汀月透子

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〈失われた響き〉


 レコーディングブースからボーカルトラックが流れ出す。
 俺の歌声は、今日もどこか決定的に欠けていた。
 悪くはない。
「いいじゃないですか」と、プロのエンジニアにも褒められる出来だ。
 それでも、小さな針のような違和感が刺さり続ける。それをそのままにせず、納得が行くものを作り上げたい。
「小高ちゃーん、煮詰まってるんじゃない?
 一度うち帰ってリラックスしておいでよ」
 プロデューサーの筧さんがスケジュールを見ながら声をかけてくる。スタッフを休ませるためにも、今日は帰宅することにした。

 自宅に戻り、録音を聴き返す。どこがどう違和感を覚えるのか、自分でもわからない。
 モニターを外し、椅子にもたれた瞬間、古い外付けハードディスクが目に入った。大学時代からの音源を詰め込んだまま、ずっと開くのを避けていたやつだ。
 何気なく繋ぐと、懐かしいファイル名が次々並び、思わずクリックしてしまう。

 スピーカーから広がるのは、ざらついたライブの音だった。
 客席のざわめき、ギターのチューニング音。それらを突き破るように、二人の声が重なって響いた。

──俺と、須田泰夫。

 息が止まった。
 あの日のハーモニーは今聴いても驚くほど自然で、衝動的で、若かった。

──

 俺と須田は「すだこだか」という名でデュオを組んでいた。

 忘れられない。軽音部の部室で、初めて歌声を合わせた日。
 波長がぴたりと合うように、自然なハーモニーになった。どちらがメインを取っても、それは同じだった。

 大学だけにとどまらず、俺たちは様々なところで歌った。
 路上、駅前広場、ライブハウス。徐々にファンもつき、自作のCDもそこそこ売れた。
 レコード会社のプロデューサーだという筧さんから名刺をもらったのもこの頃だ。
 何よりも、歌うことが楽しかった。このまま二人で、ずっと歌っていけると思っていた。

──

 大学卒業を控えた冬の日、泰夫が突然「辞める」と言ったときの衝撃が、胸の奥からよみがえる。

「今までのこと、なかったことにするのかよ」
 ライブも、自主制作CDも、プロデューサーの好反応も。積み上げた全部が崩れ落ちるように思えた。

 泰夫は言いづらそうに視線を下げた。
「……親父が倒れた。妹たちもまだ学生でさ。
 俺が戻らなきゃ回らないんだよ。
 洋人、お前ならひとりでもやっていける」

 そんなわけ、なかった。
 デュオとして歌ってきたからこそ、俺たちは同じ景色を見てこられた。
「お前がいなくなったら、俺、何を歌えばいいかわかんねえよ」

 泰夫はそれでも笑って、俺の肩を叩いた。
「それでも歌え。お前の声が好きなんだ。
 俺のためにも、歌い続けてくれ」

 その年のクリスマスライブを最後に、俺たちのハーモニーは失われた。

──

 再生が終わった後も、俺は身動きできなかった。
 しばし考えたあと、今日録った自分のボーカルをもう一度再生する。
 ふと、奇妙な感覚に襲われた。

──言い回しの癖、ブレスの取り方、微妙な抑揚。
 俺の声に、あいつの影が滲んでいる。

 長い時間を一緒に歌った相棒の癖が、身体のどこかに根を張っている。
 その影を感じたとき、胸が炙られるように熱くなった。

 だけど同時に、どうしようもなく“物足りない”ことにも気づく。
 ハモりの隙間。あの呼吸の揃い方。音を受け渡す間合い。
 俺の歌は、今もなお、“ふたりで歌う前提”のままだった。

 マスタートラックに過去のライブ音源を重ねてみる。
 機材越しでも、あの頃の“響き”は鮮やかに蘇った。
 やっぱり、これがなきゃ完成しない。

 机の上のスマホに目をやる。
 連絡なんて、ずっと避けてきた。それでいいと思っていた。
 でも、ここまできてようやく気づく。

──俺はお前と歌ってきたから、今の俺があるんだ。

 深呼吸し、メッセージアプリを開く。宛先は、須田泰夫。

 指が震えた。
 でも、言葉はすぐに浮かんだ。長くする必要はない。

〈新しい曲、コーラスがどうしても足りない。
 お前の声で、入れてくれないか〉

 送信ボタンを押すと、画面が静かに切り替わった。
 返事が来るかどうかなんて、今はどうでもいい。
 俺はもう、この響きを失いたくはない。ずっと俺の中にあったものを、ようやく認めただけだ。

 モニターに向き直り、再び再生ボタンを押した。
 俺とあいつの“響き”が交差する瞬間を想像し、胸の奥に、小さな光が灯るのを感じながら。


──────

大昔、短編として発表したものが下敷きになっています。
登場人物の名は某第三舞台の方々です。「すだこだか」という名はわりと気に入っています。

追記:
名前が色々間違ってたのでこっそり直しましたトホホ

11/30/2025, 4:44:22 AM