〈風に乗って〉
今年もゴールデンウィークがやってきた。
ただ、いつもとは違う連休が始まる。
妻はカレンダーを指さして「祝日だから休みでしょ」と言い、出勤前に化粧をしながら「孝太の面倒、よろしくね」と付け加えた。こちらが何か言う間もなく、玄関のドアは閉まった。
妻の会社はこの時期、大きな展示会がある。
息子が一年生のうちは、学校の行事や休みに合わせて融通してもらっていたらしいが、今年からは祝日も容赦なく出勤を入れるようになった。
「子供の面倒はちゃんと見てね」と、まるでそれが当然のことのように言われている。
当然といえば当然なのだが、こちらにも心の準備というものがある。
特段の計画があったわけではないが、読みかけの本があった。録りためたドラマがあった。せめて午前中くらいは、ぼんやり過ごしたかった。
「ねえ、どこか行こうよ」
息子の孝太が居間に転がり込んできたのは、八時を少し過ぎたころだった。パジャマのまま、両腕で膝を抱えて上目遣いに見てくる。
この顔を見ると、断りにくいのがわかっていてやっているのかと思う。小学二年生、まだ七歳のくせに、なかなか食えない。
「どこって、どこに行くんだ」
「うーん」と孝太は首をかしげ、「じゃあ、牧場」と言った。
車で行けばものの二十分だが、孝太は自転車で行くと言い張った。川沿いに走れば行けなくもない。
「結構遠いぞ」
「行けるよ!」
「途中でつかれたって言っても、自分で自転車こがないと行けないよ」
「言わないよ!!」
押し問答の末、自転車で行くことに決まった。こちらの負けである。
****
川沿いのサイクリングロードは、南風が強かった。
南へ下る川に沿って走るため、ほぼ真正面から風を受ける。
孝太は自分の自転車を漕ぎながら、それでも「鳥がいた!」「あっちに釣りしてる人がいる」と、ひっきりなしに声をあげた。
子供の体力というのは不思議なもので、向かい風など気にした様子もない。
こちらはハンドルに力を込め、黙々とペダルを踏むが、思いのほか体力を消耗している。
「孝太、少し休もう」
「つかれたの、パパ?」
自分より先に音を上げるのが面白いのか、ニヤニヤしている。
しかし、それほど悪い気分でもなかった。風が顔に当たり気持ちがいい。空は高く、薄い雲が流れていた。
牧場に着くと、孝太は柵越しに牛を眺め、しばらく動かなかった。
飽きると、ショップに走っていく。ジェラートのケースに張りついて、真剣な顔でフレーバーを選ぶ。ミルクと、いちごと、二種類盛りにするかで五分ほど悩んで、結局二種類にした。当然である。
屋外のベンチに並んで座り、ジェラートを食べた。
孝太はミルクから先に食べた。次にいちごを食べ、「うまい」と言って足をぶらぶらさせた。
ベンチの高さが孝太にはまだ少し高く、足が地面に届かない。その足が、子供らしくリズムを刻んでいる。
ポケットからスマートフォンを取り出し、ジェラートを持つ孝太を撮った。ミルクといちごの二色が、午後の光の中でやわらかく光っている。
妻に送ると、しばらくして既読がついた。《かわいい》というスタンプと一緒に、《ありがとう、助かる。帰ったらお米炊飯器にかけておいてくれると嬉しい。あとお風呂、早めに入れて》と返ってきた。
思わず苦笑する。写真へのコメントより指令のほうが長い。とはいえ文句を言う気にもならなかった。
こうして二人で回しているのだと、改めて思う。孝太のそばで、自分なりにやっていくしかない。
こういうものを見ると、ふと時間の不思議を感じる。孝太が生まれたのは、つい最近のことのように思える。なのに、もうジェラートを自分で選んで、自分の言葉で「うまい」と言う。気づかないうちに、いろんなことができるようになっていた。
****
帰りは、来た道を戻った。
川の流れに沿って吹く風が、背中から押してくるのがわかる。行きとは別の川を走っているようだった。
孝太がぐんぐん前に出る。こちらも自然と速度が上がる。ペダルを踏むというより、踏まれているような感覚だった。
「パパ、速い速い」と孝太が笑いながら振り返った。
そうだな、と思った。
風が、背中にある。
しばらく走って、孝太が前を向いたまま言った。
「今日、楽しかった。また来ようね」
また、という言葉が耳に残った。孝太にとってそれは、何でもない一言なのだろう。
今日が楽しければ、また来ればいい。それだけのことだ。
だが、先のことを、損得を、体力の衰えを、気づけばそういうことばかり考えるようになっていた身には、眩しすぎる。
「また来よう」と、風の中で答えた。
孝太の背中が、追い風に乗って、少し前へ出た。
4/30/2026, 5:42:49 AM