〈時を繋ぐ糸〉
編み針を動かすたび、糸が指先から小さく震え、その余韻が胸の奥へとしみ込んでいく。思いを込め、ひと針ひと針編んでいく。
編み物作家になった今でも、私はときどき思う。
──糸は時を繋ぐ、と。
──
子どものころ、私は「おばあちゃんに可愛がられた」という記憶をほとんど持っていなかった。
父方の孝江おばあちゃんは遠方に住んでいて、父には五人の兄弟がいる。
孫も多く、会えるのは年に一度あるかどうか。会っても私は大勢の中のひとりで、友達が言うような「特別に可愛がられた」という実感はなかった。
母方のヒロおばあちゃんは、私が生まれた頃に亡くなっている。
だから私は、運動会や発表会に祖母が来てくれる姿を知らない。
ある休日、そんな話をふと思い出して母につぶやいた。
「……おばあちゃんって、運動会に来てくれたことなかったよね。
奈央ちゃんちのおばあちゃんみたく、おはじきとかお手玉とか教えてほしかったなぁ」
母のゆりえは少し黙って聞いていたあと、押し入れから一冊のアルバムを取り出した。
「かんなにヒロおばあちゃんのこと、ちゃんと話してなかったね」
アルバムを開くと、知らない写真が並んでいた。
小さな私を抱き、優しく笑う女性。
編み目のそろったショールにくるまれた赤ん坊の私。
揃いの色の小さな帽子や靴下。
「体が弱かったんだけどね、あなたが生まれた時ひと月もこっちに来てくれたの。
これは全部、おばあちゃんが編んだのよ」
母は指先でショールの写真をそっとなぞった。
「帰ってからすぐ亡くなってしまったけど……
おばあちゃんの家には、あなたへの贈り物がたくさん遺されていたの。
あなたのお気に入りのマフラーも」
私は目を丸くした。
あの、くすんだオレンジ色の、ふんわりあたたかいマフラー。
「ヒロおばあちゃんが?」
母は静かに頷いた。
「あなたが大きくなっても使えるように、セーターやカーディガンもサイズを大きくしたのを何枚も。
箱がいくつも出てきてびっくりしたわ」
見つけたときを思い出したのか、少し大げさに母が話す。
そして優しく、少し切なそうに話す。
「あなたには記憶がないかもしれない。
でも、おばあちゃんはあなたのために、たくさん想いを残してくれたのよ」
アルバムの中で私を抱いて笑うその人を見つめた。
胸の奥で、途切れていた糸がそっと結ばれるような気がした。
「……お母さん、編み物、教えて」
その日から、私は夢中で編み針を動かすようになった。
──
半年後、私は孝江おばあちゃんへモチーフ編みの膝掛けを送った。
届いたという電話で、受話器の向こうから孝枝おばあちゃんの弾む声が伝わってくる。
『これ、かんなちゃんが編んでくれたの?
かわいいねぇ。毎日ひざに掛けてるよ』
数日後、孝江おばあちゃんから手軽が届いた。
中には、膝掛けを掛けて笑う孝江おばあちゃんの写真が入っていた。
その笑顔を見た瞬間、遠くても気持ちは届くのだと、初めて強く感じた。
やがて時代が進み、孝江おばあちゃんは携帯電話でメールを送ってくれるようになった。
「今日も使ってるよ」と、私が編んだ帽子をかぶった画像付きで。
晩年には、いとこが用意したタブレットでビデオ通話もできるようになった。
画面越しに、柔らかく目を細めて私の作品を身につけてくれる姿を見ると、胸があたたかくなった。
──
孝江おばあちゃんも、今はもういない。
けれど、私の編んだストールや帽子を身につけたおばあちゃんの写真が、何枚も残っている。
それらは、私が糸で繋いだ時間の証だった。
想いを込めて編む気持ち──その源は、きっとヒロおばあちゃんが残してくれた糸の記憶だ。
記憶がなくても、想いは形として受け取れる。
そのことを教えてくれたのは、二人のおばあちゃんだった。
私は机に並べた毛糸玉を見つめ、そっと手を伸ばす。
さて、次は誰のために編もうか。
この糸で、また誰かの時間をあたためるために。
──────
またおばあちゃんのお話(´・ω・`)
私もおばあちゃんの記憶が皆無です。
こうありたかった物語を書いているのかもしれません。
〈落ち葉の道〉
外回りの途中で立ち寄った小さな公園は、平日の昼下がりらしく静かだった。
ベンチの上にコンビニの袋を置き、ため息をついたのは何度目だろう。おむすびのパッケージを外しながら考える。
最近は、仕事そのものよりも、部下の教育や社内の雑事に気力を持っていかれている気がする。どうでもいい資料の体裁だの、誰が会議室を使っただの、正直くだらないことであちこち振り回され、胸の奥にじんわりとした疲れが溜まっていた。
食べ終えて、ぼんやりと前を眺める。
少し下の広場のようになった場所で、学生らしい十人ぐらいのグループが落ち葉をかき集めてはしゃいでいた。
黄色いジャージ姿の子もいれば、黒いパーカーにイヤホンを引っかけた子もいる。年の頃は高校か大学か、そのあたりだろう。
「もっと濃い色のやつ、そっちにあるよ」
「こっちは薄いの。境目どうする?」
「もうちょい丸くしないとらしくならない?」
そんな声が風にのって届いてくる。落ち葉で遊んでいるのかと思ったが、どうやら違う。
何かを“描いて”いる。
しばらく眺めていると、彼らが地面に並べた葉の輪郭が、だんだんとある形を成していった。
気づけば、そこにはアニメのキャラクターが浮かび上がっていた。
よく見れば、ただ黄色の葉を集めただけじゃない。枯れ色の濃いもの、まだ緑が残っているもの、カサついた淡い色のもの──それらを役割分担するように使い分け、影や輪郭まで表現している。落ち葉アート、というものだろう。
「赤いの落ちてない?ほっぺたに」
「あ、上にある! 拾ってくるよ」
俺の後ろに色づいた楓がある。ちょうどいい具合の赤だ。
拾ってくると言った女の子が上ってきた。俺が見ていることに気づいたようだ。
「すみません、うるさくて」
「いいや、見てて面白いよ」
「去年SNSで見たときに、私たちもやりたいなって思って……
いい色になるまで待ってました」
ニコニコと笑いながら、赤い葉を拾って降りて行った。
待っていた色の葉が来て、彼らは嬉しそうに仕上げる。
驚くほどの出来栄えに、思わず見入ってしまった。
「できたー! ちょっと上から見たい!」
「あ、上のベンチからだとよく見えたよ」
そう言いながら、さっきの女の子と何人かが俺のいるベンチの方へ駆け上がってきた。
「すみませーん」と頭を下げられる。
彼らはスマホを掲げ、ああだこうだと角度を変えながら写真を撮っている。
「やば、めっちゃ映えてる!」
「これ、誰かに見つかったら絶対バズるって」
こどもかよ……と思ったが、心の中で言葉を飲み込む。
学生だからこその熱量だし、俺にも昔はこういう無茶な行動力があった気がする。いつからだろうな、落ち葉をただのゴミみたいに見て、踏みつけて歩くだけになってしまったのは。
彼らの作り上げた熱意を形に残したくなった。スマホを取り出し、カメラを立ち上げる。
「おじさんも撮っていいかい?」
「いいですよー」
「俺らの顔写さないでくださいね」
「SNSに上げるならハッシュタグつけて!」
笑いながら言う彼らの顔がまぶしかった。
しばらくして彼らは満足そうに広場へ戻り、完成したアートの周囲でもう一度歓声を上げていた。俺の近くでも、子ども連れの親子が、はしゃぎながら眺めている。
俺は立ち上がり、スーツの皺を軽く伸ばして公園を後にした。
帰り道、足元でカサッと音を立てる落ち葉にふと目を落とした。
黄色、茶色、赤茶色……よく見れば、同じようで全然違う色をしている。それぞれを丁寧に拾い上げていた彼らの姿が頭に浮かぶ。
「同じ落ち葉でも、色は色々なんだよな……」
独りごちて、思わず苦笑する。
仕事だって、部下だって、同じように見えてしまっていた。どうせまた面倒なことを言ってくる、とか。どうせ大して変わらない日々だ、とか。自分の視野が狭くなっていたのは、もしかするとそのせいかもしれない。
風が吹き、落ち葉がひらりと舞い上がる。舞った葉の一枚が、俺の足元に落ちた。拾い上げてみると、思ったよりも鮮やかな金色をしていた。
「……戻ったら、あの新人にももう少し丁寧に話すか」
そんな独り言が自然と出た。仕事そのものが急に変わるわけじゃない。けれど、見方を少し変えれば、違う色が見えることだってある。
落ち葉の道を踏みしめながら、俺は会社へと歩き出した。背中に、さっきの学生たちの明るい声がまだ残っているような気がしていた。
──────
毎年、ついったなどに上がる落ち葉アートを楽しみにしてます。
ああ、紅葉見に行きたいなぁ……
※「君の隠した鍵」、書き上げました。
長いですけど、お読みいただければ。
〈君の隠した鍵〉
結婚式を三か月後に控えた春のある日、私は母の恵美子と婚姻届を囲んでいた。
証人欄の名前を書かずにいる私に、母がふと尋ねる。
「恵夢(えむ)、証人って誰に頼むの?」
「……めぐちゃんがいい。
ずっと相談に乗ってもらってたし」
ペンを置き、私は息をつく。
「めぐちゃん、退院いつかな……
式には出席してほしいんだけど」
私がそう言った瞬間、母の表情がわずかに強張った。
その表情に何かいやな気配がして、私も息を呑む。
「めぐみ……
もう、先が長くないのよ」
「……え?」
母か苦しそうに目を伏せる。
「ずっと隠していたけれどね……
あなたが悲しむと思って言えなかった」
その言葉が耳の奥で何度も反響した。
めぐみ姉さんが、先が長くない。
私は震える手を膝の上に置いた。
──会わなきゃ。
会って、伝えなきゃ。
──
めぐみ姉さんは、私が物心つく前から姉のように接してくれていた。
ずっと「めぐちゃん」って呼んでいた、十六歳年上の従姉。だけど、歳の差なんて関係ないくらい近かった。
幼い頃、私はよく名前をからかわれた。女の子の友だちは「えむちゃん」とかわいく呼んでくれるけど、男子は「えむってヘンな名前」「Mサイズのえむ~」なんてふざけて呼ぶ。
「どうしたの、恵夢ちゃん」
泣いて帰った私を、遊びに来ていためぐみ姉さんは膝に抱き上げてくれた。
「名前がヘンだって言われたぁ……」と泣きながら訴えると、彼女は私を抱きしめて、カバンからメモ帳とペンを取り出した。
「見て。えむちゃんの『恵夢』って、こう書くでしょう」
大きく、丁寧に二つの漢字を書いた。
「“すてきな夢に恵まれるように”ってお名前でしょ?
とっても素敵だと思うよ」
めぐみ姉さんは、私の頭をなでながら言う。
「……ほんとに?」
「うん。ね、恵美子おばさんも“恵”って字が入ってるでしょ?」
母もその場にいて、笑いながら言った。
「私の“恵美子”の“恵”ね。めぐちゃんの“恵”と同じ漢字よ」
「めぐちゃんと一緒?」
私が顔を上げると、めぐみ姉さんは嬉しそうに頷いた。
「そう。一緒だよ」
めぐみ姉さんは、三人の名前を並べて書く。
──恵夢。恵美子。恵。
そのとき胸に広がった温かさを、優しげなめぐみ姉さんのまなざしを、今でも覚えている。
ほんの一瞬、何か言いたげな光が宿ったことも。
母が仕事で忙しい時は、めぐみ姉さんが私を預かってくれた。
めぐみ姉さんの家で一緒にご飯を作って食べ、一緒にお風呂に入り、一緒に眠った。
休日には映画館や動物園に行き、ちょっと高いパフェを食べさせてくれたのもめぐみ姉さんだ。
私は、中学、高校、大学……恋愛のことも進路のことも、誰より先にめぐみ姉さんに話した。
年の差なんて気にならないほど、彼女は私の人生の波長にいつもぴたりとはまる存在だった。
──
私が自分の生まれに疑問を抱くきっかけは、高校二年の冬だった。
親戚が集まった母方の法事の席のこと。
めぐみ姉さんと二人で、手伝いから戻ろうと廊下を歩いていたときに、その会話が聞こえてきた。
「恵美子さん、もう体はいいの?
あの頃は大変だったのよね、子宮を取っちゃうほどの大病をして……もう20年近くになるの?」
「いやもう大分前のことですから」という母の声を遮るように会話が続く。
「それでもね、あの子を立派に育ててる。
生さぬ仲なのに、愛情は本物よ」
私の足はそこで止まった。
母は子供を産めない体になった?
20年前?
生さぬ仲って誰のこと?
“あの子”という言葉が、頭の中に反響している。
固まっている私の横で、めぐみ姉さんはわざと大きな音を立てて障子を開けた。
「失礼しまーす、片づけるものまだあります?」
にこやかにしているが、目は笑っていない。
親戚のおばさん達が一気に静かになる中、めぐみ姉さんは手早くテーブルの上を片付けていく。
私も黙ってテーブルをふきながら、さっき聞こえてきた言葉を反芻していた。
その日の集合写真を後で見たとき、私は愕然とした。
めぐみ姉さんと並んで写っている私。目元、頬の線、笑ったときの表情。
──あまりにも似すぎている。
父や母と私は似ていない。
なら私は誰の──
疑問は、消えないどころか膨らんでいった。
──
大学に入ってから、私は図書館で“特別養子縁組”の項目を読んだ。
出生から六歳未満。
戸籍上、実子と同じ。
親子の法的なつながり以外は、すべて新しい家族として再構築される。
ページをめくる手が止まり、私はゆっくり息を吸った。
──私、そうなんだ。
その確信は不思議と冷静で、痛みでも怒りでもなかった。
ただ、ひとつの鍵が音を立ててはまった感覚だけがあった。
私の名は、めぐみ姉さんが名付けたのではないか。「恵の夢」──めぐみ姉さんの夢。
めぐみ姉さんは結婚しなかった。恋愛の話も聞いたことがない。
ときどき、私を見つめる眼差しに、言葉にできない何かが宿っているように感じた。愛情、そして少しの寂しさ。
でも、答え合わせをしようとは思わなかった。聞いたら壊れてしまう気がした。
私と母とめぐみ姉さんの関係が。
だから胸の奥にそっと鍵をしまい、大学生活を過ごし、恋をし、二十四歳になった。
──
それから、私は仕事や式の準備の合間に、こまめにめぐみ姉さんを見舞った。
めぐみ姉さんは痩せていたけれど、相変わらず穏やかな目をしていた。
「恵夢ちゃん……」
そっと体を起こす。日に日に、細くなっていくのがわかる。
「……前撮り写真できたんだ。めぐちゃんに、一番に見せたかった」
婚約者の雅人に事情を話して、急いで撮影したウェディング写真。
少し写真の表情は硬かったけど、めぐみ姉さんはどれも嬉しそうに眺めている。
「ふふ……本番はもっときれいよね」
そう笑う顔はどこか懐かしくて、胸が締めつけられる。
私は涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
──
めぐみ姉さんの容態は日に日に悪化した。意識が朦朧とする時間が増えていった。
そして今日、伯母─めぐみ姉さんの母から「今日が峠かも」と連絡が入った。
病室に駆けつけると、めぐみ姉さんは目を閉じていた。呼吸は浅く、不規則だった。母や伯母も駆けつけていた。みんな泣いていた。
私はベッドに近づき、めぐみ姉さんの手を握る。すると、めぐみ姉さんがゆっくりと目を開け、焦点の定まらない目が私を探すように動いた。
「えむ……?」
「ここにいるよ」
私はめぐみ姉さんの耳元に顔を近づけた。もう時間がない。そう直感した。
私は小さく、でもはっきりと囁いた。
「……ねえ、めぐちゃん」
言葉が震える。
「ずっと、言いたかったんだ……ありがとう」
それでも足りない。
二十四年間、隠してくれた鍵。でも、その鍵はずっとそこにあった。「恵夢」という名前に。
あの日、紙に書いてくれた「恵」の文字に。そっくりな容姿に。特別な愛情に。
胸の奥にしまってきた鍵が、もう扉を開けたがっている。
「……お母さん」
めぐみ姉さんの目が、一瞬大きく開いた。そして、これまで見たことのないほど穏やかな、満ち足りた表情が浮かんだ。
──ああ、この人は、この言葉をずっと待っていてくれたんだ。
唇が微かに動いた。声にはならなかったけれど、その形は「ありがとう」と言っているようだった。
めぐみ姉さんは私の手をぎゅっと握り返し、静かに目を閉じる。
永遠にも思えた時間、私はその力が少しずつ消えていくのを感じていた。
心音モニターの音が一定のトーンに変わった。
医師が臨終を告げる声も、はるか遠くに聞こえる。
私はめぐみ姉さんの手を握ったまま、しばらく動けなかった。
──
母がそっと肩に手を置いた。私は振り返り、母の目を見た。
母は何も言わない。けれど、その沈黙がすべてを物語っていた。
──私はこれからも、あなたの母でいる。と。
私もまた、言葉にはしなかった。
鍵は開けないままでいい。
胸の奥でそっと光るその鍵は、これから先も私を導き続けてくれる。
この胸の奥にしまっておけば、きっとめぐみ姉さんはこれからも私の中で生き続ける。
結婚しても、子どもを授かっても、私はきっとあの人の面影を探してしまうだろう。
だけど、それでいい。
めぐみ姉さんが夢見た人生を、私はこれから歩いていく。
そしていつか、私にも子どもが生まれたら──名前に“恵”の字を入れよう。
その子が幸せな夢を見られるように。
めぐみ姉さんが私につけてくれた“鍵”は、今、私の胸の奥で静かに光っている。
──────
前日の分を夜中にこっそり貼り付けます(
短編のつもりが、何故いつも長くなるんですかねぇ……
このお話を考えるうちに、めぐみさん視点・恵美子さん視点だとどうなる?と思考がとっちらかります。
3部構成……何かの機会に書こうかしらねぇ。
〈手放した時間〉
「パパ、誕生日プレゼント、試合のチケットじゃだめ?」
息子の大輝がそう言ったとき、俺は思わず妻の顔を見た。妻は微笑んで頷いた。
──
六年以上前、結婚して子供ができたとわかった日から、俺は球場から遠ざかっていた。
学生時代、毎週のように通った地元プロ野球球団の試合。あの熱狂、歓声、連帯感。それらすべてを、俺は手放したのだ。
息子が生まれ、娘が生まれ、週末は家族の予定で埋まり、気づけばもう何年も足を運んでいない。
妻は言ってくれる。「ひとりで行ってきなよ。たまには息抜きしてきなって」。
その優しさがありがたい反面、どうしても踏み出せなかった。
自分ひとりが楽しんでいいのか。昔と同じ気持ちで観戦ができる自信がなかった。
そのうち、SNSでフォロワーが親子連れで観戦している様子が流れてくるようになった。
親子連れで楽しむ様子がとてもうらやましく、「子連れ 野球観戦」などと検索してみる。
地元球団の公式アカウント、ファンの投稿、フォロワーの体験談……そこには、知らない間に進化していた球場の姿が広がっていた。敷地内に遊具が増え、キッズスペースが充実し、親子観戦専用のエリアまであるという。
「前と違って、子連れでも全然観戦しやすくなってるよ」
フォロワーのひとりがそうコメントしてくれた。
ただ、俺には一つひっかかっていた記憶があった。
学生時代、まだ若かった頃。
飽きてぐずっている子どもをあやす親。酔った客が向かって「飽きてきてるならスタンドから連れ出せよ」「声出させるなよ」と厳しく怒鳴ったり舌打ちする場面を見た。ぐずる子どもを抱いた親はすまなそうにスタンドを去り、ゲームセットまで戻ることはなかった。
子どもにあんな思いをさせたくない……あの空気に自分の子どもを連れて行く勇気が、どうしても出なかった。
──だから、俺は心に決めた。
大輝が野球を理解できるようになってから、一軍の試合を見せようと。
最初に連れて行ったのは、二軍の試合だった。観客もほどよく、スタンドの雰囲気も柔らかい。
球団の寮が併設されているこの球場は、選手との距離も近い。選手が近くを通ると、息子は小さな声で「こんにちは……」とつぶやき、選手がお辞儀してくれるだけで飛び跳ねて喜んだ。
何度か通ううち、ある若手選手が丁寧にサインをくれた日があり、そこから息子は一気に球団の大ファンになった。
家でもテレビの前に正座して、選手名鑑を片手に真剣な表情で試合を見るようになった。
──
誕生日プレゼントに試合のチケットがほしい──
大輝の言葉に驚いたが、嬉しかった。ようやく、この日が来たのだ。
妻は「行っておいでよ。せっかくだし、二人で行ってきなよ」と笑ってくれた。
娘はまだ二歳で長時間は難しいから、娘は妻と留守番。息子と二人、誕生日観戦デビューだ。
そして今日、大輝の六歳の誕生日。満を持しての観戦デビューだ。
試合はナイターだというのに、朝からレプリカユニフォームを着ている。背中にサインが入った、大輝のお気に入りだ。
球場に着くと、大輝のテンションは高くなる。二軍の球場とは段違いの賑やかさに、興奮を抑えきれない。
大輝が前から欲しいと言っていた、ユニのサインの主──桐山選手のタオルを買う。この球団は、とにかく選手グッズが多い。特に名前入りタオルは、全選手が揃っている。
「おお、隆さん久しぶり!
って、これが息子さん? こんなに大きくなったのか」
偶然会った応援仲間、坂本さんが感嘆の声を上げる。
学生時代からの知り合いにそう言われ、俺は照れくさくて頭をかいた。
「いいの着てるなぁ、桐山のサインか!
そういや今日、一軍登録されたぜ」
大輝の背中を見て、坂本さんが言う。大輝は目を丸くし、体を震わせる。
「パパ! 桐山くん、 一軍デビューだって!!」
「ハハハ、桐山も坊主と同じ初めての一軍だ。活躍するといいなぁ」
そのうち外野にも来いよ、と坂本さんが手を振る。
外野席の雰囲気も懐かしいが、今日は大輝の観戦がメインだ。
今日は落ち着いて観戦できるよう、内野席を選んだ。
席に着くと、隣には見覚えのある老夫婦が座っていて驚いた。二軍の球場で何度か顔を合わせている。
息子が桐山選手からサインをもらった日、彼が活躍したときには「この子、ラッキーボーイだねえ」と笑ってくれた人たちだ。
「うちの孫はサッカーの方がいいって、付き合ってくれないのよ。パパと一緒でいいわねぇ」
大輝は照れくさそうに身体を揺らした。
試合が進むと、桐山選手がついに一軍初出場で代走として送り出された。息子は立ち上がりそうになるのを必死でこらえ、目を輝かせてグラウンドを見つめる。
「パパ、桐山くんとコーチがなにか話してたよね。
あれ、ピッチャーのくせを見てるんだよ」
テレビで解説者が言ってたのを覚えているのだろう。
「次に走るよ!」
大輝が言ったのと同時に、桐山選手がスタートを切る。
そして──盗塁成功。
「やった!!」
息子は声を押し殺しながらも拳を握りしめ、俺も思わず立ち上がりそうになった。
「すごいなぁ、よく見てる」
「解説者も顔負けよね」
老夫婦が大輝に向けて拍手する。
その後、タイムリーヒットが出て、桐山選手がホームイン。初めての一軍で、初盗塁初得点となった。
ベンチに帰ってきたとき、大輝はびっくりするほど大きな声で
「桐山選手、いいぞー!」
と叫ぶ。聞こえたのか、こちらを向いて手を降ってくれた。
しかし、試合は先発が追いつかれ、逆転を許し、追いつけないままゲームセットを迎えた。
球場を包むため息。それが息子には重かったのだろう、座席でうずくまり、小さく泣き始めた。
「あんなにがんばってたのに負けちゃった……」
かける言葉が見つからない。俺がどうなぐさめるか戸惑っていると、隣の老夫婦が優しく話しかけた。
「惜しかったね、でもずっと勝つわけじゃないんだよ。向こうもプロなんだから。
惜しい試合って、全力で戦った証拠だよ」
「私ら、ずっと見てきたけど、勝って満足できた日なんて本当に数えるほどよ」
二人は相当試合を見てきたのだろう。一言ひとことに重みを感じる。
「でもね、負けてもまた“次こそは”って思って来ちゃうの。
それが野球なのよ」
息子は涙をぬぐい、ぐすっと鼻を鳴らした。その横顔を見ながら、俺の胸の奥もじんわり熱くなる。
──ああ、そうだ。これだ。
勝っても負けても、ここに来ると心が震えた。そんな時間を、俺はいつの間にか置き去りにしていたのだ。
「また会おうねぇ」と、老夫婦は帰っていった。
大輝の涙もすっかり乾き、二人に手を振っていた。
球場をあとにする帰り道、大輝は悔しさをかみしめるように話し出した。
「今日負けたのってさ、先発の替えどき、まちがえてたよね。
投手、ひっぱりすぎだよ……」
まだ幼いのに、小さな体をめいっぱい使って、悔しさも興奮も全部言葉にしている。
その様子を見ながら、ふと思った。
自分が楽しい、悔しい、嬉しいと思えることを、息子と共有できる。
じわじわと、心の底に湧き起こる感情。
──父さんも、こんな気持ちだったのかな。
手をつないで歩く大輝の掌は、小さくて、温かかった。
その温もりに、昔の記憶が重なる。
父に引かれて歩いた球場帰りの道、悔しくて泣いた日のこと、うれしくて眠れなかった夜のこと。
手放してしまったと思っていた時間が、再びこの手に帰ってきた──
そう実感しながら、俺たちは家路へと向かった。
──────
登場する球団や選手に特定のモデルはありません。ありませんてば。
うちの子どもたちを球場に連れて行った頃は、土日でも当日券が買えるぐらいガラガラでした。
あの球団、親会社変わってからホントに観戦しやすくなりましたよねぇ……トイレがすごくきれいになってびっくりしました。
動員数が爆発的に増えたのも頷けます。チケット取るの大変ですけどね。
〈紅の記憶〉
通夜の夜、私は斎場の広間で独り座っている。喪主として、独り寝ずの番だ。
線香の煙がゆるやかに天井へと溶けていく。ずいぶん長いこと、こんな静かな夜を過ごしていなかったように思う。
物言わぬ母の横で、息子としての最後の夜を過ごす。
母が亡くなったのは、ほんの数日前。風邪をこじらせ、あっという間のことだった。
葬儀の段取りで役所や斎場を回ったとき、妻が「大丈夫?」と何度も気遣ってくれた。
その車の中で、私はふと口にしていた。
「お前にもずっと苦労をかけたな。
母さんを家で見ていた頃、デイサービスの手続きもお前がほとんどやってくれて……」
妻はハンドルを握りながら、少しだけ肩をすくめた。
「……正直、大変だったわね。パートの時間を調整したり、急に呼び出されたり。
でもね、お義母さん、私の顔は最後まで覚えていてくれたの。あれだけでも救われた気がする」
その言葉に胸が熱くなった。
母は、私の名前を忘れても、妻のことは覚えていた。
きっと、妻に世話になっている自覚がどこかに残っていたのだろう。
「本当に、ありがとうな」
「今さら。本番はこれからよ」
私の言葉に、妻は少し目を赤くして笑った。
──
母は父が亡くなったあたりから少しずつ記憶を取りこぼし、赤子に返っていた。
ここ数年はもう、私の名前も存在も思い出せなくなっていた。施設に預けてからは毎週末顔を見に行ったが、行くたびに表情の輪郭が消えていく。
それでも、私の手を握ろうとする仕草だけはどこかで覚えているようで、そのたび胸が締めつけられた。
ある週、美容ボランティアの人が来て、母に化粧をしてくれたことがあった。
母は手鏡をのぞき込んではにこやかに笑っていた。
明るい色をのせると気持ちが上向くんですよ、と説明されたが、ピンクの口紅はどこか母らしくなかった。
帰り道に妻に話すと、「可愛いじゃない、年配の方はああいう色が似合うのよ」と笑われた。
──けれど、どうしても違和感があった。
私の記憶に残る母の口紅は、もっと強い、真紅の色だ。
──
あの記憶がいつだったのか、はっきりしない。
今日こうして棺に眠る母を前にしても思い出せず、まぶたを閉じても霧のように散ってしまう。
──真っ赤な口紅。
母の唇が、あんな色をしていた日があっただろうか。
広間の灯りに照らされた棺に目をやる。死化粧は上品で控えめな色だ。
スタッフの人に「もう少し赤い口紅を」と頼んだとき、「最後に見るお顔は、派手にしないほうが印象が穏やかですよ」と諭された。
私が食い下がると、妻にも「お母さんに合う綺麗な色を選んでくださったんだから」とたしなめられた。
確かに、その通りなのだろう。けれど、どうしても胸の奥に引っかかる。
私が覚えている母は、あんな優しい色の人ではなかった気がする。もっと強い、凛とした紅をまとっていた。
……いつだ。あれは、いつの母だ。
横になって考えるうちに、ゆっくりと夜が明けはじめる。窓から淡い朱色の光が差し込んできた。光は部屋を染め、ぼんやりと母の顔を照らす。
死化粧の薄い色が、朝焼けに染められてほんのり赤く見えた。
あの日、鏡台の前で見た紅のように。
体を起こして遠い記憶を手繰り寄せた瞬間、ふと胸の奥に風が通った。
──幼い頃の、ある朝。
私はまだ夜と朝の境目がわからない時間に目を覚まし、横で寝ているはずの母がいないことに気づく。
母を探してまだ廊下に出ると、襖の隙間から小さな灯の揺れを感じた。覗き込むと、鏡台の前で口紅を引いていた母の姿があった。
真っ赤な、私が見たこともないような色だった。
母は気づかず、鏡に向かってただじっとしていた。目元がわずかに濡れていて、口紅をもつ手が小さく震えていた。
その時、障子の向こうがふいに赤く染まり、朝焼けの光が鏡台に跳ね返って、母の横顔を照らした。
──赤い唇。
ひどく綺麗で、まるで別人のように見えた。
私は怖くなって部屋に戻り、布団にもぐり込んだ。そのあとの記憶はない。
けれどもうひとつ、思い出した光景がある。
買い物帰りに、母が知らない男の人と再会した日もあった。
母は私の手を握りながらどこかぎこちなく、けれど少し嬉しそうに言葉を交わしていた。
胸の奥で、静かに何かがほどけていく。
今思えば、あの口紅と繋がる何かがあったのかもしれない。
母は、母であろうとしながら、きっと女としての時間もどこかで生きていたのだ。
私はそのすべてを知らずに、母をただ“母”とだけ呼んできた。
施設で口紅を引いてもらい、何度も手鏡に笑いかけていた母の笑顔が再び目に浮かぶ。
誰も干渉しない母だけの世界で、恋する少女になっていたのかもしれない。
──
朝になり、妻が家から着替えと朝食の握り飯を持ってきた。
「眠れた? 目が真っ赤よ」
「いいや」
温かい茶を飲み、ため息をつく。
「そういえば、昨日お焼香だけで帰られた方いらっしゃったよね。
結局誰かわかった?」
そうだ。弔問客とのやりとりに気を取られていたが、受付を締めた後の遅い時間に年配の男性が焼香して帰った。通夜ぶるまいも断られたと葬儀社の担当者が言っていた。
顔も思い出せない、父の知り合いかと思っていた。
「記帳していただかなかったし、お香典にも住所書かれてなかったし。
誰に訊けばわかるかしら……」
母の友人に名前を言えば、誰かわかるのかもしれない。
けれど、その影を深追いするのはやめた。これは母の人生で、母の物語なのだから。
朝の光が強まり、棺の中の母の唇がいっそう赤くかすんで見えた。
私はそっと手を合わせる。
──母さん。
その紅の記憶だけは、きっと忘れない。
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主人公、淡々と語りますけど奥さんがしっかりサポートしたおかげでは🤔(セルフツッコミ
近頃の斎場って、ホテルと思うような豪華さの客室があるんですよ。しかも朝食付。設備近隣のファミレスの朝食券ですけどね。