汀月透子

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〈霜降る朝〉

 「霜が降りてるから気をつけなさいよ」

 玄関で靴を履いていると、母の声が背中に届いた。振り返ると、母は庭に面した窓際に立って、外に出しっぱなしにしていた鉢植えを心配そうに眺めている。シクラメンだったか、それともパンジーだったか。母が大事にしている冬の花だ。

 「大丈夫だよ」

 適当に返事をして外に出ると、確かに霜が降りていた。駐輪場に停めてあるバイクのシートは、薄く白い粉を吹いたようだ。息は白く、手がかじかむ。

 エンジンをかけ、暖気しているあいだにシートの霜を手で払う。濡れた手袋が冷たい。
 ヘルメットをかぶりながら、高校時代の国語の授業をふと思い出した。

 霜降——しもふり、じゃない。そうこう。二十四節気のひとつだと、あの頃の国語教師が黒板に書いていた。「霜が降り始める頃」という意味らしい。
「肉かよ」とクラスの誰かが言って、みんなで笑ったことを覚えている。
 暦では十月下旬頃で、旧暦と今の暦では季節が少しずれているのだと先生は真面目な顔で説明していた。
 あの先生は、季節を表す言葉をよく授業中に紹介してくれた。なんの話の流れだったかと「枕草子」を思い出す。

 「冬はつとめて」。

 冬は早朝がよい、という意味だ。つとめて、という一節を「勤めて」だと思っていた俺は、冬は仕事するのがいいのか?と首を傾げた。
 違う、明け方という意味だと先生に訂正されて、「なんだそりゃ」と思ったのを覚えている。

 雪の降り積もった朝、炭火の白く消えかかっているのもよい——そんな内容だったか。正直、当時の俺にはピンと来なかった。試験のために暗記しただけで、清少納言が何を感じていたのか、まるで分からなかった。

 バイクにまたがり、ゆっくりとアクセルを開ける。住宅街の狭い道を抜けて大通りに出ると、風が頬を叩き、鼻の奥につんとした冷たさが染み込んでくる。凍てついた空気が肺に入り込む感触。

 ああ、これか。

 信号待ちで止まりながら、ぼんやりと思った。

 冬の早朝の、この張り詰めた空気。白く息が凍る感覚。世界が一瞬、静止したような静けさ。清少納言が言いたかったのは、こういうことだったのかもしれない。

 あの頃には分からなかった。教室の中で、暖房の効いた空気に守られながら教科書を眺めていただけでは。
 外に出て、冷たい風に身を晒して、初めて知る感覚がある。

 信号が青に変わる。アクセルを開けて走り出しながら、俺は少しだけ笑った。
 あの頃の自分に教えてやりたい。お前が暗記している言葉は、ただの文字じゃない。いつか分かる日が来るから、と。

 でも、きっとあの頃の俺は信じなかっただろう。試験が終われば忘れる古文の一節が、何年も後の冬の朝に、こんなふうに蘇るなんて。

 会社までの道のりは、いつもと変わらない。それでも今朝は、ほんの少しだけ違って見えた。霜の降りた屋根、吐く息の白さ。二十代も終わりに近づいて、ようやく知ることがある。時間をかけて、ゆっくりと分かっていくことがある。

 バイクは冷たい風を切って、朝の街を走り抜けていく。

 冬はつとめて。

 声に出して呟いてみる。ヘルメットの中で、言葉が小さく響いた。


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こちらはまだ霜は降りてません。
そろそろ多肉植物の鉢を室内に入れないと思いつつ、実際に霜が降りるまで放置しそう……

11/28/2025, 11:30:35 PM