汀月透子

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〈夜空を越えて〉

 十年という時間は、記憶の輪郭を少しずつ曖昧にしていく──はずだった。

 けれど、彼女が描いたあの絵だけは違う。黄金色の夜明けが海岸線を染め、波の先にほんのり薄桃色が混じる。
 どれだけ時が経っても、記憶の中で鮮やかに色づいている。

 それを大学の美術棟で初めて見たとき、自分の人生のどこかを照らす灯りを見つけたように感じた。

「私の故郷の海なの。
 朝日が昇ると、世界が一度あたらしくやり直せる気がするんだ」

 そう言った彼女は、少し照れくさそうに笑っていた。彼女の笑顔は、絵の中の光と同じくらい眩しかった。

 あれから何年かが経ち、同じ時を過ごすうちに、このまま彼女がそばにいてくれると思っていた。

「結婚しよう」

 俺がそう言ったとき、彼女は少し困ったような顔をした。

「ちょっと実家に帰るね」

 それは一時的なものだと思っていた。
 だけど、彼女は戻ってこなかった。仕事に追われる日々の中で、俺は彼女の変化に気づけなかった。疲れた表情も、徐々に減っていった笑顔も。
 同じ時を過ごしていたはずなのに、彼女の心がどこを向いているか、いつの間にか分からなくなっていた。

 そして、決定的なメッセージが来る。

「ごめんなさい、戻れません」

 ずっと、都会の生活が息苦しかった……と。
 その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが崩れたのに、仕事に追われていた俺は引き留め方も分らからなかった。

 連絡は途絶えた。俺も臆病で、追いかける勇気がなかった。

──

 季節が巡り、十年が過ぎた。

 ある日、出張帰りに立ち寄った駅の観光イベントで、見覚えのある色が目を奪った。
 黄金色に染まる海岸の巨大ポスター。
 彼女が描いたあの絵と同じ色。

 その場で、使っていなかったメッセージアプリを開いた。彼女のアカウントはまだ残っていた。
 震える指でポスターの写真を送信する。

 「これ、君の故郷だよね?」

 送信ボタンを押した直後、一瞬「大丈夫か?」と自問する。あれから相当の時が経ったのだ。もう、別の人生を歩んでいても不思議はない。

 削除しようかと思った瞬間、既読のマークがつく。
 まだ彼女との繋がりは断たれてはいない。それだけで胸が熱くなった。

 夜。
 スマホが震えた。画面には、十年ぶりに見る彼女の名前。
 出ると、聞き覚えのあるイントネーションで、俺の名を呼ぶ彼女の声が流れてくる。

 「……一方的に別れちゃったから、私のアドレスなんか消したと思ってた」

 懐かしい響き。少し笑ったような声は少し大人びて、少し疲れて、けれどあの頃と同じ温度を宿していた。

 彼女は訥々と今の状況を語る。
 父が倒れ、母が弱り、故郷で事務職をしながら両親を看取ったこと。
 空いた時間で子どもたちに絵を教えていること。

 言葉の途中で、電話の向こうがふっと静かになった。

「あの頃は、都会が怖くなっちゃって。
 自分が何者なのかわからなくなって」

「今は……独り?」
 俺の質問に、うん、と答えた彼女もまた聞いてくる。
「あなたは?」
「ずっと独りだよ」

 ふふ、と安堵したような笑い声が小さく聞こえる。
「電話かけたとき、奥さんいたらどうしようかと思ってた」
「いたらメッセージも送っていないよ」

 互いに笑ったあと、彼女がポツリと呟いた。

「会いたいなぁ……」

 小さく漏れたその声は、涙に濡れているように聞こえた。

「また連絡するね」と、電話が切れた。
 部屋に静寂が戻る。俺はしばらくその場に立ち尽くした。
 でも、じっとしていることができなかった。

──会いに行こう。

 衝動とも覚悟ともつかない気持ちに背中を押され、財布と鍵をつかんで部屋を飛び出した。
 夜風が頬に冷たく、靴の底がアスファルトを強く叩いた。

 エンジンをかけ、高速道路に乗る。カーナビには到着まで五時間と表示されている。
 街の明かりが背後に遠ざかると、フロントガラスの向こうには果ての見えない闇が広がる。
 暗闇の中、道路を照らすオレンジ色のライトは滑走路の誘導灯のようだ。その光が夜空に反射して、まるで淡いオーロラのように揺れ闇に溶けていく。

──夜空を越えて、俺は彼女のもとへ向かっている。

 夜明け前、彼女が絵に描いた海岸に着いた。空の端が、かすかに白む。
 エンジンを止めると、潮の匂いが窓からそっと入り込んでくる。

 やがて、東の空がゆっくりと金色に染まり始めた。彼女の絵で見たあの光景が、目の前に広がっていく。
 十年前、あの絵に魅せられたときと同じ感覚が戻ってきた。

《一度あたらしくやり直せる気がする》

 彼女が言っていた言葉が、波に乗って耳に届くようだった。

 どんな言葉を伝えようか。謝罪か、感謝か、それとも──
 きっと何を言っても、十年分の言葉は足りない。それでも、伝えなければならないことがある。

 ポケットからスマホを取り出す。彼女に電話をかけようとして、ふと顔を上げる。
 堤防の向こう側、少し離れた場所に人影が見えた。懐かしいシルエットの女性が、こちらを見ていた。

 俺たちの間に、黄金色の朝日が降り注いでいる。

──────

スターダスト☆レビューさんのシングルに「Northern Lights -輝く君に-」という曲があります。タイヤのコマーシャルソングにもなってました。
発売当時、初めて曲を聴いた時に、こんなお話が書けるかな……と暖めていたネタになります。

……発売から、干支3周りしてた……ちょっと気絶してきます(

12/12/2025, 7:52:59 AM