〈君と紡ぐ物語〉
メールの送信者の名前を見た時、後頭部を殴られたような衝撃が走った。
送信者「小高洋人」、件名は「泰夫へ」。たったそれだけで、心拍数が上がる。
十二年ぶりの連絡。画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
〈新しい曲、コーラスがどうしても足りない。
お前の声で、入れてくれないか〉
シンプルな一文が、胸に突き刺さった。
──
あの頃の俺たちは無敵だった。
自信満々で歌い続け、いつか武道館に立つんだと本気で信じていた。
初めて洋人(ひろと)に会ったのは、大学の軽音部の部室だった。小柄で生意気そうな奴が、ギターをかき鳴らしながら自作の曲を歌っていた。
正直、第一印象は「調子乗ってんな」だった。
でも、そのメロディーラインと歌声に、俺は釘付けになった。どこか切なくて、でも希望に満ちている。心を掴んで離さない何かがあった。
「コーラスつけてくれよ」
洋人が突然そう言った日、俺は軽い気持ちで頷いた。でも、声を合わせた瞬間、世界が変わった。
波長が合うなんて言葉じゃ足りない。呼吸そのものが一つになった。
どちらがメインを取っても、自然にハーモニーが生まれる。鳥肌が立った。こんな感覚、初めてだった。
洋人も目を見開いて、それからニマーと満面の笑みを浮かべた。
「俺、探してたんだよ、こーいう声」
その日から、俺たちは「すだこだか」として歌い続けた。路上、駅前広場、ライブハウス。
固定ファンもつき始め、CDも自主制作した。
レコード会社のプロデューサーが「もっと色んな曲を聴かせてくれよ」と名刺を置いていった。
何よりも、洋人と歌うことが楽しかった。このまま二人で、ずっと歌っていけると思っていた。
でも、父が倒れた。
大学四年の秋、妹たちはまだ高校生と中学生。選択肢なんてなかった。
故郷に戻り、家族を支える。それが長男の務めだと思った。
帰ることを告げた時の洋人は信じられない、という反応だった。
「俺のためにも、歌い続けてくれ」と笑って言った。本当は泣きたかった。
洋人の「お前がいなくなったら、俺、何を歌えばいいかわかんねえよ」という言葉が、思い出すだけで胸を締めつける。
その年のクリスマスライブで「すだこだか」は解散した。
ラストの曲を歌い上げ、目を伏せた洋人の横顔は今も鮮明に覚えている。
それ以降、洋人には何も言えなかった。帰郷の前日、「頑張れ」とだけメールして、その後は着信を無視し続けた。
夢を捨てた自分が、夢を追い続ける彼に何を言えるだろう。罪悪感が、俺と洋人の間に壁を築いた。
やがて洋人はソロアーティストとして成功した。
新譜が出るたび、律儀に実家に送られてくる。聴く。何度も聴く。でも、感想すら返せない。「良かったよ」なんて軽々しく言えない。
県内でライブが開催されたときも、足を向けられなかった。会場の前まで行ったのに、引き返した。あの頃のように対等に向き合えない自分が情けなかった。
テレビやネットで彼を見るたび、誇らしさと寂しさが胸を満たす。
彼の歌声を聴きながら、隣でハモる自分を想像してしまう癖は、十二年経っても消えない。
洋人の言い回し、ブレスの取り方に、あの頃の俺たちの癖を見つけては、切なくなる。
そして、たまに目にする「『すだこだか』ってどうなったの」。
あの頃の俺たちを覚えている人がいる。
「デビュー前にもめたらしいよ」
SNSではあることないこと、推測で書いてある。でも、自ら歌を捨てた俺に、返す言葉はない。
当時のファンだけが俺たちのあのハーモニーを覚えてくれていればいい。
──
洋人からのメールに返事を書きかけては消し、また書きかけては消して一日が過ぎる。
あれから十二年、妹たちは結婚し、家庭を持った。親父はリハビリを続けつつ、以前よりずっと元気だ。
今の俺を縛るものは、何ひとつない。
……なのに、なぜ返事が書けないのだろう。
今さら俺が歌えるわけがない、プロの世界で通用するはずがない。洋人の足を引っ張るだけじゃないか。
浮かない顔の俺を見て、台所で母が夕食の後に言った。
「“すだこだか”のころのあなたたち、楽しそうだったわねぇ。
本当に息が合ってた」
懐かしそうに語る母を見、胸が痛くなる。
「お父さんね、今もあなたたちのCDかけながらリハビリ頑張っているのよ」
母の一言に、食器を片付ける手が止まった。
本人はこちらに背を向け、テレビを見ている。聞こえているかどうかはわからない。
「夢を奪ってしまって申し訳ないって、ずっと言ってたわ」
言葉が出なかった。
そんなふうに思っていたなんて、親父は一度も口にしなかった。
親父は何も奪ってなんかいない。俺が選んだんだ。家族を選んだことを、一度も後悔したことはない。でも──
「でもね」母は続けた。
「お父さん、あなたが幸せそうに歌ってたこと、忘れてないのよ」
「小高さんがまたあなたの声を必要としてるなら、応えてあげるのが相棒ってもんじゃない?」
母の微笑みが、俺の迷いを吹き消す。
俺は、スマホの通話ボタンを押した。
──
今、俺は駅のホームに立っている。
最終の特急を待ちながら、洋人が送ってきた曲を聴いている。
物語は終わってなんかいない。ただ、次の章が始まるのを待っていただけだ。
電車が滑り込んでくる。
洋人が求めているのは、俺の声だ。あの響きを、もう一度。
君と紡ぐ物語の、続きを歌いに行こう。
──────
「失われた響き」のアンサーです。
「すだこだか」復活はさすがに都合良すぎですな(笑)
12/1/2025, 6:01:52 AM