汀月透子

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〈心の深呼吸〉

 会議室の空気は、いつもより冷たく張りつめていた。
 プロジェクターが放つ青白い光が、私の膝の上で揺れている。メモを握った手のひらには、じっとり汗が滲んでいた。

「……森さん、聞こえないよ」

 部長の声に肩が跳ねた。私は喉に力を込めて、もう一度報告書の説明を試みる。自分では精一杯声を張っているつもりなのに、どうしても声が通らない。
 喉の奥が急に細くなったようで、声が出ない。いや、出そうとしているのに、空気が少しも動かない。唇だけが空回りする。

「声が小さいんだよ、いつも。
 ささやいてる場合じゃないだろ」

 会議室の空気が重くなる。十数人の視線が私に集中している。頭の中が真っ白になった。

「部長、私から補足しますね」

 右隣から柔らかい声が上がった。大林先輩だ。
 落ち着いた口調のまま、私の代わりに説明を続けてくれる。その声を聞いて、張りつめていた空気がほんの少し緩むのがわかった。
 部長は満足げに頷いたが、私の息苦しさは変わらないままだった。

──

 昼休み、社員食堂で先輩と向かい合って座った。お茶の湯気がぼんやりと立ちのぼる。

「……さっきは、本当にありがとうございました」
 やっと絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。

「いいのよ。
 むしろ、あなた少し休んだほうがいいんじゃない?」

 先輩の言葉に、また息が浅くなる。
 休む、なんて。仕事が山のように残っているのに?プロジェクトの締め切りも迫っている。

「……大丈夫だと思います。
 ちょっと緊張しただけで」

 そう言うと、先輩はじっと私を見つめた。目は優しいのに、どこか見透かされているような感じがする。

「このごろ、眠れてないでしょ?」
「え……」

 図星だった。ここ数週間、布団に入っても目が冴えて、眠りについても夜中に何度も目が覚める。朝起きても体が重くて、疲れが取れない。

「わかります?」
「わかるわよ。顔色も悪いし、目の下にクマもできてる。それに」

 先輩は自分の胸に手を当てた。

「呼吸、浅くなってない?」

 そういえば、いつも胸のあたりだけで息をしている。深く吸おうとしても、空気が肺の奥まで届かない感じがする。

「自律神経が乱れると呼吸が浅くなるのよ。
 私も前にそうだったから。無意識に体が緊張しちゃうの」

 その言葉で、ようやく気づいた。私は今、ずっと息を止めていたのだ。
 仕事のこと、明日のこと、失敗のこと。そんなもので胸をいっぱいにして、息を吸うタイミングをなくしていたのかもしれない。

「深呼吸ってね、心にも効くんだよ。体だけじゃなくて」
「心の……深呼吸、ですか?」
「そう。
 それにね、休むって悪いことじゃないから」

 ふっと笑う先輩の顔を見ているだけで、少し楽になる。

「お隣、いいですか?」
 後輩の小木谷さんがトレーを持って近づいてきた。

 彼女は先輩と私の会話を聞いていたらしく、席に着くなり言った。

「リラックスって大事ですよね。
 そうだ、私のリラクゼーション法、聞きます?」
「何してるの?」と先輩。
「一日ひとつ、きれいだと思ったものを写真に撮るんです。ほら」

 小木谷さんはスマホを取り出して、カメラロールを見せてくれた。
 朝の光を受けた街路樹、コンビニのカップスイーツ、おしゃれな看板。カフェのラテアート、夕焼けに染まるビルの窓。どれも日常の何気ない風景だけど、確かにきれいだった。

「何でもいいんですよ。あ、森さんのそのイヤリング、素敵ですね。撮ってもいいですか?」

「え、これ?」
私が耳元を指すと、小木谷さんは笑顔でスマホを向けた。シャッター音が響く。

「はい、イヤリング、きれい! これも今日の一枚にしまーす」
 小木谷さんは撮った画像を見せてくれる。私の耳元でゆれるチャームが実物よりきれいに撮れている気がする。

「何でもいいんですよ。
 きれいなものコレクション眺めて“あー、きれい……”って思うと、いい夢見られそうで」
「へぇ……そんなのでも、変わるものなんだね」
「変わりますよ!
 だって見てる間は、ちょっとだけ嫌なこと忘れられる気がしません?」

 その言葉に、凝り固まったほどける気がした。忘れる。手放す。そんなことを考えたのは、いつ以来だろう。

「まあ、プロジェクト終わったら有休とってのんびりして。
 それまでは気持ちのオンオフうまく切り替えてね」
 先輩の言葉に頷いた。

──

 仕事を終えて外に出ると、冬の気配が漂う風が頬を撫でた。歩きながら、小木谷さんの言った「きれいなもの」について考える。私にとってのそれは何だろう。

 空の色? お気に入りのマグカップ? 道端の花?
 それとも、誰かの言葉?

 考えながら家に着いて、いつものようにテレビをつけようとして、手を止めた。スマホも机の上に置いたまま、ソファに横になる。

 天井を見つめながら、ゆっくりと息を吸った。お腹に空気を入れるように、深く、深く。そして、ゆっくりと吐く。もう一度。また一度。
 肺に空気が満ちていく感覚が、こんなにも心地良いなんて忘れていた。

 体を伸ばしてみる。肩が、背中が、こんなに凝り固まっていたんだ。少しずつ、ほぐれていく感覚がある。

「……心の深呼吸、か」

 誰に聞かせるでもなくつぶやいてみる。
 何も考えずにぼんやりすることなんて、久しぶりだ。

 目を閉じて、次の休みのことを思い浮かべる。美術館、久しぶりに行ってみようかな。静かな展示室で、色と光が作る世界に身を浸すのも悪くない。きっと、きれいなものがたくさんある。
 その後、あのカフェに行こうかな。

 そんなことを考えながら、また深呼吸をする。今度は少し楽に、空気が肺の奥まで入っていく気がした。

──心の深呼吸も忘れずに。

 先輩の言葉が頭に浮かぶ。
 そうだ、体だけじゃない。心も深呼吸が必要なんだ。焦らず、急がず、ゆっくりと。

 そう思いながら、私は静かに目を閉じた。

──────

ざっくりとしたストーリーを考えるとき、頭の中で勝手に俳優さんをキャスティングするときがあります。
今回は、大林先輩役で松下由樹さんをキャスティング。「あ~さ~く~ら~~~~」時代の松下さん。何年前だ、って話です。

てゆーか、声出なくなるのはよろしくないので、みんなしっかり休もうね(´・ω・`)←オンオフ下手で仕事の夢見る奴

11/28/2025, 4:06:27 AM