さる刃物のように、
私に孤独を実感させる。
好物の筈のワインも、
今夜だけは、酷く苦くて。
それを飲み干し、夜をやり過ごす。
明日になれば、
この聖なる日の痛みは、消える筈。
そう信じながら、独り、
柔らかい睡魔の訪れを待つんだ。