汀月透子

Open App

〈白い吐息〉

 テレビの画面に映し出される工業地帯の夜景が、まるで宝石箱をひっくり返したように煌めいている。

「わあ、きれい」

 リビングのソファで編み物をしていた手を止めて、ふと顔を上げた。
 五十七歳。最近は老眼鏡が手放せなくなり、白髪染めの頻度も増えた。
 それでも、テレビに映るあの光景を見ていると、不思議と懐かしさがこみ上げてくる。

 工場の煙突から立ち上る白い煙。水面に映り込む無数の光。ああ、そういえば──

「ねえ、覚えてる?
 付き合ってた頃、よく湾岸線走ったよね」

 隣でスマートフォンをいじっていた夫が、ちらりとこちらを見た。

「ああ、行ったな」

 短い返事。でも、その声には確かに共有する記憶が含まれていた。

 あれは四十年近く前のこと。お台場なんてまだ埋め立て地で、今では当たり前のようにそびえ立つ「あのテレビ局」も、球体の影も形もなかった頃。
 バブル全盛期、友達は華やかなレストランや夜景バーでのデート話に花を咲かせていたけれど、私にはそんな経験はなかった。

 あの頃の彼と過ごした時間といえば、夜のドライブ。
 埠頭で夜景を眺めて、缶コーヒーを飲んで帰ってくる。車だからアルコールもなし。ただそれだけ。

「お母さんたち、昔どんなデートしてたの?」

 娘がキッチンから顔を出して聞いてくる。私は編み物を膝に置いた。なんだか少し照れくさい。

「うーん、デートって言ってもね。
 夜に車で湾岸線走って、工場地帯の夜景見て帰ってくるくらいかな」
「え、それだけ?」

 娘が目を丸くする。

「それだけ」
「冬とか寒くない?
 てか、何が楽しいの?」
「寒かったよ。でも、楽しかった」

 娘はソファに座り込んで、信じられないというように首を傾げた。

「で、そこから結婚まで?
 よく結婚したね、お母さん」
 半ば呆れたような娘の言葉に、私は苦笑した。
 確かにそうかもしれない。煌びやかさとは無縁のデートだった。

「自分が好きな場所は、好きな人にも見てもらいたいだろう」
 ぼそりと、夫が呟いた。
 スマートフォンから目を離さないまま、でもその声には確かな想いが込められていた。気持ちがふわりと温かくなる。

 そうだった。あの時間が、本当に好きだった。

 窓の外を流れていく街の灯り。埠頭に停めた車から見た、水面に揺れる光の粒。
 缶コーヒーの温もりを手のひらで感じながら、他愛のない話をした。将来のこと、音楽のこと、好きな映画のこと。
 息が白く凍るような冬の夜空、白い吐息がまるでマンガの吹き出しみたいで、私たちの会話も宙に浮かんでいた。

 思い出すと、自然と笑みがこぼれる。

「はー。ノロケますか、今さら」
 娘が笑いながら言う。

「……行くか、ドライブ」
 夫が呟いた。

「え?」
「あの埠頭まで行かなくてもいい。
 高台の公園あるだろう、あそこから夜景見えるし」

 その言葉に胸が高鳴る。編み物を脇に置いて、立ち上がった。

「本当? 今から行く?」
「行くって言ってるだろう」

 どのCDかけようか。あの頃よく聴いていた曲、まだ残ってるかな。
 コートを羽織りながら少し浮き足立つ自分に気づいて、私はくすりと笑った。

「いってらっしゃい」
 娘が呆れたように手を振る。

 玄関で靴を履きながら、ふと思う。
 時が流れて、髪も白くなって、起きると体のどこかが痛むようになって。それでも変わらないものがある。

 きっと今夜も、私たちの吐息は白く凍る。
 そしてそれはあの時と同じように、言葉にならない想いを乗せて夜空に溶けていくのだろう。

「行こうか」

 夫が車のキーを手に、ドアを開けた。
 冷たい夜の空気が頬を撫でる。私は深く息を吸い込んで、白い吐息を見つめた。

──ああ、やっぱり冬の夜は、こうでなくちゃ。



──────

今回、脳内でヘビーローテーションしてたユーミンの「埠頭を渡る風」は50年以上昔、もっと叙情的な印象ですね。
今は夜運転するのが怖いお年頃。首都高なんて走れないだろうなぁ……

12/7/2025, 11:22:27 PM