〈凍てつく星空〉
気がついたとき、電車の揺れが止まっていた。
目を覚ますと、車内放送が聞き慣れない駅の到着を告げていた。
「やべぇ、寝過ごした!
土谷、起きろって」
慌てて立ち上がり、まだ半分寝ている土谷の腕を引っ張って飛び降りる。ドアが閉まる音が妙に大きく響いた。
ホームに立って、ようやく状況を理解する。
ゼミの飲み会の帰り、電車のあったかい座席に身を沈めたら、このありさまだった。
反対ホームを確認するが、電光掲示板には容赦のない現実が光っている。
「タクシーで帰るか?」
「バイト代吹き飛ぶからやめておく~」
土谷が眠そうな目を擦りながら答える。財布の中身はどちらも似たようなものだ。
駅を出ると、十二月の夜気が容赦なく頬を刺す。夜明かしするには寒すぎる。
スマホで位置を確認し、歩いて帰ることにした。俺の家まで徒歩で二時間半くらいだろうか。土谷はさらにその先だ。
「さみぃ」
土谷がダウンジャケットの襟を立てながら呟く。まだ酔いが残っているのか、足取りが少しおぼつかない。
「今日の飲み会、面白かったよな」
「ああ、永井の話が長すぎて途中で寝そうになったけど」
歩きながら、さっきまでの飲み会の話をする。
ゼミの連中との馬鹿話。就職活動の愚痴。来年は卒論で忙しいのかな、なんて現実味のない話。
ふと顔を上げると、夜空が目に飛び込んできた。
「うわ、星すげぇ」
思わず声が出た。街灯の少ない道だからだろうか。
星が輝いて、まるで空から降ってきそうなほど美しい。こんなに星を見たのは久しぶりだった。
「きれいだな」
土谷も空を見上げている。酔いが少し醒めたみたいだ。
自販機でホットコーヒーを買い、近くの公園のベンチに座った。缶の温かさが凍えた手に染みる。
そのとき、視界の端で光が流れた。
「流れ星」
「マジで? どこどこ」
「もう消えた」
土谷が残念そうに空を見渡す。
「そういや、野村先生がふたご座流星群とか言ってたな」
「ああ、覚えてる。
夜空見上げる余裕は持ちなさいとか言われてもなー」
就活だ単位だって忙しい毎日で、夜空なんて見上げる暇もない。今日だって、終電乗り過ごさなきゃこんなふうに星なんて見なかっただろう。
また、星が流れた。今度は土谷も見えたらしい。
「おお」
二人で声を上げる。コーヒーを飲みながら、しばらく黙って空を見上げていた。
「……十年後とか、何してるんだろうな俺たち」
「さーな。まあ、どっかで働いてるんじゃない?
同じように星見てたりして」
土谷の言葉に、少し驚いた。十年後。もう三十過ぎだ。想像もつかない。
でも、こうやって土谷と星を見ている自分の姿を想像すると、悪くない気がした。
「十年後もこんな感じか」
「どうかな」
土谷が笑う。
「それがいいな」
俺は正直にそう言った。
十年後がどうなってるかなんて分からない。でも、こうやって馬鹿な話をしながら、たまには空を見上げられる余裕があればいい。
「疲れた」
土谷が大きく伸びをする。
「もう少し行けばうちだから泊まっていけよ」
「マジで? 助かる」
立ち上がって、また歩き始める。息が白く凍る。足は冷たいけど、なんだか気分は悪くなかった。
「腹へった」
「カップ麺ならあるぞ」
「おにぎりと温かい味噌汁がいい」
「贅沢言うなよ」
空を見上げると、また流星が一筋、夜空を横切っていった。凍てつく星空の下、俺たちは笑いながら夜道を歩いていく。
願い事なんて思いつかなかったけど、未来もこんなバカ話できるならそれでいい。そんなことを思いながら。
──────
ふたご座流星群の見頃は今月14日頃だったかな?
寒くてデジカメのシャッターが降りなくなるぐらいの寒さなので、星空観察はしっかり防寒対策してね。
そして、「酒は飲んでも飲まれるな」です。
飲んだら座らない、ですね……(2駅なのに座って眠ってしまい、遥か遠くに運ばれてしまった輩から連絡が来たときの絶望感たるや
あ、登場人物の名前でニヤニヤした方、同志ですねw
〈君と紡ぐ物語〉
メールの送信者の名前を見た時、後頭部を殴られたような衝撃が走った。
送信者「小高洋人」、件名は「泰夫へ」。たったそれだけで、心拍数が上がる。
十二年ぶりの連絡。画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
〈新しい曲、コーラスがどうしても足りない。
お前の声で、入れてくれないか〉
シンプルな一文が、胸に突き刺さった。
──
あの頃の俺たちは無敵だった。
自信満々で歌い続け、いつか武道館に立つんだと本気で信じていた。
初めて洋人(ひろと)に会ったのは、大学の軽音部の部室だった。小柄で生意気そうな奴が、ギターをかき鳴らしながら自作の曲を歌っていた。
正直、第一印象は「調子乗ってんな」だった。
でも、そのメロディーラインと歌声に、俺は釘付けになった。どこか切なくて、でも希望に満ちている。心を掴んで離さない何かがあった。
「コーラスつけてくれよ」
洋人が突然そう言った日、俺は軽い気持ちで頷いた。でも、声を合わせた瞬間、世界が変わった。
波長が合うなんて言葉じゃ足りない。呼吸そのものが一つになった。
どちらがメインを取っても、自然にハーモニーが生まれる。鳥肌が立った。こんな感覚、初めてだった。
洋人も目を見開いて、それからニマーと満面の笑みを浮かべた。
「俺、探してたんだよ、こーいう声」
その日から、俺たちは「すだこだか」として歌い続けた。路上、駅前広場、ライブハウス。
固定ファンもつき始め、CDも自主制作した。
レコード会社のプロデューサーが「もっと色んな曲を聴かせてくれよ」と名刺を置いていった。
何よりも、洋人と歌うことが楽しかった。このまま二人で、ずっと歌っていけると思っていた。
でも、父が倒れた。
大学四年の秋、妹たちはまだ高校生と中学生。選択肢なんてなかった。
故郷に戻り、家族を支える。それが長男の務めだと思った。
帰ることを告げた時の洋人は信じられない、という反応だった。
「俺のためにも、歌い続けてくれ」と笑って言った。本当は泣きたかった。
洋人の「お前がいなくなったら、俺、何を歌えばいいかわかんねえよ」という言葉が、思い出すだけで胸を締めつける。
その年のクリスマスライブで「すだこだか」は解散した。
ラストの曲を歌い上げ、目を伏せた洋人の横顔は今も鮮明に覚えている。
それ以降、洋人には何も言えなかった。帰郷の前日、「頑張れ」とだけメールして、その後は着信を無視し続けた。
夢を捨てた自分が、夢を追い続ける彼に何を言えるだろう。罪悪感が、俺と洋人の間に壁を築いた。
やがて洋人はソロアーティストとして成功した。
新譜が出るたび、律儀に実家に送られてくる。聴く。何度も聴く。でも、感想すら返せない。「良かったよ」なんて軽々しく言えない。
県内でライブが開催されたときも、足を向けられなかった。会場の前まで行ったのに、引き返した。あの頃のように対等に向き合えない自分が情けなかった。
テレビやネットで彼を見るたび、誇らしさと寂しさが胸を満たす。
彼の歌声を聴きながら、隣でハモる自分を想像してしまう癖は、十二年経っても消えない。
洋人の言い回し、ブレスの取り方に、あの頃の俺たちの癖を見つけては、切なくなる。
そして、たまに目にする「『すだこだか』ってどうなったの」。
あの頃の俺たちを覚えている人がいる。
「デビュー前にもめたらしいよ」
SNSではあることないこと、推測で書いてある。でも、自ら歌を捨てた俺に、返す言葉はない。
当時のファンだけが俺たちのあのハーモニーを覚えてくれていればいい。
──
洋人からのメールに返事を書きかけては消し、また書きかけては消して一日が過ぎる。
あれから十二年、妹たちは結婚し、家庭を持った。親父はリハビリを続けつつ、以前よりずっと元気だ。
今の俺を縛るものは、何ひとつない。
……なのに、なぜ返事が書けないのだろう。
今さら俺が歌えるわけがない、プロの世界で通用するはずがない。洋人の足を引っ張るだけじゃないか。
浮かない顔の俺を見て、台所で母が夕食の後に言った。
「“すだこだか”のころのあなたたち、楽しそうだったわねぇ。
本当に息が合ってた」
懐かしそうに語る母を見、胸が痛くなる。
「お父さんね、今もあなたたちのCDかけながらリハビリ頑張っているのよ」
母の一言に、食器を片付ける手が止まった。
本人はこちらに背を向け、テレビを見ている。聞こえているかどうかはわからない。
「夢を奪ってしまって申し訳ないって、ずっと言ってたわ」
言葉が出なかった。
そんなふうに思っていたなんて、親父は一度も口にしなかった。
親父は何も奪ってなんかいない。俺が選んだんだ。家族を選んだことを、一度も後悔したことはない。でも──
「でもね」母は続けた。
「お父さん、あなたが幸せそうに歌ってたこと、忘れてないのよ」
「小高さんがまたあなたの声を必要としてるなら、応えてあげるのが相棒ってもんじゃない?」
母の微笑みが、俺の迷いを吹き消す。
俺は、スマホの通話ボタンを押した。
──
今、俺は駅のホームに立っている。
最終の特急を待ちながら、洋人が送ってきた曲を聴いている。
物語は終わってなんかいない。ただ、次の章が始まるのを待っていただけだ。
電車が滑り込んでくる。
洋人が求めているのは、俺の声だ。あの響きを、もう一度。
君と紡ぐ物語の、続きを歌いに行こう。
──────
「失われた響き」のアンサーです。
「すだこだか」復活はさすがに都合良すぎですな(笑)
〈失われた響き〉
レコーディングブースからボーカルトラックが流れ出す。
俺の歌声は、今日もどこか決定的に欠けていた。
悪くはない。
「いいじゃないですか」と、プロのエンジニアにも褒められる出来だ。
それでも、小さな針のような違和感が刺さり続ける。それをそのままにせず、納得が行くものを作り上げたい。
「小高ちゃーん、煮詰まってるんじゃない?
一度うち帰ってリラックスしておいでよ」
プロデューサーの筧さんがスケジュールを見ながら声をかけてくる。スタッフを休ませるためにも、今日は帰宅することにした。
自宅に戻り、録音を聴き返す。どこがどう違和感を覚えるのか、自分でもわからない。
モニターを外し、椅子にもたれた瞬間、古い外付けハードディスクが目に入った。大学時代からの音源を詰め込んだまま、ずっと開くのを避けていたやつだ。
何気なく繋ぐと、懐かしいファイル名が次々並び、思わずクリックしてしまう。
スピーカーから広がるのは、ざらついたライブの音だった。
客席のざわめき、ギターのチューニング音。それらを突き破るように、二人の声が重なって響いた。
──俺と、須田泰夫。
息が止まった。
あの日のハーモニーは今聴いても驚くほど自然で、衝動的で、若かった。
──
俺と須田は「すだこだか」という名でデュオを組んでいた。
忘れられない。軽音部の部室で、初めて歌声を合わせた日。
波長がぴたりと合うように、自然なハーモニーになった。どちらがメインを取っても、それは同じだった。
大学だけにとどまらず、俺たちは様々なところで歌った。
路上、駅前広場、ライブハウス。徐々にファンもつき、自作のCDもそこそこ売れた。
レコード会社のプロデューサーだという筧さんから名刺をもらったのもこの頃だ。
何よりも、歌うことが楽しかった。このまま二人で、ずっと歌っていけると思っていた。
──
大学卒業を控えた冬の日、泰夫が突然「辞める」と言ったときの衝撃が、胸の奥からよみがえる。
「今までのこと、なかったことにするのかよ」
ライブも、自主制作CDも、プロデューサーの好反応も。積み上げた全部が崩れ落ちるように思えた。
泰夫は言いづらそうに視線を下げた。
「……親父が倒れた。妹たちもまだ学生でさ。
俺が戻らなきゃ回らないんだよ。
洋人、お前ならひとりでもやっていける」
そんなわけ、なかった。
デュオとして歌ってきたからこそ、俺たちは同じ景色を見てこられた。
「お前がいなくなったら、俺、何を歌えばいいかわかんねえよ」
泰夫はそれでも笑って、俺の肩を叩いた。
「それでも歌え。お前の声が好きなんだ。
俺のためにも、歌い続けてくれ」
その年のクリスマスライブを最後に、俺たちのハーモニーは失われた。
──
再生が終わった後も、俺は身動きできなかった。
しばし考えたあと、今日録った自分のボーカルをもう一度再生する。
ふと、奇妙な感覚に襲われた。
──言い回しの癖、ブレスの取り方、微妙な抑揚。
俺の声に、あいつの影が滲んでいる。
長い時間を一緒に歌った相棒の癖が、身体のどこかに根を張っている。
その影を感じたとき、胸が炙られるように熱くなった。
だけど同時に、どうしようもなく“物足りない”ことにも気づく。
ハモりの隙間。あの呼吸の揃い方。音を受け渡す間合い。
俺の歌は、今もなお、“ふたりで歌う前提”のままだった。
マスタートラックに過去のライブ音源を重ねてみる。
機材越しでも、あの頃の“響き”は鮮やかに蘇った。
やっぱり、これがなきゃ完成しない。
机の上のスマホに目をやる。
連絡なんて、ずっと避けてきた。それでいいと思っていた。
でも、ここまできてようやく気づく。
──俺はお前と歌ってきたから、今の俺があるんだ。
深呼吸し、メッセージアプリを開く。宛先は、須田泰夫。
指が震えた。
でも、言葉はすぐに浮かんだ。長くする必要はない。
〈新しい曲、コーラスがどうしても足りない。
お前の声で、入れてくれないか〉
送信ボタンを押すと、画面が静かに切り替わった。
返事が来るかどうかなんて、今はどうでもいい。
俺はもう、この響きを失いたくはない。ずっと俺の中にあったものを、ようやく認めただけだ。
モニターに向き直り、再び再生ボタンを押した。
俺とあいつの“響き”が交差する瞬間を想像し、胸の奥に、小さな光が灯るのを感じながら。
──────
大昔、短編として発表したものが下敷きになっています。
登場人物の名は某第三舞台の方々です。「すだこだか」という名はわりと気に入っています。
追記:
名前が色々間違ってたのでこっそり直しましたトホホ
〈霜降る朝〉
「霜が降りてるから気をつけなさいよ」
玄関で靴を履いていると、母の声が背中に届いた。振り返ると、母は庭に面した窓際に立って、外に出しっぱなしにしていた鉢植えを心配そうに眺めている。シクラメンだったか、それともパンジーだったか。母が大事にしている冬の花だ。
「大丈夫だよ」
適当に返事をして外に出ると、確かに霜が降りていた。駐輪場に停めてあるバイクのシートは、薄く白い粉を吹いたようだ。息は白く、手がかじかむ。
エンジンをかけ、暖気しているあいだにシートの霜を手で払う。濡れた手袋が冷たい。
ヘルメットをかぶりながら、高校時代の国語の授業をふと思い出した。
霜降——しもふり、じゃない。そうこう。二十四節気のひとつだと、あの頃の国語教師が黒板に書いていた。「霜が降り始める頃」という意味らしい。
「肉かよ」とクラスの誰かが言って、みんなで笑ったことを覚えている。
暦では十月下旬頃で、旧暦と今の暦では季節が少しずれているのだと先生は真面目な顔で説明していた。
あの先生は、季節を表す言葉をよく授業中に紹介してくれた。なんの話の流れだったかと「枕草子」を思い出す。
「冬はつとめて」。
冬は早朝がよい、という意味だ。つとめて、という一節を「勤めて」だと思っていた俺は、冬は仕事するのがいいのか?と首を傾げた。
違う、明け方という意味だと先生に訂正されて、「なんだそりゃ」と思ったのを覚えている。
雪の降り積もった朝、炭火の白く消えかかっているのもよい——そんな内容だったか。正直、当時の俺にはピンと来なかった。試験のために暗記しただけで、清少納言が何を感じていたのか、まるで分からなかった。
バイクにまたがり、ゆっくりとアクセルを開ける。住宅街の狭い道を抜けて大通りに出ると、風が頬を叩き、鼻の奥につんとした冷たさが染み込んでくる。凍てついた空気が肺に入り込む感触。
ああ、これか。
信号待ちで止まりながら、ぼんやりと思った。
冬の早朝の、この張り詰めた空気。白く息が凍る感覚。世界が一瞬、静止したような静けさ。清少納言が言いたかったのは、こういうことだったのかもしれない。
あの頃には分からなかった。教室の中で、暖房の効いた空気に守られながら教科書を眺めていただけでは。
外に出て、冷たい風に身を晒して、初めて知る感覚がある。
信号が青に変わる。アクセルを開けて走り出しながら、俺は少しだけ笑った。
あの頃の自分に教えてやりたい。お前が暗記している言葉は、ただの文字じゃない。いつか分かる日が来るから、と。
でも、きっとあの頃の俺は信じなかっただろう。試験が終われば忘れる古文の一節が、何年も後の冬の朝に、こんなふうに蘇るなんて。
会社までの道のりは、いつもと変わらない。それでも今朝は、ほんの少しだけ違って見えた。霜の降りた屋根、吐く息の白さ。二十代も終わりに近づいて、ようやく知ることがある。時間をかけて、ゆっくりと分かっていくことがある。
バイクは冷たい風を切って、朝の街を走り抜けていく。
冬はつとめて。
声に出して呟いてみる。ヘルメットの中で、言葉が小さく響いた。
──────
こちらはまだ霜は降りてません。
そろそろ多肉植物の鉢を室内に入れないと思いつつ、実際に霜が降りるまで放置しそう……
〈心の深呼吸〉
会議室の空気は、いつもより冷たく張りつめていた。
プロジェクターが放つ青白い光が、私の膝の上で揺れている。メモを握った手のひらには、じっとり汗が滲んでいた。
「……森さん、聞こえないよ」
部長の声に肩が跳ねた。私は喉に力を込めて、もう一度報告書の説明を試みる。自分では精一杯声を張っているつもりなのに、どうしても声が通らない。
喉の奥が急に細くなったようで、声が出ない。いや、出そうとしているのに、空気が少しも動かない。唇だけが空回りする。
「声が小さいんだよ、いつも。
ささやいてる場合じゃないだろ」
会議室の空気が重くなる。十数人の視線が私に集中している。頭の中が真っ白になった。
「部長、私から補足しますね」
右隣から柔らかい声が上がった。大林先輩だ。
落ち着いた口調のまま、私の代わりに説明を続けてくれる。その声を聞いて、張りつめていた空気がほんの少し緩むのがわかった。
部長は満足げに頷いたが、私の息苦しさは変わらないままだった。
──
昼休み、社員食堂で先輩と向かい合って座った。お茶の湯気がぼんやりと立ちのぼる。
「……さっきは、本当にありがとうございました」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「いいのよ。
むしろ、あなた少し休んだほうがいいんじゃない?」
先輩の言葉に、また息が浅くなる。
休む、なんて。仕事が山のように残っているのに?プロジェクトの締め切りも迫っている。
「……大丈夫だと思います。
ちょっと緊張しただけで」
そう言うと、先輩はじっと私を見つめた。目は優しいのに、どこか見透かされているような感じがする。
「このごろ、眠れてないでしょ?」
「え……」
図星だった。ここ数週間、布団に入っても目が冴えて、眠りについても夜中に何度も目が覚める。朝起きても体が重くて、疲れが取れない。
「わかります?」
「わかるわよ。顔色も悪いし、目の下にクマもできてる。それに」
先輩は自分の胸に手を当てた。
「呼吸、浅くなってない?」
そういえば、いつも胸のあたりだけで息をしている。深く吸おうとしても、空気が肺の奥まで届かない感じがする。
「自律神経が乱れると呼吸が浅くなるのよ。
私も前にそうだったから。無意識に体が緊張しちゃうの」
その言葉で、ようやく気づいた。私は今、ずっと息を止めていたのだ。
仕事のこと、明日のこと、失敗のこと。そんなもので胸をいっぱいにして、息を吸うタイミングをなくしていたのかもしれない。
「深呼吸ってね、心にも効くんだよ。体だけじゃなくて」
「心の……深呼吸、ですか?」
「そう。
それにね、休むって悪いことじゃないから」
ふっと笑う先輩の顔を見ているだけで、少し楽になる。
「お隣、いいですか?」
後輩の小木谷さんがトレーを持って近づいてきた。
彼女は先輩と私の会話を聞いていたらしく、席に着くなり言った。
「リラックスって大事ですよね。
そうだ、私のリラクゼーション法、聞きます?」
「何してるの?」と先輩。
「一日ひとつ、きれいだと思ったものを写真に撮るんです。ほら」
小木谷さんはスマホを取り出して、カメラロールを見せてくれた。
朝の光を受けた街路樹、コンビニのカップスイーツ、おしゃれな看板。カフェのラテアート、夕焼けに染まるビルの窓。どれも日常の何気ない風景だけど、確かにきれいだった。
「何でもいいんですよ。あ、森さんのそのイヤリング、素敵ですね。撮ってもいいですか?」
「え、これ?」
私が耳元を指すと、小木谷さんは笑顔でスマホを向けた。シャッター音が響く。
「はい、イヤリング、きれい! これも今日の一枚にしまーす」
小木谷さんは撮った画像を見せてくれる。私の耳元でゆれるチャームが実物よりきれいに撮れている気がする。
「何でもいいんですよ。
きれいなものコレクション眺めて“あー、きれい……”って思うと、いい夢見られそうで」
「へぇ……そんなのでも、変わるものなんだね」
「変わりますよ!
だって見てる間は、ちょっとだけ嫌なこと忘れられる気がしません?」
その言葉に、凝り固まったほどける気がした。忘れる。手放す。そんなことを考えたのは、いつ以来だろう。
「まあ、プロジェクト終わったら有休とってのんびりして。
それまでは気持ちのオンオフうまく切り替えてね」
先輩の言葉に頷いた。
──
仕事を終えて外に出ると、冬の気配が漂う風が頬を撫でた。歩きながら、小木谷さんの言った「きれいなもの」について考える。私にとってのそれは何だろう。
空の色? お気に入りのマグカップ? 道端の花?
それとも、誰かの言葉?
考えながら家に着いて、いつものようにテレビをつけようとして、手を止めた。スマホも机の上に置いたまま、ソファに横になる。
天井を見つめながら、ゆっくりと息を吸った。お腹に空気を入れるように、深く、深く。そして、ゆっくりと吐く。もう一度。また一度。
肺に空気が満ちていく感覚が、こんなにも心地良いなんて忘れていた。
体を伸ばしてみる。肩が、背中が、こんなに凝り固まっていたんだ。少しずつ、ほぐれていく感覚がある。
「……心の深呼吸、か」
誰に聞かせるでもなくつぶやいてみる。
何も考えずにぼんやりすることなんて、久しぶりだ。
目を閉じて、次の休みのことを思い浮かべる。美術館、久しぶりに行ってみようかな。静かな展示室で、色と光が作る世界に身を浸すのも悪くない。きっと、きれいなものがたくさんある。
その後、あのカフェに行こうかな。
そんなことを考えながら、また深呼吸をする。今度は少し楽に、空気が肺の奥まで入っていく気がした。
──心の深呼吸も忘れずに。
先輩の言葉が頭に浮かぶ。
そうだ、体だけじゃない。心も深呼吸が必要なんだ。焦らず、急がず、ゆっくりと。
そう思いながら、私は静かに目を閉じた。
──────
ざっくりとしたストーリーを考えるとき、頭の中で勝手に俳優さんをキャスティングするときがあります。
今回は、大林先輩役で松下由樹さんをキャスティング。「あ~さ~く~ら~~~~」時代の松下さん。何年前だ、って話です。
てゆーか、声出なくなるのはよろしくないので、みんなしっかり休もうね(´・ω・`)←オンオフ下手で仕事の夢見る奴