汀月透子

Open App
5/2/2026, 6:05:28 AM

〈カラフル〉

 五月の風が、並木道を抜けていく。

 隣を歩く彩子が、「入ろっか」と言ってフルーツパーラーの扉を押した。
 ショーケースに並ぶ季節のケーキには、いちごやキウイが贅沢に盛られていて、見ているだけで胸が弾む。

「就職おめでとう」

 向かいに座った彩子が、アイスティーのストローをくるりと回した。

「ありがとう。まさかこんなに早く決まると思わなかった」
「もう少しゆっくり休んでてもよかったのにね」

 彼女の言い方は少し辛辣で、でもそのぶん嘘がない。
 パフェをひとさじ掬うと、マンゴーソルベの鮮やかなオレンジ色が光を受けてきらめいた。

「あんた、あの頃ひどかったよ」

 唐突に彩子が言う。

「部屋から全然出てこないし、メッセージしても既読だけつくし。
 どう見てもブラックな職場だって、私も、他のみんなも、ずっと言ってたのに。
 あんたなかなかわかってくれなかったから」

 私はスプーンを置いた。

「ごめん。ほんとに」
「謝るのはいいよ。
 こうしてちゃんと出てきてくれたんだから」

 彩子はそう言って、いちごを頬張った。

 あの頃のことは、少しずつ思い出せるようになってきた。
 会議室に響く怒鳴り声、浴びせられる言葉、積み重なっていく疲労。気づいたときには、朝起きることさえ鉛のように重くなっていた。退職届を出した日のことはぼんやりとしか覚えていないのに、白い紙に黒い文字を書いた感触だけが、妙に鮮明に残っている。

 私の世界は、あの頃確かにモノクロだった。

「今はどう? 色、見える?」

 彩子が冗談めかして言う。私は思わず笑った。

「見える見える。めちゃくちゃ見える」

 本当のことだった。
 今日だけで、どれだけの色に触れただろう。駅からの道すがら、公園の花壇に咲き乱れていたチューリップの赤と黄と白。街路樹の若葉が風に揺れるたびに見せる、透き通るような黄緑色。
 デパートのショーウィンドウに飾られた春物のコートが、テラコッタや淡いラベンダーやくすんだカーキで並んでいた光景。行き交う人たちの服が、それぞれ違う色をしていること。
 当たり前のことなのに、今の私にはそのひとつひとつが、少し特別に見える。

「あの頃さ、世界が灰色しかなかった」

 私は言った。

「信号の青も赤も、ぜんぶ同じグレーに見えてた。
 外に出るのが怖かったというよりも、出る意味が見つけられなかったんだと思う。
 世界がモノクロ写真みたいで、どこに行っても同じだから」
「うん」
「でも今は違う。こんなにごちゃごちゃしてるのにね」

 窓の外の通りを、春の人混みが流れていく。
 ピンクのカーディガン、コバルトブルーのスニーカー、オレンジのトートバッグ。どれも主張が強くて、にぎやかで、少しうるさいくらいで。
 それでも今日の私には、そのうるさいくらいの色彩が、ありがたかった。

「色が単調に見えてきたら危険信号ってことよね、多分」

 彩子が静かに言った。
 私は少し考えてから、頷いた。

「そうかもしれない」

 パフェのキウイを掬いながら、あの日のことを思い出した。
 灰色の部屋で、震える指がやっと動いて、彩子からのメッセージに短く返事を送った夜。カラフルなスイーツの写真が、私のスマホの画面ではグレーの濃淡にしか映らなかったのに、それでも《本当はどんな色をしているんだろう》と、ふと思えた瞬間。

 あの好奇心が、最初の一歩だったかもしれない。

 彩子は多分、気づいていない。諦めずに送り続けてくれたメッセージが、私の中で何かを動かしたことを。
 あなたに助けられたのよ、と私は心の中で思った。

 声に出したら泣きそうだったから、代わりにパフェをひとくち食べる。いちごが、甘くて、少しだけ酸っぱかった。

「ねえ、次どこ行く?」

 彩子がスマホを取り出しながら言う。いつもの調子で、何気なく。

「どこでも」

 私は答えた。
 新宿御苑に、今だけ楽しめる若葉を見に行こうか。帰りにデパ地下で色とりどりのお惣菜を買って帰ろうか。

 この世界は、どこへ行っても色がある。
 

──────

※以前書いた〈Beyond Monochrome〉続編です。

5/1/2026, 3:53:38 AM

〈楽園〉

 すえっちから連絡が来たのは、金曜の夜だった。

「久しぶりに集まらない?
 来週の土曜、みんなに声かけてみるんだけど」

 スマートフォンの画面を見つめながら、私は少し考えた。
《来週の土曜》。特に予定はない。三十二歳の週末なんて、たいていそんなものだ。

 結局、集まったのは六人だった。高校のクラスメートで、卒業後もなんとなく続いているグループ。
 最近は年に一度あるかないか、そういう集まりになっていた。

 駅前の居酒屋に入って、最初の一杯を頼むころはよかった。近況を報告しあって、久しぶりだねと笑いあって。でも一時間も過ぎると、会話は妙な感じになってきた。

 仕事の話をすれば愚痴になる。私もそうだし、向かいに座っているはっしーも、隣のたなりんも、ため息まじりに職場の話をする。
 上司が、取引先が、評価が、将来が。そういう言葉ばかりが並ぶ。

 すえっちは五歳の子どもがいるけれど、今夜は旦那さんが実家に連れて行ってくれているらしい。
「少しは自分の時間を楽しんでおいで、って言ってくれてさ」とすえっちが笑った。
 私は、いいね、と返した。声のトーンはちゃんと合っていたと思う。でも、胸の奥のどこかがかすかに軋んだのを、私は気づかないふりをした。
 のろけに聞こえてしまうのは、たぶん私が僻んでいるからだ。すえっちのせいじゃない。

 結婚している子たちは、私たち独身組を気遣ってか、家族の話をあまりしない。その気遣いがありがたくもあり、少し寂しくもある。
 気がつけば、話題を探すのが難しくなっていた。昔はあんなに話すことがあったのに。

    ****

 帰り道、私は少し遠回りをした。

 電車に乗る気になれなくて、夜風に当たりながら歩いた。
 繁華街を抜けると、住宅街の細い道に出る。街灯がぽつぽつと続いていて、どこかひっそりとしていた。

 高校の頃を思い出しながら歩く。

 放課後の教室。
 部活も委員会もない日、帰ろうと思えばすぐ帰れるのに、なんとなく誰かが残っていた。黒板の端に誰かが書いた落書きが消されないまま残っていて、外から運動部の声が遠く聞こえた。

 すえっちとか、はっしーとか、その日いた何人かで机を寄せて、とくに理由もなく話した。
 コンビニで買ったスナック菓子を机の上に広げて、先生に見つからないようにこっそり食べながら。

 話していたのは、たわいもないことばかり。好きなテレビの話、気になっている人の話、将来なりたいものの話。
 進路のことを考えなければいけない時期だったはずなのに、どこか遠い夢を語るほうが先に立った。
 なんにでもなれる気がしていた。なんにでもなれると信じることが、まだ許されていた。

──あの場所は、楽園だったのだと思う。

 今になってわかる。
 あの放課後の教室には、まだ《何者でもない自分》がいた。
 何者でもなかったから、何者にでもなれた。傷つくことも、傷つけることも、まだほとんど知らなかった。

    ****

 家に帰って、鍵を開けながらスマホを取り出した。
 グループのトークに、すえっちからメッセージが届いていた。

「今日は楽しかった! また集まろうね」

 スタンプや絵文字が続いて、他のみんなも返事を送っていた。
 はっしーの「楽しかった、次は来年?笑」というメッセージに、たなりんが「早すぎ笑」と返している。
 私はしばらくその画面を眺めてから、部屋の電気をつけた。

 楽園は、もうない。あの教室も、あの時間も、戻らない。でも、今夜みんなと話しながら愚痴をこぼしたことも、うまく話題が続かなくて少し黙ったことも、それはそれで悪くなかったと思った。

 楽園じゃなくても、ここにいる。
 それでいい、と思うことにした。

 私はトークに短く返事を打ってから、スマホを伏せて、ソファに腰を下ろした。

──今いるところが、楽園だ。

4/30/2026, 5:42:49 AM

〈風に乗って〉

 今年もゴールデンウィークがやってきた。
 ただ、いつもとは違う連休が始まる。

 妻はカレンダーを指さして「祝日だから休みでしょ」と言い、出勤前に化粧をしながら「孝太の面倒、よろしくね」と付け加えた。こちらが何か言う間もなく、玄関のドアは閉まった。

 妻の会社はこの時期、大きな展示会がある。
 息子が一年生のうちは、学校の行事や休みに合わせて融通してもらっていたらしいが、今年からは祝日も容赦なく出勤を入れるようになった。
「子供の面倒はちゃんと見てね」と、まるでそれが当然のことのように言われている。
 当然といえば当然なのだが、こちらにも心の準備というものがある。

 特段の計画があったわけではないが、読みかけの本があった。録りためたドラマがあった。せめて午前中くらいは、ぼんやり過ごしたかった。

「ねえ、どこか行こうよ」

 息子の孝太が居間に転がり込んできたのは、八時を少し過ぎたころだった。パジャマのまま、両腕で膝を抱えて上目遣いに見てくる。
 この顔を見ると、断りにくいのがわかっていてやっているのかと思う。小学二年生、まだ七歳のくせに、なかなか食えない。

「どこって、どこに行くんだ」

「うーん」と孝太は首をかしげ、「じゃあ、牧場」と言った。

 車で行けばものの二十分だが、孝太は自転車で行くと言い張った。川沿いに走れば行けなくもない。

「結構遠いぞ」
「行けるよ!」
「途中でつかれたって言っても、自分で自転車こがないと行けないよ」
「言わないよ!!」

 押し問答の末、自転車で行くことに決まった。こちらの負けである。

    ****

 川沿いのサイクリングロードは、南風が強かった。
 南へ下る川に沿って走るため、ほぼ真正面から風を受ける。

 孝太は自分の自転車を漕ぎながら、それでも「鳥がいた!」「あっちに釣りしてる人がいる」と、ひっきりなしに声をあげた。
 子供の体力というのは不思議なもので、向かい風など気にした様子もない。
 こちらはハンドルに力を込め、黙々とペダルを踏むが、思いのほか体力を消耗している。

「孝太、少し休もう」
「つかれたの、パパ?」

 自分より先に音を上げるのが面白いのか、ニヤニヤしている。
 しかし、それほど悪い気分でもなかった。風が顔に当たり気持ちがいい。空は高く、薄い雲が流れていた。

 牧場に着くと、孝太は柵越しに牛を眺め、しばらく動かなかった。
 飽きると、ショップに走っていく。ジェラートのケースに張りついて、真剣な顔でフレーバーを選ぶ。ミルクと、いちごと、二種類盛りにするかで五分ほど悩んで、結局二種類にした。当然である。

 屋外のベンチに並んで座り、ジェラートを食べた。
 孝太はミルクから先に食べた。次にいちごを食べ、「うまい」と言って足をぶらぶらさせた。
 ベンチの高さが孝太にはまだ少し高く、足が地面に届かない。その足が、子供らしくリズムを刻んでいる。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、ジェラートを持つ孝太を撮った。ミルクといちごの二色が、午後の光の中でやわらかく光っている。
 妻に送ると、しばらくして既読がついた。《かわいい》というスタンプと一緒に、《ありがとう、助かる。帰ったらお米炊飯器にかけておいてくれると嬉しい。あとお風呂、早めに入れて》と返ってきた。

 思わず苦笑する。写真へのコメントより指令のほうが長い。とはいえ文句を言う気にもならなかった。
 こうして二人で回しているのだと、改めて思う。孝太のそばで、自分なりにやっていくしかない。

 こういうものを見ると、ふと時間の不思議を感じる。孝太が生まれたのは、つい最近のことのように思える。なのに、もうジェラートを自分で選んで、自分の言葉で「うまい」と言う。気づかないうちに、いろんなことができるようになっていた。

    ****

 帰りは、来た道を戻った。

 川の流れに沿って吹く風が、背中から押してくるのがわかる。行きとは別の川を走っているようだった。
 孝太がぐんぐん前に出る。こちらも自然と速度が上がる。ペダルを踏むというより、踏まれているような感覚だった。

「パパ、速い速い」と孝太が笑いながら振り返った。

 そうだな、と思った。
 風が、背中にある。

 しばらく走って、孝太が前を向いたまま言った。

「今日、楽しかった。また来ようね」

 また、という言葉が耳に残った。孝太にとってそれは、何でもない一言なのだろう。
 今日が楽しければ、また来ればいい。それだけのことだ。
 だが、先のことを、損得を、体力の衰えを、気づけばそういうことばかり考えるようになっていた身には、眩しすぎる。

「また来よう」と、風の中で答えた。

 孝太の背中が、追い風に乗って、少し前へ出た。

4/29/2026, 3:03:31 AM

〈刹那〉

 また、目が覚めた。

 時計を見ると、午前二時を少し回ったところだ。カーテンの隙間から、街灯の薄い光が斜めに差し込んでいる。
 暗闇から夫の寝息が聞こえる。規則正しい、穏やかな音。それが今夜はやけに遠くに感じられた。

 体が重く、自分の心臓の音が頭に響く。

 この状態はもう何ヶ月も続いていた。
 午前中から肩が張って、昼を過ぎると頭の芯がじんと痺れるような感覚が来る。
 締め切りと、報告書と、部下への返信と。仕事を終えても今度は家のことが待っている。
 子どもたちが独立して夫婦二人になっても、私が楽になったわけではなかった。

 先週、後輩の女の子に「係長って、いつ休んでるんですか」と聞かれた。笑って誤魔化したけれど、帰りの電車の中でその言葉がずっと頭の中をぐるぐるしていた。

──私はいつ休んでいるのだろう。
 夜中に目が覚めて天井を見ているこの瞬間も、何かを考え続けている。

 起き上がるのも億劫で、しばらく横になったまま闇を見ていた。波のように押し寄せる熱感と、胸の奥の鈍い動悸。
 婦人科では「更年期の症状ですね」とさらりと言われた。そうですか、と答えながら、私はなぜか少し泣きたくなった。
 病気ではない。異常ではない。ただ、年齢というものに、現実を思い知らされただけだ。

 寝返りを打ち、頬に当たる枕の冷たさに息をつく。

 ふいに、思い出した。
 大学二年の初夏のことだ。


 同じゼミに、田辺という男がいた。
 特別に目立つわけでも、よく喋るわけでもなかった。ただ、人の話を聞くとき、少し伏し目がちになって、静かに頷く癖があった。
 それだけのことなのに、私はいつの間にかゼミの日が近づくと、着ていく服のことを考えるようになっていた。

 六月の終わりだったと思う。図書館の閲覧室で、偶然隣り合わせになった。お互い黙って本を読んでいたけれど、私が参考文献を棚に戻しに立とうとした瞬間、彼も同じタイミングで立ち上がって、肩が、触れた。

 本当に、ほんの一瞬のことだった。

 「あ、すみません」と私が言って、「いえ」と彼が言った。それだけだ。
 それだけなのに、自分の席に戻ったあと、ページを繰る手が少し震えていた。胸の中心に、火が灯ったような感覚があった。あんな感覚は、後にも先にも、あのときだけだったと思う。

 田辺とは、それ以上何もなかった。ゼミが終われば接点はなくなり、卒業式で遠くに姿を見かけたのが最後だった。
 名前を呼んだわけでも、連絡先を聞いたわけでもない。告白も、約束も、何も。
 それなのに、あの肩の感触だけが、二十五年経った今も、消えずにいる。

 《刹那》という言葉の意味を、私はあの瞬間に体で覚えたのだと思う。
 一瞬が、永遠よりも長く感じられることがある。世界がその一点に凝縮されて、私の心臓だけがひどく速く動いていた。
 あの図書館の、夏が始まる少し湿っぽい空気の匂いまで、今でも鮮やかに思い出せる。


 今の私に、あんな瞬間がどこにあるだろう。

 月曜の朝から上司の顔色を読み、チームの数字を気にして、昼休みも席で弁当を食べながらメールを返す。
 家に帰れば今度は別の役割が待っていて、私はずっと誰かの何かであり続けて、自分がただの《私》でいられる時間が、どこにもない。
 体は悲鳴を上げているのに、立ち止まる場所が見当たらない。そのうちに感情は鈍化し、胸が熱くなるという感覚そのものを、どこかに置き忘れてきてしまった。

 暗い天井を見ながら、私はそっと目を閉じた。


 彼の横顔を思い浮かべる。伏し目がちになるときの、静かな目。
 偶然触れた、肩のぬくもり。あの一瞬に確かにあった、息が止まるような感覚。

──あれは恋だったのだろうか。

 きっと、そうだった。形になる前に消えてしまったけれど、形にならなかったからこそ、純粋なまま残っている。傷つかなかった分だけ、あの刹那は今も光ったままでいる。
 思い出の中の彼は、あの夏の午後の光の中に、ずっとそのままの顔で立っている。


 夫の寝息が、遠くで続いている。

 私はそっと、布団を引き上げた。肩まで包まって、目を閉じたまま、あの閲覧室の中に戻る。
 窓の外で揺れていた青葉。冷房の効き始めた、少し肌寒い空気。そして、触れた肩のぬくもり。

 この闇の中だけでいい。

 誰にも言わない、誰にも見せない、この胸の奥の小さな灯。
 明日になればまた、報告書と上司の顔と、帰りの重い足と向き合うことになるとしても。今夜だけは、あの刹那を抱いたまま眠ろう。

 それでいい。

 それでいいから、今夜だけは。

4/28/2026, 7:49:45 AM

〈生きる意味〉

 最近、誰かに見られている気がする。
 そう思うようになったのは、たぶん冬が終わりかけた頃だ。

 もちろん、誰もいない。
 放課後の教室でひとり机に突っ伏していても、帰り道の駅で電車を待っていても、家の自室で天井を眺めていても、視界の端に《何か》が揺れるだけだ。
 気のせいだと分かっている。分かっているのに、胸の奥がざわつく。

 俺は、生きる意味を見失っていた。
 部活もやめ、友達とも距離ができ、家では最低限の会話しかしない。
 朝起きて学校へ行き、授業を受け、帰って寝る。その繰り返しに、何の価値があるのか分からなかった。

 そんなある日、教室の窓際でぼんやり外を眺めていると、ふと空気が揺れた。
 風でもない。気温の変化でもない。
 ただ、誰かがすぐそばを通り抜けたような、そんな気配。
 視線を落とすと、窓の外の塀の上に、黒い猫が一匹座っていた。
 こちらをまっすぐに見ている。まばたきもせず、ただじっと。
 目が合った、と思った瞬間、猫はゆっくりと視線を逸らし、塀の向こうに消えた。

「……またかよ」

 思わずつぶやいた声は、誰にも届かない。
 俺は自分の頭がおかしくなったのだと思った。
 でも、その《気配》は、俺が死にたいほど落ち込んでいるときほど強くなる。
 まるで、誰かが近くで息を潜めているみたいに。

 ある夜、布団に潜りながら、俺は天井を見つめていた。
 今日も何もできなかった。
 何も変わらなかった。
 生きている意味なんて、やっぱり分からない。

 そのとき、部屋の隅で空気がふっと揺れた。
 見えないけれど、確かに《誰か》がそこにいる気がした。

「……誰なんだよ」

 返事はない。
 でも、返事がないことが、逆に自然に思えた。
 もし本当に誰かがいるとしても、俺に声をかける理由なんてない。
 ただ、その沈黙はどこか、俺から目を離すまいとしているような、そんな重さを帯びていた。

 翌日、学校の帰り道。
 踏切の警報が鳴り、赤いライトが点滅する。
 線路の向こう側に沈む夕陽が、やけに眩しかった。

 ふと、線路に足を踏み出したらどうなるだろう、と考えた。
 電車はすぐそこまで来ている。終わらせるのは簡単だ。
 誰にも迷惑をかけないように見える場所を選んだつもりだった。

 そのとき、足元で何かが鳴いた。
 見ると、踏切の脇の草むらに、黒い猫がいた。
 こちらを見上げて、もう一度、短く鳴く。
 教室の窓から消えた、あの猫と同じ目をしていた。
 金色の、底の見えない目。

 その瞬間、背中を強く引かれた気がした。
 実際には誰もいない。
 でも、確かに《何か》が俺を止めた。
 まるで、《ここで終わられては困る》と言いたげな、強い意志のようなものが。

「……っ!」

 電車が轟音を立てて通り過ぎる。
 風圧で髪が乱れ、膝が震えた。
 気づくと、黒猫の姿はもうなかった。

 俺は線路から離れ、しばらくその場に立ち尽くした。
 あれは、何だったんだ。
 気のせいで片づけるには、あまりにも《確か》な気配だった。

 その夜、布団の中で、俺は小さくつぶやいた。

「……生きてていいのか、俺」

 返事はない。
 でも、部屋の空気がわずかに温かくなった気がした。
 まるで、《いいに決まっている》と、誰かが鼻を鳴らしたような。

 それからだ。
 俺は少しずつ、日常の中に小さな意味を見つけ始めた。
 朝の光がきれいだと思ったり、クラスメイトの笑い声が心地よく聞こえたり、コンビニの新作パンがうまかったり。
 そんな些細なことが、なぜか胸に残るようになった。

 《気配》は相変わらずそばにいる。
 でも、前より怖くない。
 むしろ、見守られているような安心感すらあった。

 ある日の放課後、夕陽の差し込む教室で、俺はふと思った。

 ──もしかして、未来の俺が誰かを救うのかもしれない。
 ──だから今、誰かが俺を救ってくれているのかもしれない。

 根拠なんてない。
 でも、そう考えると胸が少しだけ軽くなった。
 窓の外の塀に、また黒い猫が座っていた。
 今度は、こちらをちらりと一瞥してから、ゆったりと目を細めた。

「……ありがとう」

 誰に向けた言葉か分からない。
 でも、教室の空気がふっと揺れた。

 その揺れは、まるで「聞こえているよ」と言っているようだった。

 俺はまだ、生きる意味を完全に見つけたわけじゃない。
 でも、探してみようと思える。
 誰かが見守ってくれている気がするから。

 未来のどこかで、俺が誰かを救う日が来るのなら──
 その未来を、ちゃんと迎えに行きたい。
 あの金色の目が、それを知っているような気がした。

Next