あの方は私のご主人様でした。
真っ黒な髪にほっそりとした白い指、それが美しい人
でした。
少し、いえかなり時代遅れのお屋敷で、ご主人様は暮ら
しておりました。
メイドは私だけ。
他には料理人がおりました。と言っても厨房から出てく
ることはなく、私達は殆ど顔を合わせませんでした。
そんなことで、どうやって成り立っていたのか不思議に
思うかもしれません。
実は、料理ができたら料理人がベルで私を呼び、厨房の
外に置かれた料理を、私がご主人様のもとへお運びする
というやり方をとっていたのです。
とにかく、お屋敷で暮らしはつつがなくあったのです。
ご主人様は中庭で本を読むのが好きでした。
よく、庭で一番大きい木の影に座って、本を読んでいま
した。
私には分からない、英語で書かれた本や物理学の難解な
本も、わくわくするような冒険小説、林檎みたいに紅い
頬の乙女の詩も。
ご主人様は初めに私に隣に座るようにおっしゃいまし
た。
そして読んでいるものを音読して聞かせたり、内容を
説明してくださったのです。
ご主人様の口から紡がれる話は生き生きしていて、目の
前にその様子が浮かぶようでした。
薄緑の草の上に座り、柔らかい風に吹かれながら、
ご主人様が微笑んでいたのを覚えています。
ご主人様と過ごした日々、どれも素晴らしい毎日でした
が、私はこのひと時が最良であったと断言できます。
ですが、そのような穏やかな日々は突然ばらばらに砕か
れて戻らなくなってしまいました。
そのきっかけは、床に残っていた洗剤でした。
ぬるぬるした床で滑ってしまったご主人様が、低めの椅
子に太腿に強く打ってしまったのです。
私は青褪めました。
どうしよう!
私の不手際でご主人様が怪我をしてしまった!
さぞ痛かったでしょうに、ご主人様は無理に笑って大丈
夫だとおっしゃいました。大丈夫だから手当をしてくれ
ないかしら、と。
私はすぐに湿布を取りに行きました。
ご主人様を椅子に座らせ、手当てをしようと長いドレス
をめくり上げたそのとき、私は凍りついたように動けな
くなりました。
まだ若い白くて柔らかそうな脚。そこから目が離せなく
なったのです。
ご主人様は動きを止めた私に不思議そうに、どうした
の、と問いました。
いえ、何もありません、すぐに手当てをいたします。
何事もなかったようにお答えしましたが、心の中は穏や
かではありませんでした。私は先程よぎった思いに気付
いてしまったのです。
それは使用人が主に抱いてはならぬ感情で、静かなお屋
敷に似合わぬ俗っぽいものでした。
欲望。
今まで感じたことのない思いにひどく混乱しました。
まさか私が、と。
その夜は頭がいっぱいで眠れませんでした。
ですが、翌朝おはようと笑ったご主人様を見て、
その気持ちは気付かないないふりをして封印することに
決めました。
しばらくは私の汚れた恋心も息を潜めて、うまくやって
いたように思います。
しかし、一度生まれた歪みはなくなることはありません
でした。
ある日ご主人様が友だちの女の子を連れて来たのです。
そんなことはお屋敷にご主人様が来て以来、初めてのこ
とでした。私は驚きました。料理人も2人分の昼食を
頼むと、扉の向こうで鍋を落としたようでした。
私は普段見ない料理人の驚きに気分を良くしながら、
中庭にいる2人に料理を運びに行きました。
でも、だめでした。
木の隙間から見えた2人の楽しそうな笑顔。
一番大きい木の影に座って本を見ながら話しているよう
でした。
私には分からない英語の本も、物理学の本も、お友達
はわかるようで、ときおりページを指さして笑っていま
す。
どろりと、どす黒い感情が心に溢れます。
閉じ込めていたはずのそれはいとも簡単に暴れ始めまし
た。
嫉妬というものでしょうか。
そこでは何もないように振る舞いましたが、もしかした
らご主人様は私の引きつった笑顔に気付いていたかもし
れません。鋭い方ですから。
それからお友達は何度も来るようになりました。
何度も何度も。
もう来なくていいのに。
そう呟いた自分を見つけたとき、もう終わりだと思いま
した。主の客も満足にもてなせないメイドなど失格だ
と。
悩んだ末、私はメイドを辞めることにしました。ご主人
様は悲しがって引き止めようとしましたが、私は頑とし
て譲りませんでした。
これ以上ご主人様のそばにいれば、いつかきっと過ちを
犯す。そうなってしまってはもう遅いのです。
最後のお別れのとき、門で、ご主人様は必死に笑顔で送
り出そうとしてくれました。料理人もこのときばかりは
出てきてジャムを持たせてくれました。
既に泣き笑いのご主人様を見て、もう一度働きたくなる
思いに駆られます。ご主人様こんな私も好きでいてくれ
ますか、と聞きたくなります。私はあなたのことが好き
でしたよ、と言いたくなります。
でも、言いませんでした。そのかわりに馬鹿みたいに笑
ってお屋敷を後にしました。振り返ってご主人様に手を
振って、帰りの電車でも馬鹿みたいにずっと笑っていま
した。
そして、久々に帰った自分の部屋で泣きました。
私は今でも自分のしたことを正しいと思っています。
だって、40のおばさんが、15の少女に恋するなんて
おかしいでしょ?
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「少女趣味」
バカみたい
世界のどこかで、汽車が走っている。
夕暮れに、オレンジ色の雲とピンク色の雲の間をさいて
闇のかけらを連れてくる。
海の上を通り、空に向かって進んでゆく。
汽車には人が乗っていない。
運転席にさえ誰もおらず、
ただ静寂が空間を満たしている。
夕日が差して床に窓を映し、席だけがそれを
眺めている。
汽車の後ろ、外に出れる部分には一人の少女が立ってい
た。肩にかかるほどの黒髪が揺れて顔に触れる。
少女は、もう長い間一人で、空を見つめている。
肩にかかるほどの黒髪が揺れて顔に触れる。
一人でいても寂しくも、悲しくもない。
嫌なことがない代わり、もう救われることもないけれど
少女が望んだことだから。
たまに、少女も想い出を振り返ることがある。
嫌なことと一緒にに振り捨ててきたいろんなものを。
もう戻れないと知っていても、戻りたくなる。
そんなときは、汽車が汽笛を鳴らすのだ。
少女の孤独に共鳴して深く深く響かせる。
少女は再び立ち上がって、また空を見つめ始める。
昔、一人の少女が死ぬ前に願ったこと。
汽車と少女は、空に向かって永遠の旅を続けている。
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「天球を回る汽車」
終わらせないで
目の前に、胸に包丁が刺さった血まみれの男が
倒れている。
彼の顔は知っている、というより、ずっと毎日
見てきた顔だ。何度も見たおかげで、頭から離れない、
これからも新しく記憶していくと思っていたその顔。
だけど、その顔は今青白く、私を映していた瞳は固く
閉じられ、抱きしめてくれた腕はもう動かない。
彼は、死んでいた。
私と2年付き合った男は、心臓を貫かれあっさりと
死んだ。いつも清涼な空気を纏っていた彼には
似合わない、醜い断末魔だけを最期に残して死んだ。
たった一つ、残した悲鳴の余韻さえもすぐ消えて
しまった。
彼は私の全てだった。成長しきらない私の小さな心の
中に、彼は巨人のように居座っていた。彼がたまに
ふらっと他の女の子に遊びに行くと、彼がいた分の空白
がただただ空しくなって、残り香に彼を思い出してしま
うくらい彼を愛していた。
彼が出ていって、戻ってきて、出ていって、戻ってきて
を繰り返して、初めの頃を忘れてしまいそうになって、
さっき、
「別れよう」
と告げられたんだった。
それで、頭に血が登って、すぐに血の気が引いて、
一瞬目の前が暗くなって、目を再び開いたら、
…チまみレの、キ、ミが、い、タ
あんなにかっこよかったのに、彼が死んだのは
一瞬だった。たった女の一撃で彼は絶命してしまった。
愛していたのに、殺してしまった。
憎んでいたから、殺してしまった。
彼の胸から流れ出す赤い血は止まらずに床に模様を
描いた。
彼は死んだ。私の人生だった彼は死んだ。
でも死んで当然だとも、思うのだ。
彼がいなくなったあと、私はどうすればいいの?
間もなく来るであろう、死亡宣告するためだけの
救急車のサイレンを空に聞きながら、
ただぼんやりと
頬に涙を、手に生温い血を、感じていた。
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「あなたが憎い」
どうすればいいの?
近づいては離れて、離れては近づいて。
二人の関係はまるでそんな感じだった。
きっとこの繋がりも、いつか薄くなって、
いつもと同じリズムで離れた拍子に、
途切れてしまうと、知っていた。
あなたは有名人になった。
私との関わりはもう無くなっていた。
あなたを好きな女の子がたくさんいて
私よりもかわいい女の子たちが、君を好きだと
発信しているのもいっぱい見た。
でも、ある日あなたからDMが来た。
もう近づかないと思っていたのに。
あなたからのたった一言で舞い上がって
すぐに返したメッセージがまた二人の線を近づけた。
私からは何も出来ない。
ただ、あなたの連絡を待つだけ。
メッセージが来たらそれに従って、
あなたの家であなたに会う。
あなたの家は行くたびに他の女の子たちの香りがする。
甘くて、きつくて、若い、そんな香りが。
私はその香りの中であなたと過ごす。
近づいては離れて
急に連絡が途絶えて、不安になって、
メッセージを送る。既読が付かなくて、
もっと不安になるの繰り返し。
その後で、あなたが笑いながら
ごめんごめん最近忙しかったんだよね、と
嘘を付く。私も笑いながら、
そっか、忙しかったのならしょうがないね、と
嘘を付く。
そしてあなたの家で何日か過ごすのだ。
離れては近づいた
きっと彼も年上の女とだらだら付き合いは
しないだろう。
だからいつかは、はなればなれになってしまう。
分かっている。
分かっているけど、
いつか線が途切れるその日まで、
線が途切れたその後も、
電話番号もSNSのアカウントも変えないまま
ずっとあなたを待っている。
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「離れられない」
はなればなれ
理佳は普通の人間だ。特別かわいくもなく、なにか
特技があるわけでもない。
だが一つ、理佳は超能力を持っている。
他人にお願いすると必ず聞いてもらえる能力だ。
悪用しようと思ったらいくらでもできる力である。
しかし理佳は悪用はしない。人の心を操ることがどれほ
ど難しいか予想できるからだった。
理佳は大学に、好きな男性がいた。平凡な理佳に合わぬ
ほど輝く人だった。理佳はひと目見て恋に落ちた。
超能力を使えばかんたんに付き合うこともできた。
でも理佳はそうしなかった。本当に愛されているのか分
からなくなるのが嫌だった。その代わり、かれに猛アタ
ックし続けた。その成果が実り、彼から告白の言葉を
引き出せた。
理佳は付き合い始めると同時に力のことを打ち明けた。
信じてもらえないと思っていた彼は君が言うならと
あっさり信じた。
その上で理佳はある提案をした。
これから付き合っていく上で、お願いをしたくなるとき
もある。けれども、私は強制はしたくない。だから二人
だけの合言葉を決めようと。
理佳の提案は受け入れられた。
例えば
「抱きしめて」
は
「あなたの腕の中って安心する」
こうすると命令形ではなくお願いできる。
意外と楽しい作業で彼と理佳はたくさん作っていった。
家事のことだったり、様々なことを合言葉にしていっ
た。
やがて理佳の頭からはもうお願いしたいであろうことは
無くなった。合言葉を書き出したリストを片付けようと
立ち上がったとき、彼が理佳を引き止めた。
「まだ全部決めてないよ」
「え?」
「結婚しようの合言葉が無いよ。ほら何にする?」
理佳の両目から雫がこぼれ落ちた。
彼の言葉は誰に強制されたのでもなく自然の言葉
だった。ただ理佳が好きだから出た言葉だった。
理佳は嬉しくて泣きながら答えた。
「世界で一番あなたが好き、かな」
語尾が震えていたけれど、
それは最上の合言葉で、
愛言葉だった。
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「あいことば」
愛言葉