汀月透子

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〈雪原の先へ〉

 大学の図書館で文献を探していたとき、中学の同級生だった女子に声をかけられた。
 久しぶり、元気にしてた?
 そんな他愛もない会話のあとで、彼女は少し躊躇うように言った。
「そういえば、覚えてるかな。鈴木将晴くん」

 もちろん覚えている。小学校から中学まで同じクラスだった。

「あの子、亡くなったんだって」

 言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

 特別親しかったわけじゃない。でも、同い年の友達がもうこの世界にいないということが、俺の中で何かを揺さぶっていた。

──

 その夜、眠れなくて、小学生の頃のことを思い出していた。

 図書館で本を探していると、将晴がよく話しかけてきた。
 彼は写真集が好きで、大きな画集を熱心に眺めていた。本好きの俺も図書館の常連で、将晴は時々「この構図すごくない?」と解説してくれた。
 おじさんのお下がりだという、少し古ぼけたデジカメで、いろんなものを撮影していた。

 ある冬の日、将晴が唐突に言った。

「西の峰の手前に、開けてるところあるだろ? 
 雪が降った翌朝、朝日が一面の雪と西の峰に反射してすごくきれいなんだぜ」

 なぜあの時、彼はそんな話をしたのだろう。
 俺は「へえ」とだけ答えて、それ以上聞かなかった。

 中学を卒業してから、彼とは別の高校に進んだ。たまに駅で見かける程度で、もう話すこともなかった。
 それだけの関係だった。

──

 年末、雪が降り始めた日に帰郷した。久しぶりに食卓を囲んで、母が言った。

「そういえば、鈴木さんちの将晴くん、亡くなったのよ」
「……知ってる」
「あの子の家も大変だったのよ」

 母の話で初めて知った。
 将晴を残して、母親と弟たちが家を出て行ったこと。高校を中退して、働いていたこと。

「お葬式も身内だけで済ませて、父親も出て行っちゃって。
 ……お墓も何もわからないのよ」

 母は小さくため息をついた。

 翌朝、まだ夜が明け切らないうちに目が覚めた。外を見ると、雪が積もっていた。

 気づくと、俺はコートを羽織って外に出ていた。
 雪に覆われた山道を歩く。息が白く凍る。
 将晴が見せたかった景色はどんなものだったのか。自分が将晴のことを忘れてしまったら、将晴の存在がなかったことになる気がした。

 道を上がりきった、開けた場所。
 右手に西の峰が見え、左の山の端から朝日が差し始めた。

 それまで青みがかった影で埋められていた木々が、次々と光を浴びていく。西の峰が黄金色に染まる。雪原が光を反射して、世界全体が輝き出す。まるで一枚の絵画のような光景だった。

 眩い光の中、一瞬、小学生の将晴が見えた気がした。
 古ぼけたデジカメを首から下げて、ファインダーを覗き込んでいる。あの頃と同じ、少し誇らしげな笑顔で。

『すごく、きれいだろ?』

 彼の声が聞こえた気がした。

 まぶしすぎて、何も見えない。いつの間にか、涙が頬を伝っていた。

 あの時、俺が「今度一緒に見に行こうよ」と言っていたら。もっと彼の話を聞いていたら。何か変わっただろうか。

 でも、今ここにいる。将晴が見せたかった景色を、俺は見ている。

 ポケットからスマホを取り出して、震える手でシャッターを切った。

 将晴、お前が見せたかったもの、ちゃんと見たよ。

 雪原の向こうから、風が吹いてきた。

──

 東京に戻る前日、俺は町の図書館に立ち寄った。小学生の頃から通い慣れた場所。
 カウンターには、あの頃と変わらず司書の北村先生がいた。

「則孝くん、久しぶりね。大学生活はどう?」

 先生と少し話をしてから、俺は小学生の頃よく座っていた窓際の席に向かった。
 ここで本を読んでいると、将晴が写真集を抱えてやってきたんだ。

 ふと、壁に飾られた一枚のパネルに目が留まった。

 雪原と、黄金色に輝く西の峰。見覚えがある。あの朝、俺が見た景色だ。
 でも、俺が撮った写真とは明らかに違う。構図が、光の捉え方が、まるで絵画のように計算されている。

「綺麗でしょう?」

 いつの間にか、北村先生が隣に立っていた。

「これ……」

「返却された写真集に、メモリーカードが挟まっていたのよ。
 もう何年も取りに来る人がいないから、悪いけどデータを見させてもらったの。
 10年近く前のデータだけど、どれも本当に綺麗な写真ばかりでね」

 胸が苦しくなった。

「こうしてパネルにすれば、いつか本人が見に来るかもしれないと思って」

「これ……鈴木将晴の写真です」

 先生の顔が曇った。

「将晴くん……
 そう、よくここで写真集を見ていたわね。彼が撮ったの?」

「たぶん」

 先生は目を伏せて、小さく息を吐いた。

「……そうだったの」

 しばらく沈黙が続いた。

「先生、将晴のお母さんの連絡先、調べられませんか?」

 北村先生は少し考えてから、頷いた。

「将晴くんの撮ったものならお母さんに返したいわよね……
 ……将晴くん、おじさんからもらったデジカメだってよく自慢してたわよね?」

 そうだ、あの頃の将晴は俺の前でもカメラを操作して見せていた。

「パネル作ってくれたカメラ屋の斎藤さんなら、将晴くんのおじさんの連絡先知ってるかもね。カメラ仲間で」

 先生は名探偵のように思慮深く、推理をまとめていた。

──

 数日後、東京に戻ってから、母から電話があった。
 北村先生は町のネットワークを駆使して、将晴のおじさんと連絡を取ってくれたらしい。

「将晴くんのおじさんが図書館に来たんだって。
 メモリーカードを受け取って、すごく喜んでたらしいわよ。お母さんに渡すって
 あなたにもお礼を言ってくれって」

 良かった、と思った。将晴が撮った写真が、家族のもとに戻る。

「それでね、おじさんが言ったんだって。
『この写真は、ここに飾っておいてください』って。
 図書館は将晴くんが一番好きだった場所だから、ここに残してあげたいって」

 受話器を握る手に、力が入った。

──

 ゴールデンウイークに帰郷したとき、俺はまた図書館を訪れた。
 正月に訪れたときと違い、たくさんの子供たちが図書館にいる。

「デジカメ講座やってるのよ。将晴くんのおじさんと、カメラ屋さんがボランティアでね」

 北村先生がにこやかに話す。

 デジカメに限らず、スマホで何を撮るか、どう撮ったらいいのか。
 ちびっ子カメラマンたちはふざけることもなく、真剣に話を聞いている。

「小学生でも極めれば、あんなすごい写真が撮れるのよ、てね」

 視線の先には、あの雪原のパネル。
 その下に、小さな真鍮のプレートが取り付けられていた。

【撮影:鈴木将晴】

 写真の中の雪原は、永遠にあの朝の輝きを湛えている。西の峰が黄金色に染まり、世界が光に満ちている。
 将晴が見た美しいもの、残したかったもの。それがここにある。

 きっとこれから何年も、何十年も、この写真を見る人がいる。将晴のことを知らない人たちが、この光景に心を動かされる。

 雪原の先。
 将晴が確かに生きて、この世界の美しさを愛した証がそこにあった。


──────

デジカメを使い始めて四半世紀になりますが、年代ものでも捨てがたい……どうしましょうね。

私は図書館に入り浸っていた派なので、学校の司書の先生とはよく話していました。
20年経ってお会いする機会がありましたが、あの頃よく読んでいたシリーズを覚えていてくださいましたね……
その先生のお名前をお借りしました。イメージは市川実日子さんです。


12/9/2025, 9:05:24 AM