〈カラフル〉
五月の風が、並木道を抜けていく。
隣を歩く彩子が、「入ろっか」と言ってフルーツパーラーの扉を押した。
ショーケースに並ぶ季節のケーキには、いちごやキウイが贅沢に盛られていて、見ているだけで胸が弾む。
「就職おめでとう」
向かいに座った彩子が、アイスティーのストローをくるりと回した。
「ありがとう。まさかこんなに早く決まると思わなかった」
「もう少しゆっくり休んでてもよかったのにね」
彼女の言い方は少し辛辣で、でもそのぶん嘘がない。
パフェをひとさじ掬うと、マンゴーソルベの鮮やかなオレンジ色が光を受けてきらめいた。
「あんた、あの頃ひどかったよ」
唐突に彩子が言う。
「部屋から全然出てこないし、メッセージしても既読だけつくし。
どう見てもブラックな職場だって、私も、他のみんなも、ずっと言ってたのに。
あんたなかなかわかってくれなかったから」
私はスプーンを置いた。
「ごめん。ほんとに」
「謝るのはいいよ。
こうしてちゃんと出てきてくれたんだから」
彩子はそう言って、いちごを頬張った。
あの頃のことは、少しずつ思い出せるようになってきた。
会議室に響く怒鳴り声、浴びせられる言葉、積み重なっていく疲労。気づいたときには、朝起きることさえ鉛のように重くなっていた。退職届を出した日のことはぼんやりとしか覚えていないのに、白い紙に黒い文字を書いた感触だけが、妙に鮮明に残っている。
私の世界は、あの頃確かにモノクロだった。
「今はどう? 色、見える?」
彩子が冗談めかして言う。私は思わず笑った。
「見える見える。めちゃくちゃ見える」
本当のことだった。
今日だけで、どれだけの色に触れただろう。駅からの道すがら、公園の花壇に咲き乱れていたチューリップの赤と黄と白。街路樹の若葉が風に揺れるたびに見せる、透き通るような黄緑色。
デパートのショーウィンドウに飾られた春物のコートが、テラコッタや淡いラベンダーやくすんだカーキで並んでいた光景。行き交う人たちの服が、それぞれ違う色をしていること。
当たり前のことなのに、今の私にはそのひとつひとつが、少し特別に見える。
「あの頃さ、世界が灰色しかなかった」
私は言った。
「信号の青も赤も、ぜんぶ同じグレーに見えてた。
外に出るのが怖かったというよりも、出る意味が見つけられなかったんだと思う。
世界がモノクロ写真みたいで、どこに行っても同じだから」
「うん」
「でも今は違う。こんなにごちゃごちゃしてるのにね」
窓の外の通りを、春の人混みが流れていく。
ピンクのカーディガン、コバルトブルーのスニーカー、オレンジのトートバッグ。どれも主張が強くて、にぎやかで、少しうるさいくらいで。
それでも今日の私には、そのうるさいくらいの色彩が、ありがたかった。
「色が単調に見えてきたら危険信号ってことよね、多分」
彩子が静かに言った。
私は少し考えてから、頷いた。
「そうかもしれない」
パフェのキウイを掬いながら、あの日のことを思い出した。
灰色の部屋で、震える指がやっと動いて、彩子からのメッセージに短く返事を送った夜。カラフルなスイーツの写真が、私のスマホの画面ではグレーの濃淡にしか映らなかったのに、それでも《本当はどんな色をしているんだろう》と、ふと思えた瞬間。
あの好奇心が、最初の一歩だったかもしれない。
彩子は多分、気づいていない。諦めずに送り続けてくれたメッセージが、私の中で何かを動かしたことを。
あなたに助けられたのよ、と私は心の中で思った。
声に出したら泣きそうだったから、代わりにパフェをひとくち食べる。いちごが、甘くて、少しだけ酸っぱかった。
「ねえ、次どこ行く?」
彩子がスマホを取り出しながら言う。いつもの調子で、何気なく。
「どこでも」
私は答えた。
新宿御苑に、今だけ楽しめる若葉を見に行こうか。帰りにデパ地下で色とりどりのお惣菜を買って帰ろうか。
この世界は、どこへ行っても色がある。
──────
※以前書いた〈Beyond Monochrome〉続編です。
〈楽園〉
すえっちから連絡が来たのは、金曜の夜だった。
「久しぶりに集まらない?
来週の土曜、みんなに声かけてみるんだけど」
スマートフォンの画面を見つめながら、私は少し考えた。
《来週の土曜》。特に予定はない。三十二歳の週末なんて、たいていそんなものだ。
結局、集まったのは六人だった。高校のクラスメートで、卒業後もなんとなく続いているグループ。
最近は年に一度あるかないか、そういう集まりになっていた。
駅前の居酒屋に入って、最初の一杯を頼むころはよかった。近況を報告しあって、久しぶりだねと笑いあって。でも一時間も過ぎると、会話は妙な感じになってきた。
仕事の話をすれば愚痴になる。私もそうだし、向かいに座っているはっしーも、隣のたなりんも、ため息まじりに職場の話をする。
上司が、取引先が、評価が、将来が。そういう言葉ばかりが並ぶ。
すえっちは五歳の子どもがいるけれど、今夜は旦那さんが実家に連れて行ってくれているらしい。
「少しは自分の時間を楽しんでおいで、って言ってくれてさ」とすえっちが笑った。
私は、いいね、と返した。声のトーンはちゃんと合っていたと思う。でも、胸の奥のどこかがかすかに軋んだのを、私は気づかないふりをした。
のろけに聞こえてしまうのは、たぶん私が僻んでいるからだ。すえっちのせいじゃない。
結婚している子たちは、私たち独身組を気遣ってか、家族の話をあまりしない。その気遣いがありがたくもあり、少し寂しくもある。
気がつけば、話題を探すのが難しくなっていた。昔はあんなに話すことがあったのに。
****
帰り道、私は少し遠回りをした。
電車に乗る気になれなくて、夜風に当たりながら歩いた。
繁華街を抜けると、住宅街の細い道に出る。街灯がぽつぽつと続いていて、どこかひっそりとしていた。
高校の頃を思い出しながら歩く。
放課後の教室。
部活も委員会もない日、帰ろうと思えばすぐ帰れるのに、なんとなく誰かが残っていた。黒板の端に誰かが書いた落書きが消されないまま残っていて、外から運動部の声が遠く聞こえた。
すえっちとか、はっしーとか、その日いた何人かで机を寄せて、とくに理由もなく話した。
コンビニで買ったスナック菓子を机の上に広げて、先生に見つからないようにこっそり食べながら。
話していたのは、たわいもないことばかり。好きなテレビの話、気になっている人の話、将来なりたいものの話。
進路のことを考えなければいけない時期だったはずなのに、どこか遠い夢を語るほうが先に立った。
なんにでもなれる気がしていた。なんにでもなれると信じることが、まだ許されていた。
──あの場所は、楽園だったのだと思う。
今になってわかる。
あの放課後の教室には、まだ《何者でもない自分》がいた。
何者でもなかったから、何者にでもなれた。傷つくことも、傷つけることも、まだほとんど知らなかった。
****
家に帰って、鍵を開けながらスマホを取り出した。
グループのトークに、すえっちからメッセージが届いていた。
「今日は楽しかった! また集まろうね」
スタンプや絵文字が続いて、他のみんなも返事を送っていた。
はっしーの「楽しかった、次は来年?笑」というメッセージに、たなりんが「早すぎ笑」と返している。
私はしばらくその画面を眺めてから、部屋の電気をつけた。
楽園は、もうない。あの教室も、あの時間も、戻らない。でも、今夜みんなと話しながら愚痴をこぼしたことも、うまく話題が続かなくて少し黙ったことも、それはそれで悪くなかったと思った。
楽園じゃなくても、ここにいる。
それでいい、と思うことにした。
私はトークに短く返事を打ってから、スマホを伏せて、ソファに腰を下ろした。
──今いるところが、楽園だ。
〈風に乗って〉
今年もゴールデンウィークがやってきた。
ただ、いつもとは違う連休が始まる。
妻はカレンダーを指さして「祝日だから休みでしょ」と言い、出勤前に化粧をしながら「孝太の面倒、よろしくね」と付け加えた。こちらが何か言う間もなく、玄関のドアは閉まった。
妻の会社はこの時期、大きな展示会がある。
息子が一年生のうちは、学校の行事や休みに合わせて融通してもらっていたらしいが、今年からは祝日も容赦なく出勤を入れるようになった。
「子供の面倒はちゃんと見てね」と、まるでそれが当然のことのように言われている。
当然といえば当然なのだが、こちらにも心の準備というものがある。
特段の計画があったわけではないが、読みかけの本があった。録りためたドラマがあった。せめて午前中くらいは、ぼんやり過ごしたかった。
「ねえ、どこか行こうよ」
息子の孝太が居間に転がり込んできたのは、八時を少し過ぎたころだった。パジャマのまま、両腕で膝を抱えて上目遣いに見てくる。
この顔を見ると、断りにくいのがわかっていてやっているのかと思う。小学二年生、まだ七歳のくせに、なかなか食えない。
「どこって、どこに行くんだ」
「うーん」と孝太は首をかしげ、「じゃあ、牧場」と言った。
車で行けばものの二十分だが、孝太は自転車で行くと言い張った。川沿いに走れば行けなくもない。
「結構遠いぞ」
「行けるよ!」
「途中でつかれたって言っても、自分で自転車こがないと行けないよ」
「言わないよ!!」
押し問答の末、自転車で行くことに決まった。こちらの負けである。
****
川沿いのサイクリングロードは、南風が強かった。
南へ下る川に沿って走るため、ほぼ真正面から風を受ける。
孝太は自分の自転車を漕ぎながら、それでも「鳥がいた!」「あっちに釣りしてる人がいる」と、ひっきりなしに声をあげた。
子供の体力というのは不思議なもので、向かい風など気にした様子もない。
こちらはハンドルに力を込め、黙々とペダルを踏むが、思いのほか体力を消耗している。
「孝太、少し休もう」
「つかれたの、パパ?」
自分より先に音を上げるのが面白いのか、ニヤニヤしている。
しかし、それほど悪い気分でもなかった。風が顔に当たり気持ちがいい。空は高く、薄い雲が流れていた。
牧場に着くと、孝太は柵越しに牛を眺め、しばらく動かなかった。
飽きると、ショップに走っていく。ジェラートのケースに張りついて、真剣な顔でフレーバーを選ぶ。ミルクと、いちごと、二種類盛りにするかで五分ほど悩んで、結局二種類にした。当然である。
屋外のベンチに並んで座り、ジェラートを食べた。
孝太はミルクから先に食べた。次にいちごを食べ、「うまい」と言って足をぶらぶらさせた。
ベンチの高さが孝太にはまだ少し高く、足が地面に届かない。その足が、子供らしくリズムを刻んでいる。
ポケットからスマートフォンを取り出し、ジェラートを持つ孝太を撮った。ミルクといちごの二色が、午後の光の中でやわらかく光っている。
妻に送ると、しばらくして既読がついた。《かわいい》というスタンプと一緒に、《ありがとう、助かる。帰ったらお米炊飯器にかけておいてくれると嬉しい。あとお風呂、早めに入れて》と返ってきた。
思わず苦笑する。写真へのコメントより指令のほうが長い。とはいえ文句を言う気にもならなかった。
こうして二人で回しているのだと、改めて思う。孝太のそばで、自分なりにやっていくしかない。
こういうものを見ると、ふと時間の不思議を感じる。孝太が生まれたのは、つい最近のことのように思える。なのに、もうジェラートを自分で選んで、自分の言葉で「うまい」と言う。気づかないうちに、いろんなことができるようになっていた。
****
帰りは、来た道を戻った。
川の流れに沿って吹く風が、背中から押してくるのがわかる。行きとは別の川を走っているようだった。
孝太がぐんぐん前に出る。こちらも自然と速度が上がる。ペダルを踏むというより、踏まれているような感覚だった。
「パパ、速い速い」と孝太が笑いながら振り返った。
そうだな、と思った。
風が、背中にある。
しばらく走って、孝太が前を向いたまま言った。
「今日、楽しかった。また来ようね」
また、という言葉が耳に残った。孝太にとってそれは、何でもない一言なのだろう。
今日が楽しければ、また来ればいい。それだけのことだ。
だが、先のことを、損得を、体力の衰えを、気づけばそういうことばかり考えるようになっていた身には、眩しすぎる。
「また来よう」と、風の中で答えた。
孝太の背中が、追い風に乗って、少し前へ出た。
〈刹那〉
また、目が覚めた。
時計を見ると、午前二時を少し回ったところだ。カーテンの隙間から、街灯の薄い光が斜めに差し込んでいる。
暗闇から夫の寝息が聞こえる。規則正しい、穏やかな音。それが今夜はやけに遠くに感じられた。
体が重く、自分の心臓の音が頭に響く。
この状態はもう何ヶ月も続いていた。
午前中から肩が張って、昼を過ぎると頭の芯がじんと痺れるような感覚が来る。
締め切りと、報告書と、部下への返信と。仕事を終えても今度は家のことが待っている。
子どもたちが独立して夫婦二人になっても、私が楽になったわけではなかった。
先週、後輩の女の子に「係長って、いつ休んでるんですか」と聞かれた。笑って誤魔化したけれど、帰りの電車の中でその言葉がずっと頭の中をぐるぐるしていた。
──私はいつ休んでいるのだろう。
夜中に目が覚めて天井を見ているこの瞬間も、何かを考え続けている。
起き上がるのも億劫で、しばらく横になったまま闇を見ていた。波のように押し寄せる熱感と、胸の奥の鈍い動悸。
婦人科では「更年期の症状ですね」とさらりと言われた。そうですか、と答えながら、私はなぜか少し泣きたくなった。
病気ではない。異常ではない。ただ、年齢というものに、現実を思い知らされただけだ。
寝返りを打ち、頬に当たる枕の冷たさに息をつく。
ふいに、思い出した。
大学二年の初夏のことだ。
同じゼミに、田辺という男がいた。
特別に目立つわけでも、よく喋るわけでもなかった。ただ、人の話を聞くとき、少し伏し目がちになって、静かに頷く癖があった。
それだけのことなのに、私はいつの間にかゼミの日が近づくと、着ていく服のことを考えるようになっていた。
六月の終わりだったと思う。図書館の閲覧室で、偶然隣り合わせになった。お互い黙って本を読んでいたけれど、私が参考文献を棚に戻しに立とうとした瞬間、彼も同じタイミングで立ち上がって、肩が、触れた。
本当に、ほんの一瞬のことだった。
「あ、すみません」と私が言って、「いえ」と彼が言った。それだけだ。
それだけなのに、自分の席に戻ったあと、ページを繰る手が少し震えていた。胸の中心に、火が灯ったような感覚があった。あんな感覚は、後にも先にも、あのときだけだったと思う。
田辺とは、それ以上何もなかった。ゼミが終われば接点はなくなり、卒業式で遠くに姿を見かけたのが最後だった。
名前を呼んだわけでも、連絡先を聞いたわけでもない。告白も、約束も、何も。
それなのに、あの肩の感触だけが、二十五年経った今も、消えずにいる。
《刹那》という言葉の意味を、私はあの瞬間に体で覚えたのだと思う。
一瞬が、永遠よりも長く感じられることがある。世界がその一点に凝縮されて、私の心臓だけがひどく速く動いていた。
あの図書館の、夏が始まる少し湿っぽい空気の匂いまで、今でも鮮やかに思い出せる。
今の私に、あんな瞬間がどこにあるだろう。
月曜の朝から上司の顔色を読み、チームの数字を気にして、昼休みも席で弁当を食べながらメールを返す。
家に帰れば今度は別の役割が待っていて、私はずっと誰かの何かであり続けて、自分がただの《私》でいられる時間が、どこにもない。
体は悲鳴を上げているのに、立ち止まる場所が見当たらない。そのうちに感情は鈍化し、胸が熱くなるという感覚そのものを、どこかに置き忘れてきてしまった。
暗い天井を見ながら、私はそっと目を閉じた。
彼の横顔を思い浮かべる。伏し目がちになるときの、静かな目。
偶然触れた、肩のぬくもり。あの一瞬に確かにあった、息が止まるような感覚。
──あれは恋だったのだろうか。
きっと、そうだった。形になる前に消えてしまったけれど、形にならなかったからこそ、純粋なまま残っている。傷つかなかった分だけ、あの刹那は今も光ったままでいる。
思い出の中の彼は、あの夏の午後の光の中に、ずっとそのままの顔で立っている。
夫の寝息が、遠くで続いている。
私はそっと、布団を引き上げた。肩まで包まって、目を閉じたまま、あの閲覧室の中に戻る。
窓の外で揺れていた青葉。冷房の効き始めた、少し肌寒い空気。そして、触れた肩のぬくもり。
この闇の中だけでいい。
誰にも言わない、誰にも見せない、この胸の奥の小さな灯。
明日になればまた、報告書と上司の顔と、帰りの重い足と向き合うことになるとしても。今夜だけは、あの刹那を抱いたまま眠ろう。
それでいい。
それでいいから、今夜だけは。
〈生きる意味〉
最近、誰かに見られている気がする。
そう思うようになったのは、たぶん冬が終わりかけた頃だ。
もちろん、誰もいない。
放課後の教室でひとり机に突っ伏していても、帰り道の駅で電車を待っていても、家の自室で天井を眺めていても、視界の端に《何か》が揺れるだけだ。
気のせいだと分かっている。分かっているのに、胸の奥がざわつく。
俺は、生きる意味を見失っていた。
部活もやめ、友達とも距離ができ、家では最低限の会話しかしない。
朝起きて学校へ行き、授業を受け、帰って寝る。その繰り返しに、何の価値があるのか分からなかった。
そんなある日、教室の窓際でぼんやり外を眺めていると、ふと空気が揺れた。
風でもない。気温の変化でもない。
ただ、誰かがすぐそばを通り抜けたような、そんな気配。
視線を落とすと、窓の外の塀の上に、黒い猫が一匹座っていた。
こちらをまっすぐに見ている。まばたきもせず、ただじっと。
目が合った、と思った瞬間、猫はゆっくりと視線を逸らし、塀の向こうに消えた。
「……またかよ」
思わずつぶやいた声は、誰にも届かない。
俺は自分の頭がおかしくなったのだと思った。
でも、その《気配》は、俺が死にたいほど落ち込んでいるときほど強くなる。
まるで、誰かが近くで息を潜めているみたいに。
ある夜、布団に潜りながら、俺は天井を見つめていた。
今日も何もできなかった。
何も変わらなかった。
生きている意味なんて、やっぱり分からない。
そのとき、部屋の隅で空気がふっと揺れた。
見えないけれど、確かに《誰か》がそこにいる気がした。
「……誰なんだよ」
返事はない。
でも、返事がないことが、逆に自然に思えた。
もし本当に誰かがいるとしても、俺に声をかける理由なんてない。
ただ、その沈黙はどこか、俺から目を離すまいとしているような、そんな重さを帯びていた。
翌日、学校の帰り道。
踏切の警報が鳴り、赤いライトが点滅する。
線路の向こう側に沈む夕陽が、やけに眩しかった。
ふと、線路に足を踏み出したらどうなるだろう、と考えた。
電車はすぐそこまで来ている。終わらせるのは簡単だ。
誰にも迷惑をかけないように見える場所を選んだつもりだった。
そのとき、足元で何かが鳴いた。
見ると、踏切の脇の草むらに、黒い猫がいた。
こちらを見上げて、もう一度、短く鳴く。
教室の窓から消えた、あの猫と同じ目をしていた。
金色の、底の見えない目。
その瞬間、背中を強く引かれた気がした。
実際には誰もいない。
でも、確かに《何か》が俺を止めた。
まるで、《ここで終わられては困る》と言いたげな、強い意志のようなものが。
「……っ!」
電車が轟音を立てて通り過ぎる。
風圧で髪が乱れ、膝が震えた。
気づくと、黒猫の姿はもうなかった。
俺は線路から離れ、しばらくその場に立ち尽くした。
あれは、何だったんだ。
気のせいで片づけるには、あまりにも《確か》な気配だった。
その夜、布団の中で、俺は小さくつぶやいた。
「……生きてていいのか、俺」
返事はない。
でも、部屋の空気がわずかに温かくなった気がした。
まるで、《いいに決まっている》と、誰かが鼻を鳴らしたような。
それからだ。
俺は少しずつ、日常の中に小さな意味を見つけ始めた。
朝の光がきれいだと思ったり、クラスメイトの笑い声が心地よく聞こえたり、コンビニの新作パンがうまかったり。
そんな些細なことが、なぜか胸に残るようになった。
《気配》は相変わらずそばにいる。
でも、前より怖くない。
むしろ、見守られているような安心感すらあった。
ある日の放課後、夕陽の差し込む教室で、俺はふと思った。
──もしかして、未来の俺が誰かを救うのかもしれない。
──だから今、誰かが俺を救ってくれているのかもしれない。
根拠なんてない。
でも、そう考えると胸が少しだけ軽くなった。
窓の外の塀に、また黒い猫が座っていた。
今度は、こちらをちらりと一瞥してから、ゆったりと目を細めた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉か分からない。
でも、教室の空気がふっと揺れた。
その揺れは、まるで「聞こえているよ」と言っているようだった。
俺はまだ、生きる意味を完全に見つけたわけじゃない。
でも、探してみようと思える。
誰かが見守ってくれている気がするから。
未来のどこかで、俺が誰かを救う日が来るのなら──
その未来を、ちゃんと迎えに行きたい。
あの金色の目が、それを知っているような気がした。