〈刹那〉
また、目が覚めた。
時計を見ると、午前二時を少し回ったところだ。カーテンの隙間から、街灯の薄い光が斜めに差し込んでいる。
暗闇から夫の寝息が聞こえる。規則正しい、穏やかな音。それが今夜はやけに遠くに感じられた。
体が重く、自分の心臓の音が頭に響く。
この状態はもう何ヶ月も続いていた。
午前中から肩が張って、昼を過ぎると頭の芯がじんと痺れるような感覚が来る。
締め切りと、報告書と、部下への返信と。仕事を終えても今度は家のことが待っている。
子どもたちが独立して夫婦二人になっても、私が楽になったわけではなかった。
先週、後輩の女の子に「係長って、いつ休んでるんですか」と聞かれた。笑って誤魔化したけれど、帰りの電車の中でその言葉がずっと頭の中をぐるぐるしていた。
──私はいつ休んでいるのだろう。
夜中に目が覚めて天井を見ているこの瞬間も、何かを考え続けている。
起き上がるのも億劫で、しばらく横になったまま闇を見ていた。波のように押し寄せる熱感と、胸の奥の鈍い動悸。
婦人科では「更年期の症状ですね」とさらりと言われた。そうですか、と答えながら、私はなぜか少し泣きたくなった。
病気ではない。異常ではない。ただ、年齢というものに、現実を思い知らされただけだ。
寝返りを打ち、頬に当たる枕の冷たさに息をつく。
ふいに、思い出した。
大学二年の初夏のことだ。
同じゼミに、田辺という男がいた。
特別に目立つわけでも、よく喋るわけでもなかった。ただ、人の話を聞くとき、少し伏し目がちになって、静かに頷く癖があった。
それだけのことなのに、私はいつの間にかゼミの日が近づくと、着ていく服のことを考えるようになっていた。
六月の終わりだったと思う。図書館の閲覧室で、偶然隣り合わせになった。お互い黙って本を読んでいたけれど、私が参考文献を棚に戻しに立とうとした瞬間、彼も同じタイミングで立ち上がって、肩が、触れた。
本当に、ほんの一瞬のことだった。
「あ、すみません」と私が言って、「いえ」と彼が言った。それだけだ。
それだけなのに、自分の席に戻ったあと、ページを繰る手が少し震えていた。胸の中心に、火が灯ったような感覚があった。あんな感覚は、後にも先にも、あのときだけだったと思う。
田辺とは、それ以上何もなかった。ゼミが終われば接点はなくなり、卒業式で遠くに姿を見かけたのが最後だった。
名前を呼んだわけでも、連絡先を聞いたわけでもない。告白も、約束も、何も。
それなのに、あの肩の感触だけが、二十五年経った今も、消えずにいる。
《刹那》という言葉の意味を、私はあの瞬間に体で覚えたのだと思う。
一瞬が、永遠よりも長く感じられることがある。世界がその一点に凝縮されて、私の心臓だけがひどく速く動いていた。
あの図書館の、夏が始まる少し湿っぽい空気の匂いまで、今でも鮮やかに思い出せる。
今の私に、あんな瞬間がどこにあるだろう。
月曜の朝から上司の顔色を読み、チームの数字を気にして、昼休みも席で弁当を食べながらメールを返す。
家に帰れば今度は別の役割が待っていて、私はずっと誰かの何かであり続けて、自分がただの《私》でいられる時間が、どこにもない。
体は悲鳴を上げているのに、立ち止まる場所が見当たらない。そのうちに感情は鈍化し、胸が熱くなるという感覚そのものを、どこかに置き忘れてきてしまった。
暗い天井を見ながら、私はそっと目を閉じた。
彼の横顔を思い浮かべる。伏し目がちになるときの、静かな目。
偶然触れた、肩のぬくもり。あの一瞬に確かにあった、息が止まるような感覚。
──あれは恋だったのだろうか。
きっと、そうだった。形になる前に消えてしまったけれど、形にならなかったからこそ、純粋なまま残っている。傷つかなかった分だけ、あの刹那は今も光ったままでいる。
思い出の中の彼は、あの夏の午後の光の中に、ずっとそのままの顔で立っている。
夫の寝息が、遠くで続いている。
私はそっと、布団を引き上げた。肩まで包まって、目を閉じたまま、あの閲覧室の中に戻る。
窓の外で揺れていた青葉。冷房の効き始めた、少し肌寒い空気。そして、触れた肩のぬくもり。
この闇の中だけでいい。
誰にも言わない、誰にも見せない、この胸の奥の小さな灯。
明日になればまた、報告書と上司の顔と、帰りの重い足と向き合うことになるとしても。今夜だけは、あの刹那を抱いたまま眠ろう。
それでいい。
それでいいから、今夜だけは。
4/29/2026, 3:03:31 AM