〈夜空を越えて〉
十年という時間は、記憶の輪郭を少しずつ曖昧にしていく──はずだった。
けれど、彼女が描いたあの絵だけは違う。黄金色の夜明けが海岸線を染め、波の先にほんのり薄桃色が混じる。
どれだけ時が経っても、記憶の中で鮮やかに色づいている。
それを大学の美術棟で初めて見たとき、自分の人生のどこかを照らす灯りを見つけたように感じた。
「私の故郷の海なの。
朝日が昇ると、世界が一度あたらしくやり直せる気がするんだ」
そう言った彼女は、少し照れくさそうに笑っていた。彼女の笑顔は、絵の中の光と同じくらい眩しかった。
あれから何年かが経ち、同じ時を過ごすうちに、このまま彼女がそばにいてくれると思っていた。
「結婚しよう」
俺がそう言ったとき、彼女は少し困ったような顔をした。
「ちょっと実家に帰るね」
それは一時的なものだと思っていた。
だけど、彼女は戻ってこなかった。仕事に追われる日々の中で、俺は彼女の変化に気づけなかった。疲れた表情も、徐々に減っていった笑顔も。
同じ時を過ごしていたはずなのに、彼女の心がどこを向いているか、いつの間にか分からなくなっていた。
そして、決定的なメッセージが来る。
「ごめんなさい、戻れません」
ずっと、都会の生活が息苦しかった……と。
その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが崩れたのに、仕事に追われていた俺は引き留め方も分らからなかった。
連絡は途絶えた。俺も臆病で、追いかける勇気がなかった。
──
季節が巡り、十年が過ぎた。
ある日、出張帰りに立ち寄った駅の観光イベントで、見覚えのある色が目を奪った。
黄金色に染まる海岸の巨大ポスター。
彼女が描いたあの絵と同じ色。
その場で、使っていなかったメッセージアプリを開いた。彼女のアカウントはまだ残っていた。
震える指でポスターの写真を送信する。
「これ、君の故郷だよね?」
送信ボタンを押した直後、一瞬「大丈夫か?」と自問する。あれから相当の時が経ったのだ。もう、別の人生を歩んでいても不思議はない。
削除しようかと思った瞬間、既読のマークがつく。
まだ彼女との繋がりは断たれてはいない。それだけで胸が熱くなった。
夜。
スマホが震えた。画面には、十年ぶりに見る彼女の名前。
出ると、聞き覚えのあるイントネーションで、俺の名を呼ぶ彼女の声が流れてくる。
「……一方的に別れちゃったから、私のアドレスなんか消したと思ってた」
懐かしい響き。少し笑ったような声は少し大人びて、少し疲れて、けれどあの頃と同じ温度を宿していた。
彼女は訥々と今の状況を語る。
父が倒れ、母が弱り、故郷で事務職をしながら両親を看取ったこと。
空いた時間で子どもたちに絵を教えていること。
言葉の途中で、電話の向こうがふっと静かになった。
「あの頃は、都会が怖くなっちゃって。
自分が何者なのかわからなくなって」
「今は……独り?」
俺の質問に、うん、と答えた彼女もまた聞いてくる。
「あなたは?」
「ずっと独りだよ」
ふふ、と安堵したような笑い声が小さく聞こえる。
「電話かけたとき、奥さんいたらどうしようかと思ってた」
「いたらメッセージも送っていないよ」
互いに笑ったあと、彼女がポツリと呟いた。
「会いたいなぁ……」
小さく漏れたその声は、涙に濡れているように聞こえた。
「また連絡するね」と、電話が切れた。
部屋に静寂が戻る。俺はしばらくその場に立ち尽くした。
でも、じっとしていることができなかった。
──会いに行こう。
衝動とも覚悟ともつかない気持ちに背中を押され、財布と鍵をつかんで部屋を飛び出した。
夜風が頬に冷たく、靴の底がアスファルトを強く叩いた。
エンジンをかけ、高速道路に乗る。カーナビには到着まで五時間と表示されている。
街の明かりが背後に遠ざかると、フロントガラスの向こうには果ての見えない闇が広がる。
暗闇の中、道路を照らすオレンジ色のライトは滑走路の誘導灯のようだ。その光が夜空に反射して、まるで淡いオーロラのように揺れ闇に溶けていく。
──夜空を越えて、俺は彼女のもとへ向かっている。
夜明け前、彼女が絵に描いた海岸に着いた。空の端が、かすかに白む。
エンジンを止めると、潮の匂いが窓からそっと入り込んでくる。
やがて、東の空がゆっくりと金色に染まり始めた。彼女の絵で見たあの光景が、目の前に広がっていく。
十年前、あの絵に魅せられたときと同じ感覚が戻ってきた。
《一度あたらしくやり直せる気がする》
彼女が言っていた言葉が、波に乗って耳に届くようだった。
どんな言葉を伝えようか。謝罪か、感謝か、それとも──
きっと何を言っても、十年分の言葉は足りない。それでも、伝えなければならないことがある。
ポケットからスマホを取り出す。彼女に電話をかけようとして、ふと顔を上げる。
堤防の向こう側、少し離れた場所に人影が見えた。懐かしいシルエットの女性が、こちらを見ていた。
俺たちの間に、黄金色の朝日が降り注いでいる。
──────
スターダスト☆レビューさんのシングルに「Northern Lights -輝く君に-」という曲があります。タイヤのコマーシャルソングにもなってました。
発売当時、初めて曲を聴いた時に、こんなお話が書けるかな……と暖めていたネタになります。
……発売から、干支3周りしてた……ちょっと気絶してきます(
〈ぬくもりの記憶〉
冬になると、膝の上が妙に寂しい。
寒さが本格的になるにつれ、どうしても思い出してしまう。膝の上に乗った、あの小さな重みのことを。
小学生の頃から一緒に暮らしていた猫が亡くなって、もう二年が経つ。
白い毛並みで、ところどころにココアパウダーを振ったみたいな茶色が混ざっていた。
母は少し気取って、ミルクの意味だと言いながら「ミルヒ」と名付けたけれど、結局みんな「みーこ」と呼んでいた。「小川ミルヒさん」とフルネームで呼んでくれるのは動物病院ぐらいだ。
性格なのか、みーこはどこか人間くさかった。
テレビの天気予報(正確には天気図を指す指示棒)が好きで、時間になるとチャンネルを変えろと言う。
母の肩に軽々と乗っては台所でご飯の催促をする。
おやつの袋が置いてある場所を正確に把握していて、じっと見上げて無言の圧をかける。そしてそれに負けておやつをあげてしまうのが父だ。
自分を猫だと思っていないんじゃないかと、本気で思うことがあった。
受験勉強をしていた頃、私の部屋にはいつもみーこがいた。
机に向かうと、当然のように膝の上に丸まり、動かそうとすると不満げにしっぽを揺らす。
夜が更けてくると、今度はベッドに移動して、こちらを振り返りながら鳴く。
「もう十分でしょう、早く寝なさい」と言っているみたいだった。
落ち込んでいるときも、みーこは何も聞かない。ただ隣に座り、体温を分けるようにして寄り添ってくれた。賢い猫だったと思う。
だからこそ、いなくなったあと、家の中が妙に広く感じた。
冬が来るたび、膝の上に何もないことが、ひどく寂しい。 あの小さなぬくもりが、とても懐かしい。
みーこのぬくもりを思い出すと、胸の奥が冷えびえとする。
ある日、リビングで母とお茶を飲みながら、そんな話をした。母も同じ気持ちらしい。
「よくしゃべる子だったからねえ。
なんだか、灯りが消えたみたいで」
そう言って、母は少し笑った。寂しさを隠すための笑い方だった。私よりもずっと長く一緒にいたのだから、母のほうが辛いのかもしれない。
「もし、またご縁があったらさ」
私は慎重に言葉を選んだ。
「保護猫とか……うちに来てもいいよ、って思ってくれる子がいたら、迎えてもいいんじゃない?」
母はすぐには答えず、湯のみを両手で包んだまま、黙っていた。
──そんな中で、父がやらかした。
ある日の夕方、父が小さな箱を抱えて帰宅した。箱の中にはふわふわの影があった。茶色とクリーム色が混ざったような毛並みの子猫だ。
半月ほど前から、会社の近所で見かけていたらしい。
親とはぐれた様子で、会社の人たちも気になっていたようだ。
声をかけると鳴いたのだと、父は得意げに言う。
「うちの子になるか、って聞いたら、返事したんだ」
「あなた、そんな勝手に!」
母は当然怒った。
突然すぎる、心の準備ができていない、そんな言葉を並べながらも、手はもうタオルや段ボールを探している。見ていて、少し笑ってしまった。
私は子猫用のフードを買いに出かけながら、「ああ、これはもう飼うんだろうな」と苦笑した。
念のため、会社の近くには「子猫保護しています」とポスターを貼る。
獣医に連れて行き、検査はすべて異常なし。予防接種もして、正式に家族になった。
母はまたドイツ語絡みで名前を考えていた。
「クーヘンがいいわ」
ケーキみたいな色の毛並みだから、まあ、合ってる。
結局は「クーちゃん」で落ち着くんだけど。
クーちゃんはまだ小さいのに、もう何年もここにいたみたいな顔をしている。
テレビの天気予報を父と一緒に見て、新聞のチラシを眺める母の横で、広告の品に手を出す。
母にはご飯を、父にはおやつをねだる。その様子は、どこかみーこに似ていた。
今、クーちゃんは私の膝の上で丸まって寝ている。まだ軽い。
でもすぐに大きくなるんだろう。この家に来て、幸せって思ってくれるかな。
クーちゃんの小さな体をなでながら、そんなことを考える。あったかい。
みーこの温かさとはまた違う、この小さなぬくもりが、私たちのそばにある。
みーこがいなくなった寂しさは、消えない。
でも、この子がくれるぬくもりは、新しい記憶になっていく。
みーこの思い出と共に、これからたくさんの思い出を作っていくんだろう。
くぁ、とクーちゃんが小さなあくびをする。
その重みを感じながら、私は窓の外を見た。冬の陽射しが、部屋を優しく照らしていた。
──────
みーこさんが「今度はこの柄にしたのよ」と言ってる雰囲気で。
実家では、何代も同じ柄の猫がいます。(みな顔が似てるので、私の相方は何十年も同じ猫だと思っています)
先代猫が毛皮を着替えず、そのまま来てるのでは説が有力です。
〈凍える指先〉
彼女の指先は、いつも冷たかった。
付き合い始めて間もない頃、俺は駅前の待ち合わせ場所に十五分も遅れてしまった。予想以上の混雑で電車が遅れたのだ。
息を切らしながら改札を出ると、コートの襟を立てた風美(ふみ)が待っていた。
「結構待った?」
「寒かった」
彼女は少し口をとがらせる。
「カフェで温かいもの飲もうか」
慌てて店を探そうとする俺の頬に彼女は少し背伸びをし、手を当てた。
「あったかい」
彼女は微笑んだ。その笑顔に、俺の心臓は過去最高の心拍数を叩き出す。
初めて握った彼女の手はひんやりと冷たかった。
それからというもの、冬のデートでは彼女が俺の頬に手を当てるのが定番になった。
ある時なんて、背後から不意打ちのように触ってきたものだから、俺は情けない声を上げてしまった。
「陽介さんはいつも温かいんだもの、こうして温まるのが一番」
風美はあの笑顔で、俺の驚く様子を心から楽しんでいた。
──
あれからいくつかの冬が過ぎた。
「俺、今日は直帰だから迎えに行くよ。慌てないでいいよ」
通話を終えた頃に、保育園に着く。
「パパー!」
門をくぐると、娘の風花が駆け寄ってきた。外遊びをしていたのだろう、ほっぺたが赤く染まっている。そして──
「つめたい!」
風花の小さな手が、しゃがむ俺の頬に押し当てられた。
『同じ笑顔なんだよなぁ』
目を細めて俺を見上げる風花の表情は、あの日の風美にそっくりで、俺は思わず苦笑した。
「手袋してなかったから冷たいでしょう」
担任の先生が申し訳なさそうに言う。
「ママもこうしておててあたためるのよ」
風花が得意げに説明すると、先生は「あらあら、なかよしさんなのね」と微笑んだ。
俺は少し照れくさくなって、風花の頭を撫でた。
風花と手をつなぎ、商店街に向かう。さすが子供だ、風花の手はすっかりぽかぽかに温まっている。
「パパ、ママまだ?」
「もうすぐ来るよ」
そう言った矢先、スーツ姿の風美が小走りでやってきた。
「お待たせ」
風美は息を整えると、いつものように俺の頬に手を当てた。やっぱり冷たい。
あの頃と何も変わらない。
「やっぱりパパとママ、なかよしさんなのね」
わかってるのかどうか、風花がさっきの先生の言葉を繰り返す。
「そうよ、なかよしさんじゃないと触って驚かせたらダメよ」
そう言った後、笑う風美。
ああ、この笑顔が俺の心を温めてくれている。
俺は風花を片腕で抱き上げ、空いた手で風美の手を握った。あの日と同じ冷たさの手に、俺の手の熱がゆっくりと伝わっていく。
じんわりと温かくなる彼女の手を握りしめながら、三人で家路についた。
冬の夕暮れは早い。街灯が灯り始めた商店街を歩きながら、俺は思う。
これからも毎年、この凍える指先を温め続けていくのだろう。そしてきっと風花も、いつか大切な誰かの頬に手を当てて、あの笑顔を見せるのだろう。
風美の手は、もうすっかり温まっていた。
──────
名字は南野さんです。風美さんの旧姓は北沢さんです。
名前考えるの苦手なので、こんな感じの名付けが多いです。
書いたものも増えてきたので、そろそろデータベース作らないとですな(´・ω・`)
〈雪原の先へ〉
大学の図書館で文献を探していたとき、中学の同級生だった女子に声をかけられた。
久しぶり、元気にしてた?
そんな他愛もない会話のあとで、彼女は少し躊躇うように言った。
「そういえば、覚えてるかな。鈴木将晴くん」
もちろん覚えている。小学校から中学まで同じクラスだった。
「あの子、亡くなったんだって」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
特別親しかったわけじゃない。でも、同い年の友達がもうこの世界にいないということが、俺の中で何かを揺さぶっていた。
──
その夜、眠れなくて、小学生の頃のことを思い出していた。
図書館で本を探していると、将晴がよく話しかけてきた。
彼は写真集が好きで、大きな画集を熱心に眺めていた。本好きの俺も図書館の常連で、将晴は時々「この構図すごくない?」と解説してくれた。
おじさんのお下がりだという、少し古ぼけたデジカメで、いろんなものを撮影していた。
ある冬の日、将晴が唐突に言った。
「西の峰の手前に、開けてるところあるだろ?
雪が降った翌朝、朝日が一面の雪と西の峰に反射してすごくきれいなんだぜ」
なぜあの時、彼はそんな話をしたのだろう。
俺は「へえ」とだけ答えて、それ以上聞かなかった。
中学を卒業してから、彼とは別の高校に進んだ。たまに駅で見かける程度で、もう話すこともなかった。
それだけの関係だった。
──
年末、雪が降り始めた日に帰郷した。久しぶりに食卓を囲んで、母が言った。
「そういえば、鈴木さんちの将晴くん、亡くなったのよ」
「……知ってる」
「あの子の家も大変だったのよ」
母の話で初めて知った。
将晴を残して、母親と弟たちが家を出て行ったこと。高校を中退して、働いていたこと。
「お葬式も身内だけで済ませて、父親も出て行っちゃって。
……お墓も何もわからないのよ」
母は小さくため息をついた。
翌朝、まだ夜が明け切らないうちに目が覚めた。外を見ると、雪が積もっていた。
気づくと、俺はコートを羽織って外に出ていた。
雪に覆われた山道を歩く。息が白く凍る。
将晴が見せたかった景色はどんなものだったのか。自分が将晴のことを忘れてしまったら、将晴の存在がなかったことになる気がした。
道を上がりきった、開けた場所。
右手に西の峰が見え、左の山の端から朝日が差し始めた。
それまで青みがかった影で埋められていた木々が、次々と光を浴びていく。西の峰が黄金色に染まる。雪原が光を反射して、世界全体が輝き出す。まるで一枚の絵画のような光景だった。
眩い光の中、一瞬、小学生の将晴が見えた気がした。
古ぼけたデジカメを首から下げて、ファインダーを覗き込んでいる。あの頃と同じ、少し誇らしげな笑顔で。
『すごく、きれいだろ?』
彼の声が聞こえた気がした。
まぶしすぎて、何も見えない。いつの間にか、涙が頬を伝っていた。
あの時、俺が「今度一緒に見に行こうよ」と言っていたら。もっと彼の話を聞いていたら。何か変わっただろうか。
でも、今ここにいる。将晴が見せたかった景色を、俺は見ている。
ポケットからスマホを取り出して、震える手でシャッターを切った。
将晴、お前が見せたかったもの、ちゃんと見たよ。
雪原の向こうから、風が吹いてきた。
──
東京に戻る前日、俺は町の図書館に立ち寄った。小学生の頃から通い慣れた場所。
カウンターには、あの頃と変わらず司書の北村先生がいた。
「則孝くん、久しぶりね。大学生活はどう?」
先生と少し話をしてから、俺は小学生の頃よく座っていた窓際の席に向かった。
ここで本を読んでいると、将晴が写真集を抱えてやってきたんだ。
ふと、壁に飾られた一枚のパネルに目が留まった。
雪原と、黄金色に輝く西の峰。見覚えがある。あの朝、俺が見た景色だ。
でも、俺が撮った写真とは明らかに違う。構図が、光の捉え方が、まるで絵画のように計算されている。
「綺麗でしょう?」
いつの間にか、北村先生が隣に立っていた。
「これ……」
「返却された写真集に、メモリーカードが挟まっていたのよ。
もう何年も取りに来る人がいないから、悪いけどデータを見させてもらったの。
10年近く前のデータだけど、どれも本当に綺麗な写真ばかりでね」
胸が苦しくなった。
「こうしてパネルにすれば、いつか本人が見に来るかもしれないと思って」
「これ……鈴木将晴の写真です」
先生の顔が曇った。
「将晴くん……
そう、よくここで写真集を見ていたわね。彼が撮ったの?」
「たぶん」
先生は目を伏せて、小さく息を吐いた。
「……そうだったの」
しばらく沈黙が続いた。
「先生、将晴のお母さんの連絡先、調べられませんか?」
北村先生は少し考えてから、頷いた。
「将晴くんの撮ったものならお母さんに返したいわよね……
……将晴くん、おじさんからもらったデジカメだってよく自慢してたわよね?」
そうだ、あの頃の将晴は俺の前でもカメラを操作して見せていた。
「パネル作ってくれたカメラ屋の斎藤さんなら、将晴くんのおじさんの連絡先知ってるかもね。カメラ仲間で」
先生は名探偵のように思慮深く、推理をまとめていた。
──
数日後、東京に戻ってから、母から電話があった。
北村先生は町のネットワークを駆使して、将晴のおじさんと連絡を取ってくれたらしい。
「将晴くんのおじさんが図書館に来たんだって。
メモリーカードを受け取って、すごく喜んでたらしいわよ。お母さんに渡すって
あなたにもお礼を言ってくれって」
良かった、と思った。将晴が撮った写真が、家族のもとに戻る。
「それでね、おじさんが言ったんだって。
『この写真は、ここに飾っておいてください』って。
図書館は将晴くんが一番好きだった場所だから、ここに残してあげたいって」
受話器を握る手に、力が入った。
──
ゴールデンウイークに帰郷したとき、俺はまた図書館を訪れた。
正月に訪れたときと違い、たくさんの子供たちが図書館にいる。
「デジカメ講座やってるのよ。将晴くんのおじさんと、カメラ屋さんがボランティアでね」
北村先生がにこやかに話す。
デジカメに限らず、スマホで何を撮るか、どう撮ったらいいのか。
ちびっ子カメラマンたちはふざけることもなく、真剣に話を聞いている。
「小学生でも極めれば、あんなすごい写真が撮れるのよ、てね」
視線の先には、あの雪原のパネル。
その下に、小さな真鍮のプレートが取り付けられていた。
【撮影:鈴木将晴】
写真の中の雪原は、永遠にあの朝の輝きを湛えている。西の峰が黄金色に染まり、世界が光に満ちている。
将晴が見た美しいもの、残したかったもの。それがここにある。
きっとこれから何年も、何十年も、この写真を見る人がいる。将晴のことを知らない人たちが、この光景に心を動かされる。
雪原の先。
将晴が確かに生きて、この世界の美しさを愛した証がそこにあった。
──────
デジカメを使い始めて四半世紀になりますが、年代ものでも捨てがたい……どうしましょうね。
私は図書館に入り浸っていた派なので、学校の司書の先生とはよく話していました。
20年経ってお会いする機会がありましたが、あの頃よく読んでいたシリーズを覚えていてくださいましたね……
その先生のお名前をお借りしました。イメージは市川実日子さんです。
〈白い吐息〉
テレビの画面に映し出される工業地帯の夜景が、まるで宝石箱をひっくり返したように煌めいている。
「わあ、きれい」
リビングのソファで編み物をしていた手を止めて、ふと顔を上げた。
五十七歳。最近は老眼鏡が手放せなくなり、白髪染めの頻度も増えた。
それでも、テレビに映るあの光景を見ていると、不思議と懐かしさがこみ上げてくる。
工場の煙突から立ち上る白い煙。水面に映り込む無数の光。ああ、そういえば──
「ねえ、覚えてる?
付き合ってた頃、よく湾岸線走ったよね」
隣でスマートフォンをいじっていた夫が、ちらりとこちらを見た。
「ああ、行ったな」
短い返事。でも、その声には確かに共有する記憶が含まれていた。
あれは四十年近く前のこと。お台場なんてまだ埋め立て地で、今では当たり前のようにそびえ立つ「あのテレビ局」も、球体の影も形もなかった頃。
バブル全盛期、友達は華やかなレストランや夜景バーでのデート話に花を咲かせていたけれど、私にはそんな経験はなかった。
あの頃の彼と過ごした時間といえば、夜のドライブ。
埠頭で夜景を眺めて、缶コーヒーを飲んで帰ってくる。車だからアルコールもなし。ただそれだけ。
「お母さんたち、昔どんなデートしてたの?」
娘がキッチンから顔を出して聞いてくる。私は編み物を膝に置いた。なんだか少し照れくさい。
「うーん、デートって言ってもね。
夜に車で湾岸線走って、工場地帯の夜景見て帰ってくるくらいかな」
「え、それだけ?」
娘が目を丸くする。
「それだけ」
「冬とか寒くない?
てか、何が楽しいの?」
「寒かったよ。でも、楽しかった」
娘はソファに座り込んで、信じられないというように首を傾げた。
「で、そこから結婚まで?
よく結婚したね、お母さん」
半ば呆れたような娘の言葉に、私は苦笑した。
確かにそうかもしれない。煌びやかさとは無縁のデートだった。
「自分が好きな場所は、好きな人にも見てもらいたいだろう」
ぼそりと、夫が呟いた。
スマートフォンから目を離さないまま、でもその声には確かな想いが込められていた。気持ちがふわりと温かくなる。
そうだった。あの時間が、本当に好きだった。
窓の外を流れていく街の灯り。埠頭に停めた車から見た、水面に揺れる光の粒。
缶コーヒーの温もりを手のひらで感じながら、他愛のない話をした。将来のこと、音楽のこと、好きな映画のこと。
息が白く凍るような冬の夜空、白い吐息がまるでマンガの吹き出しみたいで、私たちの会話も宙に浮かんでいた。
思い出すと、自然と笑みがこぼれる。
「はー。ノロケますか、今さら」
娘が笑いながら言う。
「……行くか、ドライブ」
夫が呟いた。
「え?」
「あの埠頭まで行かなくてもいい。
高台の公園あるだろう、あそこから夜景見えるし」
その言葉に胸が高鳴る。編み物を脇に置いて、立ち上がった。
「本当? 今から行く?」
「行くって言ってるだろう」
どのCDかけようか。あの頃よく聴いていた曲、まだ残ってるかな。
コートを羽織りながら少し浮き足立つ自分に気づいて、私はくすりと笑った。
「いってらっしゃい」
娘が呆れたように手を振る。
玄関で靴を履きながら、ふと思う。
時が流れて、髪も白くなって、起きると体のどこかが痛むようになって。それでも変わらないものがある。
きっと今夜も、私たちの吐息は白く凍る。
そしてそれはあの時と同じように、言葉にならない想いを乗せて夜空に溶けていくのだろう。
「行こうか」
夫が車のキーを手に、ドアを開けた。
冷たい夜の空気が頬を撫でる。私は深く息を吸い込んで、白い吐息を見つめた。
──ああ、やっぱり冬の夜は、こうでなくちゃ。
──────
今回、脳内でヘビーローテーションしてたユーミンの「埠頭を渡る風」は50年以上昔、もっと叙情的な印象ですね。
今は夜運転するのが怖いお年頃。首都高なんて走れないだろうなぁ……