汀月透子

Open App

〈楽園〉

 すえっちから連絡が来たのは、金曜の夜だった。

「久しぶりに集まらない?
 来週の土曜、みんなに声かけてみるんだけど」

 スマートフォンの画面を見つめながら、私は少し考えた。
《来週の土曜》。特に予定はない。三十二歳の週末なんて、たいていそんなものだ。

 結局、集まったのは六人だった。高校のクラスメートで、卒業後もなんとなく続いているグループ。
 最近は年に一度あるかないか、そういう集まりになっていた。

 駅前の居酒屋に入って、最初の一杯を頼むころはよかった。近況を報告しあって、久しぶりだねと笑いあって。でも一時間も過ぎると、会話は妙な感じになってきた。

 仕事の話をすれば愚痴になる。私もそうだし、向かいに座っているはっしーも、隣のたなりんも、ため息まじりに職場の話をする。
 上司が、取引先が、評価が、将来が。そういう言葉ばかりが並ぶ。

 すえっちは五歳の子どもがいるけれど、今夜は旦那さんが実家に連れて行ってくれているらしい。
「少しは自分の時間を楽しんでおいで、って言ってくれてさ」とすえっちが笑った。
 私は、いいね、と返した。声のトーンはちゃんと合っていたと思う。でも、胸の奥のどこかがかすかに軋んだのを、私は気づかないふりをした。
 のろけに聞こえてしまうのは、たぶん私が僻んでいるからだ。すえっちのせいじゃない。

 結婚している子たちは、私たち独身組を気遣ってか、家族の話をあまりしない。その気遣いがありがたくもあり、少し寂しくもある。
 気がつけば、話題を探すのが難しくなっていた。昔はあんなに話すことがあったのに。

    ****

 帰り道、私は少し遠回りをした。

 電車に乗る気になれなくて、夜風に当たりながら歩いた。
 繁華街を抜けると、住宅街の細い道に出る。街灯がぽつぽつと続いていて、どこかひっそりとしていた。

 高校の頃を思い出しながら歩く。

 放課後の教室。
 部活も委員会もない日、帰ろうと思えばすぐ帰れるのに、なんとなく誰かが残っていた。黒板の端に誰かが書いた落書きが消されないまま残っていて、外から運動部の声が遠く聞こえた。

 すえっちとか、はっしーとか、その日いた何人かで机を寄せて、とくに理由もなく話した。
 コンビニで買ったスナック菓子を机の上に広げて、先生に見つからないようにこっそり食べながら。

 話していたのは、たわいもないことばかり。好きなテレビの話、気になっている人の話、将来なりたいものの話。
 進路のことを考えなければいけない時期だったはずなのに、どこか遠い夢を語るほうが先に立った。
 なんにでもなれる気がしていた。なんにでもなれると信じることが、まだ許されていた。

──あの場所は、楽園だったのだと思う。

 今になってわかる。
 あの放課後の教室には、まだ《何者でもない自分》がいた。
 何者でもなかったから、何者にでもなれた。傷つくことも、傷つけることも、まだほとんど知らなかった。

    ****

 家に帰って、鍵を開けながらスマホを取り出した。
 グループのトークに、すえっちからメッセージが届いていた。

「今日は楽しかった! また集まろうね」

 スタンプや絵文字が続いて、他のみんなも返事を送っていた。
 はっしーの「楽しかった、次は来年?笑」というメッセージに、たなりんが「早すぎ笑」と返している。
 私はしばらくその画面を眺めてから、部屋の電気をつけた。

 楽園は、もうない。あの教室も、あの時間も、戻らない。でも、今夜みんなと話しながら愚痴をこぼしたことも、うまく話題が続かなくて少し黙ったことも、それはそれで悪くなかったと思った。

 楽園じゃなくても、ここにいる。
 それでいい、と思うことにした。

 私はトークに短く返事を打ってから、スマホを伏せて、ソファに腰を下ろした。

──今いるところが、楽園だ。

5/1/2026, 3:53:38 AM