〈生きる意味〉
最近、誰かに見られている気がする。
そう思うようになったのは、たぶん冬が終わりかけた頃だ。
もちろん、誰もいない。
放課後の教室でひとり机に突っ伏していても、帰り道の駅で電車を待っていても、家の自室で天井を眺めていても、視界の端に《何か》が揺れるだけだ。
気のせいだと分かっている。分かっているのに、胸の奥がざわつく。
俺は、生きる意味を見失っていた。
部活もやめ、友達とも距離ができ、家では最低限の会話しかしない。
朝起きて学校へ行き、授業を受け、帰って寝る。その繰り返しに、何の価値があるのか分からなかった。
そんなある日、教室の窓際でぼんやり外を眺めていると、ふと空気が揺れた。
風でもない。気温の変化でもない。
ただ、誰かがすぐそばを通り抜けたような、そんな気配。
視線を落とすと、窓の外の塀の上に、黒い猫が一匹座っていた。
こちらをまっすぐに見ている。まばたきもせず、ただじっと。
目が合った、と思った瞬間、猫はゆっくりと視線を逸らし、塀の向こうに消えた。
「……またかよ」
思わずつぶやいた声は、誰にも届かない。
俺は自分の頭がおかしくなったのだと思った。
でも、その《気配》は、俺が死にたいほど落ち込んでいるときほど強くなる。
まるで、誰かが近くで息を潜めているみたいに。
ある夜、布団に潜りながら、俺は天井を見つめていた。
今日も何もできなかった。
何も変わらなかった。
生きている意味なんて、やっぱり分からない。
そのとき、部屋の隅で空気がふっと揺れた。
見えないけれど、確かに《誰か》がそこにいる気がした。
「……誰なんだよ」
返事はない。
でも、返事がないことが、逆に自然に思えた。
もし本当に誰かがいるとしても、俺に声をかける理由なんてない。
ただ、その沈黙はどこか、俺から目を離すまいとしているような、そんな重さを帯びていた。
翌日、学校の帰り道。
踏切の警報が鳴り、赤いライトが点滅する。
線路の向こう側に沈む夕陽が、やけに眩しかった。
ふと、線路に足を踏み出したらどうなるだろう、と考えた。
電車はすぐそこまで来ている。終わらせるのは簡単だ。
誰にも迷惑をかけないように見える場所を選んだつもりだった。
そのとき、足元で何かが鳴いた。
見ると、踏切の脇の草むらに、黒い猫がいた。
こちらを見上げて、もう一度、短く鳴く。
教室の窓から消えた、あの猫と同じ目をしていた。
金色の、底の見えない目。
その瞬間、背中を強く引かれた気がした。
実際には誰もいない。
でも、確かに《何か》が俺を止めた。
まるで、《ここで終わられては困る》と言いたげな、強い意志のようなものが。
「……っ!」
電車が轟音を立てて通り過ぎる。
風圧で髪が乱れ、膝が震えた。
気づくと、黒猫の姿はもうなかった。
俺は線路から離れ、しばらくその場に立ち尽くした。
あれは、何だったんだ。
気のせいで片づけるには、あまりにも《確か》な気配だった。
その夜、布団の中で、俺は小さくつぶやいた。
「……生きてていいのか、俺」
返事はない。
でも、部屋の空気がわずかに温かくなった気がした。
まるで、《いいに決まっている》と、誰かが鼻を鳴らしたような。
それからだ。
俺は少しずつ、日常の中に小さな意味を見つけ始めた。
朝の光がきれいだと思ったり、クラスメイトの笑い声が心地よく聞こえたり、コンビニの新作パンがうまかったり。
そんな些細なことが、なぜか胸に残るようになった。
《気配》は相変わらずそばにいる。
でも、前より怖くない。
むしろ、見守られているような安心感すらあった。
ある日の放課後、夕陽の差し込む教室で、俺はふと思った。
──もしかして、未来の俺が誰かを救うのかもしれない。
──だから今、誰かが俺を救ってくれているのかもしれない。
根拠なんてない。
でも、そう考えると胸が少しだけ軽くなった。
窓の外の塀に、また黒い猫が座っていた。
今度は、こちらをちらりと一瞥してから、ゆったりと目を細めた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉か分からない。
でも、教室の空気がふっと揺れた。
その揺れは、まるで「聞こえているよ」と言っているようだった。
俺はまだ、生きる意味を完全に見つけたわけじゃない。
でも、探してみようと思える。
誰かが見守ってくれている気がするから。
未来のどこかで、俺が誰かを救う日が来るのなら──
その未来を、ちゃんと迎えに行きたい。
あの金色の目が、それを知っているような気がした。
4/28/2026, 7:49:45 AM